石をつかんで潜め(Nip the Buds)

ex俺だって日藝中退したかった

芽むしり的テン年代ベストネタ10

 もう少しで、テン年代も終わりです。個人的な「テン年代ベストネタ10」を考えてみました。なお年については、ライブなどでの初出の年でなく、基本的にはメディアにて、かけられた、もしくは初めて見たもののとなっています。順は不動です。

 

1.ラブレターズ「野球拳」(2016)
 思えば、その時々の気持ちの大きさの変化はあれど、テン年代に一番応援した若手芸人はラブレターズだったかもしれない。2011年の一月に、オードリー若林の単独のトークライブ「正しいスプレー缶のつぶし方vol.2」を観に行ったことから東京にお笑いを見に行くということが始まった。その時は、一週間以上滞在していたので、様々なライブを詰め込んだのだが、その中で出会ったのがラブレターズだった。はじめは芸能プロダクションASH&Dの事務所ライブ「東京コントメン」で、次が「どうにかなるライブつぶぞろい」というライブだった。「どうにかなるライブつぶぞろい」は、もともと別のライブをやるためにライブ会場を押さえていたが、何らかの事情でそのライブ自体が無くなってしまったのだが、そのまま何もしないのは勿体無いから、どうせなら、「別のライブをやろう」とTwitterでの呼びかけから始まったものだった。出演する芸人もTwitterで募集するという、まさにTwitterSNSのひとつとして定着しはじめた頃という感じがするライブだ。その展開の即時性に興奮したものだった。「東京コントメン」は、ムロツヨシが司会をし、夙川アトムが出ていて、アルコ&ピースがゲストだった。ライブの最後に、その当時は預かり扱いだったラブレターズが正式に事務所に所属することが発表された。
 ライブ会場に着いたはいいものの、そもそもが若手芸人が出るライブというものが初めてで、勝手も分からずうろうろしていたら、お笑いライブに慣れているであろう女性二人が、「Twitterを通してってめんどうくさいよね」的な今では考えられないことを言っていたのをやたらと覚えている。
 この二つのライブで見たのは、「大阪から来た転校生」と「じゃんけん」というネタだった。「大阪から来た転校生」は溜口が関西人に怒られるような変なイントネーションの関西弁を話す大阪から来た転校生を演じ、最後には、塚本と友達になるというハートフルなコントで、どことなく、バナナマンのコントの「バカ青春待ったなし」を彷彿とさせるものだった。「じゃんけん」は、大仰にじゃんけんをやっていた。
ラブレターズのコントに、バナナマンの匂いを感じたのは、それもそのはず、塚本はバナナマンを尊敬し、バナナマンのコントを台本に起こすことからコントづくりを始めた男だったからだ。
 その年に『キングオブコント』の決勝戦に進出、それから『オールナイトニッポン0』も始まった。単独ライブにも何度か足を運んだ。大塚の萬劇場は良い劇場だと思う。萬劇場のことを考えると、客席の真ん中の列の真ん中の位置に、何の変装もしていないピタピタの真っ白いTシャツを着た、アルコ&ピースの平子がいたことを思い出す。そんな彼らの憧れであるバナナマンにもややハマりしているという事実もあって、何度か『バナナムーン』にも出ただけでなく、今では、『日村がゆく!』ではバナナマンの日村と第七世代の架け橋もしている。
 そんなラブレターズが『キングオブコント2016』で披露したのがこの「野球拳」だ。何より、夜空にパッと咲く花火のような華々しいエネルギーを持ったコントで、ラブレターズ二人が隠れもつポップさが炸裂している。野球拳のメロディにのせて高校球児のドラマを描くという、バカバカしい、でも悲哀が詰まっている最高のコント。
 好きなくだりは「溜口のハリがあって伸びのある歌声」 

 

2.アルコ&ピース「忍者になって巻物を取りに行く」(2012)
 ラブレターズを知る少し前、『レッドシアター』で、「バイトの面接」というコントを見て、一目惚れをしたのが、アルコ andピースだ。ハスにかまえてしまうその性格から、なかなか始めてみる芸人がやっているネタにひと目惚れするということはないので、それは『爆笑オンエアバトル』でのアンガールズの「空手」にまで遡る。ネタの舞台はバイトの面接で、バイトの面接を受けている側の酒井が強気で、店長役の平子は終始、平身低頭というネタで、最後に平子がため息をつき「少子化か……」というオチで理由が分かるというものだった。
 ラブレターズが正式に所属となった回のASH&Dの事務所ライブ「東京コントメン」にもゲストとして出演していたアルコ&ピースが、そこでかけたネタは、「客引き」だった。このネタも、風俗店の客引きかと思いきや、実は献血の呼び込みだったというネタで、最後に二人して「この街では、血液が足りていません。皆さんの力を貸してください」と叫ぶものだった。より好きになった。
 その後、アルコ&ピースは、担当した『オールナイトニッポン0』の面白さや特殊性から、一部の深夜ラジオリスナーからカルト的な支持を得ていく。一時は、アルコ&ピースラブレターズが、金曜日の一部と二部に並びギャンブルフライデーなどと呼ばれるなどした。この『オールナイトニッポン0』がレギュラー化する少し前に、2012年の8月に『オールナイトニッポン0』を一度だけ担当していた。その時に平子は、『キングオブコント』で敗退したことで荒んでいて、中島みゆきの『ファイト』を流していた。それから数カ月後、『THE MANZAI』でかけたのが、「忍者になって巻物を取りに行く」だった。
 酒井が「忍者になって巻物取りに行きたいなと思って。俺忍者やるから、平子さん、白の門番やって」と一般的なコント漫才に入ろうとすると、平子が「じゃあ、お笑い辞めろよ」と返す。続けて「今俺らどういう時期だよ。ネタ番組どんどん減って、それに伴って仕事も少なくなって、それでも何くそって石にかじりついででも、この仕事やりぬくんだってそういう努力の時期じゃないのかよ。忍者になって巻物取りに行くって時期じゃないだろ!」と平子の出身地の福島県のなまりで、酒井を責めつづける。その合間合間に「忍者になって巻物を取りに行く」という言葉が挟まれる。
 そこから何度も転回をして見事な着地を成功させる。コントのトリプルアクセル
もともと、先述した「客引き」のネタのように、デッドプールよりも早く第四の壁を超える性質であったアルコ andピースのひとつの到達点のようなネタで、ネタ前に流れた紹介VTRで「学資保険とか払えなくて芸人を辞めようと思っていたところだ」と平子が泣いていたことすらも、フリとなっている。そのため、ネタの尺はそのVTRのぶん、ほかのコンビよりも長くなっているというような効果を生み出している。
 ちなみにこれと同じことをやっていたのがマイナビラフターナイトでの真空ジェシカで、マイナビラフターナイトのネタの前は、伊藤楓アナウンサーの所属事務所と名前を言った後、その芸人のコメント、そこからコンビ名や芸名を言うという流れなのだが、ここで真空ジェシカは、「プロダクション人力舎所属、川北シゲトさん、ガクカワマタさんのコンビです」という呼び込みの後の自己紹介コメントで「あの先日、医者に行ったらあと一回コンビ名を呼ばれたら死ぬって言われたんですよぉ。なんで本当に特別扱いじゃなくて申し訳ないんですけどコンビ名言わないでください。お願いします!」と言い、伊藤アナが「真空ジェシカ」とコンビ名を呼ぶ。本ネタに入ると「うぅ。(倒れる音)」「なんで!?なんでこんなことするんだよ。伊藤アナー!!」と叫ぶという、構造いじりをしていた。
 この、お笑い構造主義の最右翼に位置する真空ジェシカが先日、『マイナビラフターナイト』の2019年度の年間チャンピオンに輝いた。審査は客席投票なので、宮下草薙かが屋などの売れっ子ということを抜きにしてガチで審査して真空ジェシカをチャンピオンにする観客、チケット代を取りつつもそれと同額程度のモバイルバッテリーを来場者全員に配るマイナビというこの出来事は、何らかの社会実験か、単純に三者三様の狂気が生み出した磁場の産物なのだろうか。
 好きなくだりは、「なんでこの年の瀬に俺が城の門番になんねえといけねんだよ。俺は城の門番になるために、福島から上京したわけじゃねんだよ」。

 

3.神田松之丞「中村仲蔵」(2019)
 講釈師の神田松之丞は2020年には真打に昇進するとともに、六代目・神田伯山を襲名するので、神田松之丞としてはギリギリ滑り込む形でタイタンライブに出演したが、その時にかけたのがこの「中村仲蔵」だった。ライブビューイングという形で見ることが出来たことも、テン年代だ。
 以下は、当時のタイタンライブを見た後に書いたレポ。残しておくと便利ですね。
神田松之丞のタイタンライブエピグラフは、南条範夫の『慶安太平記』の、「どこかこの世ならぬ超然として尊貴の風姿である。その精神も肉体も、最も世俗的な野望に取りつかれていたこの男が、その外貌において、全く正反対のものを示し得たのは、彼が常にそれを意識的に習練し、後天的にカリスマ的性格を完成し得ていたからであろう。」という部分だった。
 神田松之丞が袖からのそりのそりと歩いて釈台に向かっている間、どーせマクラにタイタンライブの楽屋の弁当はどーのこーのと愚痴を入れてくるのだろうとかまえていたら、そんな助走もなく、すぐさま講談に入ったのは、とても格好良くて、ずりぃなぁとやられてしまった。
 そんな松之丞がかけたのは『中村仲蔵』。松之丞が上梓した『神田松之丞 講談入門』によると、「家柄もなく、下回りから這い上がって名題に昇進した初代中村仲蔵。『仮名手本忠臣蔵』の晴れ舞台で、当時は端役だった「五段目」の斧定九郎の役を振られる。柳島の妙見様に願をかけ、「これまでに定九郎を作る」と意気込むが、妙案が浮かばない。満願の日、雨宿りに入った蕎麦屋で、濡れそぼった貧乏旗本に出会い、「これだ!」と喜ぶ。さっそく侍の姿を移した衣装で本番の舞台に立つが、なぜか客席から喝采が聞こえてこない……。」というあらすじの講談である。
 とんでもなく良いモノをみたな、という気持ちでいっぱいになった。当時の芝居は、家柄が絶対であり、血もなく、そして才能も無いのではないかと苦悩しながら、それでも工夫でのし上がっていく仲蔵の生きざまは、現代においてはウェットすぎるほどにブルージーであるが、それだけではなく、講談という伝統芸能の世界に身を投じた神田松之丞はどこかダブって見える。『神田松之丞 講談入門』によれば、本来、「中村仲蔵」は師匠も妻も出てくるが、松之丞は、仲蔵本人の問題とするために、その二人を登場させていないという改変をしているという。
 それは、いわゆる藝柄(ニン)が乗っかっているってやつで、今後もこの神田松之丞の「中村仲蔵」のネタはどんどん変化、進化、深化していくのだろう。かつ、そこから放たれた瞬間からまた、神田伯山の物語が始まるのだとも思った。
ライブビューイングという形式で松之丞を見て始めて気がついたことだが、松之丞の太った能面みたいな顔が作るその陰影は、怪談におけるロウソクの炎のように不安定で、その揺らぎは登場人物の表情や心情を表すように千変万化し、それは表情を変えるだけでは作れない、凄みや情念などを生み出していた。これは落語でも浪曲でも能でも狂言でも歌舞伎でも、その他の伝統芸能で、効果的に使えるものではないと考えると、顔すらも講談に愛されているのかと思わずにはいられない。
 改めて、本来の時間を10分もオーバーしてもなお、密度が濃かった「中村仲蔵」は、今の松之丞でしか見られないものであったろう、そして、今後、松之丞が伯山襲名以降、名人への道をひた走るなかで、あの時見たあれ、と記憶に刻まれるものとなった。
好きなくだりは、松之丞の顔。

 

4.ジャルジャル 「おばはん絡み」(2010)
 バナナマンの「secretive person」やタカアンドトシの「欧米か」など、ゼロ年代にいくつかの名作が産まれて以降、テン年代にひとつの技術として確立した感のある、ひとつのワードで走り切るワンプッシュ形のネタの嚆矢のひとつであり、その後のジャルジャル脱構築という芸風の快進撃の狼煙ともいえるネタ「おばはん絡み」。
言ってしまえば、バスを待っているおばさんに、男子高校生が「おばはん」と言い続けて絡むという、ひとつのお題に対して様々な解答を重ねていくという構造は単純だけれども、だからこそ、そのシンプルなお題ゆえにグルーヴ感を産み出すのは容易ではない。
 タクシーを止めて、運転手に「おっさん」というというコントの奥行きを出すボケも忘れない。
 今見ても面白く、記念碑となるような一作。
 好きなくだりは「どういうジャンルの出来事やこれは」と、後藤の最後の一言。

 

