石をつかんで潜め(Nip the Buds)

ex俺だって日藝中退したかった

コミュニケーション論としての「パラサイト 半地下の家族」

 『映画 ひつじのショーン UFOフィーバー!』を観てきました。ショーンが地球に迷い込んでしまった宇宙人の女の子のルーラと出会い、ルーラを捕まえようとする組織の手を逃れながら星に返すために奔走するという、よくあるプロットではあるものの、楽しかったです。
 ショーンは羊で、ルーラは宇宙人なので、共通の言語を持っていないのだが、すぐに仲良くなる。ルーラを自分の星に返すために、ショーンはルーラとともに宇宙船に戻るおんだが、その途中、街のスーパーマーケットに立ちよる。もの珍しさからルーラがはしゃぐことで、普段は憎たらしいくらいに賢いショーンも、振り回されるのだが、ふと、ここで、娘のことを思い出した。休日には、一歳にもならない娘を抱いて20分ほど近所を歩くようにしているのだが、先日、スーパーで娘が突然泣き出してしまった。理由が分からないまま、声をかけたり、揺すったりして、あやしてみるも全然泣きやもうとしない。すでにレジに並んでいたので、急いで買い物をすませて、走って帰宅したのだが、ショーンがスーパーマーケットでルーラに翻弄させられるシーンは、あれと同じじゃないかと思い、今までに他の映画でも観てきたようなよくあるくだりでも、自身の環境の変化によって、受け取り方が変わるということに改めて気付かされた。
 先日、チラシを捨てる前に、娘に丸めて渡してみたら、しばらくその状態で遊んでいたのだけれども、口に入れ出した。紙を食べさせないようにするために、セロハンテープでぐるぐる巻きにしようと、いったん取り上げ、「ボールにするから待っててね」と言いながら、チラシにセロハンテープを巻きつけながら、ふと娘を見たら、こちらを見上げて、じっと待っていた。それを見た瞬間、ぶわっと胸の奥から、娘とはじめてコミュニケーションが取れたという喜びと実感が、湧き出てきた。
 話は変わって、韓国映画の『パラサイト 半地下の家族』を観てきました。
面白いという前評判を聞いたので、情報を仕入れずに観てきたのですが、凄い映画でした。ブラックコメディということくらいは知っていたので、冒頭の展開で、アンジャッシュかなと思っていたら、千原兄弟の「ダンボ君」になって、ラーメンズの「採集」になるみたいな、二段階もブーストがかかる、変身を二回も残しているフリーザみたいな映画でした。
 展開が全くよめなかったというだけでなく、何より、妹のギジョンが、トイレに座って汚水が噴出するのを止めながらタバコを吸っている画は素晴らしいという、映画としての気持ちよさにも満ちていた。何より主だった舞台となっている社長の家の造りが、そのまま映画の構造となり、さらには韓国の縮図となっているところも美しくてうっとりしてしまう。
 この映画のテーマは経済格差だと一般的には受け止められているはずである。見ている途中に同じく、経済的に恵まれていない人々が出てくる『万引き家族』や『ジョーカー』を連想した人も多いだろう。特に、『ジョーカー』は、階段の使い方ひとつをとっても、『パラサイト 半地下の家族』では、無言で立ちはだかるものや、ふとした瞬間に転げ落ちてしまうもの、災害によって断絶されてしまうものとして効果的に多用されているが、『ジョーカー』では、ジョーカーが踊りながら降るものとして描いているのは、作品の違いとしてとても分かりやすい。
 しかし、この映画は、経済格差そのものではなく、コミュニケーション論だとして受け取った。この映画には、経済格差や知識の格差による、コミュニケーションの断絶や不全が、これでもかというくらいに描かれている。
 そして、同じテーマを持っているであろう『万引き家族』では、最終的には擬似的な家族のコミュニティーであることが発覚する。奇しくも、『パラサイト 半地下の家族』はその真逆の、家族が他人のふりをするというものだが、『万引き家族』での柴田家をつなぎとめていたものの一つは、言語ではない、万引きのためのハンドサインだった。そうした、非言語によるコミュニケーションが要にあるということを考えると、池松壮亮が演じる、松岡茉優が演じる柴田亜紀が勤める風俗店に通う客の青年が、吃音症もしくは発話障害を持っているということ、さらに、柴田亜紀が勤める風俗店が、ヘルスでもピンサロでも、ソープでも、手コキヘルスでも、グレーなマッサージでもなく、マジックミラー越しに向かいあって筆談でコミュニケーションをとるシステムである一連のシーンが、この映画に配置されている意味が掴めてくる。
 日常生活におけるコミュニケーションというのは、言語をもってのみなされるわけではなく、表情や声のトーン、その場の空気など全てが稼働するものではあるが、SNSのなかでも特にtwitterはかなり言語に依存しきっているが、その依存は、同じ言語を使えば、全てが分かりあえる、もしくは他人の悪い部分を矯正出来るとい間違った前提に基づかれている。その前提が正しく機能するのは、相応の読解力、文脈の共有、何より他者が異なる主張をしていても、尊厳を持って受け入れるという度量が必要となる。
