『M-1グランプリ2018』で立川志らくは何をどのように審査したのか。

 『M-1グランプリ2018』を見ました。第一回大会からずっと見続けて来て、初めてリアルタイムで見ることが出来ませんでした。というのも、シソンヌのライブ『モノクロ』を見に行っていたからです。だから、よく聞く情報を遮断するという行為自体が初めてでしたが、無事に何も情報を得ないまま帰宅して、録画を再生することが出来ました。危なかったのは、会場で、絶対にネタバレをペラペラ喋る奴がいるなと思っていたので、開演の前後ギリギリまでラジオ聞いていたんだけど、同行した奥さんが言うには、僕の隣でやっぱり「ミキが敗者復活で言ったらしいよ」とネタバレを話している人がいたらしいのですが、それを始めとして避することが出来ました。冨樫漫画を読んでいて良かったです。
 大会としては、芸風がバラけていて、いわゆる多牌ってやつで、誰が優勝してもおかしくない空気がビンビンで、それこそ、初期の大会のようでした。加えて審査員も、いろんな背景があって、文脈フェチにはたまんなかったです。そこも味わって良いんですか、みたいな。そして、その期待を裏切らない、めちゃくちゃ好きな大会になりました。
 立川志らくが、審査員になるという発表を聞いたときは、もちろん立川談志が審査員に来て、むちゃくちゃな空気にしていたことを思い出させたのですが嬉しく思いました。
 妻がシソンヌのライブに行く前に、「志らくに漫才の審査なんて出来るのかね」と軽口を言ってきたので、「まず、志らくは若手のころに深夜番組で漫才とかコントをやっていて、若者の人気を得ているんだよ。これは『雨ン中の、らくだ』に詳しいんだけど。で、立川流は寄席こそ出られないものの、ぜんぜん舞台で漫才師とも共演しているのよ。これがベースね。で、漫才と落語という演目の違いはあれど、立川流には二つ目、真打と昇進するためには明確な基準があって、志らくももちろんその審査を乗り越えて真打になった。それから、弟子をとって、何人も真打にしてきている。てことは、志らくは、審査というものが身近にあるんだよ。それだけで言えば、志らくは、恐らく今回の審査員のなかで一番、審査してきたし、されてきたと思うんだけど、それを理解したうえで、同じ質問言えるかな。」ときちんと論破しました。そのくらい、嬉しかったです。
 ただ、ひとつ気になったことがありまして、立川志らくの審査がめちゃくちゃ叩かれているということです。ネタの後の寸評を聞いて、ああ、ぶれていないなあ、ちゃんと演芸としての目線で審査しているなあとか思っていたのですが、叩かれている!
そのことに衝撃を受けて、モヤモヤしながらも寝て、でも、朝起きたら、「志らくの審査批判はちょっと落語への敬意や流れを踏まえてなさすぎだと思う。」と暴れてしまいました。
 ただ自分でも自信が無くなってきて、上沼恵美子のミキへの98点みたいな判断をしているんじゃないかなと心配になってきたので、M-1での寸評を書き起こしてみました。   
 そこから、志らくは何を基準に審査をしたのか、考えて行きたいと思います。
点数については、数字のマジックがある気がするので、今回はあくまで寸評だけを見ていきたいと思います。
どこをM-1の感想の縦軸にしてるんだっていう話ですが、まず、一覧をご覧ください。

 

■見取り図
「最初聞いているうちはなんか新しさがないから、あ、これはほんとに50点くらいつけようと思ったんですけど、だけど、あの、マルコ牧師で70点くらいまで跳ね上がって、須田えり子で85点まで跳ね上がった。」

 

スーパーマラドーナ
(指名なし)

 

かまいたち
「いやあ、あのぅ、ものすごくうまいし、えぇそれから、おもしろいし、上手さを感じすぎてしまったんで、本当に面白い凄い漫才師、ここら辺(審査員席)にいらっしゃいますけども。上手いとか感じないですよね。もうとにかく、うわ、おもしれえ、すごい、上手さの前には、あのー、魅力ってのが現れたらば、太刀打ちできないんですよ。だからすごい上手いと思ってしまった。えぇ。発想からいったら、さっきの猟奇的なやつのほうが、発想としては凄いと思ってしまった。同じ点にしてしまったのですけれどもね。」

 

ジャルジャル
「実は私ずっと見てて、一つも笑えなかったんですよ。だけどもものすごい面白かった。だから、これがプロの芸人を笑わせる、あの芸なのかな、というふうに関心して。で、プロがあんまりゲラゲラ笑うようなのっていうのはそんな面白くないんです、本当は。頭の中めっちゃくちゃ面白かったんです。最初はふざけてるだけで、くだらねえなって思ってたんだけど、だんだんこのノリはね、昔のあのコント55号を思い出す感じにもなってきて。とんだ漫才に、私は惹かれましたね」

