いとうせいこう『今夜、笑いの数を数えましょう』の「第四夜 枡野浩一」の雑感

 第4夜は、歌人枡野浩一がゲスト。
 今回は、「見る」「見られる」、そしてそこから転じた「観客」がテーマになってきます。
 見るといえば、見るのが上手い人という意味の見巧者という言葉があります。 
やや鼻につく嫌な言い方をすると素人の玄人というような感じです。嫌な言い方をするなよ。
 今回のゲストの歌人の枡野は、見巧者だ。というのも、M1グランプリ2016のファイナリスト全8組を予想して当てるということをしているからで、それは多くの芸人を見ているというだけでなく、準決勝までの審査員の視点をもっているということに他ならないからだ。枡野は「見ている人」の傍ら、自らも一時期はお笑い事務所に所属し舞台に立っていたという経歴も持っているので、「見られる」ということも経験している。なので、この章は、お笑いファンとしてはある意味、一番噛み締めないといけなければならない章にもなっていると思います。
 枡野がどのようにしてファイナリスト8組を当てたのかというと、「他と比べた時の珍しさとか、去年と比較して成長があるか」「テレビでの人気度、知名度はあるけど、面白さがそれほどでもなかったものや、自分が個人的に好きなものは外しました。それから『Mー1』は漫才だから、コントっぽいものも外していった」とありここまではまあ何となく分かるという回答なのだけれども、加えて「あとは、ダウンタウンの松本(人志)さんが観た時にバカにしないものっていう基準で選んでいった」と話していた。
 この基準。
 これは松本人志への忖度とかそういうのではなくて、M1にしろ、KOCにしろ、決勝戦の審査員であり、ほぼ事実上、番組の顔の一つとして松本人志である以上、目がけるとまではいかないにしろ、意識していないとダメな基準だろう。
 準決勝までの審査員は松本人志に限らず、全レジェンドたちに見せても恥ずかしくない人を選んでいるはずなので、ただ「面白い」だけでは足りない(個人的にはざっくりと伝統と革新、大衆と知識人というざっくりとした分け方をした場合、2018年のM1グランプリの審査員はものすごくバランスが良かったと思っている。)。
 また、自分たちのネタは「あの松本人志が見ても恥ずかしくない」という視点を持つということは、バカリズムの章で話していた、打率を上げることに必要な客観的視点を養うはずである。それはラジオへの投稿で、パーソナリティーのツボをめがけてネタを書くのとある種似ているような力学が働いているはずである。
 賞金10万円とかでもいいから、爆笑問題1グランプリをやればいいのにと思うが、例えば、僕は深夜の馬鹿力カーボーイにメールを送る時に、これは伊集院さんが言うラインにあるか、爆笑問題の漫才に出てきてもおかしくないか、ということを一応考える。他にも、パーソナリティに脳内で喋らせてみるということをする。
 例えそのレベルだとしても、「審査員に見られても恥ずかしくないか」という自己の基準を持たないといけないというのは重要な指摘だろう。その視点を持っていたら、「発音良いな!」というボケは入れないはずだ。
 いとうと枡野の話は、テレビとライブの違いについて移っていく。
 例えば、「映像になった時に何かが損なわれたネタ」について、ここで言われている何かというのは、「何か」そのものであって、単に生で見ることから感じられるダイナミズムというだけではなく、それはネタそれぞれによって異なるものだと思うが、枡野は具体的に、マツモトクラブのネタは「生身の声と録音の声の掛け合いが面白いのに、映像として見ると、どちらも同じ声になってしまう」、ハリウッドザコシショウはテレビで見ると頭が本当におかしい人にみえて、そこで笑いのブレーキがかかる、というもので、逆にテレビを通したほうが面白いのは、アキラ100%のネタだと話す。アキラ100%は舞台で見ると生々しいらしい。そりゃそうだ。
 お笑い評論で、舞台からテレビに移動するときに「損なわれる(た)何か」について論じているのを見たのは初めてのような気がします。
 テレビで見られるということを前提としたネタを作ったということを話していたのを聞いた記憶で一番古いのは、ふかわりょうだ。ふかわの代表作「小心者克服講座」は、矢継ぎ早にネタを言っていくことでザッピングの手を止めてもらうということを意識したという。もちろん、ふかわりょうが売れたことはそれだけが理由ではないにしろ、その戦略は功を奏したのだろう。事実、それからしばらくしてお笑いはショートブームへと加速していくことになるので、慧眼と言うほかないだろう。他にも、同じように要因なのか、後付けなのか、今となっては全く判断できないが、ハリウッドザコシショウが、白いブリーフから黒ブリーフにしたら、R1ぐらんぷりでそのまま優勝した、という話もあったりする。
