石をつかんで潜め(Nip the Buds)

ex俺だって日藝中退したかった

ボクらの想像力の時代

フジテレビの日曜日の朝7時半に、「ボクらの時代」という番組がひっそりと放送されている。異なったジャンルの3人しか出演しないトーク番組なのだけれど、この鼎談の面子が「オードリー若林正恭×マキタスポーツ×平野啓一郎」、「伊集院光×玉袋筋太郎×西村賢太」、「宮藤官九郎×阿部サダヲ×伊賀大介」等々といったもので、賛辞の意味で日曜日の朝には程遠い組み合わせになっている。むしろ、そんな時間帯だからこそ、製作者の嗜好を反映させた自由な組み合わせが楽しめるのかもしれない。
彼らの肩書きは異なっていても、了見や思想が近しい人だからこそ、会話が弾み、なかなか普段のテレビでは見られないような顔で笑ったりする。そんなところもこの番組の魅力のひとつでもある。
2013年4月28日の放送では、芥川賞候補にもなった「想像ラジオ」の著者いとうせいこうと、ピン芸人バカリズムラーメンズ小林賢太郎が出演していた。特に小林賢太郎は、民放のテレビ番組に出演するのは11年振りだという。バラエティ番組がゼロ年代に忘れてきたものの最たるものがラーメンズだと思っていて、一人くらい、一回くらい口説き落とせる人がいたんじゃないのかって思っているのだけれど、それはまた別の話。
この回も、面白い話がたくさん聞けた。例えば、肩書きについて。バカリズムは、音楽やタレント業、舞台と色々なことをやっているいとうせいこうに「肩書きは何なんですか?」と尋ねる。「作家としか言いようがないよね。」「根が編集者だから自分を作家として使っているだけだと思うよ。」「でも、言っておくけど、俺も年だから色んなことやってるように見えるけど、年代で輪切りにしたら二、三個なのよ、多分。だって52で、今出ている小説をようやくかけるようになったんだけどね。16年ぶりだからね。16年書いていないわけだよ。実は二、三個をシェイクしているだけで。」と答える。
その他には、自分よりも後の世代のことをどう考えているのかとか、作品を作るときの取り組み方といった話も出てきて、それこそ三者三様で興味深かった。
バカリズムは、いとうせいこうみうらじゅんが多趣味でいろいろなことに興味をもっていることと、自身が無趣味であることを引き合いに出して、二人を「肯定する脳みそ」だと評し、いとうせいこうの、らしさを端的に表すエピソードを話す。
「何それって言うものを見て、それを良いよねって言う。僕が見ると、否定することで何かを産もうとする。思考が真逆なのかなって。せいこうさんが、中型犬の悪霊に取り憑かれたことがあって。普通はお祓いに行こうと思うでしょ。違うんです。これを飼いならせる位にならないとって。」
体調がボロボロになって、うぅぅぅと犬のようにうなったりするようになっても、中型犬の悪霊と共生を続けたせいこうは「せいいっぱいのベタへの抵抗だったね」と振り返り、今は忠犬になっていると笑いながら話す。小林が「もう体は大丈夫なんですか?」と尋ねると「一時期よりはね」と答える。バカリズムが「良くはないんだ」と笑い、小林が「祓えよ!」とツッコむ。
二年くらいまえに、いとうせいこうの小説「ノーライフキング」を手にし、あまりの面白さに一気に読み終えてしまった。そのあとにみうらじゅんとの共著(文章はいとう)で、仏像を見る旅のエッセイ「見仏記」、観葉植物との生活を書いた「ポタニカルライフ」も面白かった。
それらを読んで、新刊とか出ないのかなと思っていた期間が長く続いていたときに、新作「想像ラジオ」という小説を刊行すると聞いて、発売日を調べて、購入し一気に読んだ。
先述したように小説としての新刊は16年ぶりで、その期間については、「笑っていいとも」のテレフォンショッキングにゲストで出た際に、欝もあるんですけどね、という言葉から入り「『コップが落ちたので割れた』って文がもう書けない。コップが落ちたことと割れたことは別々だっていうのを、コップが落ちたから割れたって理由づけしていくのが嫌になった。俗っぽい!」と話す。それが治ったのは友人の哲学者・佐々木中に半ば挑発されるように書き始めたことがきっかけだと言う。
「想像ラジオ」は、DJアークがリスナーへ話しかけるところから始まる。DJアークは高い杉の上に引っかかった状態で想像力を介して放送を続ける。トークの内容は、幼少期の家族との断片的なエピソードだったり、東京で生活をしていた頃、そこから離れて地元に戻ってくることになった経緯だったりと取り留めのないものだが、その中で読者は一つのことに気付いてしまう。
 「根が編集者だから」と話すように、とても読みやすく無駄のない文章で、かといってただ平易なだけではないその文体は、クリアに入ってくる。ラジオというよりはradikoだなと、別段ウマくもなんともないことを思ってしまうほどに、読後しばらく余韻に浸った。
仏像を見ることも、観葉植物を育てることも、声なき者の声を聞くということではどこかでつながっている行為なのかもしれないし、肯定するということなのかもしれない。肯定することは前に進むことにもつながっていく。その鍵となるのが想像力で、それを働かせるということは、大きな一歩となっていく。