石をつかんで潜め(Nip the Buds)

ex俺だって日藝中退したかった

批評論

ピースの又吉直樹の著作「東京百景」を読んだ。又吉自身の日々の生活で見てきた東京の土地にまつわるエピソードが収められた散文集で、とても面白かった。
年に一度ほど東京に旅行で行く。トークライブのために行った阿佐ヶ谷、知人が住んでいるんで割と頻繁に行っていた永福町や三鷹といった、新宿や渋谷といった中心地から離れた少し離れた駅の近くの住宅地を歩いている時に感じるような、ゆったりした時間、静かな空気がこの本には詰まっていて、文章がすっと入ってくる。
もともと又吉が、それらの街のように喧騒の外にいるような人なのだろうから、そう感じるのは当然なのだろうなと思った。冷めているというのでもなく、輪にすら入っていない。ただその分、彼の交友関係が出てきたりすると、じんわりとくる。
本を読んで思ったのは、本当はお笑いをやるのに向いていない人なのだろうなということだ。資質や才能の問題を疑っているということではない、むしろ大喜利は好きだ、ただ生理の部分で、いわゆる芸人の生き方というところから真逆にいるように思えた。そういう人がちゃんと面白いというのがお笑いの強いところでもあるのだし。
「東京百景」は読んで欲しいとして、許せないのは「タモリ論」だ。
読み終えた印象としては、構成が雑で、文章も中盤あたりから息切れしていて、半ば力尽くで新書の形にまで持っていったというもので、期待を超えることはない一冊だった。内容も、頁数を半分ほどにして「雑司ヶ谷RIP」のあとがきとして収録されていれば、まあそこまで悪くはないんじゃないかというもので特筆すべきところはなかった。
タイトル問題については、「タモリ論」に限ったことではなく、新書が話題になると頻出するもので、この本で出た時も、何回その議論にもならないような話するんだよ、普段本を読んでいないのに、いっちょかみで手にとって批評を打とうとしているのがバレるぞとしか思わなかった。AVメーカー「PRESTAGE」のジャケットと、新書のタイトルの7割は疑うべきです。
そもそもの話として、樋口穀宏は信頼できない。「頭のいい人たちや、自称良識派の方々から、嘲笑の的になることを恐れたことはありません」、「好きな人はすごく好きだけど、嫌いな人は僕の名前を口にするのも嫌だというぐらい、非常に好き嫌いが別れる本を書いて」いるといった旨の発言を事あるごとにしていて、嫌われる覚悟をしているようでいて、どうも実際には予防線を張り巡らしているようにも思える。
樋口の小説は、小説に限らず、漫画や映画といったサブカルチャーの過去のものから引用することが多い。それ自体は別段問題はないけれど、元ネタをあとがきに羅列するのって、それって弱点をさらけ出していてステゴロで勝負をしているように見せかけて、パクリ批判への逃げ道にも見える。露悪のフリをしていて、実際には防波堤をせっせとこしらえている姿はダサい以外の何者でもない。
話題になっている本の情報が入って気になった場合、買うかどうかを決めるのはどうすればいいのか。賛辞を送っている人と作者に交友関係があるかどうかを確認することが必要だ。よっぽどのことがない限り、知人の作品を貶すことはないし、評価の基準が甘くなってしまうのは致し方ない。ただ、それは必ずしも悪いというわけではなく、例えば仲間内のノリに入れると相乗効果的に楽しめるという良い方向に働くこともある。これまでの経験からして、その仲間内がなんとなく好きでなければ、その作品を手にとっても期待を大きく下回るということは少なくない。
そういう意味では、言葉の切れ味を鈍らせないためには、評論家はすべからく孤独であるべき(「すべからく」の正しい使い方)だとは思う。
批評や評論というのは、結局は他者の作品を論じることで、考察する自分自信のことも論じられるということだ。自分の目を、耳を、脳を通して考える以上、そこから避けて通れず、そういう意味では他の創作物と何ら変わらない。逆を言えば、そこに到達して始めて批評と名乗るべきだろう。正当な批評には芸柄(にん)が出る。
タモリ論」に関してはいえば読まなくてもいいとは思うけれど、個人的に信頼している人と、悪口を言い合ってより仲良くなれた気がしたので、樋口さんはいい人だと思います(嫌われることでお金をもらっている南海キャンディーズ山里へのオマージュ)。