言う資格論

 荻上チキの『日本の大問題』を読みました(大学を出ているので)。平易な言葉で勉強になることが沢山書かれていて、良い本でした。

 中でも、「粗雑な分析に引っかからないために」というパートでの、「私はその国の言語を話せない人の分析はあまり参考にしないようにしています。」という一文に、確かにそうだな、と今更ながら思いました。

 言われてみれば当たり前だけれども、ものすごく明確な基準です。

 そして、ここ最近考えていたのは、「言う資格」ってあるよなあ、ということです。最近の僕たちは、言う資格のない人の言葉に踊らされすぎている。

 そんな人たちが文脈も背景も何も知らないまま、土足で入ってくる。そこにイラついては、攻撃的になってしまい、自分たちもそこのフィールドを攻撃する。無間地獄である。

 例えば、舞台に立ったことないのにお笑い評論をする人(僕とか)、楽器の一つも弾けないのに音楽評論をする人、『現代落語論』を読んでいないのに立川談志の「業の肯定」「イリュージョン」を引用する人、「アイドルだって人間だから恋愛するよ」というアイドル、脱税しようとしていたのに社会に物申す脳科学者(課税額の多寡が社会に物申すこと代ではないが、納税を忌避するならば社会に物申すことを放棄しなければならないと思う)、都合のいい時だけ女芸人を利用するジェンダー論者、ラジオの書き起こしを見て放送を聞かないファルコニスタ、総じて、そのことについて言う資格がないといえば、ないのである。

 先日、鳥越俊太郎が「私はキャッシュレス派だから」ということを話していたが、何々派と名乗るからには双方を体験してからでなければ言ってはいけないと思う。

最近はイヤホンを有線のものを使っているのだけれども、それはBluetoothイヤホンもそれなりの年数を使ってきて、充電の手間やペアリングまでの数秒がストレスである、ラジオを聞くだけなのでそこまで音質にこだわる必要がないなどの理由を総合して現在そうなっている。

 僕がBluetoothのイヤホンを使ったことなく、有線派である、というのは、いや、お前はただ使えていないだけだろ、となるのだけれども、鳥越俊太郎はそれをやっている

それは別に問題ないのだけれども、なら、ジャーナリストを名乗るなよな、と思う。

 キャッシュレス社会には、様々な問題点があることくらいは、単に生活をしているだけで思い浮かぶ。例えば、災害がいつ自分の生活圏内で起こるかどうかが全く分からないという昨今、電子マネーは電気が通じていないと何も出来なくなる、またそれを利用することで、お店側に手数料がかかるため、まわりまわってデフレやブラック労働を促進させてしまうという効果が出てくるだろう。また、「〇〇(電子マネー

種類)で」と言葉にするのが凄く面倒というのもある。これは、僕の「心の問題」なのだけれども。

 とまあ、完全にキャッシュレス社会に移行することは日本では危ういことでもあるということを述べるのがジャーナリストとしての責務ではないのか、とも思う。

ただ、鳥越俊太郎は老がい(配慮した表記)である、ということを言いたいわけではなく、その人に、それを言う資格があるのか、ということを考えることは一つのメディアリテラシー足りえるんじゃないだろうか、という提唱をしたいわけである。

 誰もがおしゃべりな時代だからこそ、自分だけでも、こいつはこれを言う資格があるのか、その言葉には飛びつく価値はあるのか、ということを考える。そうすれば本当に聞くべき言葉が浮き出てくるはずである。

 炎上の自家発電から抜け出すためにはそうしなければならない。もちろん、抗う時もないと、いつのまにかそんな奴らに乗っ取られている、ということもあるので判断が難しいところではあるのだけれども。

 ただ、言う資格に囚われすぎるのも、考えものだと思います。

 僕みたいに、朝井リョウがハライチとうしろシティにしょっぱい喧嘩を仕掛けていると噂で聞いては、放送の該当部分を聞いてみないことには判断が出来ないということで、放送をイライラしながら聞いていたら、実はその前の週の放送で無駄につまらない話を聞いてしまったとか、能町みね子が神田松之丞を褒めているけれども、その文章が僕が嫌いな「今まで聞いていなかったくせに自分に都合のいい時ことだけを聞きはじめたやつ、しかもそのことに保険をかけている(「面白いと噂には聞いていたけど手をつけていなかった」的な、アンテナは張っていたんですよ」というやつ。この文章は総じて言い訳で、ゼロ年代の頭に死滅すべきだった文章のテクニック)」というものだという噂を聞いては、本文を読まなければと図書館にいって週刊文春を探しに言ったら無かったという徒労のせいで、後輩との東京03の単独ライブのライブビューイングの待ち合わせに遅刻しかけたりするので