 ただ、それが単なる後付け、結果論と一概にはいえないのは、いとうが「笑うってことはある種その場を許容するってことでもあるからね」と話しているが、許容しているから笑うということも逆もまた真なりで、ないことはないはずだからである。
 売れるためにはどうしたってテレビという媒体を通さないといけないが、そのためには、自分たちのネタが、平面な画面に収まることでどう見えるのかということを意識して、その時に何が損なわれるのかということをきちんと把握して、駄目なところを潰し、映えるところを伸ばさないといけない。
 以前、オードリーの若林が、「iPhone(のように簡単に録画出来るもの)があるのに、稽古を録画してそれを見ないという若手がいるのが信じられない」という話をしていたが、このような視点の話だろう。
 枡野はにゃんこスターの『KOC』でのネタを見た時に「テレビ映えするし、テレビでも損をしないネタだ」と思ったと言っているが、こういったネタ作りのセンスについて、先日の『ENGEIグランドスラム』で「お笑い第7世代」をフィーチャーしていたが、霜降り明星ゆりやんレトリィバア、かが屋この世代で抜きんでている人達は恐らく、それが身についている。
 テレビが基本的に「立体感が削がれる」といった特性を理解しているからこそ、脳内で自分達のネタをテレビ画面を通して見た場合をシミュレーションできているのではないか。それはきっと、彼らを育てたのが、ライブではなく、テレビのネタ番組がベースにあるからなのかもしれない。
 さて、笑いとテレビについて、今語らないといけないことの一つとして、誰も傷つけない笑いというキーワードがあり、とくにここ数年よく見聞きする。
 それについて、いとうが話していたことがすごく重要なので全文引用したい。
 いとう「それに気をつけること(※注;誰かを傷つけるのではないかと考えること)自体は悪いことではないと僕は思う派なんですよ。人を傷つけて成立している一方的な笑いは根本的に面白くない。だけど、無色透明な笑いがいいのではない。やっぱり弱い人を攻撃する笑いが卑怯なんですよ。多数とか強い立場とかから弱いやつをからかうのは、単純な下ネタみたいに簡単だし、テクニックもいらいない。ただし、そこで誰が弱者か判定していくのは、テレビのスタジオにしかいない人には体感として無理になってくる。その上、あれもダメこれもダメと手足縛られた場合に笑いに何が残るのか、心配はある。うなぎの稚魚が少ないよ、なのにうな重なんか食うなよみたいなことと似てるよ、これ。」
 「うなぎの稚魚が少ないよ、なのにうな重なんか食うなよみたいなことと似てるよ、これ。」という例え自体が面白いことはさておき、配慮の欠如や問題があるもので炎上するものについてはもちろんのこと、例えば、この章にも出てくる、ゾフィーの「メシ」のネタのように本人たちに非がなくても炎上してしまうということもある。初めてこのネタを見た時、爆笑したのだが、まさか炎上するとは思わなかったので本当に驚いた。そして余談だが、このゾフィーの「メシ」のネタには良い話があって、ライブ界隈では、良いネタがあると噂で広まるらしく、このネタも同様に広まっていき、めぐりめぐってネタを作ったゾフィー上田のところに「最近、メシメシ言うめちゃくちゃ面白いネタがあるけど知ってる?」と言われたらしい。
 めちゃくちゃ面白いし別にこれは誰かを傷つける意図がないものであるということが分かっていたとしても、これ炎上するんじゃないかと思ってしまうこと自体がノイズになってしまうことがある。そして、そういうことを過剰に意識しているつもりでも避けられない時がある。一度、自分でも「妻を論破した」と書いたら、軽く叩かれたことがあった。  
 これまでにこのブログの記事を読んでいる人や、一定の読解力があれば、それが笑いやフリ、前置きのためにあるものだと分かるはずなのだけれど、読む人が増えれば増えるほど書いた人の手を離れてただ単にモラハラをした人になってしまうとそういうことが起きたりする。
 逆に、不特定多数ではなく、特定の誰か(そこには信頼できてシャレが通じ合う関係性が出来ているという大前提がある)に目掛けて言ったことが、そこに属する人たち全体を傷つけるということもあり得る。
 政権批判だって、広い意味で言えば、官僚や政治家本人とその家族を傷つけることになる側面もある。これは詭弁だろうか。
 また、同性愛などを笑いにしない人たちは、単にコスパが悪いからやらないだけで別に差別をしないからではないという可能性もあるし、全くおもしろいと思っていないだけということもあるので、誰々の笑いは傷つけないから好きというのは早計だと思います。