5.日本エレキテル連合「未亡人朱美ちゃん3号」(2014)
 まずもってなんで売れたのかが全く分からないところから考えないといけない。本来であれば、日本エレキテル連合の「未亡人朱美ちゃん3号」は、売れるはずがないコントなのだから。
 中野演じる細貝さんが、橋本演じる未亡人朱美ちゃんを口説いている様子を見せられ続けるこのコントは、語弊がある言い方をしてしまえば、セリフをテキストにおこしてもその面白さはおそらくほとんど伝わらないし、ムーブとしての動きも展開としての動きも少ないし、リズムネタにしてはミニマルすぎるものだが、繰り返される「いいじゃあないの」「だめよ、だめだめ」には、しっかりと存在するグルーヴが何とも心地よく、終始にやにやと笑ってしまう。女性コント師二人が演じる生々しい性の駆け引きには、間違いなく狂気とエロスがベースに流れているが、そんなコントが、大衆に受け入れられているという事実こそが、俯瞰で見ると一番グロテスクでもある。
 「未亡人朱美ちゃん3号」はどうやってできたのかというと、志村けんへの憧れから志村の出身地である東村山市に住んでいた日本エレキテル連合の二人が、市内のファミレスでネタ作りをしている時に、ばばあを口説いているじじぃを見かける。じじぃの口説きに対して「そうねぇ。うーん。」と言っているサマがまるで人形の様に映った中野は、ダッチワイフにするという着想からだと以前話していたが、憧れの人と同じ街に住んだことで運命が転がり出すという、ネタに似つかわしくないほどに綺麗なエピソードもある。
 タイタンシネマライブで二カ月に一度、彼女たちのネタを見ているが、毎回外すことなく面白い。そしてもれなく狂っている。だからこそ、もはやそのレベルではないということは分かっていても、賞レースで戦う日本エレキテル連合を見てみたいということだけがテン年代に叶わなかったくらいである。
 朱美ちゃんはダッチワイフだが、人形と言えば語らなければならないのが、ゾフィーの「ふくちゃん」だ。『キングオブコント2019』でかけられた「腹話術師の不倫謝罪会見」というこのネタの本質は、記者会見という皮をかぶった公開処刑に潜む大衆のグロテスクさを浮き彫りにして茶化すというおぞましいものなのだが、それが、可愛らしい腹話術の人形がコントに出てきただけで、視聴者は誤魔化されている
 ちなみにテン年代に新しく創設された炎上賞もゾフィーの「母が出て行った」です。
このコントを見たふくちゃんならこう言ってくれるんじゃないだろうか。
 「コントって、面白いと思うことをやるものだよね。お母さんの存在価値をご飯作るだけの存在としてるってことがメインなら、お腹が好きすぎてそうなっちゃってる男の子が異常で、おもしろおかしく描いてるってことだよね。それって、常識がないと出来ないよね。じゃーぁ、問題ないんじゃない??」
 ゾフィーの上田は同い年なのだが、コント師が食えない状況を嘆いており、コント村というライブを開き、コントを盛り上げようとしている。『日村がゆく』では、「コントはこのままでは伝統芸能になる」とはからずも、落語は伝統芸能となるという立川談志と同じことを言っていたので、その熱量は推して知るべしだろう。20年代は、どうにかコント師が食えるような時代になってほしいと心からそう思う。

 

6.東京03「小芝居」(2017)
 『ゴッドタン』でくらいでしか見ることがなかった東京03が今や『アメトーーク』で飯塚悟志をフィーチャーした企画を放送、そして『ゴッドタン』にて角田と豊本をフィーチャーするという、カップリング企画まで放送できるまでになり、何らかの蓋が開いたように、東京03への世間とお笑いファンの評価の差が埋まってきた。テン年代の終りとか、やっぱりそういうの意識してんすかね。
そんな東京03のネタ「小芝居」は、単独ライブ「自己泥酔」にて披露されたコントだ。
 会社の同僚であり親友の飯塚に恋愛相談に乗ってもらっていた角田が、上司であるトヨ美と結婚することになったのでその報告会とお祝いを兼ねた飲み会で、角田は結婚の敬意まで知っている飯塚に「初めて聞いたっていう芝居をしてほしい」とお願いをする。
 この依頼を受けた飯塚は「何がヤだって、芝居するってことがヤなのに、それを全部知ってるお前に冷静に見られてるのがヤだわ。」とさらりとこれからの笑いどころを説明している所にテクニックを感じる。
 そこからは、飯塚が小芝居をしていたということがいじられるのだが、一気にオチでひっくり返る。
東京03のコントは、演劇的だと言われることもあるが、それを逆手に取ったような設定で、小芝居をやっているという芝居、小芝居をやっているということを褒められて恥ずかしくなってしまうという芝居、と、そして最後に素に戻るというこの切り替えが重なり、東京03自身への幾ばくかの批評性を与えた、メタ寄りなネタになっている。
 余談だが、『自己泥酔』に入っている「トヨモトのアレ」も絶品です。
 好きなくだりは「俺の芝居をサカナに酒を飲むな」

 

 7.爆笑問題「時事漫才」(2015)
 大分県高崎山自然動物園の猿山で産まれた猿に、英国の女王にちなんだシャーロットと名付けたところ、抗議が殺到したというニュースがあった。このことをネタにした漫才での「日本人は失礼だって言っているけど、イギリス人は怒ってない」という「猿が猿に何したって気にしない」というくだりです。前に住んでいたアパートで見ていて、笑いすぎてソファーから転げ落ちてしまいました。
 テン年代は、まさに爆笑問題が拡張した10年だった。
 タイタンライブを生で初めてみることが出来ただけでなく、新婚旅行に組み込んだりもした。その間にも、タイタンライブの100回記念、20周年記念、30周年記念の単独ライブと、それらを縦軸とした東京遠征を重ねることで、年に一回程度は生で爆笑問題を生で見ることが出来た。ライブだけでなく、ラジオはもちろん、テレビでも、語り尽くせないほどの様々な出来事もあった。
 タイタンライブのライブビューイング「タイタンシネマライブ」も地元で始まるニュースを聞いた時は飛び上がるほどに喜んだし、それが北は北海道から南は沖縄までほぼ日本全国を網羅している広がりだ。そうは言っても、行かなくなったりしてしまうのではないか、などと思ったこともあったけれど、始まってからほぼやむをえない事情を除いて、全て見に行けている。
 もう大ベテランの域なのに、霜降り明星を始めとしたお笑い第7世代という20代の若手芸人とがっぷりよつを組み喧嘩をして、負けたり勝ったりする。
ここ最近の「総理と反社とは写真を撮らないほうがいい」も負けず劣らず痺れました。令和の爆笑問題も、面白い!
 ちなみに、指原梨乃が「さしこ」と名付けた同山の猿は、その半年後に、不審な死を遂げていました。
 好きなくだりは「日本人は失礼だって言っているけど、イギリス人は怒ってない」からの「猿が猿に何したって気にしない」。

 

8.かが屋「母親へのサプライズ」(2019)
 2018年の11月ごろに、友人より、「バナナマン好きなら、好きだと思う」と紹介されたかが屋は、この一年足らずで一気に何段階もギアをあげて進んでいった。
 『キングオブコント2019』でかけた、「プロポーズ」のネタも、かが屋らしくてとても良いコントなのだけれども、襟を正して向き合うことを決めたのはその半年ほどまえに『ENGEIグランドスラム』で見た「母親へのサプライズ」というネタだった。
笑いすぎて生後一か月の赤子が起きて、妻に怒られてしまうくらい、とにかく凄かった。コロンブスの卵の様に簡単に言ってしまえば「スマホの画面がくるくる回る」ということを面白いと思うネタなのだけれども、凄かった。スマホのあるあるを持ってくるというそのデジタルネイティブなセンスが、平成育ちということを感じさせるが、この笑いの本質は、ジャンガジャンガ的な「間の抜け」による笑いなので、スマホを使っている人であれば年代を問わない全員に伝わる笑いとなっている。ちなみに、「ジャンガジャンガ的」な笑いは、ゼロ年代アンガールズの発明であり、かが屋は結成の経緯から、お笑い第七世代のバナナマンと言われることもあるが、そういう意味では、他のネタも含めてアンガールズに近い。
 ネタのセオリーに沿うのであれば、この笑いどころをネタの頭に持ってきて最後まで引っ張るのだが、かが屋の凄いところは、それをせずに、逆に前半全てを、このことを「何の打ち合わせをしているのか」などの観客に疑問をもたせるなどのフリをカムフラージュしているところだ。この勇気と技術に震える。そしてそのことで、このネタに緊張が産まれ、貯めの状態が作られる。
 そして何よりも巧みなところは、最初にスマホ上で木野花の画像がくるっと回ったときは、本当に「よくあるハプニング」だと思わせられたところだ。その後、それが繰り返されることによって、観客はここが笑いどころだと気付き、一気に貯めが開放される。
 そういった構成の妙だけではなく、何より、木野花というチョイスが素晴らしい。バナナマンの名作コント「宮沢さんとメシ」での宮沢さん、『KOC』でのバッファロー吾朗のネタでの市毛芳江を彷彿とさせる大喜利の答え。
 好きなくだりは、ネタのシステム。 

 

9.まんじゅう大帝国「来客」(2016)
 かが屋と同じく、お笑い第7世代にくくられるまんじゅう大帝国。その始まりは、アルコ&ピースのラジオ『アルコ&ピース D.C.GAREGE』でのアマチュアなのに、震えるほどウケていたというトークで、まず、ラジオリスナーに、幻想を持ったかたちで認知をされた。それから、高田文夫からの裏口入学で、爆笑問題の事務所のタイタンに所属が決まり、今にいたるわけだが、そのきっかけになった、ネタ「来客」。
 竹内の「朝家で寝てたらね、ピンポンピンポンピンポーンっていうからさぁ、おれ全問正解したんじゃないかなって思ってさ。ただねえ、全問正解のピンポンともちょっと違うかなーって感じだったんだよね」という入りに、田中は「全問正解ではなかったってこと。じゃあ、どっかで一問落としたってこと」と返す。すでにおかしいが、竹内は「どこに落としたかなーって部屋中探してたの。そしたらどんどんどんどんどんって何かを叩く音が聞こえたの。そこでね今日は祭りだーって思ったわけよ。しょうがないから閉まってあったハッピを引っ張り出してね、ハチマキを巻いてね、直足袋をどこへやったかな」と続けると、田中が「ちょっと待って待って待って、なんかおかしくない」と竹内を止める。ここでやっとツッコミがはいるのかなと思ったら、「祭りがあったの?呼べよ、誘ってくれよ!」と話しは正しい道筋にもどることなく、さらに逸脱していく。
 まんじゅう大帝国はコンビ名からして最高だ。まんじゅう大帝国という名前は、どことなく古今亭志ん生の著書『なめくじ艦隊』にも似ているし、まんじゅうといえば古典落語の「まんじゅう怖い」を連想する。
彼らの漫才のやりとりは、古典落語の「やかん」や「天災」のようで、聞いていてとても心地よい。出てきた当初からリズムと間がすでに同期と比べて高い位置にあり、そして最近はまた上手くなってきている。
 好きなくだりは「祭りがあったの?呼べよ、誘ってくれよ!」。
 
10.にゃんこスター「リズム縄跳び」(2017)
 にゃんこスターが『キングオブコント2017』でかけた、「リズム縄跳び」。
 お笑いについて、知っていれば知っているほど、考えていれば考えているほど、カウンターが綺麗に入って、死ぬほど笑ってしまう神でもあり悪魔でもあるネタ。
きちんとした構成を、スーパー3助の裏返りそうで裏返らない、ぎりぎりノイズになっていない、おぎやはぎ矢作以来の面白い叫び声と、アンゴラ村長の目を細めた顔で肉付けしていくところ。これはもうプリミティブな笑いで、だからこそ脳に直撃して笑ってしまう。突き詰めると、赤ちゃんがいないいないばあ、で何故笑うのかとかそういう類の話しになってくるので、文化人類学を勉強するか、『たけしの万物創世記』で扱うものだ。
 ハートフルなネタと見せかけておいて、縄跳びやフラフープを床に叩きつけるという音が意外に響くという暴力性もあるところもまた最高だった。
他にも、スーパー3助が全然アンゴラ村長を見ていない時があるとか、昨年のラブレターズの野球拳の流れもあったとか、または、それらが渾然一体となったからあの爆発が生まれたとか、「堂本剛の正直しんどい」よろしく、VTRを停止しながら一つ一つツッコミを入れることが出来る。ということは、お笑いの理屈から離れていないということなので、因数分解的に解説することは可能といえば可能なのですが、これはもう、このコンビが持っている要素や場、文脈全てがびたーっとはまって共鳴して笑いを増幅させているということになる。説明出来るのに、説明出来ないところに到達してしまっていた。物理学者が研究すればするほどに、神の存在を認めざるを得なくなるといった話と同じ。
 これがWikipediaの説明文を百回読んでもピンとこなかったポリリズムのことかと理解出来ましたし、あと、ここ最近鬱々としていたのだけれども、このネタを見て完全に脱出しました。
 何が面白いか分からないと怯えてる皆さん、不安を怒りに変えて自我を保つ必要はありません。僕らも何が面白いのか分かってないんですから。
そう書きなぐって、あれから二年。
 『バラエティ向上バラエティ 日村がゆく』で、ゾフィーの上田の「2019年のにゃんこスターは面白い」という発言から産まれた企画として、「にゃんこスターのここで縄跳び!?選手権」というのが開かれた。にゃんこスターが舞台に出てきて、知らない設定でコントを始め、新ネタかな、と思わせておいてからの、縄跳びが出てきて、結局リズム縄跳びを始めるというネタのその導入部分を競うその大会は、腹抱えて笑った。優しくて面白くて最高で、これだから、お笑いは素晴らしいと思った。


