『佐々木敦著・「批評」とは何か?』を読んだ。

昨年11月に東京ポッド許可局で「お笑い批評」について語られていて、そのさいに話題になったのは、盗作の件のほうがアナウンスされていて、僕自身盛り上がったのだけれど、「批評の作法」について話していた後編もかなり面白かった。
「映画監督に対して、文芸評論家に対して、じゃあお前が書いてみろよ」とはならないけれど、昔はそういうことが言われる時代もあったと。
でも、それが言われなくなったということ、つまり「創作すること」と「批評すること」が分離されているジャンルは成熟しているということになる。ただ、批評的なスタンスで創作する人(逆もまた然り)もいるように、境界が曖昧な部分もあるとは思う。
ただ、「お笑い」に関しては(もともとの性質もあるんだけど)、「語ることは野暮」という風潮もまだあったりする。
この事件は「お笑い批評」ってことに対してちゃんと意識する、いわば「お笑い批評」の黎明期に突入できた良いきっかけだとも思っている。



なーーーーーーーーーーーーんて、だらだらと考えていたんですけど、批評ってことにたいして、やり方や礼儀作法みたいなものが分からないので、どうしようもなかったんです。
でも、昔買ったままにしていた、批評についての本があるのを思い出したので、色々と考えながら読み終わりました。
それは佐々木敦という批評家が書いた『「批評」とは何か?』本で、これは佐々木さんが、実体験に基づいた、「批評」の仕方を体系化したものなんですけれど、これが結構面白かった。
平たくいえば、書き方講座なんで、語り口調で書かれているので比較的読みやすいです。
で、やっぱり「お笑い」について批評するってことの壁とかがぼんやりと出てきたりしんたんですね。
批評する(語ることでも良いんだけど)、言語化されたものをいったん読んで意識してやることと、無意識でやる(実際、僕がやったりするやり方が言語化されて、そのことに意識的になれたという箇所もあった)のとでは、何かしらの差異があるかと思うので、気になった箇所を引用して、コメントを書いていこうかなと思います。


■批評する人は何かを与えられた時に、「それってこういうことだな」とか、「これとこれとこれからこういうことがわかるね」とか、あるいは僕なんかは「誰が見てもこうだね」とか思うんだけど、批評する者も人間である以上、ある種の普遍的な真理というか原理を証し立てているつもりであっても、実はそれは同時に、あるいはそれ以上に、私的な自分の問題なのかもしれないということが常にあるわけです。
何かに囚われている人間は何を与えられても同じ何かを見出す。
批評家の営為をこっちが批評する側になってみると、それが非常によく見えてくることがあります。
(略)むしろ何を与えられても同じものを見出すというのが批評家の個性なのかもしれません。それはつまらないことのような気もするし、避けがたいことでもあるような気もします。対象によって惹き起こされたことを書いているつもりでも、結局時運を表現しているような部分があるだろうし、おそらくそれは両方ですよね。


小説や漫画、映画で、同じ作者を追っかけていると、一貫して同じことを言っているなとか、主張は変わっても考え方はあんまり変わってないなとかそういうことを思うことってあるんですけど、それは評論にも当てはまるようですね。評論は客観性が求められると思われがちなんだけれど、創作する以上は多分にワタクシ性みたいなものが出てしまうし、出してもいいっていうのは、割と楽な気持ちになるんじゃないかと。

「何かに囚われている人間は何を与えられても同じ何かを見出す」とかは、どんな作品を見ても、父権がどーのだとか、ジェンダーがどうのみたいな紋切り型の批判しか出来ないのは問題なんで、バランス感覚が大事なのは言わずもがなですが。


■案外批評文ていうのは、批評文に限らずそうですが、必ずしも厳密にロジカルではないと思うんですよ。
どっかで飛躍してたりしてても気づかなかったりします。それはそんなに大きな問題ではない。それは腑に落ちるかもしれないけれど、批評ってのいうのは腑に落ちればいいわけじゃなくて、ある意味では間違ったことが書いてあっても面白い批評っていうのはあると思うんですね。誤読の良さみたいなものもあったりするから。



