石をつかんで潜め(Nip the Buds)

ex俺だって日藝中退したかった

「差別をネタにする」で思ったこと

ラリー遠田が書いた記事が削除された。東京ポッド許可局で放送されたサンキュータツオが漫才を書き起こしてボケの数を数えて、ボケの数(手数)はどんどん増えているという手数論を、サイゾーのコラムで剽窃かましラリー遠田の記事が削除された*1。初回のキングオブコントを見終わった後に、「イッテQを見れば良かった」とツイートしていたラリー遠田の書いた記事が削除された。

最近の彼はといえば、他人から考えをぱくりすぎて、逆に無個性な文になって、その文章の情報量といえば、まとめサイト以上ウィキペディア未満にまでなっていたので、削除された文章は読む意味のないものだったので、もともと無くていいものがなくなったという意味においては取り立てて騒ぐことではないのだけれど、今回の騒動では、東大出身の彼にはお笑いを論じる能力はデビュー当時からないことは広まっていたが、一般教養も論理力ということが知れ渡ってしまった。

その記事は、Aマッソと金属バットというお笑いコンビのネタが、差別発言をしたという騒動を受けて、それは芸人差別にもなりうる的な内容であった。一読しただけなので詳細はもう覚えていないが、やばり大した文章ではなかった。

Aマッソはフリーライブイベントで、金属バットはライブで披露したネタの中に、黒人差別と捉えられるくだりがあったということがそもそもの発端でそこはもう散々出てきているので省略するが、個人的な感情として、Aマッソと金属バットについては、今回のネタどうこうよりもともと、好きなタイプの漫才ではなくむしろほとんど笑ったことがなかったりする。それは、ネタで面白いことを言おうとしすぎていることだったり、語尾を飲んだしゃべりなのでキレが悪く間もだるだるで漫才が下手なので聞いていられないとなってしまうからで、特に金属バットに関しては、Mー1グランプリの準決勝でみちょぱかましていたり、生放送でちんちんと言っているのを見て、なんかそこまで芸人ズ芸人としての役割を果たそうとしているのを見ると、やってるなあーと思って、恥ずかしくなってしまう。小さいことは気にするなのゆってぃがマンブルゴッチ時代に「笑わせるか笑うかそれはお前たちじゃない、俺たちが決めるんだ!」と言っていた映像をみせられたときの恥ずかしさに近い。

金属バットは、ゆってぃである。

Aマッソに関してはネタを見ていないので、くだりしか分からないため、俎上に上げられないが、金属バットのネタへの評も差別ということを切り口にした場合、そこまで純度やクオリティ、目指しているものが高いとはいえず、「差別反対と言う人が実は差別していた」という構図を取っているそのネタは、むしろ差別をネタにするときに一番最初に思いつくオチではないのだろうか。そもそもすでに、「私は差別と黒人が嫌いだ」という有名なジョークが古典としてある以上、やはりあの漫才がレベルが高いものであるという評価もつけ難いというのが率直な感想である。

彼ら彼女らが、意識的にせよ無意識的にせよ、日本にもタブーとされる被差別の歴史がある以上、黒人だけを差別の代表格としてネタにするということは、日本人として白人のように人権を剥奪したという歴史を持たないというだけの安全な位置から、差別を扱っている風を装っているとしか思えない。これまでの数多の繰り返される論争でそうなってしまった。

日本人がやる、差別をネタにしていますというネタは基本的にその対象は黒人であり、その題材がユダヤ人をはじめとした他の被差別者となっているのは見たことがない。後者は伝わらないからいう意見も出てきそうだけれど、だったら黒人差別は伝わりすぎて批判されるのであれば同じようにコスパは悪く、ネタにするべきではない。

それは差別をネタにしてる自分たちは危険であるという演出程度のものでしかない。

きっと、すべての差別ネタはどんどんコスパが悪くなっていく。そのことに意識的でなければ一生売れないのだろう。

とはいえ、芸人がやるネタに貴賎も何もない、どんなことも藝柄(にん)に合致していればこっちが勝手に笑うというスタンスである以上、そのようなネタがあること自体は否定も肯定もしない。むしろ、もともとのその記事を書いた人の無思想な正義のほうが怖く、そっちのほうを否定したいというのもまた事実である。

記事を書いてる人のプロフィールを見てみると、BuzzFeed JAPAN internと書いていて、internってもしかしてインターン生のことなのかとなった。バイトじゃねえか。インターンをinternっていうやつは、デリヘルでのチェンジをchangeと言うに決まっているんだけれども、彼は、この差別を拡声させている側にも片足を突っ込んでいるという意識は微塵もないのだろうかと思うと、ぞっとしまう。

宇野維正もそんな漫才をガワだけ見て、「日本のお笑い死ぬよ」的なことを言っていた宇野維正は、そういえば、タクシーの運転手に「小沢健二分かんないと思いますけど」と露骨な差別意識を持っていたでおなじみで、そんな宇野維正も、外タレの歌手のライブに女性が少なかったことで「東京の女子どうした?」と言って、それが叩かれたときには謝りはしたものの、タクシーの運転手には謝罪していないのは、その違いってタクシーの運転手とはセックスしないかじゃないかと思いつつ、そもそも日本のお笑いなんて、コウメ太夫を面白がってる時点で、50回くらい死んでるということを何も分かっていない。

