石をつかんで潜め(Nip the Buds)

ex俺だって日藝中退したかった

大竹まことの『俺たちはどう生きるか』感想

大竹まことの『俺たちはどう生きるか』を一気に読んだ。

最初の、風間杜夫の話から引き込まれた。大竹まこと風間杜夫は若い頃、一緒に暮らしていたという。風間杜夫との思い出話から始まり、再び交流が密になったという話が書かれている。

他には、一度、大竹まことツイッターが炎上していたことについても書かれていた。

その時に、ネット上に「大竹まこと老害だ」と書かれているのを見て笑ったことを思い出した。なぜ笑ったのかというと、少なくとも、知っている限りで大竹まことは30年近く老害をやっているのだから、何をいまさら、と笑ってしまったのだ。

大竹まことが書く文は、テレビでの印象と同様に饒舌ではない。むしろ、上手いほうでもないとも言えるかもしれない。しかし、テレビでの印象と同じように、ぼそぼそと溢れるようなその文は、そうであるからこそ、大竹まことというフィルターを、時間をかけて通ってきた一滴一滴が集まったような濃密な言葉たちに感じることが出来る。

そこには古稀を迎え、老いも若さも、すいも甘いも、豊潤も枯れも経てきた、大竹まことが存分に詰まっている。

15年ほど前に、同じようなエッセイ本『結論、思い出だけを抱いて死ぬのだ』を書いていたように、抱いてる思い出をひとつひとつ片付けるように文章にしている。

例えば、劇場で壁に寄りかかっている長身の男に亡くなった永六輔の影を見たり、売れない頃よりも前の何者でもなかったころに出会った女の話、シティーボーイズが『スター誕生』に出ていた頃、あと一周で勝ち抜けれるという9周目で敗退したことを振り返っていたりする。それにつづく、「もし、栄冠を勝ちとっていたら、多分、私はここにはいない。ここがいい場所かどうかはわからない。しかし、ここにはいない。」という言葉は、30代の自分でも、噛みしめるべきものだと感じた。

この本には結局、俺たちはどう生きるかという答えはないが、強いていうのであれば

この一文を意識して生きていくしかないのだろう。

『結論、思い出だけを抱いて死ぬのだ』との出会いは、とある人から譲ってもらったことだ。その時は、そんな大好きだという本をもらったことは、その人に認められたようでとても嬉しく、今回と同じように、一気に読んだ。

特に、大竹まことマルセ太郎という芸人の通夜に行ったことを書いた「家などいらんが」はその人からも強く勧められた名文で、特に、大竹まことが通夜で出されたゆで豚を食べるシーンの「ゆでで薄くスライスされた半透明のそれに、赤というよりはオレンジに近いコチュジャンをたっぷりつけて口に運ぶ。瞬間、甘さが口に広がるが、数秒ともしないうちにベロの付け根あたりからピシッと辛さが先ほどの甘く感じた部分部分に、まるで杭を打ち込むようにおさえ始める。酒を飲めば今度は逆に辛さが溶ける。本当においしい。」は、本当に美味しそうな描写で、何より通夜の席の話であるというコントラストも含めて、人生の切なさが感じられる文章になっている。

とはいえ、その本をくれた人とも疎遠になってしまった。

一時期は東京に遊びに行った際には毎回お酒を飲むなどしていて本当に楽しかった。だからこそ、調子に乗っていたし、どこか浮かれていたのだろう、疎遠になった理由になるようないくつかの「しくじっていたんだろうな」が頭をよぎる。それと同時に、しくじられていたというわけでもないけれども、それは違うなと思ったことなども思い出す。そうなると、まあ、もともと合わなかったんだろうな、と諦めるしかない。

人間が不出来なので、今後も同じような出会いと別れを繰り返していくのだろう。