これはすごくよく分かる。
抽象的なんだけど「強度の問題」で、、僕が面白いことが好きだってこともあるんだろうけど、正不正かよりは、強弱で判断する。
先述した東京ポッドや、ダイノジ大谷さんとかも強い。
ダイノジ大谷さんは「批評的」であることにかなり意識的かつ自覚的で、たびたび「SMAP仲居最強論」とか「大場つぐみガモウひろしではない」みたいなことを言っていて、お笑いらしく、エンタメ寄りなんだけど、その論っていうのはかなり「強い」。
絶対そうじゃないよって笑いながらいっちゃうんだけど、聞きたくなるのが強度なんだなと。



■ジャンルを「横断」するのではなく、ジャンルを貫通する問題系みたいなものが、あるように思えるときがある。あるとしたらそれは何なんだろう、と。
これは、答えは正確にはでないんだよね。批評ってやっぱり、一方ではフィクションなので、「俺だからそう思った」ということにすぎない部分もあるわけです。それをある程度理論武装しながら書いたら客観的に見えてしまうこともあるし、それはどっちかわからない。でも方向としては、証明したい理念がまずあって、その理念のために個々の作品が必要とされていて、そのために何か探してくる、という流れではないんです。むしろ実体験、鑑賞体験ってものが先にあって、「あれあれあれ、何か繋がってくるな」っていうことで、通底しているようなきがしているということですね。

本文のなかで、映画や漫画、小説を読んだとき、作者が全部違うし、その作者全員が同時代ではないだとか、同じ国じゃないとかで関係性がないみたいなときでも、何かリンクしているような気がすることってないですか?と問いかけているんだけど、僕はものすごくそういうことが多い。
たとえば映画の登場人物を語るときに、あの漫画の登場人物に似ているとかを凄く言いたくなってしまう。

最近読んだ本でいえば、ダヴィンチで連載されている呉智英の「マンガ狂につける薬」なんかは、「本」と「マンガ」の共通項を見つけてそれについて論じるというものがあるんだけど、それはまさにジャンルを貫通させている評論だなーと。



宇多丸がウィークエンドシャッフルでやっている「シネマハスラー」なんかは、ジャンル原理主義とまではいかないけれども、映画からの参照が多いように感じる。



もちろん、どっちが良い悪いという問題ではない。

社会学系の人が、サブカル的なものを対象として扱うことがよくありますよね。だけど、自分が会得した理論的な解読方針で何でも斬れるっていうことは、あくまでも「対象の方からこっちに向かってくるんだ」っていう考え方がないと、批評の暴力になっちゃうと思うんですよ。理論的な暴力っていう。そういうものをアカデミックなサブカル批評みたいなものには、僕は強く感じて、醜悪だなあと思ってしまうことがあります。そういう風にはならないように気をつけなきゃいけないな、と。

もっと言うと、「やろうと思ったら出来る」っていうのとも違うんです。つまり、貫通したいと思ってるわけじゃなくて、いつのまにか貫通が見つかった、みたいな感じなんですよ。で、それが起こるためには、やっぱり量的な体験が必要だと思います。

■それ(批評を一個のフィクションに近いような作品として提示)をするために使った道具がレトリックと構造だといいましたが、もう一つは引用です。たとえばある一つの作品を論じる際に、その作品のもとになっているものや影響を受けているもの、その作家が言及しているものや、その作家の過去の作品といったものは当然出てくるし、使うのは当たり前ですよね。でも、そうじゃないところから批評的な言説を成立させるためのネタを持ってくることを、僕はかなり意識的にやっていたと思います。

(略)映画を論じるための参照形として映画しか選んじゃいけないってことはないと思う。同じことをやっているものは、映画だけじゃなくて小説にも音楽にもあるかもしれない。

それは、意図して探してくるというのではなくて、受け手・読者として色んな体験をしている中で、思い当たっちゃう。あれ?これとこれとこれって繋がっちゃうんじゃないの?と。それはもしかしたら錯覚かもしれない。本当の意味で繋がっているのか、それともつなげているのかは、実はよくわからないわけです。むしろ書きあがった時に、第三者から見て「繋がっているとしか思えない」ということ、繋がっていなかったものが繋がっていたかのように見えることが重要なんです。それはやっぱり批評の力だと思う。