 以上です。
 もちろん、このほかにも好きなネタは山ほどあります。永野の「浜辺でひとり九州を守る人」や、空気階段、駆け込んできたミルクボーイや、ぺこぱなどなど。そういったものを泣く泣く削り、テン年代に産まれた意義があるものや個人的に思い入れが強い、これだという無理やり絞った10本は、やはり、メタ要素の強いネタが多く文脈に依存している傾向にあるのだけれども、でもやっぱり、その突飛な発想を表現しきるための演芸的な上手さが土台としてしっかりあるというものが好きなようです。
 炎上の件や、フェイクお笑い評論が広まったりするのを見聞きしたりすると「ネタ」を取り巻く環境はさらに難しいものになっていくという暗い見通しを立ててしまうのですが、Youtubeなどでの公式チャンネルやお笑い第七世代によるさらなるネタの活性化と良いニュースのほうも多く、いっぱしのファンとしては良いことを広めながら、お金を落としていきたいと思います。

『M-1グランプリ2019』はなぜ、過去最高の大会と言われているのか

 一文なし、参上!
 『M-1グランプリ2019』の感想を言い合う友達がいないので、感想ブログを書きました。
 今年の『M-1』の目玉は何といっても、ファイナリストが一気に入れ替わりを見せたということで、ネタを見た事ないコンビも何組もいて、それだけで、『爆笑オンエアバトル』くらいしか情報がないころの『M-1』初期のように興奮させられ、絶対面白い大会になるし、荒れるぞ!となっていました。
 実際、最高の大会でしたね。それでは感想スタートです。


1.ニューヨーク「ラブソング」
 全く日の目を見ることが出来ない下積み時代というのはもちろん苦しいだろうが、すぐ売れると言われながら、どんどん同期や後輩に先を越されるのも、それはそれでつらいのじゃないだろうか。ニューヨークはそういうイメージがある。もちろん、ネタも面白いし、可愛げもあるように思えるがいまいち世間にそれが伝わらないという感じだったが、ここにきてやっとの賞レースのファイナリストとなることが出来た。
そして、それを一番喜んでいるのは大会のスタッフではないだろうか。「持ち味は毒と皮肉。しかしそれがどこか憎めない、いやどこか痛快なのだ。さあ、一世一代のショーの幕開けだ」という紹介VTRのナレーションからはそう受け取れるし、炎上するようなことを言うかもしれないけれど多めに見てよと言わんばかりの愛のある事前フォローのようでもある。
 ネタは、「ラブソング」。嶋佐が、オリジナルの歌を歌い、それに屋敷がつっこんでいくという比較的オーソドックスなネタ。そんなネタだからこそ、ニューヨークの悪意を存分にまぶしてほしかったのだけれども、残念なのは、「オシャレ好きだけどダサい奴」のようなニューヨークの針の穴を通すようなコントロールを持った悪意がまろやかになっていて、悪いな~というよりは、悪意を拾いに行ってしまうような見方になってしまっていたところで、そこで物足りなく感じてしまった。歌に入るまでも少し長い気がして、いつネタのギアがあるかを待ちすぎてつんのめってしまった。

 ニューヨーク、こんなもんじゃないってところをまた見たい。
ダウンタウンの松本に、「最悪や!」と不貞腐れたところや、敗退することが決まったときの「youtubeやってます!」とかめちゃくちゃ笑いました。
しかも、その後のファイナリストのツッコミのキレ具合が上がったと考えると、このやりとりで、他のネタの熱が増したこともこの大会が最高になった理由の一つなんじゃないかなとも思わずにはいられない。
 好きなくだりは「ちゃんとご飯食べてるの、たまには実家帰ってきなさい」「お母さんでした!」

 

2.かまいたち「言い間違い」
 ニューヨークの紹介VTRと比べると、かまいたち二人の身長について話していて、書くことなかったんかなと思いつつも、逆に言えば、かまいたちが面白いことはもう周知の事実だからなのかもしれない。
 ネタは、山内が「USJ」を「UFJ」と言い間違えるネタ。本来であれば、軽い言い間違えというツカミ程度のボケにもかかわらず、それで4分走りきるという、握力が花山薫くらいあるから胸倉掴まれてそのままブンブン振り回されたみたいな、かまいたちだからこそ体現できるようなすごいネタだった。
 山内が「USJUFJ言い間違えたのが俺なんやとしたら、俺なんで今こんな堂々としてる?」と自ら言うように、どう考えても、逃げ切れない状況を逃げ切って、途中には濱家を困惑させるまで持っていって、最後に最初の話に戻るという美しさ。
 台本上の上手さとして、最初に山内が「UFJ」と言った後に、濱家も「UFJ」ということで、濱家が「UFJ」と発言したというアリバイを作ったことと、「さらせよ」を「サランヘヨ」と言い間違えることで、山内は言い間違えるし、それを人になすりつける人だということをかぶせて印象付けるところであり、やっぱりよくよく練られているのだけれども、それよりも、昨年よりも、システマチックになりすぎておらず、ネタを見ているというよりは、会話を聞いているという気持ちよさが勝って、その点でも昨年より、めちゃくちゃ最高の漫才という感じがしました。
 そして、この漫才に立川志らくの点数は95点と高得点を入れていたのを見て、後出しじゃんけんのようになってしまうが、やっぱりな!と思った。それは昨年の立川志らくかまいたち評を思い出しながら、見ていたので、上手さよりも面白いと感じたからだった。そんな、昨年に出来た志らくかまいたちの因縁を踏まえたうえでの、志らくの「参りました」には不覚にもグッときてしまった。
 そんな志らくは、大会後にこうツイートしていた。「怯えと自信の共存とは。私の持論。自信が10の芸は鼻に付く。怯えが10の芸は見ていられない。自信が怯えを少しだけ上回った芸こそが魅力的な芸。去年のかまいたちは自信8怯え2。今年は自信7怯え3。」と自分が感じていたことを言語化してくれていた。
 好きなくだりは、濱家が舞台を大きく使うところと「もし俺が謝ってこられてきてたとしたら、絶対に認められていたと思うか?」

 

3.敗者復活枠・和牛「内見」
 今までの和牛はひとネタで0.7本のネタを2本やっているような感じで、ネタの途中で、お腹減っているからご飯食べたのに箸を動かすのがめんどくさいっていう状況になっていたのですが、今回は、0.5本のネタを2本やったようなシャープさで、とてもすっきりして良かったです。
 川西の「なんか始まってるぅ?」での漫才コントに入るのも、すっきりするための発明だと思います。
 中盤に内見に連れてこられた家に人が住んでいるというボケが4つ続くのだけれど、そこから出る時に言う「おじゃましました」が、「水田のみが言う」、「水田川西二人が言う」「川西が水田に言う」「次の展開への導入になっている」ときちんと4パターンになってるのは美しすぎます。
 好きなくだりは「お前住んでるやろ、ここぉ」からの「この部屋なんですけど、おしっこするとき座ってやらなダメなんですよ」

 

4.すゑひろがりず「合コン」
 『M-1グランプリ』において、博多華丸・大吉の大吉が、とろサーモンに決勝票を投じた理由に一番ツカミが早かったからと答えたことで、ツカミ問題というのが新たに出てきたと思うが、そういう意味では、このツカミを大会史上最速で行ったのは、すゑひろがりずだった。
 舞台上にあがってきて、階段をおりてセンターマイクに向かう、すゑひろがりず。ここまでは普通だが、出囃子のFatboy Slimの『Because We Can』に合わせて、南條が小鼓を叩いていたところで一気に引き込まれてしまった。子供が寝ているので、イヤホンで見ていたのだけれど、あまりに綺麗にマッシュアップされていた。
 作りについての話をすると、パックンマックンオリエンタルラジオ、××CLUBのように全編英語漫才というのは前例があるが、その場合は、観客は英語を翻訳しながら漫才を聞いて笑わなければならないので、英語は中学生レベルでなければ伝わらないし、またやりとりそのものを凝りすぎてしまうと、ネタが渋滞してしまうので、日本語でやる漫才よりは発想をやや抑えなければならない。
 古語漫才と言うべきか、すゑひろがりずの漫才は、それら英語漫才と同様に、合コンという分かりやすい設定に落とすことで、ネタを理解させ、見た目のギャップでも笑わせるという仕組みになっている。
 序盤の「なんぞご用で」「大吟醸をひと樽。ならびに枡四つ」「心得ました。さすらば店の者を呼んでまいります。」「お主は誰そ」「(ぽん)」なんて、現代語に訳したら、ゼロ年代に何万回も見たくだりだけれども笑ってしまうものになっている。
 そして、ネタが進むにつれて、観客がすゑひろがりずのシステムを理解していくことで笑いが増していく。そこに、合コンでのゲームとして、「お菓子の銘柄」で山手線をやり始めるが、ここからは、「故郷の母」が「カントリーマァム」、「寿返し」は「ハッピーターン」というようにクイズが入り、また違った楽しみが入ってくる。そしてさらに転回し、見事に飽きさせない漫才を見せてくれた。
 ファイナリストとして初めてそのビジュアルを見た時から、絶対に面白いと抱いていた幻想に負けないほどの面白さでした。ファイナリストの中で、一番タイタンライブに出てほしいグランプリでは堂々の一位でした。
審査員コメントとしてのサンドウィッチマン冨澤の「どう見たら良いんだっていうのはあるんですけど。僕は正直、漫才は何でも、笑わせればありだと思っているんで、あの、彼らが上位に行って、ちょっと漫才をぶっ壊してもらって、また新しいものを作り出してほしいなって」という言葉は、ある意味、大会後に出るであろう「こんなのは漫才じゃない」という論に対しての牽制でもありとても優しい理解者にもなっていた。このように、今回の審査員は基本的には審査員である前に、理解者、解説者というところもしっかりと前面に出ていて、とても良かった。
 好きなくだりは「それ、中尊寺!(ポン)」

 

5.からし蓮根「運転免許」
 昨年の敗者復活戦に出場し、今年ファイナリストになったのは、インディアンスとからし蓮根の二組だが、着実に実力をこの一年で上げてきたということがわかる。まだ20代半ばながら、からし蓮根は、場の空気に飲み込まれることなく、ネタを披露していたのだけれども、その反面、小さくまとまってしまっているような気もしました。漫才がオチに向かって一直線な感じがして、もっとストーリー的に右往左往してほしいなと思ってしまいました。
 漫才の技術やネタの構成でいえば、同年代では最高峰に、霜降り明星にも引けを取らないと思うのだけれども、だからこそ、舞台からいなくなる、教官を轢くところのような、トリッキーな笑いどころを望んでしまいました。
 もっと、熊本弁を出しても良いし、伊織の怖さをもっと出すなどして、予定調和なスカシではないノイズのようなものを入れた方が引っかかりが出来るような気がしました。
 好きなくだりは、教官を轢くところ。

 

6.見取り図「褒め合い」
 お互いを褒め合うという流れから、ラップのフリースタイルバトルを漫才に落とし込んだような漫才。ぱっぱぱっぱと掛け合い、それでもきちんと笑いをしっかりとる重めのワードをハメて行く。リリーでも盛山でも笑うという気持ちいい漫才でした。ただ、要は見た目大喜利なので、もっと内面をえぐるような、ゆさぶりが欲しかったです。

 ナイツ塙が盛山に、凄い細かいことなんですけどと前置きをしたうえで「手の動きが気になっちゃて。手が凄い動くんですよ、漫才中。髪の毛かきあげるのはしょうがないんですけど、鼻を凄いいじっちゃったりとか」と指摘していたのを聞いて、確か、オール巨人とかレベルの師匠が、博多華丸・大吉に漫才の間、「足の動き見とけよ」という指導をしたことを思い出しました。
 視覚的な情報として、意識の中に入らないとしても、観客の集中を散らしてしまうということでしょうか。
 好きなくだり「マラドーナのはとこ」「激弱のバチェラー」

 

7.ミルクボーイ「コーンフレーク」

 何よりこの漫才が面白くて興奮させられたのは、漫才の一番の醍醐味であると言っても過言ではない、知らない人の面白い会話を盗み聞きしているという気持ちよさに溢れていたからで、そしてそれは『M-1グランプリ』においては、ブラックマヨネーズにまで遡らなければならないほど、長いこと空位となっていた。そんな凝り固まってしまっていた部分を、ぐりぐりと推されたら、一気に血のめぐりがよくなったというわけだ。
 「オカンが好きな朝ごはんの名前を忘れた駒場のために、内海が一緒に考えるから、駒場からその特徴を聞き出す」という設定で始まった漫才は、駒場が特徴を「甘くてカリカリして牛乳とかかけるやつ」と伝えると、内海が「コーンフレークや」と答える。観客もその認識があるので、それだそれだとストレスなくネタを聞き続けることが出来る。内海の答えを聞いた駒場が「オカンが言うには、死ぬ前の最後のご飯はそれで良い」と言っていたという情報を伝えると、「ほな、コーンフレークとちがうかぁ。人生の最後がコーンフレークでええわけないもんね。コーンフレークはね、まだ寿命に余裕があるから食べてられんのよ」と否定する。そこからシステムを理解した観客は、右、左、右、左と視線を動かし、二人の会話に聞き惚れる。
 国民のほとんどが認識しているけれども、詳しくは知らないという存在であるコーンフレークに漠然と抱いている違和感や偏見、二人の悪意によってどんどん言語化されて暴かれていくのは、新たな快楽すらあった。
 この漫才の一番すごいところは、後半で「コーンフレークではない」と駒場が完全に否定するというところで、少し間違えれば「じゃあ、今までのやりとりは何だったんだ」と思ってしまいそうだが、これまでにミルクボーイが作り上げた空気は壊れなかった。その後の「申し訳ないな」というのもとても良い。「何言うてんのやろ」じゃなくて「情報出すの遅くて申し訳ない」ってことだと思うのですが、会話のリアリティがここにある。リアリティで言えば、駒場の、オカンから聞いた情報を思い出し思い出し喋っているぼそぼそとした話し方もそうで、それは、どこか、バナナマンの名作コント「seicretive person」での設楽統の演技のようでもあった。
 点数は、681点と、大会史上最高得点を獲得。
 大会史上最高得点といえば、アンタッチャブルの673点であり、アンタッチャブルが散々ネタにしていた点数でもあるが、そんなアンタッチャブルが復活した年に、点数が塗り替えられたというのは、いくらなんでも出来過ぎている。
好きなくだりは「あれは、自分の得意な項目だけで勝負しているからやと睨んでいる」と「コーンフレークは生産者さんの顔が浮かばへん」