『笑ってはいけない』でダウンタウンの浜田がエディーマーフィーに扮したことに、批判が出た際には、さすがに、それはやりすぎだろうと思ったのだけれども、繰り返すが、最近は考えを改めるようになった。その件に関してはいやそれは許してよとは思ってはいるものの、やはりダメなんだろう。

よくよく考えると、日本人は黒人が受けた差別を知っているというけれども、その実の大半はアパルトヘイトのことを教科書で読んだ程度でそれ以上のことは知らない。

かくいう自分も別に黒人差別に対して詳しいわけではないのだがそれでも考えが変わっていったのは、町山智浩の『最も危険なアメリカ映画』を読んだからだ。

町山はツイッターに魂吸われて終わっている人ではあるのだけれど、この本はまさに映画評論家町山智浩でしか書けない氏の作品の中でも一番面白いと言っても過言ではない。そこには黒人の差別の歴史が端的にかつ悲惨なほどに紹介されている。

クエンティン・タランティーノ監督作品に『ジャンゴ〜繋がれざる者〜』という黒人と差別をテーマにした映画がある

その中で、ディカプリオが演じている黒人を奴隷として所有している白人は、たしか、「ハリウッド史上、最大の悪役」というようなキャッチコピーがついていたと記憶している。確かに、この役は、黒人が白人に劣るということを科学的にかつ論理的に語るシーンがあり、現代の尺度でいえば、とても悪いキャラである。しかし、公開当時にそのキャッチコピーを見た当初は、現在も残っている差別を無視してかつ当時の判断基準を言っているこの男をハリウッド史上最大の悪役と断じるには、加害者側からの偽善でありとても傲慢なものであると思っていた。

しかし彼は、Aマッソや金属バットのようなネタに対して、様々な角度から擁護をしようとしている人たちだったのだ。いい加減、嫌な人がいるのであればやめるに越したことはないと日本人も学ぶべき、察するべき時が来たのだろう。

差別の話題が出ると、じゃああれは良いのか!ということを言いだす人がいるのだが、それは勉強しない理由でしかない。そんなのは、あれがダメだ、じゃあそっちのそれもダメだと言い合う、うちの夫婦喧嘩みたいに泥沼になってしまう。だから、差別の話題が出た時に、そういうロジックを持ち出して言ってくる人は、頭良いのではないということをマッチングアプリのレビューに日々書いては削除されている。やはり、白人がしてきたことはしていないという留保はきちんと主張しつつも、ほぼあらゆる文脈で黒人が受けてきた差別や、嫌がるとされていることをすべきではないな、と思うようになっている。

何より、スカートの澤部さんが京都のαステーションというラジオ局でやっていて、その番組はとてもいい音楽ばっかりを澤部さんがかけてくれて、深夜ラジオ聞くの疲れたときに聞くラジオとして、本当に音楽が好きなんだと思わせてくれる。しかもまれに、お笑いの話をして、マセキの赤もみじという漫才師が素晴らしいというようなお笑いの話もてくれたりするとても良い番組で、藤岡みなみのおささらナイトと合わせて、日常を彩る音楽を楽しめる番組なのだけれど、そんなラジオに思い出野郎Aチームがきてて、彼らが主催のフリーライブにAマッソがくることを話しててハナコを差し置いて、澤部さんが羨ましがっていたんだけど、それを考えると切なくなる。

差別というのはそういう感情から切り崩していくしかない。

*1:ラリー遠田が東京ポッド許可局の「手数論」を剽窃したという事実を、疑問視するツイートを見たので補足。たしか、キングコングの西野かどちらかも同じようなことを言っていて、頭悪いなあと思って絶句したのだけれど、「手数論」は、ただ漫才のボケ数が多くなっているという話をしたこと、そしてそれがオリジナルだから凄いということではないということをわかっていない。あの当時、ボケ数が増えているというお笑いを見ている人であればうすうす感じ始めていたことを、サンキュータツオがきちんと漫才を書き起こして、データ化し、それを元に、インタレスティングという意味のおもしろとして番組内で語ったことで、ボケの数を「手数」という芸人の符丁のような用語で表現したことで真似して言いたくなる感じを出しつつ、その概念の紹介と説明をすることで、新たなお笑い批評の道を切り拓いたことこそが、すごいのであって、ボケ数が増えているということを指摘したことだけがすごいと言っているのではない。そこまで到達していたのは少なくとも東京ポッド許可局が初であり、「みんな何となく言っていたのだから、彼らがオリジナルを主張するのに違和感がある」というのは、コロンブスの卵の話を知らない、エンタメに敬意を持っていない人の詭弁でしかない。ラリー遠田の最低なところは、そういった労力を割かずに、サンキュータツオが数えたボケ数を盗み、全体的に自分で発見したかのように発表したことである。ちなみに、キングコングyoutubeで、同じく東京ポッド許可局発の10分どん兵衛が話題になったころ、10秒どん兵衞という動画をアップするというやり方で普通にパクっていて、あんなことを言っておいて、ようけそんなことできるなと思ったものである。