鼠穴とグロテスクさに、少し泣く。

 先日、自転車で140キロ走ってきた。自転車をこいでいる時は、足が爆発しそうになっている半面、上半身と頭は元気なので、割と暇な気持ちになるので、海を見つつ、「俺は、落語や落語家が好きというよりは、古典落語が好きなだけだから、落語家になってもすぐに言いわけして廃業しただろうな」とか考えていた。
その間、僕に置いて行かれた妻は、落語会に行ってきたとのこと。僕の影響で落語会には行ったことあるのだが、一人で行ったのは初めてで、それはとても嬉しかった。何をやっていたのか聞くと、「鼠穴」だという。
 ふと思い立って、『笑う超人』の特典映像の立川談志の「鼠穴」を二人で見ることにした。
 そこで、立川談志が言っていたセリフに思わず泣いてしまった。
 長くなるけれど引用したいと思います。
「私がやっているのは非常識、常識が無くなって非常識が出てくる、その非常識のもっと奥にある人間の芯てえ、業(ごう)みたいなのが出てくる。全く説明のつきようがないもの。これをやっていいものは、藝術家とスポーツマンだけだ。殴りっこってのはいけないんですよ。ぶん殴るなんてのは。だけど、ボクシングというのを借りれば殴りっこもいいと。気障にいうと、常識という非常に狭い部分でしかつながらない、お互い様。うん、わずかなもんだ。だからつながってないところで、いる人たち。例えばダウン症の子供なんかつれている母親とかこう見てると、我々の知る、親子なんていう絆では桁が違うという、太いものでつながれてるな、というのをひしひしと感じます。では、それらグロテスクなものも含めて、人間の中に入れとくもの、それが無くなったから次から次へと出てくるグロテスクな犯罪。あれはみんなが望んでるんです。あれを出ることによって、やだね、と言って自分のあれを添えるんです。だからそのグロテスクなものを藝術は出してくる、映画でいうと、フェリーニみたいに、どっちかというと常人とつながらない、唖であるとか小人であるとか背虫であるとかという常人と同じサイクルというか感情でつなぎあう方法をもてない人達の了見、ああ、この了見な。これがあるかでないかで芸人決まるんだ。爆笑問題にはそれがあると思ったから、行けってわたしは言ったんだ。」
 この映像は、最初見たときは本当にすごかったと感じたのだけれど、久々に見てみたら、ここ最近寝る前に聞いていた30代から50代の立川談志と比べると、やはり老いや勢いの衰えを感じてしまったのだけれども、この部分には震えてしまった。

 2006年の年末に出演してその五年後に亡くなってしまう立川談志が、30周年を迎えた爆笑問題に今年向けられたビデオメッセージのようでもあるし、何度もこの部分を見ていたはずなのに、最近考えていたことの答えを教えてもらったんだろうと、頭の中の時間軸がぐちゃぐちゃになってしまった。