 

8.オズワルド「先輩との付き合い方」

 おぎやはぎポイズンガールバンドを彷彿させずにはいられないオズワルドの漫才は、理論上は伊藤と畠中がきちんと会話できているはずなのに、畠中が会話からはみ出たときに伊藤が優しく本筋に戻すなかで幾つも生じる細かなずれが積み重なって、いつのまにか知らないうちに遠くまで連れてこられてしまう。そんな、先輩に可愛がられるための話を聞いていたはずなのに、いつのまにか、バッティングセンターで寿司を打っているという話になっていたという最高なローテンポな漫才。オズワルドは何本かネタをマイナビラフターナイトで聞いていたのですが、今回が一番笑った気がします。何度聞いてもじんわり面白い。
 中川家の礼二が「しっとりした感じって結構そのままハマらんパターンって多いんですけど、後半に尻あがりにウケテいったんで、これがやっぱ凄いな」と評していたように、伊藤が大きな声を出すのを後半まで溜めていたのも好きなところだ。
大声といえば、畠中が「え!」と大声を出して、話の流れを変えるのは、時間も省略出来るし面白いのでこちらも発明ですね。
 何より嬉しいのは、オズワルドが入る余地が『M-1グランプリ』に出来たということです。やはり、こういうイリュージョンを体現している漫才師はどうしても、テンポが遅くなってしまうので、これまでの『M-1グランプリ』では、どうにも厳しい状況に立たされていたと思うのですが、そういう意味では、オズワルドが決勝に上がれるのであれば、タイタン所属のキュウやまんじゅう大帝国もネタ次第ではファイナリストになる可能性も出てくると思えて興奮してしまいます。事実、オズワルドは、まんじゅう大帝国を見て、スタイルを変えたという情報を見かけました。
 好きなくだりは「板前ってどこを見て板前かどうか判断してるの」「昨日いたかどうかだろ」と、「回転寿司なってんな」「なってねーよ」からの「それは分かってるんだってさー」

 

9.インディアンス「おっさん女子」
 去年ファイナリストになってもよかったインディアンス。最初からギアがマックスでインディアンス爆発していたんですけど、大爆発とまでは思えなかったのは、面白さが知られているからこそなのかもしれません。
語り過ぎるのも野暮なので、こんな感じで。
 好きなくだりは「すいませーん」「いや思てたんとちゃう」

 

10.ぺこぱ「タクシー」

 割合オーソドックスな、タクシー運転手とお客という設定なのだけれども、二人のキャラとしての魅力がそれを上回る漫才だった。立川志らくの「最初見た時はね、私の大嫌いなタイプの漫才だと思っていたんだけど、どんどん好きになっていった」というコメントのように、見た目からその実力を低く見積もられそうな二人だけれども、タクシーに轢かれたあとの松陰寺の「二回もぶつかるってことは、俺が車道側に立っていたのかもしれない」あたりから、観客が二人を受け入れ、「キャラ芸人に、なるしか、なかったんだ!」で好きになっていたという、これはもうキャラ芸人として最強ということではないでしょうか。
 しゅうぺいのボケも、めちゃくちゃ面白すぎるというわけではないのだけれども、紹介VTRの通りトリッキーで、特に、何の脈略もない「急に正面が変わったのか」には、ひっくり返されました。漫才の断面図を初めて見た。
 上沼恵美子が「10組も見てくると疲れてくるですが、また活性化されました」、ダウンタウンの松本が「ノリつっこまないボケっていうかね、だから、新しいとこ突いてきましたよね」とコメントしていたように、大会の中で、オズワルドからインディアンスという流れで、漫才のジャンルを一周したかに思えたような状況で、まだこれがあったかという新しいものを見ている楽しさに溢れていて、そういう意味では、最後にぺこぱが登場したというのも効果的だった。この出順でなければ、和牛へのジャイアントキリングを成し遂げた一因ではないだろうか。
 加えて、狙ってか狙っていないのか、ノリつっこまないことで既存の漫才への批評になっているばかりか、「働き方改革って法律でどうこう出来る問題なのか」と風刺もしている。
 ネタ後の「エムワン、はじまるよー」、面白すぎませんかね。しゅうぺいは稀にみる「0点。だから100点!」という逸材ではないでしょうか。
 好きなくだりは「激しいヘタも付いている」からの「うるせえ、キャラ芸人!」「キャラ芸人に、なるしか、なかったんだ!」

 

最終決戦1組目・ぺこぱ「電車でのお年寄りへの対応」

高齢化社会」が題材であったり、「漫画みてーなボケしてんじゃねーよ。っていうけど、その漫画ってなんですか。もう適当なツッコミをいうのはやめにしよう」とやはり、風刺であり批評的というエッジを、二人がまろやかにした漫才。優しい気持ちで漫才を見ていました。
好きなくだりは「漫画みてーなボケしてんじゃねーよ。っていうけど、その漫画ってなんですか。もう適当なツッコミをいうのはやめにしよう」

 

最終決戦2組目・かまいたち「人に自慢できること」
 人に自慢できることとして、産まれてから一度も『となりのトトロ』を見た事ないということをあげる山内が、濱家の否定をことごとく交わしていく。辛くも優勝こそ逃してしまったものの、昨年の面白さだけでは説明できない何かの殻を破ったかまいたち凄すぎましたね。
 好きなくだりは「俺のトトロ見た事ないは、今からじゃどうにもなれへんよ」

 

最終決戦3組目・ミルクボーイ「最中」

 すでに観客はミルクボーイの漫才のシステムを知っているので、22秒という短時間で、オカンが分からないものを一緒に考えてあげる時間に入った。ミルクボーイのこの漫才のシステムは、仕組みを知られていたとしてもそこまで不利になるものではない。逆に、一本目よりも内海と駒場のやり取りが多く、かつ、「最中の家系図」など想像を発展させた遊びのような笑いも織り込まれているものが増えて、まさに、一本目をミルクボーイの基礎とするなら、応用編として、さらにがっつり笑える漫才になっていた。また、一本目は、コーンフレークに対する悪意と偏見というクリティカルなものに対して、二本目は、おかしの家の施工や、家系図という全くのウソの話になっていたのも細かい変化だった。
 実際に、そのやり取りの回数を数えてみたところ、一本目は、特徴を聞き出すまでが35秒、「コーンフレークやないか」「コーンフレークちゃうやないか」のやりとりは10回だったが、「モナカやないか」と「ほな、モナカとちゃうやないか」のやりとりは13回だった。
 ネタで最中を何度も何度も聞かされているなか、「こうやって喋ってたら食べたなってくる」「ほな最中とちゃうやないか。だーれも今、最中の口なってない」というくだり瞬間、頭殴られたかと思うほどに衝撃を受けました。
好きなくだりは「最中のほうがテレビ出てるか」と「だーれも今、最中の口なってない」

 同じボケ、同じツッコミを繰り返すというのはよくあるけれど、このように、同じことを肯定と否定でひっくり返し続けるというのは他にないのではないだろうか。

 

 『M-1グランプリ2019』は、こうしてミルクボーイの優勝で幕を閉じたわけだが、インターネットで感想を見てみると、今までの大会で最高だったという感想を多く見かけた。個人的には2004年が不動の一位なのだけれども、確かにそう言われても何の異論もないほどに素晴らしい大会になっていた。
 ではどうして今大会が、ここまで満足度が高いものになったのか。
もちろん、ネタが全組面白かったことだけでなく、出順が芸風に即した流れを作っていたなど様々な要因があると思うのですが、一番大きな理由は、ネタの幅が広かったということではないだろうか。明らかに、準決勝までの審査員他、スタッフから、手数重視からの脱却という明確な裏テーマがあったんじゃないかなとも思えてしまうほどに、昨年までの大会であれば、ファイナリストにはいなかったような漫才が多いように感じた。
 例えば、すゑひろがりず、オズワルド、ぺこぱがそうであり、よしんばファイナリストに残っていたとしてもよくて一組なんじゃないかと、勝手に判断してしまうほどに、『M-1グランプリ』を見る脳が、ともすれば競技的とも揶揄されるような、ボケとツッコミの応酬がギッチギチに詰め込まれた漫才が勝ち上がるという固定観念に縛られていた。
 しかし、実際には、それを覆すほどの多種多様な漫才が出てきた。
 だからこそ、それが満足度の高さに繋がったんだと思います。
 また、あまり気が進まないのですが、ペコパやミルクボーイが上位になったことで生じた「誰も傷つけない笑い」にまつわる話がまたむしかえされていたことにも一応触れておかないといけないと思います。
 この話は、賞レース後に起るトピックの一つで、風物詩みたいなものなのですが、逆を言えばそれのみを判断基準としてお笑いをチェックする人たちが、そう言い始めるのですが、それは賞レース直後にしか起らない。ということは、彼ら彼女らは、賞レースしか見ておらず、お笑いにお金も労力も時間もかけていないわけです。
 これはまさに「お笑いのない世界に住んでる人が、たまにお笑いのある世界に降りてきては傷付けない笑いを拾ってありがたがっては、またお笑いのない世界へと帰っていく。」状態なので、彼ら彼女らは、どこか他人を傷つける笑いで笑っている人達、またはそういうネタを作る人たちのことを利用して、自分達の考えが新しいモノであると確認したいだけなんです。自分達の視点が正しさという一点しかもっていないにも関わらず。
 「イッキ」を取りこんだネタが全く問題視されていないところを見ると、本当にバカなので、答えは沈黙に限るんですけど、そんな彼らよりも、他人を傷つける笑いでも笑える人たちは基本的には優しいし、そんな我々よりも、人を楽しませたいという業を背負った芸人は一番優しい人種なので、少しずつ世間の空気を取り込んではいきますので、確かに、差別的、暴力的な笑いというのはライブであっても受けにくくなっているのは現状ではあるものの、それは新しい考えでは決してないし、あいつらから啓蒙されたものではないということは強く言っておきます。まあ、どうせ、ここまで読んでねえだろうけど。
 だから、別にニューヨークや、見取り図で爆笑して、これからお笑いにハマるような中高生は何も間違っていないということを強く言っておきたいです。
だから、誰も傷つけない笑いがそれがために上位に食い込んだのではなく、正しくは、結果的に誰も傷つけなかったと推定できるようなほのぼのとしたネタが入ってくるように、多様性がある大会で、そのネタがその日の出来が良くて面白かったから上位に食い込んだ、なんです。
 ちなみに、大林素子、今年はいないのかーとお嘆きのみなさん、実は観客席にいましたので、探してみてください。
 それでは、よいお年を!(ポン!)

