ピクミンとしんぼる

昨年末から、『ピクミン3』というゲームにはまっている。はまっているというレベルではなく、一時は生活が破綻するくらいのめり込んでいた。『ピクミン』というゲームは、音楽がヒットしていたのでその時に概要は認識しているという程度のものだった。その『ピクミン3』のゲームを買ったのは、体験版をインターネット経由でダウンロードしたからで、少しプレイしてみたら、なるほど面白そうだな、と思ったのでソフトを購入したというのが出会いだ。今後も人生の一部になるであろうはずなので、出会いと呼んでも間違っていない。   
そして、そこからゲームを始めるわけだけれど、基本的な操作方法を覚えながら、ストーリーを進めていく。気がつけば始めたその日は6時間くらい経っていた。次の日も同じくらいプレイする。結局、仕事がある日は帰ってきてから四時間ほどやって休みの日はその倍くらい時間を費やすという始末でした。こんなになってしまったのは大学に進学してAVを借りられる環境になった時以来です。大江健三郎風に言えば、ピクミンをむしっては、チャッピーを撃つ毎日だった。
ピクミン3』は、人口爆発や住民たちの計画性のなさから来た食糧難を解決するために、新たな食料を求めて旅に出たコッパイ星人のアルフ・ブリトニー・チャーリーが主人公となる。様々な惑星を調べているうちに、自分達の星でも育成に適した農作物がありそうな星を見つける。PNF-404と名付け、そこに降り立とうとした三人だったが、宇宙船の不具合により、三人それぞれ違った場所に放り出されてしまう。そこでピクミンと接触することになる。そこから、食料集め、合流、そしてコッパイ星への帰還を目指すというゲームだ。もちろん、その他の要素も絡んでくる。
 まさか、ここまで生活を持っていかれるとは思わなかったこのゲームの魅力をどう伝えればいいのかと考えていたのだけれど、「絶妙」という言葉に尽きる。操作性が絶妙、ゲーム性が絶妙、ルールが絶妙、バランスが絶妙、世界観が絶妙、ピクミンの可愛さが絶妙、1回のターンの長さが絶妙という具合だ。特に、このターンの長さが曲者で、ゲームの設定上、日の出から日没までにしか活動ができないため、日が沈んでしまうと、一日が終了ということになるのだが、その時間が、おおよそ30分くらいなのである。だから、時計を見ながらもう一日出来るかなとか思いながらプレイしていると、3時間くらい経っていて、そのころにはストーリー的に止めたくないというところに差し掛かっていたりしてまた、3時間くらいやってしまうという循環になってしまう。それくらい絶妙だ。
ピクミン3』は簡単にいえば、一日の間に、ピクミンを駆使していかにしてその星の原生生物を倒しながら、食料をコッパイ星へ持ち帰るために集めるという内容なのだ。
ピクミン3』は、ステージを進めるごとに新種のピクミンに出会っていく。それぞれのピクミンにはその個体特有の特徴がある。その特徴を使って、新しい場所に行けたりする。そして、上手いのが、一度ボスを倒したエリアに、新しいピクミンを連れていったりすると、その時は取れなかった食料を取れたりするところだ。
この悩まないといけないけれども悩み過ぎない謎と、そこが解けた時の痒いところに手が届いた感の気持ち良さ。繰り返すけれども、謎と答えの距離が本当に絶妙なのだ。
何より、このゲームの中毒性を表すのが、ラストのボスを倒して無事クリアした後、正確にはクリアするちょっと前から、次のもう一週目をやることを考えていて、もっとサクサクと進めて、クリアまでにかかった日数を縮められるぞとか、取りこぼしていた食料を回収できるぞとわくわくしていたことだ。クリアの余韻も束の間、二周に取りかかり、一週目よりもかなり上手くできたことに、最初とは違う喜びがあった。
少しずつピクミンを増やしつつ、敵に立ち向かう。謎を解きながら、いかに要領よく目的を達成するかというこのゲームはまさに仕事だ。その人類が最も忌み嫌っているものと同じだった。仕事はタチが悪いことに、やりがいや達成感というのが存在する。快楽というのは水で薄めた痛みのようなものというマルキド・サドの言葉じゃないけれど、仕事というのは基本的に毒であるはずなのに、一滴の快感の種にもなっている。
 そして、今はミッションモードというミニゲームを繰り返しやっている。このミッションモードは、10分程度の制限時間内にステージに散らばっているお宝を集めるという至極単純なミニゲームなんですけれど、これまたゲーム設定が絶妙すぎて、同じステージをこれまた何十回も繰り返してしまう。そもそも全部集められていない点数でも金メダルの称号を貰えている時点で、ゲームバランス設定の妙が何かもうやべえんだろ。もっと怖いのは、これを何回も繰り返しているので、操作技術も上がっているので、また、ストーリーモードをやって二周目の記録を塗り替えたいという気持ちになっているところです。これじゃあ、一生1にも2にも手を出せない。
 この『ピクミン』シリーズが大好きと公言しているのが、ダウンタウン松本人志だ。『ピクミン』については、かつて放送されていた『放送室』で、『ピクミン2』を始めたという話をしていた。そこでは、ピクミンを一匹も死なせたくないと思ってしまうので、「自分は優しすぎるから向いていない」と言っていた。
