石をつかんで潜め(Nip the Buds)

ex俺だって日藝中退したかった

「超落語!立川談笑落語全集」は悪書である。

広瀬和生は「この落語家を聴け!」で立川志の輔談春志らくの三人に談笑を加え、立川流の四天王としている。
立川談笑といえば、NHKBS「ザ☆ネットスター」できゃんちこと喜屋武ちあきと共にMCをしたり、とくダネでレポーターをしてはいるが、同著でも補足しているように、同列に並べるにしては知名度が劣る。それでも、広瀬が談笑を四天王に入れるのは、古典の改作である改作落語の可能性を高く評価しているからである。
古典落語に現代風の言葉やギャグを入れたりするのは他の落語家でもやっているのを見たことがあるが、談笑のそれは『先鋭的なアプローチで「現代の大衆の娯楽としての落語」を論理的かつ実験的に再構築』するというものだ。
立川談志は「世間で大っぴらに言っちゃいけないこと、思っていても口に出すのはタブーとされていることを、全部言っちゃうのが寄席という空間だ」と言っているが、広瀬は『談笑の基本的な立脚点もまた、「落語家は人間の最も汚いところをえぐり、世相のアラで飯を食う存在である」「落語とは過激な大衆芸能である」というところにある。』と述べている。
談笑はCDも数枚リリースしているので、それらを通して改作落語のいくつかを聞くことは出来るのだけれど、「超落語!立川談笑落語全集」には主だった改作落語がテキストとして所収されている。
一本目は、本来習うものじゃない生理現象である「あくび」を習いに行くというバカバカしい「あくび指南」の改作「げろ指南」。げろを習いに行く「げろ指南」は、談笑落語の世界観とコンセプトの過激さの提示、保守的な古典落語原理主義への宣戦布告として最高すぎる。
古寺の和尚になりすましたこんにゃく屋の六兵衛が、全国行脚をしている修行僧と禅問答をする「こんにゃく問答」は、舞台はバグダッドの郊外の八っつぁんならぬハッサンが出てくる「シシカバブ問答」に。「片棒」は親である自分の葬式のプランを、3人の子に尋ねるというものだが、その子がゲイ、ヤク中、ユダヤ人の「片棒・改」、他にも「坪算」の坪は薄型テレビに、藍染職人の花魁への一途な恋愛を描いた「紺屋高尾」は、ジーンズ工場で働く若者とトップアイドルの「ジーンズ屋ようこたん」にと、冒涜、もとい改作怪作快作のオンパレード。
中でも圧巻なのが、本でもトリを飾っている「シャブ浜」。言わずと知れた大ネタ「芝浜」の改作だ。腕はあるが酒を飲んでは仕事に行かない魚屋の魚勝は元暴走族の覚醒剤中毒のトラックの長距離ドライバー白井ケンイチに、拾ってきたのは42両ではなくジュラルミンケースに入った四千万に。大金を拾ったケンイチは仲間を読んで、シャブにデリヘルに大騒ぎ。乱痴気騒ぎのあとに眠りから、妻に起こされ仕事に行ってと言われると、「お金があんだから働きに行かないでもいいじゃないか」と返す。古典通り、妻は「そんなお金はない、幻覚でも見たのじゃないか」というが、上手く丸め込まれた魚勝とは違い、シャブ中で元暴走族のケンイチは暴れてしまう。結局逮捕され、5年の月日が流れる。真面目に働いているケンイチのそばには妻はいない。大晦日のその日に、妻と、逮捕される時にお腹の中にいた子供に思い出の場所で会えたケンイチは「やり直さないか」と尋ねる。
「これを前にしても同じことが言えるのか」と妻が目の前に出してきた覚醒剤と注射器を海に投げ捨て、ケンイチはこう言う。「よそう、夢になるといけない」。
立川談志は「(美談である)『芝浜』は基本的には“落語に非ず”」と述べていて、せめて美談とならないように、と細かな演出をしている。この点において、談笑の「シャブ浜」は師匠の答えよりも正解だと思う。「シャブ浜」はまかり間違えても美談ではない。
談笑は主人公二人を「リアリティの名のもとに薬物依存と相互依存の泥沼に叩き落と」す。「芝浜」の、お酒を断ち、真面目に働き、商売も軌道に乗り、店も繁盛したのだからとお酒を勧めれるところはすでに「めでたしめでたし」に向かう緩和に入っているが、それに比べて「シャブ浜」のサゲに向かうシーンの緊迫感はテキストでも伝わってくる。

細かい部分だが、仕事に行ってくれと言われ、しぶしぶ家を出ざるを得なくなるというシーンがある。
「芝浜」では、「第一”行け”ったって、いきなり言われて、盤台だって、箍ァはじけて水が漏るだろうしさ・・・・・・」「水ゥ張っといたよ。すぐ担げるよ」「庖丁・・・・・・」「研いどいた。光ってる」「草鞋は・・・・・・」「出てる」「よく手が回りゃがったね」というもの。
「シャブ浜」ではというと、「トレーラーもずいぶんホコリだらけだと思うんだよ」「大丈夫、キレイに磨いてるから。ワックスもかけといた」「確かガスが残り少ない・・・・・・」「満タンにしてあります」「エンジンオイルが汚い・・・・・・」「交換しておいた」「タイヤの空気が・・・・・・」「入れといた」「・・・・・・よく手が周りやがんな、どうも」となる。
この「現代人に”入っていくる”感じ」の対比で、師の改作落語が飛び道具でもなければ、ウケ狙いでないことが分かるはずだ。

立川志の輔は「立川談志の最高傑作」と言われる。談春は、談志の話芸を正統派として受け継ぎ、志らくは談志の狂気・イリュージョンを引き受けている。
個人的に、談笑は師匠の「クレイジーさ」を持っていると思っている。冷静なクレイジー。
家元のマクラで「ダイナマイト、腹に巻いて、客席に飛び込んでやろうかな」とあるのだけれど、それをやりそうなのは誰かというと、やはり談笑というのが個人的にしっくり来る。師匠の大ネタである「芝浜」を「シャブ浜」にするなんて、志らくですらやらないって!
「いつの間にこの大衆芸能はこれほどまでに時代に水を開けられちゃったのかな」と嘆き、「明烏」や「湯屋番」のような艶話に対しても「高齢者には通用しても若い人には完全に無力である。/いまや、百三十円のスポーツ紙にオマの毛がバンバン出てる時代なのに、落語はなあにをやっとるかッ!と苛立つのです。どこが大衆芸能なんだよ!」と、憤る師匠のスタンスが格好良すぎるし、信頼出来すぎる。
師匠の改作落語は、寄席とは悪所であるべきであり、眉をひそめられるようなラディカルな大衆芸能としての落語を取り戻そうとする、強い信念に基づかれたものである。