 

 

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https://memushiri.booth.pm/

 

 

テン年代のハライチ総括。あるいは、来るべき単独に向けての試論。

 ハライチの岩井勇気が『僕の人生には事件が起きない』というエッセイ本を刊行した。
 その宣伝でいくつかのインタビュー記事を読んだが、一番重要な事を言っていたのは吉岡里帆がパーソナリティを務めるJ-WAVEのラジオ番組『UR LIFESTYLE COLLEGE』だった。
 ひとつは、テレビで活躍している澤部を見て、自分にはあの立ち位置にいけないと思った時に、「じゃあ、どうすんのってなって。とにかく何かに詳しくなろうって。自分が好きなもののほうが、なお良いなって思ってアニメとかを全部網羅するようにしたんですよね。」という発言だった。岩井は、そういう行為を、「仕事のために何かを勉強するのは見苦しい」と一蹴してしまいそうで、らしくない発言のようにも聞こえたが、岩井の仕事に向かうスタンスに関する重要な証言にも思えた。実際に、『ハライチ岩井勇気のアニニャン』を始めとして、アニメを始めとしたサブカルチャー関連の仕事を増やしている。
 そしてもうひとつは、2020年に挑戦したいことを聞かれた岩井「単独ライブをやろうかな」という答えだった。芸歴13年を迎えても、単独ライブを一回もやったことない理由は、「単独ライブって結構ね、単独ライブ始まる2ヶ月くらい前からバタバタ作りだしてネタをね、で、やる感じが多いんで、大体芸人って前々から準備してってのがあんまやらないタイプが多いんで、だからね、半分くらいね、しょーじき、間に合わせだな、みたいなネタが多かったりするんで、あんまり意味ないなぁ、みたいに思ってやらなかった」からで、「単独ライブ反対派だった」と話す。
 しかし、「来年ちょっとやってみようっていうことになって、やってから文句言ってみようってなりました」と、さらりと宣言してみせた。
単独ライブをやらない理由は岩井らしく笑ってしまうものだったが、その枷を外して開かれた単独ライブは最高なものになることは間違いないだろう。
 ふと振り返れば、ハライチが『M-1グランプリ』でノリボケ漫才を披露したのは2009年の年末なので、2010年からメディアに出始めてから2019年に至るこのテン年代という十年間は、コンビ間では澤部の方がメディアの露出は多いにしても、この十年間を総合して審査した時にハライチというコンビは同年代の芸人のなかでも上位に食い込んでくるのは間違いない。だからなのかは不明だが、若手芸人にとってはあまりに当たり前な単独ライブと、二人がメインのバラエティ番組というものが、ハライチにとってのこの十年間への忘れ物となった。
 加えて、漫才師としての評価もまた、正当にくだされているのか曖昧な部分がある。『M-1グランプリ』という賞レースのファイナリストに何度も進出しているだけでなく、ネタ番組でもコンスタントに登場、また、さらば青春の光相席スタートとのライブ『デルタホース』を開いては新ネタをおろし、『タイタンライブ』にも定期的に出演している。もちろん、ネタも面白いと思われているからこそ、コンスタントに場が用意されているのだが、漫才師としてのハライチを評価する声よりも、タレントやラジオパーソナリティーへの評価の声を聞くことの方が多く感じてしまうのは、気のせいだろうか。バラエティ番組での澤部のそのキャッチーさと、岩井『ゴッドタン』などでの「腐り芸人」として「お笑い風」といった真似したくなる言葉を駆使した他の芸人への批評など、二人がそれぞれ逆のベクトルで剛腕を振るっているという、テレビタレントして、マスとニッチの両輪がガッチリと噛み合っているという最高な状態にあるからこそ、ネタの凄さに気がつかれていないと言った方がいいだろうか。
 ハライチのネタは、主要なものはおおむね見ているはずだが、特に、ここ数年の顕著な特徴として、ノリボケ漫才から始まったハライチの漫才は、ハライチの漫才だけじゃなく漫才という芸そのものをアップデートしてきているように、スタート地点からかなり遠くに到達している。しかも、あまりに自然に、軽やかに、成し遂げ続けている。
 漫才におけるフォーマットというのは、それをひとつ生み出し、モノにするには、平均的に10年はかかるとみていいだろう。それが出来れば、食えている漫才師となる可能性は一気に高まる。ハライチが凄いのは、そんなフォーマットを、ネタをおろすごとに産み出しているところであり、恐ろしいのは、そんなフォーマットを使い捨てにしているということである。この行為はコスパという面だけで考えると、あまりにも悪い。これと同じことをやっているのが、ナイツやバカリズムらであるということを考えると、やはり、岩井も天才と評さずにはいられない。
 例えば、玄米を覚醒剤のように勘違いさせるようなことを言い続ける「ダイエット」、澤部にコミュニケーション能力があるのか調べるためのテストを岩井が出すという名目であるあるを言っていくが徐々にないないになっていく「コミュニケーション能力チェック」、ジャパニーズホラー的でグロテスクな世界観に誘われる「旅館」などがあった。
 特に凄かったのは、宇宙からやってきた生物に澤部が寄生されそうになる「寄生」と、「アイドルのシステムを政治に」だ。
 「寄生」は、中盤から岩井が全く喋らなくなり澤部が一人であたふたし続けるというこのネタは、ノリボケ漫才をベースにしつつも、そもそも漫才としても新しいことをしているというもので、特に凄いのは、観客の目線は、ずっと喋り動き続ける澤部ではく、全く喋らない岩井にも向けられてしまうところにある。
 「アイドルのシステムを政治に」は、アイドルが総選挙をしているから、政治家もそれを見習って握手会などを導入した選挙をしたほうがいい、と岩井が終始、逆のことを言い続けるソリッドなネタなのだが、単純に面白いだけでなく、政治とそれにまつわるものに対して批評的となっていて、それはまさに風刺だった。


 全てのネタをメモすればよかったと思わずにはいられない。
 単独がほんとうに楽しみである。
 

おかえり、アンタッチャブル(完全版)

 今よりまだ深夜ラジオを聞いている人が 少なかったであろう10年ほど前に遡るが、間違いなく一番面白いラジオが『アンタッチャブルのシカゴマンゴ』だった時期は確かにあった。裏番組は『ナインティンナインのオールナイトニッポン』という巨大な存在だったものの、聴取率調査でジャイアントキリングを起こしたこともあった。「リスナーがパーソナリティ」と謡っていたその番組は、アンタッチャブルトークはもちろんのこと、ネタメールも最高で、盛り上がっているコーナーの最後のメールを山崎が読むと「ふざけんなよ、もう終わりかよ」と柴田がよくキレていたのもたまらなかった。そんな番組も、事情を知らされないまま柴田が休業することになり、しばらくは山崎一人でゲストを迎えながらも放送を続けていたが、不完全な形で終了を迎えることになってしまった。
 ちょうどその頃と前後して、山崎はザキヤマとして『ロンドンハーツ』や『アメトーーク』でその存在感を発揮し、どんどん売れていくこととなる。ザキヤマというのは、もともとは、ラジオのノリで決まった、山崎のあだ名だったが、いつしか本当のあだ名として世間に定着していった。その後、柴田は復帰するものの、きちんとした説明がされることはおろか、すぐにアンタッチャブルが復活することはなく、その間もバラエティに出ずっぱりだった山崎との差は広まっていくばかりであった。
 柴田からは、山崎と定期的に会っているという話を聞くことはあっても、山崎からは柴田の名前すらも聞くことはなく、勝手なファン心理として、いつしか山崎を見ることを避けて、その言動で笑うことすらなくなっていた。
 先日、週刊誌のサイトで「アンタッチャブルが復活する」というニュースが流れてきた。この手のニュースに何度も騙されていたので、諦めと防衛反応から、どうせ飛ばしだろうと思うことにして、きちんと読まなかった。ただ、いつもと違うのは、何でこのタイミングでまたこんな記事が出てくるんだ、という心に引っかかったことだった。
今思えば、普段は録画や動画配信で視聴していた『全力!脱力タイムズ』を、その日はきちんとリアルタイムで見たのだから、51%くらいはその記事を信じていたのかもしれない。
 そして、その期待は裏切られなかった。
 いつもの通り、コメンテーターとして座っている柴田を、有田を筆頭に番組サイドが翻弄する。今回は、担当ディレクターがハマっているものがボードやVTRに反映されているので、そのハマっているものは何かというのを柴田にあててもらうというもので、その問題には柴田の好きな動物が答えになっていたりして、柴田を暖める。
 柴田がこの番組に出場すると、ゲストが「アンタッチャブルの漫才を見たい」と言いだすも、一回目のフォーリンラブのバービーから始まり、ハリウッドザコシショウコウメ太夫といった山崎以外の芸人が出てきて、柴田と漫才をするという流れがすでに出来上がっている。もちろん、アンタッチャブルの漫才ではないものの、柴田のツッコミが上手すぎるせいで、きちんと漫才として成立してしまう。そして、散々笑った後に、その反動で、やっぱりアンタッチャブルの漫才を思い出して切なくなってしまう。
この回も同様の流れになったが出てきたのは俳優の小手伸也だった。山崎の衣装のように白シャツに白いネクタイを纏った小手はきちんと山崎に似ていて、その地味な完成度の高さに笑いながらも、だよなあ、と諦めた。
 しかし、漫才を始めた二人だが、どうにも小手の歯切れが悪い。最終的には、小手はネタを飛ばしたあげく、「ドラマの合間で来てて、僕も大変な時期」と不貞腐れてしまう。それから漫才を続けるも、スタジオでも笑いは起らず、業を煮やした有田が「小手さん、もういい、いい。もういいですわ。ドラマの合間に来ました、みたいな中途半端な気持ちでやるんだったらもういいですよ、帰ってくださいよ、やる気ないんだったら」と小手を叱り、小手は帰ってしまう。スタジオは重い空気に包まれるが、「もう一回やります?」「一応最後までやりましょうよ」という柴田の言葉と、全力解説員のフォローもあって、「俺も言いすぎたわ」と反省した有田が小手をスタジオにもう一度呼びに行く。
 待っている間、柴田は、「そんな番組じゃないんだから。楽しくやってる番組なんだからさ。まじで。汗びっしょりかいてさ。楽しく帰ればいいじゃん」と言いながら、洋服を整えて、有田と小手を待つ。
 スタジオに戻ってきた有田と小手を見て、柴田は、「うわぁーっ」と叫んでサンパチマイクをつかみながら倒れる。それもそのはず、有田が連れてきたのは小手ではなく、本当の相方である山崎だったからだ。
 柴田は「バカ、ダメだってお前。ダメだってお前、まじでー。ダメだって。ダメだ、違う違う、バカ、ダメだって。違うって。マジで!?」と叫び続け、サンパチマイクを持ってスタジオをうろうろしながら、「ちょっと待って、これ本当に!?お前マジで。おいおいおいおい、ちょっと待てよ。こんな出方あるか。」と叫び続けるも、本当にこれからアンタッチャブルとして漫才をやると悟って腹を括った柴田は、「ちょっと本当に、この番組でやんの。おっしゃあ!!」と雄たけびを上げ、サンパチマイクをセンターにセットし、ジャケットを脱ぐ。
 「いや、ありがたいですねぇ~」
 「ありがたいね」
 歳月の重さを感じさせないほどに軽く、よくあるトーンで始まった漫才は、非凡で、圧巻で、迫力があって、誰も太刀打ちできないほどに強い、あの頃の無敵で唯一無二の漫才だった。何度も何度も見たネタなのに、10年の空白があったのに、進化すら感じさせられた。
 「アンタッチャブルの漫才の台本はペライチ」「袖で出番直前まで後輩芸人をいじったりシャドーボクシングしているのに、舞台に出たら爆笑をとっちゃう」、関東芸人の間で語られる都市伝説を思い出すが、いやいや、漫才に集中しなければと、頭を振る。
一分ほどネタを進め、程よく区切れるところで柴田が「いい加減にしろ」と漫才を終わらせようとするも、山崎は「いやいやいやまだまだまだ。まだ終わりませんから。」と、お辞儀をしていた柴田の頭を引き上げ、すぐさま漫才を再開させる。グッと来た。結局3分半ほどネタを披露した。漫才の合間に挟まれる有田の笑顔がまた何よりもたまらなかった。
 小手がスタジオからいなくなりそうな展開になったこと、番組の予告で流れていた本当に驚いている柴田の映像がまだ本編で流れていないことからも、これは本当に山崎が出てくるのかという疑念を完全には払拭できないでいたが、まさに小手の代わりに出てきたのは紛れもなく山崎で、その瞬間にアンタッチャブルが画面に揃ってしまった。
 10年近く止まっていた時計が動き出した。
 漫才でひとしきり泣き笑いしたあとに、「え、まじでアンタッチャブル復活したってことでいいの」「いや、漫才の面白さ変わらなすぎじゃない」「なんでこんなにスイングしあってんだよ。」「有田哲平かっけえよ」「シカマンの最終回、よろしくお願いします!」と様々な感情に心が揺さぶられていると、番組はいつものようにさらっと終わっていった。
 本当にアンタッチャブルは復活したのだ。今この瞬間から、「アンタッチャブルを生で見たことがない」から、「アンタッチャブルをまだ生で見たことがない」になった。
 二人が再結成をするのなら、有田哲平のもとで、と常々思ってはいたけれども、考えうる限り最高の復活劇だった。柴田は「この番組で!?」と言っていたが、この番組しかなかった。
 有田はいつから仕掛けていたのか。 
元号が変わったから。十年経ってしまう前に。この日のために、相方の偽物と三回も漫才をさせたのか。もっといえば、信憑性が低そうな週刊誌から漏れたというところも、有田が本当に待ちわびている人達に向けてのメッセージとして、わざとリークしたではないのかとまで深読みが出来る。
 それだけじゃない。山崎が出てくる直前に流された『犬神家の一族』のパロディ映像にはスケキヨが一瞬映っていたが、スケキヨといえば、青沼静馬との入れ替わりであり、小手と山崎の入れ替わりとかけていた可能性もあるといった、番組内に散りばめられた情報への考察は止まらない。
 その深読みと考察の余地こそが、有田が『有田と週刊プロレスと』で熱く語っていたようなプロレス観そのものだろう。
 何より嬉しいのは、柴田に悲壮感がないことだった。
 柴田にも色々なことがあったが、そのために世間的には評価が地に落ちたことは否定できない。それでも、正式に復帰して以降、一つ一つの仕事で結果を出してきた。事実、この番組でも、山崎が出る直前まで、柴田はひとりでガンガンに笑いを取っていた。そもそもこういうことになってしまったのも、柴田自身が蒔いた種のせいかもしれないが、それでも腐らずに笑いを取ってきたということをファンは知っているからこそ、みんなは素直に嬉しさを爆発させることが出来た。それは、奇しくも、漫才が始まる直前の柴田が言った「汗びっしょりかいてさ。楽しく帰ればいいじゃん」という言葉が表すものそのものだった。
 その日の夜、三時過ぎまで眠ることが出来なかったので、いったん起きて、ブログの記事を一気に書き、「おかえり、アンタッチャブル」とタイトルをつけてアップした。そのリンクを、ツイートすると、同じように信頼している深夜ラジオリスナーが少し前に「おかえりアンタッチャブル」という記事を更新していた。そりゃあ、この言葉しかないんだから、そんな偶然もあるよな、と思いながら、その文章を、うんうんと頷きながら読み、とりあえずの気持ちを吐き出した安心感からかすぐに眠りに就くことが出来た。
 翌朝起きると、高校の同級生から、「脱力タイムズ見た!?」というLINEが入ってきたことで、昨日のことが夢じゃないことを確認した。友人は、「記事も知らなかった」、「Twitterもやってない」、「番組の後のニュースも見てない」、ただ、毎週のルーティンとして起きてすぐ土曜日の朝に録画を見たら、アンタッチャブルが復活したという、羨ましいほどに最高のコンディションで見ることが出来たようだった。
 日曜日の『THE MANZAI』までに何度も何度も番組の録画を再生しながら、ラジオ聞きとして、このニュースへの芸人仲間の反応を見聞きしたが、何より、伊集院光の『深夜の馬鹿力』と爆笑問題の『爆笑問題カーボーイ』は、やっぱり良かった。いつだって重要なニュースについて「月曜日はさらっと、でも深く、火曜はじっくり笑いを交えて話してくれる」という持論があるが、まさに、その通りで、伊集院は事前に知っていたという話をしながら笑いを交えつつ、この件について短いながらも触れてくれたが、そのなかで何より嬉しかったのは、伊集院の口から「俺がアンタッチャブルに望むことは、シカゴマンゴの最終回やったほうが良くない?っていう。多分。ふわって終ってる気がするんだよね」と『アンタッチャブルのシカゴマンゴ』の本当の最終回を放送することに言及してくれたことだった。『爆笑問題カーボーイ』は、『THE MANZAI』の楽屋話をたっぷりとしてくれた。柴田に出会ったときのことを太田は、「『おい、お前なんだよ、この間よぉ、ふざけんなよ馬鹿野郎』『いや、もう勘弁してくださいよぉ』って言ってんだけどさあ、もう嬉しそうなんだよ、柴田がとにかく。とにかく嬉しそう」と振り返ったが、それを話す太田の声も嬉しそうだった。
 そこから、そのことはさておいて、『全力!脱力タイムズ』で柴田は山崎が登場することを知っていたのかどうかで爆笑問題の二人でケンカが始まるところや、ほかの芸人たちに、アンタッチャブルの楽屋に連れていかれたら、アンタッチャブルに向かって「お前らなあ、ふざけんなよ、こうやってちやほやされるの今だけだからな!」と言ったら、サンドウィッチマンを始めとしてその場にいた芸人たちに、「なんでそんなこと言うんですか!」と総スカンを食らったというのは太田らしくて最高だった。
 人生の伏線を回収したのは、アンタッチャブルの二人だけではなかった。東京03の飯塚もそのひとりだった。『ゴッドタン』で過去に番組の企画の中で「アンタッチャブルは俺の夢だったんだよ」と柴田にキレていたことがあった飯塚は、たまたま復活直後に『佐久間宣行のANN0』にゲストで出演することが決まっており、その回では当然、佐久間と飯塚でアンタッチャブルの話が始まった。飯塚は『全力!脱力タイムズ』放送時は、東京03の単独ライブで大阪にいたので、リアルタイムで試聴することが出来なかったため、次の日の朝にTVerで番組を見始めたら、「山崎出てきて、フリスクのボケやってる一発目、あのボケ見たらぼろぼろぼろって涙出てきちゃって、あ、駄目だ俺もう今これ見終わったら、自分達の単独どこじゃないと思って、一回辞めたんです」と話してくれた。そこから、養成所時代からアンタッチャブルを見てきているが、すべっているところを見たことがない、絶対売れると思っていたので、「アンタッチャブルは俺の夢だったんだよってのは、ほんとに全然大袈裟でも何でもなく、ほんとの思いなの。だから柴田なにやってんだよって思いが強かったの」と話す。
 飯塚はそう言うが、そもそも、おぎやはぎから始まった、アンタッチャブルキングオブコメディドランクドラゴン、もちろん東京03を含んだ人力舎勢のゼロ年代における躍進こそが、カウンターカルチャーと言ってもいいくらい血沸き肉躍るほどの熱狂に値するほどのお笑いファンの夢だったはずだった。
 柴田がレギュラーとして出演している文化放送の『なな→きゅう』では、『全力!脱力タイムズ』での思考の流れや心境をしっかりと語ってくれた。
 例えば、漫才を始める前に、山崎に向かって「ありがとうございます!」と一礼したことについては、「ありがとうございますは、あんま記憶にないけど。何で言ったのか。VTRで、自分で見て確認したけど、いや、本当にありがたいと思ったんじゃない、多分。ここを選んでくれたこと、そして俺に言わないでこう、それをやろうと、本人のほうが大変じゃん、俺はもう番組あたまから出ててさ、アイドリングも出来てるけどさ、本人緊張するでしょ、さすがにあそこから出てきて笑わせますみたいな感じ。まあそういうの含めてじゃない。あとは、その関係各位に。ご迷惑をかけた人たちにだよね。のありがとうございますだよね、それは」と語る。
 そして、小手の代わりに出てきた山崎を見た瞬間については、「何をやらされるんだろうなみたいな感じだったけど、瞬時に気付いたけどね、山崎出てきて、ここで漫才を一回やって、これから復活してくのかしら、俺たちは、みたいな。俺も半信半疑だからね。」と考えたという。
 この復活劇については、番組の構成作家が自分たちも知らなかったという旨のツイートをしていたように、人力舎の社長とマネージャー、番組スタッフの中でも数名、そして有田哲平しか知らなかったという証言も得ることが出来た。
 そして、『THE MANZAI』である。二時間ほど引っ張られはしたものの、こっちは10年近く待っていたわけなので、そんな時間はロスタイムみたいなものでなんともない。
 ネタは「神対応」。『全力!脱力タイムズ』のネタとは違って、どこまでも会話が噛み合わない柴田と山崎、でもやっぱり強くて面白くてスイングしていて歯車がガッチリ噛み合った漫才だった。
 復活して以降、ずっとアンタッチャブルのことを考えていたのだけれど、記憶の扉を一番こじあけてきたのは、この漫才に出てきた『M-1グランプリ2004』に優勝したときのアンタッチャブルが獲得した点数「673点」というワードが出てきた瞬間だった。この点数は、『シカゴマンゴ』でも散々こすられてきたもので、一気に他のラジオでのネタが脳の中で繋がっていった。「柴田谷繁」「磯山さやか」「いいじゃな~い」「まあまあまあ柴田さん!」「ピンクたけし!」「二回こく」「ネツリーグ!」「粋な噂をたてられた~」「腕折れてもうたやないか!」・・・・・・。
 10年待ったのだから我がままくらい言っても良いと思うが、『シカゴマンゴ』の最終回を聞いて、山崎のボケに柴田がこらえきれず倒れ込んで床を叩いてつっこむのを見た時が、本当の本当の意味での「おかえり、アンタッチャブル」を言うことにしたいと思う。その時に、また少し泣くだろう。
 これらの復活劇をテレビで見ているであろうあの人はきっとこうツッコミを入れたことだろう。「どんだけ待たされたんだよ。俺はあみんか!」

