石をつかんで潜め(Nip the Buds)

ex俺だって日藝中退したかった

当たり前を迂回する。『表参道のセレブ犬と、カバー二ャ要塞の野良犬

 少し前から、伊集院光の朝のラジオ番組『とらじおと』のニュースを聞くようになった。毎日20分ほど、その日のニュースと、それを受けて伊集院光のコメントと、解説員の解説を聞くことが出来る。これまで、ニュースといえば、神田うのが娘のバイオリン合宿の移動にヘリを使ったというような情報社会の宿痾みたいな芸能ニュースや、メロン畑に除草剤がまかれた、みたいな個人的な琴線に触れるニュースに興奮してしまうぐらいだったために、解説そのものが難しかったりするのだけれども、聞きなれないラジオCMや、深夜とは違う口調の伊集院光に何故か照れくささを感じつつも一応は続けられている。
 ただ、これは世間の動きに詳しくなりたいというよりは、伊集院光がどう感じたかということを知りたいという欲求のほうが大きいからなのかもしれない。そして、それらのニュースを受けての伊集院光のコメントは、その優しさと頭の良さの両方にダイレクトに触れられるものであるというのが一番の理由となっている。
 そもそも、何故、こんなことを始めたのかというと、オードリー若林の著作『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』を読み、若林が少し前から家庭教師を雇っているという記述を読んだからだ。設楽統に憧れてベッドと布団と枕のカバーを真っ黒にして、大学生の頃はツナギを着て生活していたくらいに影響を受けてしまう。最近だと、銀杏BOYZ峯田和伸サンボマスター山口隆オールナイトニッポンRでの、二人で好きなレコードを流しあってトークをしている様子を聞いて、まんまとレコードプレーヤーが欲しくなってしまった。
 『カバーニャ要塞の野良犬と、表参道のセレブ犬』は、「年齢もアラフォーだというのに、ニュース番組を見ても全く理解できないことが恥ずかしくなった」若林が、家庭教師を知人から紹介してもらったという近況から始まる。
若林はその家庭教師に言われて読んだ世界史と日本史の教科書で「資本主義下の自由競争秩序を重んじる立場および考え方」と定義される新自由主義という言葉に初めて出会う。そして、20代の頃の悩みが、そのひとつの枠組みの中での価値観によって作り出されたものでしかないことに、気付く。そして、その対極に位置する社会主義の国キューバに行くことを決める。
 桃を買いに行くだけでもフリートークが出来上がると評された男が、初めて一人で海外旅行に出かけるのだから、面白くならないはずがない。旅行を終えて帰国した直後のオールナイトニッポンでもキューバ旅行の話を普段のトーク時間よりもたっぷりと話していたのは聞いていたが、活字となった本作は、以前に出版されたエッセイの『社会人大学人見知り学部卒業』ともまた違う印象を受けながら、郊外のマクドナルドでむさぼるように読み進めた。
 何とかかんとかホテルに着いたり、ガイドに案内されながら街並みを観たり、闘鶏場に行って葉巻やラム酒を覚えた、お金よりもコネクションが優先されることを知って「お金のほうがフェアなのかもな」と思ったりする。風景だけでなく、キューバの人々も血が通った愛くるしいキャラクターで語られる。
 そして、本の最後では、少し前に若林の父親が亡くなったことが明かされる。
 若林の父親キューバに行きたがっていたという。とはいえ、若林がキューバを訪れたのはそれだけが理由じゃないだろう。仕事が安定して落ち着いていることで長期の休みが取れたということもあるだろうし、先輩の前田健が急逝したことも理由のひとつかもしれない。
 タイトルにもなった二匹の犬。
 若林は、真っ昼間の炎天下で、死んでいるかのように寝そべっているけれども、「なぜか気高い印象を受け」させたカバーニャ要塞の野良犬に、解説を書いたこともある藤沢周の『オレンジアンドタール』に感銘を受けたころの自分を投影したのだろうか。それと同時に、表参道の「サングラスとファーで自分をごまかしているようなブスの飼い主に、甘えて尻尾を振っているような」セレブ犬に冷ややかな視線を向けながらも、売れて何年も立ってお金や地位を手にした自分を見てしまうのだろうか。
 そういった矛盾も内包した、マーブル色のように複合的な存在は、若林が感銘を受けたという、小説家の平野啓一郎が提唱する「分人主義」のそれだ。
 多くの人は理不尽なことに出会った時に、そういうものだ、と納得したり、納得出来ないということに納得して、そのことを突き詰めることなく自分の気持ちを収める。何故ならそのほうが楽だからだ。ただ、若林はそうしなかった。自分を苦しめていたものの正体を納得するためにキューバを訪れた。
 その行動を起こそうとしたという性格が、社会に対しての窮屈さの理由となっているのかもしれない。例えばそれは、数学の問題を解くときに使う方程式を成り立ちから調べるというように、道のりを遠くしてしまうことと同じなのかもしれない。ただそれが必ずしも間違っているかというと、迂回してたどり着いた当たり前の結論は、納得したふりをしたものと同じでも強度が違うはずだ。そう信じたい。
 インターネット上で話題になる、いわゆる炎上案件についても、誰かの答えが自分の答えに近いなと思うだけで納得した気になってしまう。果たして、不倫をした人をバッシングする人全員が、不倫をしたいけど出来ないからという嫉妬だけでそんなことをしているのだろうか。
 そりゃ、インスタ映えという言葉を揶揄したりすることもあるが、美味しかった写真を撮ることもあるし、「いいね!」が欲しいときもある。「メロン畑に除草剤をぶちまけたの、松浪健四郎らしい」とツイートした時に全然、いいね!されなかった時は、楽屋に戻るなり、「ダメだ、今日の客は重いよ」と言いたくなったぐらいに、ウケたい。
 「もっともらしい答えが容易に手に入る時代だからこそ、引っ掛かることだけでも、立ち止まらなければならない。」
 『カバーニャ要塞の野良犬と表参道のセレブ犬』を読んで、そんな当たり前の結論に、到達した。
 活用出来るかは分からないけれども、データを取り込んで雑に聞き流して終わりという音楽との付き合い方を変えるために、とりあえずレコード屋に行ってみようと思った。