ピクミンは、敵に立ち向かって死んでしまうことがある。ピクミンを減らしながらも何とか倒したその敵の死骸をピクミンの巣に持ち帰ることによって新しいピクミンが生れる。結果的にはピクミンの数は増えているのだけれでも、松本はそれでも嫌だというのである。ピクミンは少しプレイするだけで、あの愛くるしい見た目で、一所懸命に動く姿に一気に感情移入してしまうので、この松本の気持ちはよくわかる。
 その後の『人志松本の○○な話』の「好きなものの話」で『ピクミン』について取り上げていた。そのころには大好きになっていたようで、松本は「これがすごくよく出来てるんですよ。言わば会社経営と似ているんですよ。吉本興業の社長みたいなもんなんですよ、プレイヤーが。白ピクミンと紫ピクミンはすごい貴重なので、そんな簡単に生まれてこない。言わばこれさんま、紳助みたいなもんですよ。さんま、紳助を守るために、赤ピクミンカラテカの入江とかくまだまさしみたいなもんがいっぱい死んでいくんですよ」と熱弁する。
 この『ピクミン』の制作を指揮した宮本茂は、『ドンキーコング』『マリオ』『ゼルダの伝説』、これらのシリーズを手掛けた人物であり、その宮本と松本は2011年に放送された『松本人志の大文化祭』で対談をしている。
 松本が「ピクミンは庭で蟻を見ていて思いついたっていうのは本当なんですか」と尋ねると、宮本は「あれは蟻を見ていて思いついたんじゃなくて、創っているものを整理していくうちにこれは蟻として創るのが一番良いって。蟻っていうのは子供の頃の経験なんですね。今でも見ますからね。だからそれは分かりやすく庭の蟻って言うんですけど、別にうちの庭を取材しながらこれを創ろうって思ったわけじゃなくって。たくさんのものが動いているのを遊びにしようとって思っているうちに、大体たくさんのものでね、何か創ろうと思うと、たくさんのものがどこかに攻めていくとか、どこかずっと先の方に遠征していくとか、ステージをクリアするとかってなると、目的が決めにくいですよね。大勢のモノが行くけど、どこ行ったらいいと思う、って誰かに聞いてもなかなか的確な答えって出てこないですよね。それで蟻を見ていると、家に帰ってくるんですよ。ゴールは家ですよね。これ、遊びの創り方として分かりやすいじゃないですか。そしたらゴールにするんなら自分が連れていくより、勝手に帰ってくるのを見た方がいいなあって。蟻にはその仲間を追いかける習性があって、この仕組みでたくさんのモノが動いているゲームをまとめられへんかなと思った時点でモノが動いているゲームをまとめられへんかなと思った時点で仕上がりなんですけども、けど説明するのに難しいから、『実は家の蟻がいてな』と答えている」と話していた。
「素晴らしい人生を教えてくれるゲームですよね」と松本が『ピクミン』を絶賛すると、
宮本は「ピクミンっていうのは自分の社会的なモラルの度合っていうのを図られますよね。ずるいところってあるじゃないですか、偽善とか。みんなどっかにあると思うんですよ。どっかで線を引いている。自然に生きている人っていない。本当の善意で生きている人っていないんで。それを図られてしまうんで作る方はもっと痛いんですよ。」と説明する。
 松本人志監督作品の二作目にあたる『しんぼる』はカラフルなパジャマを着た男が目を覚ますと、まっ白い部屋にいることに気付く。その部屋には、幼児のペニスを模したスイッチがあり、それを押すと、箸や花瓶を始めとしたいろいろなものがランダムで部屋の中に出現する。
それらの関連性のないものを組み合わせて男は部屋を脱出しようとする。それとは別に、メキシコの一人の覆面レスラーの一日、試合に向かうまでのドラマが並行して進んでいくというのが概要の映画である。先日、数年ぶりに見直してみた。当時は、うーむ、という程度の感想だったのだけれども、一度見ている分、フラットな感情で見ることができたということもあるのだろうけれども、それにしても面白かった。そして改めて、これは松本人志版の『ピクミン』だといえる。
『東京ポッド許可局』の「しんぼる論」ではプチ鹿島が、松本がゲーム好きだということに触れ、「ゲーム好きの人の発想なのかな、色んなアイテムが出てきて脱出につなげて色々組み合わせて、この部屋から出るっていう。たまたま任天堂に働いている友達がいるんですよ。その人、お笑いも好きだから聞いてみたわけ。密室のシーンってあれ、ゲーム好きの発想だと思うんですよって言ったら、そうなんですよ、あのシーンは私たちから見てもすごく心地よかったんですよ。」という話をしていた。これまでのことからも『ピクミン』を始めとした宮本茂のゲームの影響下にあること、映画の前半部分はそれらが持つ謎解きからカタルシスを目指していたことまで予想出来る。
そこから派生した後半は、『ピクミン』を離れて、松本の発想の濃度が濃くなってはいくが、ここでも、見せ方の粗さが目立って、ここから映像表現としての弱さがあらわになっていく。色々と理由はあると思うけれど、これは、松本ら制作陣の迷いであり、一番は、想定している観客が分らないということだ。それが大衆なのか、お笑い好きなのか、それともずっとダウンタウンが好きだった人なのかを決めかねているために、どこか吹っ切れられていない部分がある。そしてそれが「逃げ」という致命的な評価につながっている。それでも、どの映画のなかでも、映画の真骨頂といえるような画を作っていることは確かだ。『大日本人』で、大佐藤が原付で坂道を登っている画は、まさにその10年で見たどの映画で一番凄味があった。それは揺るぎない事実のはずだ。その貯金は『R100』で使い切ってしまったわけだけれど。
 是非、これらを踏まえてもういちど『しんぼる』を見てみてはいかがだろうか。