しかし現実は、そこかしこで、分断を促す言葉の投げ合いではないだろうか。
単語ひとつをとってもそうで、例えば、擁護などの意味合いが変わっているような気がしてならない。本来、かばうという意味合いの言葉であるはずだが、今は下手をすると、擁護している人も批判の対象に組み込まれてしまい、敵か味方かの単純な構造に落としこまれてしまう。言葉の意味は変わるものだとはいえ、こういう変質は看過できない。芸能人が薬物を使用して逮捕されたとき、作品の罪の有無論争が繰り広げられるが、そこに居心地の悪さを感じてしまうのは、音楽に罪はないと思うけど、あれから電気グルーヴを聞いていないという現状は排斥されてしまうような気になってしまうからだ。
 他にも、少し前に、とある記事の中に、「妻を論破した」という言葉を入れたところ批判されたことがある。普通に読めば、長々と早口で主張を話したあとの軽いオチであり、その後の記事の展開の布石になっているという、いわばフリだっただが、そういう文章としての技法が無視され、「妻」「論破」という言葉のみに引っかかったのだろうか、いつもよりも多くの人に読んでもらった記事だとはいえ、論破という言葉が強くなりすぎた事で、マンスプレイニングだと受け取られたことを反省した。そう考えると、自殺しようとしている人を止めようとするけれども、自殺志願者に論破されてしまうので、自殺を止められないというゾフィーのコントの着眼点と時代の切り取り方は凄まじいものがある。
 映画評論家の町山智宏がたまむすびで解説したように、この映画自体は、あまりに韓国におけるドメスティックな数々の問題の産物ではあるものの、後半に出てくる、豪雨により水没する街並みと、避難所で雑魚寝を過ごしている姿、包丁を持った人物による凶行の瞬間などは、ここ数年以内に日本国内で報道された災害や事件をフラッシュバックさせるには十分な映像になっているように、日本に住んでいる人にとっても切実な映画になっている。特に、自分でも驚くほどに、刃物が振りかざされるシーンは苦しくなった。
 『ジョーカー』をはじめとして銃を使った殺人シーンは多いが、日本は銃社会ではないということで、幾分かフィクションとして受容出来るのだが、駄目だった。この二つだけでも、安易にこの映画を面白いとだけで片づけられない理由である。何より、『ジョーカー』を見た後は、津山三十人殺しの件もあるし、他人をジョーカーにしないように優しくしようと気をつけることが出来るが、『パラサイト 半地下の家族』は断絶を決定づけたのが、匂いという生理的反応であって気をつけようがないというのもリアルである。
 『泣くな、はらちゃん』という傑作ドラマがあるが、そのなかで、漫画から飛び出して来たキャラクターとドラマの視聴者が、唐突に「現実」を突き付けられるというややメタな構造になるシーンがあるのだが、それを観た時の感情に近い。
思い浮かんだ凶行のひとつに、相模原障害者施設殺傷事件があるのだが、このことについて、爆笑問題太田光と霊長類学・人類学者の山極寿一との共著『「言葉」が暴走する時代の処世術』でもこの話題が出てきた。
 この本は、チンパンジー、ゴリラの第一人者という山極と、漫才師の太田という、いわば非言語を研究してきた人と、言語を使ってう言葉のプロが、コミュニケーションについて語り合っている本だが、この本で、「伝える」ということといえば、この事件を思い出すという太田は、「障が執れてとれていた。い者には生きている価値がない」という勝手なことを言っていたあの犯人のことを理解していた人は周りにどれだけいたのか、ほとんどいなかったんじゃないかと指摘し、続けて「一方で、あの施設に入所していた人々は、言葉はうまく話せなかったかもしれない。でも、家族や施設の人たちと、ちゃんとコミュニケーションは取れていた。少なくとも、入所者の気持ちを、みんなでわかろうとしていた。周りとコミュニケーションが取れていたのは、一体どっちなんだという話です。それは言うまでもなく、あの施設の入所者たちのほうです。わかりたい、寄り添いたい、そう思う人たちが周りにいた。「伝える」ための小手先のテクニックを磨くより、周囲にそういう人たちがどれだけいるのか。そのことのほうが重要なんじゃないかと思うんです。」と話す。
 実はこの言葉と伝えるという関係性がもつ矛盾性について、太田は、『爆笑問題カーボーイ(2016.9.28)』ですでに語っていた。
 「(仏様が)悟りを開いたときに、あ、この境地を弟子に伝えないといけないってときに、どうしても言葉っていうものが必要になってくる。仏像であったり。でもそれって、どんどん真実から、真理から離れていくんだけど、でも人間ってのは不器用なもんで、言葉ってものを使わないと、それを伝えることができない。それって自己矛盾じゃないですか、言ってみれば。」と太田は言い、それはアインシュタイン相対性理論を思い付いた時のような学問も一緒だと話す。