おかえり、アンタッチャブル

 

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 今よりまだ深夜ラジオを聞いている人が 少なかったであろう、10年ほど前に遡るが、間違いなく一番面白いラジオが『アンタッチャブルのシカゴマンゴ』だった時期は確かにあった。裏番組は、『ナインティンナインのオールナイトニッポン』という巨大な存在だったが、その番組に聴取率でのジャイアントキリングを起こしたこともあった。リスナーがパーソナリティと言っていたその番組は、アンタッチャブルトークはもちろんことこ、ネタメールも最高で、コーナーの最後のメールを山崎が読むと「ふざけんなよ、もう終わりかよ」とよくキレていた。そんな番組も、事情を知らされないまま柴田が休むことになり、しばらくは山崎一人でゲストを迎えながらも 放送を続けていたが、その年の春になる前に終了となってしまった。

 ちょうどその頃と前後して、山崎が売れ始めることとなる。

 しばらくして柴田は復帰するものの、きちんとした説明はおろか、一人で売れた山崎との差は埋まることも、アンタッチャブルが再稼働することすらも叶わなかった。

 柴田が本当のことを話すと言ってもそれは柴田側からの言葉で、山崎の口から柴田の名前を聞くこともなく、そうこうされているうちに、いつしか、山崎のことで笑わなくなっていた。

 先日、週刊誌のサイトで「アンタッチャブルが復活する」というニュースが流れてきた。この手のニュースに何度も騙されていたので、諦めと防衛反応から、どうせ飛ばしだろうと思うことにした。

ただ、このタイミングってことは逆に本当なのか、という引っ掛かりもあった。

 記事には、ビートたけしが二人の復活を望んでいるということも書いていて「今更、ビーたけが望むか?」などと訝しみ、ほんとうに気持ちとしては半々だった。

 今思えば、あまりリアルタイムで視聴することもしていなかった『全力!脱力タイムス』を見ていたのだから、51%はその記事を信じていたのかもしれない。

 そして、その期待は裏切られなかった。

 いつもの通り、コメンテーターとして座っている柴田を、有田を筆頭に番組サイドが翻弄する。

 柴田がこの番組に出場すると、山崎ではない芸人と漫才をすることが 恒例となっており、今回も、その流れになって、出てきたのは俳優の小手伸也だった。山崎の衣装のように白シャツに白いネクタイを纏った小手は意外にもきちんと山崎に似ていて、その地味な完成度の高さに笑いながらも、だよなあ、と復活を諦めた。

 しかし、小手は柴田との漫才の台本を覚えておらず、少しだけ漫才をするもどうにも歯切れが悪く、結局、スタジオからいなくなってしまう。それでも柴田は「一応最後までやりましょうよ」と言い、分かったと、有田が小手を連れてくる。違う、有田が連れてきたのは、山崎だった。

 直前の小手がスタジオからいなくなりそうな展開と、番組の予告で流れていた本当に驚いている柴田の映像がまだ本編で流れていないことで、まさかと思っていたけど、出てきたのは紛れもなく山崎で、アンタッチャブルが画面に揃ってしまった。

 10年近く止まっていた時計が動き出した瞬間だった。

 「ダメだって」とのたうちまわる柴田も、腹を括って、ジャケットを脱ぎ、マイクをセンターにセットする。

 漫才が始まる。

 ネタは何度も見た、ハンバーガーショップ。知っているくだりに加えて、アドリブもガンガンに入れられる。

 「アンタッチャブルの漫才の台本はペラ1の紙。」「袖で出番直前まで後輩芸人をいじったりシャドーボクシングしてるのに、舞台に出たら爆笑をかっさらう」

 そんな都市伝説が本当だと思うような、10年ぶりとは思えないような、グルーヴが今この瞬間からどんどん産みだされている。いや、柴田のコンマ1秒外している間さえも愛おしい。

 照れからなのか、短いところで漫才を終わろうとする柴田を止めて、続ける山崎。

 それらを見て、破顔一生するフィクサー有田哲平

 良くわからない時間だった。

 そして、さらっと番組はいつものように終わっていった。

 本当にアンタッチャブルは復活したのだ。アンタッチャブルを生で見たことないのだけれど、今この瞬間から、アンタッチャブルをまだ生で見たことないということになったのだ。

 アンタッチャブルが復活するなら、有田哲平の元で、と常々思っていたけれども、考えうる限り最大の復活劇だった。

 過去三回ほど、番組内でアンタッチャブルが復活するというようなことを話しておいて、別の人と漫才をさせるということがフリになっている。もっといえば、信憑性が低そうな週刊誌からのリークというところから有田の仕掛けは始まっていたのではないのかと深読みが出来る。その余地こそが、有田が大好きなプロレスそのものだろう。

 何より嬉しいのは、今の時点で復活をしても柴田に悲壮感がないということだった。

 柴田にも色々なことがあり、そのために世間的にはその評価が地に落ちるような状態にまでなってしまったことは否定できない。それでも、正式に復帰して以降、一つ一つの仕事で結果を視聴者に伝えていったことで、事実、山崎が出る前までも番組ではガンガンに笑いを取っていて、そしてその積み重ねが、山崎との復活することも問題ないと思わせる心境を作り上げ、純粋な「ありがとう」と思わせる結果となったことが何よりも、ファンとして嬉しかった。

 くだんの記事では、ネタ番組にも 出ることが調整されていると書かれている、こちらも本当であれば、伝家の宝刀「柴田の床叩きツッコミ」がどこかでまた見られるのかもしれないのだ。いや、シカマンの真の最終回もだし、「とらじおと」に出て伊集院光トークしないとだし、あと、太田光に「柴田、出所したのか」といじられないといけない。

