石をつかんで潜め(Nip the Buds)

ex俺だって日藝中退したかった

評論とお笑い評論と積読の不思議

 構成作家の方の「お笑い評論って音楽や映画とかほかの評論に比べて、100歩くらい遅れてますよね。そもそも必要かって論議から一歩も前に進まないし、プレイヤーは語らないのが美学って価値観あるし、ネットで語ってる人に過去の演芸を参照する人が少なすぎる。」というツイートを見かけて、2割正しくて、8割間違えているなと思った。
 この「過去の演芸を参照する人が少なすぎる」というのは正しくて、かつ一番、全員の駄目なところであるけれども、お笑い評論が必要かっていえば必要なのである。それは、フェミニズムが抑圧されてきた女性にとっての武器たりえるように、これからやり玉にあげられ続けるお笑いを擁護するために。かつ、それは、お笑いを語るという性質上、合気道的な、渋川剛気的な戦い方を、軽やかさをもってなさなければならない。例えば、誰も傷つけない笑いということに対して、『ヨイナガメ』さんのように、「嘘」と一蹴すること自体には笑ってしまうし、そこに総合格闘技的な強さはあるものの、断絶された両者の間を埋めることは出来ないわけである。加えて、ぼくは、お笑いの知識がないので、お笑いについて何かを書くときはどうしても構造的な話になってしまうという弱さもあるので、過去の演芸と先達の演芸評論を勉強しないといけない。矢野誠一も読まないといけないし、シティボーイズのコントも見ないといけないし、別役実の戯曲も読まないといけない。しかし、全然憂鬱ではない。勉強したいことがあるということは人間にとって最大の幸せであるからだ。爆笑問題霜降り明星の『シンパイ賞』を見ていたら、高齢のマジシャンが出ていて、その人は定年前にマジシャンを始めて、今でも舞台に立っているということだったのだが、その芸歴は30年以上と、爆笑問題を超えていた。そこに思いもよらないほどに、勇気をもらってしまった。何かを始めることに遅すぎるということはないのである。
 そういうことに気がつくまでの過程を、やや偶然に近いかたちではあるものの、詰めることが出来た同人誌「俗物ウィキペディア」は作業に一年かかってしまいましたが、業者に入稿して納品待ちの今は、いわゆる積読状態にしている本をどんどん読んでいる。
 途中で止まっていたがつい先日読み終えたナイツ塙の『言い訳』なんかはまさにプレイヤーがお笑い評論をしていて、面白かったのだが、この本は、かなり寄席演芸に近い塙が書いていながらも、意図的になのか、そのようなことは触れられておらず、あくまで『M-1グランプリ』での戦い方等についての語りであり、そしてそれは、どこか結果論的なところがあるというところがある。これを瑕疵ととるか、塙の作戦と取るかは自由だが、このことによって、舞台に上がらない演芸評論家の存在というものは必要である、と逆説的に思わされた。
 次は何を読もうかなと思っていたら、コロナウィルスの件で、東浩紀さんがtwitterを復活していたことを目にしたので『ゆるく考える』を読み始めた。
 そのなかで、評論について書かれていた。厳密に言えば、文芸評論についてであるのだが、東浩紀が到達した結論だけを引用するが、評論というのは、「ある特定の作品なり事件なりが、文化や社会の全体にとって意味があるように見せかけること、言い換えれば、特殊性が全体性と関係があるかのような幻想を提供すること」とある。さらに「評論が評論として認知されるためには、対象の個別性から普遍的な問題を取り出し、そこに社会性なり時代性なりを読みこんで、一見作品や事件とは無関係な読者とのあいだにも共感の回路を作りださなければならない。ひらたく言えば、作品や事件そのものに興味がない読者にも、評論は届かなければならない。」と続く。例え、どんなに正確なテキストであっても、「無関係な読者との共感の回路」が造り出されていなければ、評論だとみなされないという。しかし、「全体」というものが無くなって久しい今において、「その状態を肯定しオタク的な分析に淫するならば、それこそタコ壺化は加速していく一方だ。したがって、無理だ知っていても、むしろだからこそ作品や事件に豪いんに時代性を見いだし、そこから全体性に接近できるかのようにする」とも述べている。大体88ページあたりなので立ち読みでも何でもして読んでほしい。
 まさに、お笑い評論も世間と接続する必要がある、出来るかぎり分断を止める必要があると思っていた矢先に、この文章に出会いとても感動し、あんなに頭が良い人と問題意識が共有出来ていた!とほくそ笑んでしまったのだが、その後に、これが2008年の文章だと知り、ずっこけてしまった。ぼくは11年遅れているわけである。しかしmこの11年というのは少ない方で、どちらかといえば喜ばしいことなのか、しかもこの文章を東さんが書いたのが今のぼくの三つくらいしか上でないということを考えると、そんなに離れていないことからもどちらかといえば、全てを計算させると喜ばしいことなのかとも思えてくる。そもそも、twitterを始めた頃から、東さんをフォローしていて、この十年近く著作も頑張って読んできたのだから、そこに到達するのはそんなに不思議な話ではないのである。しかし、この本を買ったのは、割と前であり、でも読んだのは先日で、このことを考えていたのはもう少し前から、という時間軸がバラバラになっている。本を買ってすぐに読んでいたら、東さんが言っていたようにお笑い評論も全体に接続するべきであるとなっていたはずなので、それとぼくが体験した一連の文章との出会いは意味が全く異なってくる。積読という行為には、こういった不思議な出来事を起こす力がある。
 ぼくが書いているネタの構造についての話なんて、まさにタコ壺の極地みたいな話であるし、ラリー遠田のAマッソと金属バットについての文章が駄目だったのは、彼ら彼女らを擁護しているようでいて、分断それ自体を擁護することであり、日本人は本格的に黒人差別をしていない、欧米人とは文脈が違うということを言っても、それは、少し前にあるあるネタとしてあった「そんなに仲良くないやつが俺をいじってきたから、おめえはちげぇだろとムカついた」みたいな話である。
 なので、未だにタコ壺に籠っているという意味では、お笑い評論は100歩遅れているわけであり、過去の演芸を参照にすることも必要だが、全体性に接続するということをもっと意識することが必要だなと思っている次第である。