小説を応用するために、筒井康隆『創作の極意と掟』を読もう。

「春なのにお別れですね」という歌を聞いては、春だから、じゃないのかと思う季節になりました。
気持ち的にも、物理的にも、仕事上でやり残していることがあったので、人事移動について残留という意向を伝えてはいたものの、上司にハマっていないという一身上の都合で、ほぼ干されじゃねえかという内示をいただきまして一か月が経過しょうとしています。歓送迎会ラッシュも一段落着きました。
移動先の歓迎会では、「ここにいるのは全員敵だ」という養成所に入ったばかりの芸人の卵のようなスタンスでウーロンハイを飲んでいたのですが、人の多さと、同じく移動してきた同期が同年代ということに気を許し、結局最後まで固まって過ごした揚句、まあ、頑張ろうやと言い合いました。
逆に送迎会では、3年かけて心のドアのチェーンロックを外していたので、その分楽しかったのですが、特に壇上での挨拶では、自分の前の人が正統に爆笑をとるということを受け、
それまでに準備して、なかなかに繰っていたやつを下げて、アドリブで上の下の笑いを回収したのは、緊張から走り気味だったとはいえ、最後にいい仕事をしたな、とは思いました。
そんな日々の中で読んだ筒井康隆の『創作の極意と掟』がすごかったので紹介します。
この本は、筆者がプロの作家になろうとしている人だけでなく、全てのプロの作家に向けた「遺言」とまでしていいて、小説のことであると断りはあるけれども、創作についてのテクニックなどが書かれています。
小説のテクニックについての本を読む暇があれば、一行でも多く書いた方がいいという言い分もわかるけれども、優れたプレイヤーは優れた批評家でもある、という言葉もあるし、筒井康隆といえば、様々な作品、名作、奇作、怪作などを生み出してきた小説家であるので一読の価値があり、そこから学ぶことはきっとあるはずだ、と思って読んでみたら、ファンだということを差し引いても、一読だけでは足りないほどの本だった。

各章には「破綻」「人物」「文体」といったようにタイトルが設けられていて、「表題」から始まり、書き出しという意味である「濫觴」、そこから始まる「展開」といった小説の肉体については勿論のこと、「迫力」「色気」「品格」といった見えない部分について、筒井康隆の思想が詰まっている。そしてそれぞれにまつわる小説も紹介されているので、極上の小説ガイドにもなっている。
読み進めるなかで各章の話がイメージとして想起できるかによって、読書量やフィクションの素養といったものが測れる。応用編の基礎として読むことによって、実践へとつなげることができる。もちろんそれは、小説だけではなく、映画や演劇をはじめとした脚本や、ひいてはコントや漫才にもこれらのテクニックは流用できるはずです。
たとえば「会話」については、手抜きの一手段として使うのを避けるべきであるということや、会話により迫力を生むためには<対立であろうか。二人、または三人、または四人と、人数は何人でもよいが、価値観が異る人間が対立する図式は実にまことに小説的である。><会話は個性の異る人物によってなされなければならないだろう。>と述べているし、<リアリズムの小説の約束事からはずれて、例えば本筋から逸れたり、主人公が誰だかわからなくなったり、その他の無茶苦茶作者が演じる>、「逸脱」についても、それによって、爆笑だったり、あっけにとられたりさせられるために必ずしも文学的に無価値とはいえない、と述べている。
「薀蓄」の章では、情報との違いについてが書かれていて、二つが異なる点は、どんなに緻密な取材や調査を行ったとしても、情報のみでは文学的な価値はないということと、池波正太郎の作品の料理の記述を引き合いに出されていて、そこから<作者がどれだけ長期にわたり、情熱をもってかかわりあってきたか>が大きな意味を持つという。
未知の情報がふんだんに盛り込まれていると、興味や好奇心、覗き見願望が満たされるが、それだけでは再読に耐えうるものにはならないが、薀蓄は、効果的に使用すれば、作品だけでなく作者の代名詞にもなるという効果も見込める。
最近では、情報小説よりは、情報漫画のほうが話題になることが多く、先にも述べたように、これらが必ずしも後世に残る名作になるかというとそうでもないのが現実だ。その一時的な人気を得るという枠を越えて、読み継がれるためには、情報を盛り込みながら、なおかつ人間を絵が描かなければならない。そこまで大仰な命題を掲げないとしても、情報部分を抜きにした場合でも、物語としての面白さは損なわれないか、ということは、一度冷静になって見直す必要はあるのだろう。