佐々木さんは、ジャンルを貫通するやり方のほうが好きだといっているんだけど、やっぱりそれには「量」が必要だと言っている。

僕は、広く浅くといったタイプなので、貫通するやり方のほうが適しているし、そっちのほうが批評に厚みが出ているような気がするので好きです。
好きってだけで、ちょっと自分がやるときは自信がなかったんですけど、ここらへんの文で、すごく自信が持てました。正当性の付与というか。


■批評という営みには戦略が必要で、いいこと言ってるとか新しいこと言ってるとかいうことではなく、要はスタイルだと思っている部分が僕にはかなりあります。方法論だけじゃ駄目だし、大抵のことは誰かが既にやっていたりするので、もちろん中身も重要ではあるんですが、スタイルはあって欲しい。真面目に正論を親切に書いてあるだけのものなんて、読みたくないっていうか、意味がない。いや、大学の論文とかだったらそれでもいいよ。でも批評っていうものは、やっぱり読者に対してある働きかけをするものだから、自分が正しい主張をしているという自信があればこそ、別の次元での戦略、僕は「ケレン味」って言ってるんだけど、やっぱりケレン味があってほしいと思います。

スタイルっていうと、文体だったり、思考のパターンだったりするんだろうけど、その確立ってのはやっぱり大事だし、武器になる。それを手に入れるにはどうすれば良いかって言うと、やっぱりインプットの量的体験だけじゃなくて、アウトプットの量的体験も重ねないといけないんだろうなと。

■たとえば意識的な「未満」でもアリだと思います。僕は読むのが好きだから、色んな深読みをさせて欲しい。何かを教えて欲しいわけじゃないんです。それは自分で学べばいいのであって、もっと違う何かがあるはずなんです。批評がエンターテインメントでもあるっていうことはそういう意味であって、読み手に対して何かを仕掛けてるわけです。単純に「すげえ」って思うようなことだけじゃなくて、それはある種不快なことかもしれない。読み手が「なるほどね、ぷはー」とか煙草吸って終わりみたいな感じよりは、処理し切れない何かが後に残るような影響を与えたいじゃないですか、ものを書く以上は。自分の批評を読むことによって、私なら私という主体がフィルターのように作用して、読者であるあなたがその批評対象となった作品についてよくわかるようになる、なんてことではないと思う。そういうこともあるんだけど、それだけじゃなくて、批評対象も思ってもみなかったかもしれない、そして読者も読むまでは全く考えてもいなかった決定的なエフェクトを与える。批評にはそういう力があると思うんです。

この文はいまいち腑に落ちてないんだけど(そういう内容の文章だから、その仕掛けにはまっていそうだけどw)、「意識的な未満」っていうのは、何となく分かる。

完全な論理よりも、下手な評論があって、それがなまじっか人気が出ていたいるするとアンチっていうのが発生して、そのことによって「評論」というジャンルが拡大活性することはあると思うので。

僕は、爆笑問題の太田さんとか、伊集院光さんが好きで、ラジオもずっと聞いていて、それでものの見方や価値観っていうのを教えてもらってきたので、ある意味で「提示する」ってことに関しては自覚的なつもりなんですけど、それが出来るのが、個人的に思う批評の力や役割だと思ってます。

■作品が一種のマシンみたいになっていて、そのマシンが何かをしている。その「何か」をする主体は作品であって、作品の背後にいる作者ではない。その「何か」をそのまま言葉には出来ないわけです。出来ないから、それと同じような作用をしていて、似たようなエフェクトを与えてくれる表現や作品がほかにないかと考える。そうすると、違うジャンルの中に、全く同じではないにしても、何か似たような駆動、力の働きをしているものがあるような気がしてきて、それらを繋げてゆくことによって批評的なテクストが書ける、というのが僕の方法論なんです。


とまあ、気になった部分を多めに引用したわけなんですけど、他には音楽や映画への批評の書き方や、批評の歴史を押さえる上で重要な人たち(小林秀雄蓮実重彦、東浩樹etc)の概要を書いていたりするので、とても面白いと思います。

何より「お笑い批評」に関しては、まだまだそういった、批評への素養みたいなものが足りていないように思うので、ここら辺で、他のジャンルから批評のメソッドを持ち込んでもいい時代なのではないのでしょうか。