 

ギャロップ
「おそらく広い劇場とかでのんびり見てると面白いんだろうけど、テレビサイズで、ひときわこっち(舞台)と、モニター見てたんだけど、禿げ方があんまり面白くないんですよね。遠くで見てると面白いけど、モニターで見てると、大して、どこにでもいるハゲだなあっていう感じで、あんまり面白くない」

 

■ゆにばーす
「出てきた感じとか、それから見た目とか、声の雰囲気とか、ものすごく面白い感じがするんだけれども、それほどでもなかったのかなと。まあでも、はらさんのほうは、ほっといてもきっとテレビで売れるんじゃないですか。そのかわり、でも漫才は別れちゃ駄目ですよ、絶対に。」

 

■ミキ
「恐らく今日やった漫才のなかでは一番素晴らしいし、今後30年40年、漫才師として生きているのは、恐らくこのお二人だろうと、思います。ただもっとなんか凄い新しいモノをどーんとこういう、なんか、欲しいですね。なんか心が揺れるくらい、うわーっ、すごい、この発想は我々には到底及びもつかないっていうような。ものすごい新しいものがあったらば、10点くらい上乗せしましたけれども。」

 

■トム・ブラウン
「なんなんですか、あんたたちは。意味も全く分かんないんだけど、衝撃を受けましたね。だから、もしかしたらこんな変な奴等が好きなのかもしれない。だから、今ものすごいがっくりしているのはもうネタが聞けないっていうことですよ。二本目いったいどんなのが来るのか。だからM-1では敗退したけど、わたしはあなたたちを追っかけますよ。」

 

霜降り明星
「一番あのー現代的で、ほどがいい、あの漫才なんでしょうね。だから会場もひっくり返ってウけてて。であとは、うるさ型の人が、たとえばあのお笑いに関係ない、尖がった芸能界の人や文化人が、彼らに食いつくかどうかっていう勝負でしょうね。大衆は彼らをものすごく支持すると思います。」

 

■和牛
「ゾンビにそれから殺すってワードが出てきて、非常に最初は嫌な感じがしたんだけども、全体でものすごく品があるんですよね。品があるから、ゾンビって言おうが殺すって言おうが、どんなことをしても、楽しく聞けるっていう。それはやっぱり、お二方が持ってる才能でしょうね。」

 