これを両立させ、なおかつ創作物としての面白さも高水準を保たせるというのはかなりの難易度だけれども、青木雄二の『ナニワ金融道』、近年では吾妻ひでおの『失踪日記2 アル中病棟』が、この離れ業をやってのけている。この二作は情報漫画としてだけではなく、文学としても高い水準にあるといえる。
薀蓄といえば、くりぃむしちゅーが一気に露出をしていたころ、有田哲平上田晋也へあだ名をつけるという流れになったときに「ウンチくん」と答えていたことは余談にしかならない。
筒井康隆は作家人生が60年になるその中で多くの作品を残しているが、主に三つの方向から語られる。『時をかける少女』や『家族八景』『七瀬ふたたび』『エディプスの恋人』の七瀬三部作、涼宮ハルヒシリーズに影響を受けて書かれたという『ビアンカオーバースタディ』、今敏によりアニメ映画化もされた『パプリカ』など硬軟織り交ぜたSF作品群、ブラックユーモアやスラップスティックとしてのショートショートがあげられるが、なにより数々の実験小説も有名だ。
1992年10月から、1993年3月にかけて朝日新聞の紙上で連載された『朝のガスパール』では、掲載媒体の特性を生かし、読者から文書やBBSへの書き込みを募り、それらを作品に反映させるという実験が行われた。
虚人たち』は、登場人物が小説内の人物であるということを認識しているということも特殊だが、「時間の省略がない」というのが特筆すべき点だ。通常、小説では、食事のシーンでは料理を作るシーンが、通勤のさいには家から会社への道のりが、必要に応じて省略される。読者はそういった小説でのお約束に対しての違和感は別段ない。
虚人たち』は「主人公の食事を詳細に描き、主人公が移動中の描写をし、主人公が排泄中の場面を書き、そして主人公が寝ている時間、または気を失っている時間は原稿用紙一枚を一分に勘定して数ページぶんを白紙にし」た「まったく省略なしの小説」となっている。特に、数ページ白紙が続く部分は異様な雰囲気を醸し出している。
残像に口紅を』は、始まりから終わりにかけて小説の世界のなかで、作者が使用できる文字が消えていってしまうという制約が設けられている。
小説から、文字が消えるということは、その消えた文字を名称に使用しているものの存在自体が消滅するということである。あ、が消えれば愛が、い、が無くなければ、家やイルカが、というように。そうした小説を読み進めていく中で読者は、言語そのものについての存在意義に思考を巡らせるだろう。
後半は、通常の小説では味わえない、さながらバベルの塔の崩壊を目にしている瞬間のような高揚感や緊張感が迫ってくる。
漫画家の富樫義博は『幽☆遊☆白書』の中の1エピソードで、この実験を完全な娯楽として成立させている。海藤優の禁句(タブー)という能力は、ある一定の領域(テリトリー)の中で発してはいけない言葉を定め、それを破ったものの魂を奪うことができるというものだが、その戦闘のなかで、「口にしても良い言葉が、一文字ずつ消えていく」というルールが用いられている。既存のネタを自身の作品に取り込むというスタイルを得意とする富樫義博の真骨頂でもあるこの話は、原作全体を通しても印象深い。
『ダンシング・ヴァニティ』は、<ダンス、演劇、映画、音楽など他の芸術ジャンルに顕著な反復が、なぜ小説でなされ得ぬのかという疑問>から着想されたこの小説では、一度使われた文章が幾度となく繰り返される。理研も驚くコピー&ペースト群は奇妙なグルーヴを生み出し、文学は享楽的に踊る『ダンシング。ヴァニティ』は、『創作の極意と掟』の章にもなっている凄み、破綻、迫力、実験、異化、諧謔それぞれの作用が発揮されているし、この文は、羅列のテクニックを用いている。
『ダンシング・ヴァニティ』で行われた、反復の実験はinterestingという意味での面白さと、エンターテイメントとしての面白さを兼ね備えていて、実験小説としても成功を収めているといえる。作者自身もそう思っているようで、『創作の極意と掟』のなかで、反復の章は多くのページが割かれている。
最後に繰り返しになるが、他にも読んだ人の心に引っ掛かる含蓄ある言葉が多く記されている『創作の極意と掟』は、小説に感銘を受けたことがある人だけでなく、創作をしたいと思っている人には、胸を張って薦めることができる一冊となっている。
あと、ここまで、ほぼ笑いがないのは、新しい職場ではできる仕事が限られていて、正直な話、なかなか暇を持て余していて、心の平穏が保たれていると同時に、面白いことが一個も思い浮かばないという状況なのでそれは許してほしい。