 こんな感じで、この章については、観客として思うことが山の様に出てきて止まらないのですが、最後にひとつだけ、個人的にタイムリーなことも書かれていました。それは枡野が「電気グルーヴの『かっこいいジャンパー』という歌にうまく説明できないセンス」と話していた箇所。この話のあとに、枡野は「企みじゃないくらいまでに見える無作為さが面白い」と続ける。
 電気グルーヴがタイムリーというわけではなく、先日見た『ENGEIグランドスラム』でかが屋がネタをやっていたのだが、ネタの肝となるところに、木野花という女優を用いていた。この木野花というセンスはとても最高だった(※どう最高だったのかは、先日ツイートした文を最後に載せてます)。
 ふかわりょうは以前、「黒沢年男はあるあるでのジョーカーなんですよ」と言っていたがそれに近い。このジョーカーというのがキーワードであり、それこそ上手く説明できないが、今だと、高橋英樹真麻親子とかはこれに近いような気がする。
大喜利の問題を出された時に、3番目までに出た答えでも、20番目に絞り出した回答ではない感じ。この感じに関しては、枡野が俳句の世界での言葉「つきすぎ」を出して色々と話していますがそこは本文で。
 こんな感じでマジでキリがないのでこの章はこの辺で。

 

 

 

 

 


 『ENGEIグランドスラム』でのかが屋のネタが凄かった。コロンブスの卵の様に簡単に言ってしまえば「スマホの画面がくるくる回る」ということを面白いと思うネタなのだけれども、凄かった。スマホのあるあるを持ってくるというそのデジタルネイティブなセンスが、平成育ちということを感じさせるが、実は、このことは、ジャンガジャンガ的な「間の抜け」による笑いなので、スマホを使っている人であれば年代を問わない全員に伝わる笑いとなっている。
 強いて言うなら、恐らくこのネタは舞台よりもテレビで見た方が面白いネタで、それが平成産まれのセンスということになる。
 そして巷に氾濫しているセオリーに沿うのであれば、この笑いどころをネタの頭に持ってきて最後まで引っ張るのだが、かが屋の凄いところは、それをせずに、逆に前半全てを、このことを「何の打ち合わせをしているのか」などの観客に疑問をもたせるなどのフリをカムフラージュしているところだ。この勇気と技術に震える。そしてそのことで、このネタに緊張が産まれ、貯めの状態が作られる。
 そして何よりも巧みなところは、一番最初にスマホ上で木野花の画像がくるっと回ったときは、本当に「よくあるハプニング」だと思わせられたところだ。その後、それが繰り返されることによって、観客はここが笑いどころだと気付き、一気に貯めが開放される。
 そういった構成の妙だけではなく、何より、木野花というチョイスが素晴らしい。バナナマンの名作コント「宮沢さんとメシ」での宮沢さん、『KOC』でのバッファロー吾朗のネタでの市毛芳江を彷彿とさせるチョイス。
 かが屋、すげえ。