 どうでしょうか。
 書き起こして一読してみると、改めて、これはやっぱり、落語家が漫才師を審査するということに一定の線を引いて踏み込み過ぎず、かといって落語家という目線から一切ぶれていないと改めて思っています。ほぼ我を出していない。
 そして気付いたのは、立川談志の名前を、冒頭に「(過去に同じ舞台で)50点をつけてピリつかせた」という話以外出していないということ。もっといえば、「業の肯定」や「イリュージョン」という言葉を使わずに、審査の点数の説明をしている。
いくらでも流れ的に「談志がいうところの」とか使えるのに、使っていない。これだけで、タレントの立川志らくとして来ているわけではないということが存分に伝わってくる。むしろ、立川談志の審査こそが、お墨付きをもらえるか、否定されるかの一か八かのギャンブル性が強いようなものだったので、立川談志よりも真摯に向き合っているとも言えます。
 これらの中から、ワードをさらにピックアップしていきたいと思います。
 まず、かまいたちへの「上手さを感じすぎてしまった」。
 落語には、桂文楽古今亭志ん生論争みたいなのがあって、それは何かと言うと、寸分違わず同じ芸を見せる文楽と、ネタの出来の当たり外れが激しい志ん生、どちらが好みかというものだ。間違いなく上手いのは文楽なのだけれど、ホームランの本数が多いのは志ん生なんじゃないか、好みはどっちだという話である。
 漫才でいえば「台本が見えてしまう」「練習量が見えてしまう」というところであろうか。台本があって、さらに何度も何度も練習をしているのに、互いが初めて話をしているていで、漫才は進んでいく。観客もその嘘を共有し笑う。これは冷静に考えるとものすごく矛盾をはらんでいる構造で、だからこそ、絶妙なバランスで成り立っている演芸である。
 かまいたちの漫才、漫才中にパワーバランスも入れ替わり、構成も見事で、ブラックマヨネーズの漫才により緻密な計算が加えられたようなもので、ものすごく面白いんだけれども、だからこそ、先述したバランスが崩れてしまったように志らくには思えたのではないだろうか。 
続いて、霜降り明星への「尖がった芸能界の人や文化人が、彼らに食いつくかどうかっていう勝負」。
 立川談志ビートたけし爆笑問題ダウンタウン、は、実際、そういったうるさ型に注目されて、天下を取ってきた。それは志らくの若いころも同じで、だからこそ、天下を取るためには、そういった連中に語られてなんぼであって、この評価軸は絶対に必要であるこということを理解している。
 何故、霜降り明星にこう言ったのか。
 それは、志らくは、霜降り明星について「大衆という評価軸ではすでに満点を取っている」「大衆だけを相手にするならそのままで何の問題も無い」と思っているからではないだろうか。
 志らくが、霜降り明星に入れた点数は93点と、ジャルジャル、トム・ブラウンに次いで三番目ではあるものの、これはほぼ絶賛といっても良いのではないだろうか。
だから、この言葉は十年二十年後の霜降り明星に対しての「芸の重さも手に入れても損はないぞ」というアドバイスだ。あとあとから効いてくるやつ。
 ちなみに、学者は学者でも茂木健一郎はうるさ型ではなく、ただうるさいだけなので、あれに評価されても何の意味もないです。国税局に目をつけられて終り。 
続いて、トム・ブラウンへの「こんな変な奴等が好きなのかもしれない」。
落語の世界では「フラ」という言葉がある。これは、「言葉や理屈では説明出来ない面白さ」という意味で、説明できないということを説明する言葉で、「あの芸人はフラがある」などと使われる。
 今回のメンバーで一番未知数であったトム・ブラウンは、それをまとっていた。幻想と言い換えてもいい、絶対に面白い漫才をするという空気。
 「サザエさんの中島を五人集めて中島MAXを作る」というそれこそイリュージョンなでめちゃくちゃゃな、トム・ブラウンの漫才、実は「平成ヒットメドレー」とかツッコミが面白いワードを入れてそこで笑いを取っていたり、「誰か分からない女が来たと思ったら(これがボケになっている)、それが花沢さんで、花沢さんが呼んだから中島が五人そろって中島MAXが出来た」とか、よく見たら構成もテクニックも上手いのだけれども、ナンセンスさや90年代ギャグ漫画からそのまま出てきたような佇まいがそれをかき消して、その上手さが上手くかき消されている。一回見ただけでは、上手いという評価をくだす人はそんなにいないだろう。これが計算なのかは分からないが、これが志らくのいう、上手さを感じさせない漫才の一つとも言える。
 それが、同じくらいぶっとんだ発想をしているランジャタイ(大好き)、金属バット、Aマッソなどよりも先に決勝に行けた理由だろう。
 ギャロップというか林への「禿げ方があんまり面白くないんですよね」については、やっぱり、他の面白いハゲと比べると林は禿げ方で負けちゃってますよ。桂枝雀やら、笑福亭鶴瓶やら、海原はるかやら、ブラマヨ小杉やら。林は白髪もあるし、頭の形もボコボコだし。ダイアンのラジオで、林にはめちゃくちゃ笑っていましたが、動画で見たら、少し「こんなにおじさんだったっけ」となってしまいましたもん。そういった悲壮感が林の持ち味だと思うのですが、こと今回のネタに関しては、それがただ積み重ねられるだけで終わってしまったので、ハゲが武器にならなかったのかな、と思いました。
振り返ってみても、僕は志らくからは、「イロモノを上から審査する」という目線は一切感じられず、他の審査員と同じくらい漫才というジャンルと若手漫才師への敬意に溢れていた審査だと思っている。そのなかで「大衆に向けた伝統芸能」という相反する落語の価値観に基づいて、審査をしている。「全体でものすごく品がある」とかは、落語家の価値観だ。
 審査員が持っている基準は、大別すると「大衆、伝統、技術、発想、ニン」の五つのパラメーターになっていて、それぞれが何に多めにゲージを振り分けているかを考えるという遊びを提唱したいと思う。
 これまで紹介した寸評から推理すると、志らくは、「発想とニンを重視し、技術や大衆はそこまで重視していない」という見たてが出来る。オール巨人は技術を重視しているだろうからそこと志らくの違いはやっぱり、漫才と落語の違いだな~とか、上沼は大衆のゲージが大きいけどやっぱり審査員の中でその役割を持っている人は外せない、などとぶつぶつと考えていけば、きっと審査員席全体でのバランスはものすごく良いものになっていると思う。
 「今後30年40年、漫才師として生きている」「尖がった芸能界の人や文化人が、彼らに食いつくかどうかっていう勝負」という言葉のとおり、志らくオール巨人よりも先の未来を見ているような気がしないでもない。生涯、漫才師たりえるコンビかどうか。
 これらの理由で、僕は志らく師匠の審査はとてもよかったと思います。
 ガッテンしていただけましたでしょうか。