 そしてそれは、人間は一生かけて赤ん坊にもどるようなもんだと続ける。
「赤ん坊の時にあー!!って泣いて、出てきたときに、あー!!って泣いて、あれ、苦しくて泣いてるんですか。全部ですよ。あれが全部なんです。苦しみも悲しみも恐ろしさも喜びも、何もかも人間が誕生する生命が生まれたってことを表現しているのが赤ん坊なんです。おぎゃあって泣くのが、あれが全てなんです。でも、あれをそのまま伝えることができないから、人間は言葉を学ぶ。実は俺達がこうやって喋っているのはあの赤ん坊の泣き声なんです。泣き声を分割して、悲しみです、喜びです、苦しみです、ちびです、かたたまです!あらゆるところを遠回りして、おぎゃあに戻ろうとしてるんです。」
 そして、小林秀雄柳田國男の快晴の空に満点の星空が見えたという体験を受けて講演で話した「学問をする人は、こういう感受性がないとやれないんです。民俗学なんてものはこういう感受性を持っている人じゃないと、学問なんてもんは出来ないんです」という言葉を引用してこう続ける。
 そこから、相模原の事件の話題となり、太田は、「28:30 よく勘違いしがちなのは、表現っていうのは、表現の豊かさ、表現のみが大切って思うけど、そうじゃないんです。本当に大切なのは、受け取る側の感受性なんです。受け取る側の感受性を持つ人がどれだけその人の周りにいるかっていうことなんです。だから、どんだけ自分の話を面白いと思って聞いてくれるぐらいに、魅力的な人間であるかっていうことが、コミュニケーションが達者な人なんです。つまり、受け取ろうとする人が多い人、赤ん坊なんです。」
 この放送からさらに、3年あとの、タイタンライブで、シソンヌが一本のコントを披露した。三組目のシソンヌのコントは、『同居人の』というネタで、これは凄いコントだった。ネタ自体の面白さもさることながら、見ている途中で、先日起きてしまった、悲惨な事件とリンクしていることに気付いたからである。このネタ自体は、2017年に行われた単独ライブでかけられたネタなので、それはこちらの勝手な思い込みとなるのだが、どうしても連想せずにはいられなかった。
 じろうが帰宅すると、ソファに座っている忍を見つけると舌打ちをし、「まだいたのかよ」「朝言ったよな、俺帰ってきてまだいたら、もう、ぶん殴るぞ」と強く当たる。そこから数分、じろうが忍を責めていく。その中で、じろうと忍は親友でルームシェアをしていたのだが、忍はじろうに何も言わずに仕事を辞めて、そしてしばらくして全く喋れなくなったという状態にあることが分かってくる。その時のクッションで忍を叩き続けるじろうの「俺たち、こんな関係じゃなかったろ」というセリフは胸にくるものがあった。
 「今日は泊まっていって良いよ。でも明日の朝、俺が起きてきて、お前がまだいたら、もう弁護士に相談するわ」と言って、じろうは自分の部屋へと戻っていく。そして、も度てきたじろうが一言「俺の部屋に、うんこあるんだけど」と言い、怒りだすかと思いきや、「俺が今どういう気持か分かるか。嬉しいんだよ。」と喜びをあらわにする。
 このコントのスイッチに至るまでのじろうの演技が、本当に凄く、だからこそ、このコントのくだらなさが光ってくるわけだ。あとは、ひたすら、手を変え品を変えて、うんこなのだけれども、よくよく考えてみると、このネタは、コントの中の「この一年二カ月、何聞いても返さない、何の感情表現もしない。そんなお前がやっと自分から俺に何か伝えようとしたんだぞ。その手段がたまたまうんこだったってだけだろ。」というセリフの通り、コミュニケーションは言語を解さないでも可能である、という救いに溢れている。
 『爆笑問題カーボーイ』でのトークが無ければ、ただの面白いコントとしてしか受け取れなかったであろう。そして、この経験があったから、『パラサイト 半地下の家族』をコミュニケーション論としてよみ説くことが出来たわけである。
 『パラサイト 半地下の家族』の結末は、断絶された場所に閉じ込められ言語というコミュニケーション方法を取り上げられた父が、受け取ってもらえるという補償が無いまま、非言語であるモールス信号を放ち続け、そしてそれを息子が受け取り、解読し、未来へ希望を持つというものである。これこそが、コミュニケーションの本質ではないのか。
 言語が用いられない『ひつじのショーン』がなぜあんなに面白いのか。それは、理解しようというこちらが、ショーン達を受けいれるために集中するからではないのか。ツイッターで、リプライのやりとりをするよりも、どうでもいいツイートをお気に入りをしたりされたりしているときのほうが交流が出来ているような気になるときがある。
あらためて、ゆっくりコミュニケーションについて考えなければならない時代ではあると思う。