 それらを見れたときこそ、本当に「おかえり、アンタッチャブル」と思い、そして少し泣くだろう。

空気階段第三回単独ライブ「baby」感想

 とあるライブで、空気階段の水川かたまりが好きなコントのひとつに、かもめんたるの「敬虔な経験」をあげ、衝撃を受けすぎて見返せていないほどだと言っていたという情報を目にした。
 「敬虔な経験」とは、かもめんたるが『キングオブコント2013』で優勝する直前の夏に開かれた単独ライブ『メマトイとユスリカ』のラストを飾るネタで、そのオチは、コントではなかなか味わえないような壮大なものとなっているのだが、これを単体で見ても、かたまりが何故そこまで衝撃を受けたのかということは分からない。というのも、『メマトイとユスリカ』で披露されたネタは、ひとつひとつがつながっており、帰結する先がこのコントであるため、単独ライブ全体を通してからでないとその凄さが分からない仕組みとなっているからだ。
 「最後につながる」という甘美な響きを持つその言葉は芸人の単独ライブを評する言葉として稀に出てくるが、それらの多くは、実は、最後のネタでそれまでに出てきた事柄を出してくるだけというような、小ネタや余技的な側面が強く、本質的な意味でつながっているとは言い難いところがある。かといって、あまりに緻密なパズルのように組み立てられてしまうと、それもまた技術のひけらかしとなっていやらしくなるばかりか、登場人物がそのストーリーのために動いているように見えてしまうためにリアリティが損なわれてしまうから、その塩梅はとても難しい。
 しかし、『メマトイとユスリカ』は、連作小説のように、一つのコントで登場人物の自然な言動が原因となって、また別のコントで結果として登場するというような因果関係を成立させていることで、ネタのそれぞれが有機的に接続し、文学性を帯びる域にまで到達している。
 もちろん、その年に実際に優勝する『キングオブコント』でかけられた「言葉売り」がネタのひとつにあるように、笑いの質の高さを保ったままにこのことを成し遂げているから凄いのである。
 オープニングコントから、ラストコントの『敬虔な経験』までを突き進むことによって得られる物語としての強度は、『スローターハウス5』や『タイタンの妖女』といったカート・ヴォネガットSF小説を想起せずにはいられない*1ほどのものとなっている。
 この単独ライブが、それほどまでの高みに到達しているのは、岩崎う大と槙尾ユウスケ二人のコント師としての力量が、岩崎の作家性*2を担保し、日本のコントでは珍しいほどに陰湿な空気をまとわせる*3ことに成功させているからこそであって、『メマトイとユスリカ』の完成度に比肩することは容易ではない。
 そう、思っていた。
 先日見てきた空気階段の第3回単独ライブ『baby』は、もともとは2019年の5月6日に一回だけの公演として開催されたものであったが、内容が好評だったことで同年10月14日に再演されることが決定、その再演のほうを見てきました。単独ライブを再演するということ自体がほとんど聞いたことのないほどに珍しいことなのでそれほどに完成度が高いのだろうということは予想出来たが、まさしく最高な単独ライブ*4だった。
 オープニングコントの舞台は分娩室。上手に立っている水川かたまり演じる男が出産に立ち会っているシーンから始まる。そして、下手に照明が当たって表れたのは、薄いピンク色の全身タイツに身を包んで胎児に扮した鈴木もぐら。
 出産に立ち会っている男のあたふたとした様子と、子宮からの出方が分からないけれどもどこか緊張感のない胎児との対照的な様子を描いたコントは、真ん中に置かれた子宮をモチーフにしたスリットから胎児が出てきて、男が女の子のお父さんになることで終わる。そこで一度暗転し、舞台上のスクリーンに映し出されたオープニング映像は、赤ちゃんの両手が画面の下側にあるそのカメラの視点は、赤ちゃんが部屋の中をハイハイしているよう様子を思わせるように移動する。その家の中で、かたまりは植物に水をやり、もぐらはベッドで寝ているというそれぞれの生活をしているところで、名前が画面にクレジットされるというそれは『夢で逢えたら』のOP映像を彷彿とさせる「日常」っぽいとても最高なもので、本格的に、「単独が始まったぞ!」とより高ぶる。
 単独ライブといえば、ネタとネタをつなぐ幕間映像もお楽しみの一つだが、それらは、コントに関係するものでも、関係ない独立したコーナーや企画の映像でも、それ自体がきちんと面白いものになっていれば嬉しいものだ。しかし、空気階段の単独ライブ『baby』には、そんな幕間映像がなかった。
 では空気階段の二人が舞台上からはけて着替えている間や、セットチェンジの時間はどうやって間を持たせていたのかと、もぐらの仮面を着けた人たちが黒子となって、終わったコントの小道具で遊ぶというくすくすと笑える寸劇をしながら、舞台を片付けていたのである。
 初単独ライブ『mosaique』からやっているこの演出は、世界観を全く壊すことのないままに、観客を楽しませるもので、爆笑問題が所属する事務所であるタイタンの事務所ライブ「タイタンライブ」での、ネタの前にこれから出てくる芸人のイメージにそった小説の一節をスクリーンに映すエピグラフに匹敵するほどの発明ともいえる。
 二本目のコント「みどり屋」は、駄菓子屋のベンチに座り、駄菓子を買いに来た子供と駄菓子屋のおじさんの「代金は30万円ね」「はい、おつりの70万円」といった昔なつかしいやり取りを見ている男。遠藤というその男は、西武ライオンズに入団するも一軍のマウンドに立つことがないまま、肘を壊して引退してしまった元プロ野球選手であり、何もすることのない今、地元に帰ってきているのであった。遠藤が子供の頃から通っていたこのみどり屋もそろそろ店じまいをするという。遠藤は、駄菓子屋のおじさんに、店をつがせてくれよとお願いし、おじさんは了承する。
 夢に破れた若者の新たなスタートを描いたいい話かと思いきや、店主は契約書を出してサインをさせたり、遠藤がこれまでのように気軽に話しかけると、「口のきき方に気をつけろよ」と低いトーンで返したりと、明らかにさっきまでとは様子が変わっている。そんな店主から、驚きの駄菓子屋にまつわる真実が明かされる。
 全国にある駄菓子屋は、1962年に開催されることが決まった東京オリンピックで日本の選手を活躍させるために、子供の頃から運動能力を飛躍させるための薬を駄菓子に塗って摂取させるための国の機関であったという、ブラックな展開になっていく。
 戸惑いを隠せない遠藤に淡々と引き継ぎをしているおじさんのところに、たまたま厚生労働省から電話がかかってくる。ぺこぺことした対応で厚生省の役人と話しているおじさんの受話器を奪い、遠藤は、こんな子供達にドーピングをさせていることは許せない、このことを世間にばらしてやると受話器に向かって叫び、電話を切る。おじさんは驚き焦りながらも、子供の頃から見てきた遠藤のことを思ってか、今すぐにでも逃げるようにうながす。結局遠藤は、駄菓子屋を飛びだしていく。そして遠藤が遠くに言ったのを見計らって、厚生省に電話をかけたおじさんは、遠藤の行く先を伝えるという、ぞわっとするオチになっていた。
 「特急うみかぜ 東京行19:55発」は、ミュージシャンになるために高校卒業と同時に上京するアキラという男と、そのことを知らされていなかったので怒っている同級生の女性の今井さんとの駅のホームで繰り広げられる淡い恋物語を、今井さんに一目ぼれしてしまった駅員が、執拗にかつリズミカルに二人の恋の始まる瞬間を邪魔するという軽快なコントだ。このコントでの、男が今井さんに告白するシーンは、『空気階段の踊り場』リスナーなら、かたまり演じる男が女性に向かって告白する姿からは「かたまり号泣プロポーズ事件」を連想しただろう。
 常識の埒外にいる存在を演じることに説得力があり巧みなのがもぐらなら、かたまりは常軌を逸する存在を演らせたら上手くて味があってたまらないのだが、その良さを存分に味わえるのが続く「14才」だ。
 いつもテストで満点を取るような優等生のかたまり演じる中学生男子が、怒った様子で、職員室に入ってきて、なんでこの解答がバツなのかと教師を問い詰める。教師がとあるコンクールで見かけた詩に感銘を受けて作った問題で、中学生男子は不正回となってしまったのだが、実はこの詩の作者は自分であり、表現者になれていないから国語教師になった凡人が勝手に解釈してあまつさえ作者の自分の答えを不正解にすることは、この詩に対しての愚弄であるということで怒っているわけである。
 国語教師が感動するほどに綺麗な詩が、実は勃起を表現していたというような純然たる下ネタを連発するコントだった。かたまりは相変わらず、下ネタのブレーキがぶっ壊れている。
 「みえーる君・改β」は、宅急便の配達員が荷物の届け先のチャイム音を何度鳴らしても家主が出てこない。おそるおそるドアを開けて中を確かめてみると、家主らしき男が鉄球を回転させている機械の前で、家主が叫んでは気絶を繰り返している。そして舞台上のスクリーンには、誰かが万馬券を当てた瞬間の映像が映し出される。
 家主に話を聞くと、この機械は、自分が開発したもので、回転している機械に頭を近付けたら、一歩間違えると死んでしまうのでどうしても死を意識してしまう、そんな恐怖から、走馬灯を見ることができるものだという。「なんでそんなものを作ったのか」「生きてても楽しくねえからだよ」というやり取りは地味だがたまらない。
 コントのシステムが明かされてからは、大喜利的に笑いを積み重ねていく。最初は万馬券を当てたときのような当たりの走馬灯を見ることが出来ていたものの、一輪車に乗った男が転んだ姿や、万馬券を当てた時の走馬灯とスタートは同じでもうんこを漏らしてしまった時のものだったなどの外れの走馬灯ばかり見てしまう。当たりを引こうと何度も機械の前に頭を近付けるも、やたらと一輪車のおじさんのあらゆる場面を見てしまう始末。オチは、機械を使った配達員の走馬灯にも、一輪車のおじさんが出てきたというもの。
 「関健〜夏祭乱舞編〜」は、『mosaique』から登場しているキャラクター関健(せき けん)のコントだ。かたまり演じる夏祭りで友達とはぐれてしまった男の子が、現代社会のことをあまり知らないソルジャーの関と出会ってから育まれた友情と騒動を描いたハートフルなコントだ。
 「ハッピー」は、もぐらのモノマネのレパートリーのひとつである渡辺篤史が出てくるコント。もぐらが演じる渡辺篤史は『建もの探訪』で立派な建物を見続ける中で感覚が麻痺してきてしまったので、フラットな気持ちに戻すために、夜な夜なカメラを回さず完全プライベートでボロい家に忍び込んでは『建もの探訪』をしているという設定だ。
 空気階段は、もぐらが渡辺篤史のモノマネが出来ることを良いことに、渡辺篤史をひどいキャラクターに仕立て上げるコントを作り続けているので、いつか裁判になった時は、面白いので許してくださいということで情状酌量を訴えるために証人台に立とうと思います。その時は、みーちゃんステッカーをください。
 ラストのコント「baby」は、海でタバコを吸いながらぼーっとしている青年が、落ちている貝殻を拾って耳に当てては、「クズか」とがっかりして投げ捨てたり、喜んでは拾っているおじさんに出会うところから始まる。
 おじさんと目が合い、タバコをせがまれるも、青年は、「きらしてて」と断る。そんな話の流れから、青年は、おじさんに、さっきから何をしているのかと尋ねると、ここの浜辺に打ち上がる貝殻の中には、声を録音する性質のものがあり、それを集めているという。そう言われて、青年が貝殻を耳に当てると確かに、様々な音声が聞こえてくる。じゃあ、何で集めているのかとまた尋ねてみると、これは厚労省管轄の公務で、クズだと捨てていた貝は会話が中途半端に途切れているもの、最後まで会話が収まっているものだけが厚労省に引き取ってもらうんだ、厚労省の仕事をしているから、俺は公務員だな、と話す。
 そんなやり取りや、本当は持っていたタバコを渡したりしたことで、青年はおじさんに気を許したのか、自分が浜辺に来ている理由を打ち明ける。これから妻が出産を控えていて、人の親になる予定なのだけれど、両親ともに子供の頃に亡くなっているので、親から受けた愛情というものがわからない、そんな自分がこれから先産まれてくる子供の親をやれるのか、愛を与えることが出来るのか自信がないので、昔からよく来ていたここで色々と考えていたのだ、とそう話す。そんな青年を励ますために、おじさんは、笑えるやりとりが録音されているというお気に入りの貝を貸す。
 青年が渡された貝を耳に当ててみると、そこから流れてきた音声は、夫婦が浜辺で赤ちゃんに話しかけているところに、一輪車を持ったおじさんがやってきて、その秋田犬の赤ちゃんだと間違われるというものだった。それは、青年が配達員の仕事をしている時に、走馬灯が見える機械で見た、記憶に残っていなかった体験としてみた走馬灯の映像と同じものだった。
「今日のお昼はステーキ食べようか」
「まだ歯が生えてないから食べられないよ」
 青年は、そんな他愛もないやりとりだけではなく、「どんな子になるんだろうね」といった自分の未来に希望を抱いてくれていることが分かる両親からのいくつかの言葉を、20年以上の時を経て自分も親になるというその前に、貝殻を通して初めて耳にすることで、親にまつわる記憶が全く無い自分も、赤ちゃんのころに親からの愛を一身に受けていたことを知る。
 おじさんは青年が遠くに投げたタバコを取りに行ったので、舞台上には体育座りをして貝殻を耳にあてている青年だけ。青年が貝殻を耳にあてたところから照明は暗くなり、舞台の真ん中でひとり貝に耳を当てている青年を演じるかたまり。 

