ダイノジ大谷のANNR〜ぼくがブロガーになった理由〜

「やっと会えたね」で始まったダイノジ大谷ノブ彦のANNR。「まいったね」で始めるか、こっちで始めるかで、イギリスのブックメーカーが賭けの対象に設定していたとかいないとか。
そのあとに「わたくし、一部では批評藝と呼ばれているみたいなんですよ」と笑い、今日は熱量を持った放送をすると宣言してトークが始まる。
ビートたけしのANNがどういう役割だったのかという話から、批評藝からのてれびのスキマさん、お笑い芸人のちょっとヒヒ話というブログの管理人で、奇跡と奇跡を繋ぐ奇跡DJことのていさんという方のお笑いブログ、レディー・ガガオバマ政権、アメリカの政治の動きと連動する洋楽の現状と聞き方。
躁病患者の独り言のように色々な方向に分散しているようでいて、俯瞰で見てみると実は、一つ一つがリンクしている。
深夜の28時。高校生のころと同じように布団のなかで丸まって聞いているラジオからハイロウズの「14才」に、忘れらんねえよの「この高鳴りをなんと呼ぶ」が流れてくるってだけで、このラジオは十分、芯食ってる。
この放送を聞いた後は「批評」という言葉について考えていた。
ポップミュージックや、映画、お笑いなんて特にそうで、受け手の母数が大きい娯楽の文化は、喜怒哀楽のどれかで完結し、それ以外の意味がないという取られ方をされることのほうが多いし、それっぽく語ろうと思えばすごく楽に出来てしまう。
玉石混交とは言うけれど、石のほうが多く、他人から見れば自分の意見だって石に過ぎないことのほうが多いということは分かっている。それでも、それについて話したい、共有したいという思いは止まらない。
たまに表現者が「お前がやってみろ」だとか、批評家を揶揄するようなスタンスを取っているのを見るとすごく寂しくなるのは、こっちはそっちの業について行こうとしているのに、そっちはこっちの業を認めてくれないのだなと思ってしまうからかもしれない。それすらもファンのエゴかもしれないのだけれど。
自分でも何か書いている時は、批評してやろうとかそういうのは全くなくて、むしろ、壁に全力でコンビニに置いてあるオレンジのカラーボールを奇声をあげながら壁に投げつけるような気持ちでいるので、誰がこんな自意識に塗れた文章を読んでいるんだよって泣きそうですよ。それでもたまに「愛がある」とか「このブログをきっかけに気になった」とか反応があったりすると、本当に嬉しい。
人前に出たこともないような人間が、批評をしているなんておこがましいので、自分では批評をしているとは思っていないのだけれど、批判的なことも言ってしまう以上、「批評」という言葉から逃げている気もするので、もういっそ「批評をしている」って言ったほうがいいんじゃないかみたいな矛盾を孕んでいるので、そこは読んでいる人に委ねるしかなくて、ただ、こんな視点があるよ、といった「見方の提示」ができれば良いなってくらい。
これといった取り柄がないけれども、一つだけ、自分の才能だと思えてしまうようなものがある。
映画や小説などを見ていて、そこにアクセントとして使われるような小道具だったり、挿話だったりにまつわる言葉を、少し前に見た、ジャンルも作られた時期も異なる別の作品で同じものが出てくるということがよくある。例えば、「ペッパースプレー」を顔面にかけられて、涙も止まらず、念入りに顔を洗っても30分以上、痛みが取れなかったというコラムのなかのいちエピソードを読んだ次の日に見た映画で、兄弟喧嘩を止めるために、ペッパースプレーをかけるというドタバタのシーンがあった。何ということのない偶然だけど、割とよく起こる。これは俺だけだろうか。あるあるだったら、恥ずかしいのだけれど。
この文章を書いている時に、星野源の「そして生活はつづく」の文庫版を購入して読んでいると、こんな箇所があった。
「音楽と演劇って共通する部分はあるんですか」と質問を受けた時に、「自分がなくなることです」と答えた時の話を振り返り、「音楽とは一見自由で開放的な表現と思われているけど、実際、曲や歌にはコードがあり、その音階から外れてしまうと、『変な音を出したねあの人』と思われてしまう。(略)頭の中はコードや音符、間違ったら嫌だとか、羞恥心やプライドとかでいっぱいになってしまい、いつの間にか自由な表現とは程遠いものになってしまう。」と。そして、それでもごくたまにそういうことから解放される瞬間がある、それが「会場が一体になる」という状態であり、「自分がなくなる」ということであると書いている。
自分の中で考えていた、「批評するというのであれば、せめて自分にルールを架すべきだろう」と考えていたことにちょうどリンクする。ただ批判的に言うだけならば簡単だけど、いくつか、踏み込んではいけない領域を作ることによって、批評するということはどんどん難しくなってくる。
ルールというのは例えばそれが、小学生の頃にやったような、小石を蹴り続けて帰ることが出来たら、夕食はカレーになるというそういう意味のないものだとしても、きっと主張の強度を増してくれるはずだ。
藝のないツッコミはつまらなく、ボケであるべきだということも一つの時代の流れへのカウンターとしてあるのなら、面白いツッコミ、ボケにもなりうるツッコミを目指してみるってのも面白いし、やりがいがあるんじゃないかなと思う。
「でも、やるんだよ」はお金をもらっている人だけの言葉じゃないんだよ。