 観客は、このラストコントの途中から、コントの中に散りばめられた情報で、貝を拾っているおじさんが西武ライオンズに入団するも二軍のまま肘を壊して引退してしまった遠藤であり、浜辺でタバコを吸っていた青年がアキラであるということに気付き始める。そして見終わることで、これまでに見てきた全てのコントがひとつの物語となる。
 海辺で妻の出産を控えて物思いにふけっていたアキラという名の青年は、赤ちゃんのころに両親と一緒に来ていた海で関健と初めて出会う。その後に両親を事故で亡くしてしまったために児童養護施設で生活をするようになった小学生のときに友達と行った夏祭りで、関健と再会を果たす。高校を卒業すると同時にミュージシャンになるために上京するその日に、駅のホームで告白した同級生の今井さんと付き合うこととなって、一緒に東京に出る。東京で夢を追いながら配達員のバイトをするも夢に破れて地元に戻ってくる。そして、今井さんに浜辺でプロポーズをして結婚。そして、女の子の父親になる。
 かもめんたるの『メマトイとユスリカ』は、最終的には、一匹の犬が、宇宙人に翻弄される数奇な運命を辿る物語であることが分かる。
飼い主と楽しく平和に暮らしていた一匹の犬が、散歩の途中で宇宙人にさらわれ、人間の形に改造され、タイムトラベラーにさらわれて三十年前に飛ばされ、飼い犬だったころの記憶にもとづく癖を残しながらも、一人の男の子を小説家に、一人の女性を億万長者にさせながら、最終的には一本の木になる。
そして、喋ることが出来なくなってしまう最後の最後に、「誰のことも恨んでいないのか」と尋ねられるも「俺は誰にも経験できないことを経験したんだ」と、自らの運命に起きた全てを受け入れる。
 水川かたまりが、『キングオブコント2019』でかけた「タクシー」のように緻密な構造を持つコントを書けることは知らないわけではなかったが、自身の「ラジオでの号泣プロポーズ事件」と、もぐらが結婚し子供が産まれたという、空気階段における二大事件をコントというフォーマットにきちんと落とし込み、ひとりの男性の人生を組み立てたその作家としての手腕は見事というほかない。
 好きなコントの条件の一つに、ある人たちの人生の一瞬を切り取ったらコントになったと言うものがある。フィクションの中の登場人物たちにもそれぞれの人生があり、必ずしも作者のために彼ら彼女らの生活があるわけではないという、やや潔癖症めいたコント感であるということを自覚はしているものの、それでもそんなコントを贔屓せずにはいられない。
 「baby」で演じられた8本のコントは、まさに、アキラと遠藤の人生の一部を切り取ったらコントになったという、一番好きなやつでした。

*1:一度、ライブの後にう大さんと話せる機会があり、勇気を出してこのことについて聞いてみたところ、『タイタンの妖女』を読んだくらいでそこまでの影響下にはないような話をしてくれた。う大さんの書くものについては、運命のメタファーのような人知を超えたものの存在がよく出てくるがそれは壮大な感じが出るからということらしい。

*2:う大さんが面白いネタを書けるというだけでなく、90分から120分という演劇を何本も書いて成立させているという長距離の筋肉もあることからもそれは分かる。それはアルコ&ピースの平子にコントカルト教の長と言われるゆえんでもある。ちなみに、コントカルト教の他のメンバーには日本エレキテル連合などがいると思われる。

*3:日本人はいじめなどが大好きで陰湿なはずなのに、陰湿な笑いのまま天下を取ったのコント55号まで遡るんじゃないかという仮説。そのフォロワーが初期の爆笑問題の「進路指導」などのコントで、そこから完全に途絶えていたところに、かもめんたるが登場したのではないか。かもめんたるの「冗談どんぶり」や「蛇」などは陰湿そのものである。

*4:演目は、オープニングコント、みどり屋、特急うみかぜ 東京行19:55発、14歳、みえーる君・改β、関健~夏祭乱舞編~、ハッピー、baby。初演とはやや順番の変更があったようだ。

「差別をネタにする」で思ったこと

ラリー遠田が書いた記事が削除された。東京ポッド許可局で放送されたサンキュータツオが漫才を書き起こしてボケの数を数えて、ボケの数(手数)はどんどん増えているという手数論を、サイゾーのコラムで剽窃かましラリー遠田の記事が削除された*1。初回のキングオブコントを見終わった後に、「イッテQを見れば良かった」とツイートしていたラリー遠田の書いた記事が削除された。

最近の彼はといえば、他人から考えをぱくりすぎて、逆に無個性な文になって、その文章の情報量といえば、まとめサイト以上ウィキペディア未満にまでなっていたので、削除された文章は読む意味のないものだったので、もともと無くていいものがなくなったという意味においては取り立てて騒ぐことではないのだけれど、今回の騒動では、東大出身の彼にはお笑いを論じる能力はデビュー当時からないことは広まっていたが、一般教養も論理力ということが知れ渡ってしまった。

その記事は、Aマッソと金属バットというお笑いコンビのネタが、差別発言をしたという騒動を受けて、それは芸人差別にもなりうる的な内容であった。一読しただけなので詳細はもう覚えていないが、やばり大した文章ではなかった。

Aマッソはフリーライブイベントで、金属バットはライブで披露したネタの中に、黒人差別と捉えられるくだりがあったということがそもそもの発端でそこはもう散々出てきているので省略するが、個人的な感情として、Aマッソと金属バットについては、今回のネタどうこうよりもともと、好きなタイプの漫才ではなくむしろほとんど笑ったことがなかったりする。それは、ネタで面白いことを言おうとしすぎていることだったり、語尾を飲んだしゃべりなのでキレが悪く間もだるだるで漫才が下手なので聞いていられないとなってしまうからで、特に金属バットに関しては、Mー1グランプリの準決勝でみちょぱかましていたり、生放送でちんちんと言っているのを見て、なんかそこまで芸人ズ芸人としての役割を果たそうとしているのを見ると、やってるなあーと思って、恥ずかしくなってしまう。小さいことは気にするなのゆってぃがマンブルゴッチ時代に「笑わせるか笑うかそれはお前たちじゃない、俺たちが決めるんだ!」と言っていた映像をみせられたときの恥ずかしさに近い。

金属バットは、ゆってぃである。

Aマッソに関してはネタを見ていないので、くだりしか分からないため、俎上に上げられないが、金属バットのネタへの評も差別ということを切り口にした場合、そこまで純度やクオリティ、目指しているものが高いとはいえず、「差別反対と言う人が実は差別していた」という構図を取っているそのネタは、むしろ差別をネタにするときに一番最初に思いつくオチではないのだろうか。そもそもすでに、「私は差別と黒人が嫌いだ」という有名なジョークが古典としてある以上、やはりあの漫才がレベルが高いものであるという評価もつけ難いというのが率直な感想である。

彼ら彼女らが、意識的にせよ無意識的にせよ、日本にもタブーとされる被差別の歴史がある以上、黒人だけを差別の代表格としてネタにするということは、日本人として白人のように人権を剥奪したという歴史を持たないというだけの安全な位置から、差別を扱っている風を装っているとしか思えない。これまでの数多の繰り返される論争でそうなってしまった。

日本人がやる、差別をネタにしていますというネタは基本的にその対象は黒人であり、その題材がユダヤ人をはじめとした他の被差別者となっているのは見たことがない。後者は伝わらないからいう意見も出てきそうだけれど、だったら黒人差別は伝わりすぎて批判されるのであれば同じようにコスパは悪く、ネタにするべきではない。

それは差別をネタにしてる自分たちは危険であるという演出程度のものでしかない。

きっと、すべての差別ネタはどんどんコスパが悪くなっていく。そのことに意識的でなければ一生売れないのだろう。

とはいえ、芸人がやるネタに貴賎も何もない、どんなことも藝柄(にん)に合致していればこっちが勝手に笑うというスタンスである以上、そのようなネタがあること自体は否定も肯定もしない。むしろ、もともとのその記事を書いた人の無思想な正義のほうが怖く、そっちのほうを否定したいというのもまた事実である。

記事を書いてる人のプロフィールを見てみると、BuzzFeed JAPAN internと書いていて、internってもしかしてインターン生のことなのかとなった。バイトじゃねえか。インターンをinternっていうやつは、デリヘルでのチェンジをchangeと言うに決まっているんだけれども、彼は、この差別を拡声させている側にも片足を突っ込んでいるという意識は微塵もないのだろうかと思うと、ぞっとしまう。

宇野維正もそんな漫才をガワだけ見て、「日本のお笑い死ぬよ」的なことを言っていた宇野維正は、そういえば、タクシーの運転手に「小沢健二分かんないと思いますけど」と露骨な差別意識を持っていたでおなじみで、そんな宇野維正も、外タレの歌手のライブに女性が少なかったことで「東京の女子どうした?」と言って、それが叩かれたときには謝りはしたものの、タクシーの運転手には謝罪していないのは、その違いってタクシーの運転手とはセックスしないかじゃないかと思いつつ、そもそも日本のお笑いなんて、コウメ太夫を面白がってる時点で、50回くらい死んでるということを何も分かっていない。

『笑ってはいけない』でダウンタウンの浜田がエディーマーフィーに扮したことに、批判が出た際には、さすがに、それはやりすぎだろうと思ったのだけれども、繰り返すが、最近は考えを改めるようになった。その件に関してはいやそれは許してよとは思ってはいるものの、やはりダメなんだろう。

よくよく考えると、日本人は黒人が受けた差別を知っているというけれども、その実の大半はアパルトヘイトのことを教科書で読んだ程度でそれ以上のことは知らない。

かくいう自分も別に黒人差別に対して詳しいわけではないのだがそれでも考えが変わっていったのは、町山智浩の『最も危険なアメリカ映画』を読んだからだ。

町山はツイッターに魂吸われて終わっている人ではあるのだけれど、この本はまさに映画評論家町山智浩でしか書けない氏の作品の中でも一番面白いと言っても過言ではない。そこには黒人の差別の歴史が端的にかつ悲惨なほどに紹介されている。

クエンティン・タランティーノ監督作品に『ジャンゴ〜繋がれざる者〜』という黒人と差別をテーマにした映画がある

その中で、ディカプリオが演じている黒人を奴隷として所有している白人は、たしか、「ハリウッド史上、最大の悪役」というようなキャッチコピーがついていたと記憶している。確かに、この役は、黒人が白人に劣るということを科学的にかつ論理的に語るシーンがあり、現代の尺度でいえば、とても悪いキャラである。しかし、公開当時にそのキャッチコピーを見た当初は、現在も残っている差別を無視してかつ当時の判断基準を言っているこの男をハリウッド史上最大の悪役と断じるには、加害者側からの偽善でありとても傲慢なものであると思っていた。

しかし彼は、Aマッソや金属バットのようなネタに対して、様々な角度から擁護をしようとしている人たちだったのだ。いい加減、嫌な人がいるのであればやめるに越したことはないと日本人も学ぶべき、察するべき時が来たのだろう。

差別の話題が出ると、じゃああれは良いのか!ということを言いだす人がいるのだが、それは勉強しない理由でしかない。そんなのは、あれがダメだ、じゃあそっちのそれもダメだと言い合う、うちの夫婦喧嘩みたいに泥沼になってしまう。だから、差別の話題が出た時に、そういうロジックを持ち出して言ってくる人は、頭良いのではないということをマッチングアプリのレビューに日々書いては削除されている。やはり、白人がしてきたことはしていないという留保はきちんと主張しつつも、ほぼあらゆる文脈で黒人が受けてきた差別や、嫌がるとされていることをすべきではないな、と思うようになっている。

何より、スカートの澤部さんが京都のαステーションというラジオ局でやっていて、その番組はとてもいい音楽ばっかりを澤部さんがかけてくれて、深夜ラジオ聞くの疲れたときに聞くラジオとして、本当に音楽が好きなんだと思わせてくれる。しかもまれに、お笑いの話をして、マセキの赤もみじという漫才師が素晴らしいというようなお笑いの話もてくれたりするとても良い番組で、藤岡みなみのおささらナイトと合わせて、日常を彩る音楽を楽しめる番組なのだけれど、そんなラジオに思い出野郎Aチームがきてて、彼らが主催のフリーライブにAマッソがくることを話しててハナコを差し置いて、澤部さんが羨ましがっていたんだけど、それを考えると切なくなる。

差別というのはそういう感情から切り崩していくしかない。

*1:ラリー遠田が東京ポッド許可局の「手数論」を剽窃したという事実を、疑問視するツイートを見たので補足。たしか、キングコングの西野かどちらかも同じようなことを言っていて、頭悪いなあと思って絶句したのだけれど、「手数論」は、ただ漫才のボケ数が多くなっているという話をしたこと、そしてそれがオリジナルだから凄いということではないということをわかっていない。あの当時、ボケ数が増えているというお笑いを見ている人であればうすうす感じ始めていたことを、サンキュータツオがきちんと漫才を書き起こして、データ化し、それを元に、インタレスティングという意味のおもしろとして番組内で語ったことで、ボケの数を「手数」という芸人の符丁のような用語で表現したことで真似して言いたくなる感じを出しつつ、その概念の紹介と説明をすることで、新たなお笑い批評の道を切り拓いたことこそが、すごいのであって、ボケ数が増えているということを指摘したことだけがすごいと言っているのではない。そこまで到達していたのは少なくとも東京ポッド許可局が初であり、「みんな何となく言っていたのだから、彼らがオリジナルを主張するのに違和感がある」というのは、コロンブスの卵の話を知らない、エンタメに敬意を持っていない人の詭弁でしかない。ラリー遠田の最低なところは、そういった労力を割かずに、サンキュータツオが数えたボケ数を盗み、全体的に自分で発見したかのように発表したことである。ちなみに、キングコングyoutubeで、同じく東京ポッド許可局発の10分どん兵衛が話題になったころ、10秒どん兵衞という動画をアップするというやり方で普通にパクっていて、あんなことを言っておいて、ようけそんなことできるなと思ったものである。