石をつかんで潜め(Nip the Buds)

ex俺だって日藝中退したかった

「冷たい熱帯魚」は、和製「ダークナイト」だ!!!

冷たい熱帯魚」は、前作「愛のむきだし」という四時間を超す大作で話題となった、園子温監督の最新作である。この作品は、1995年におきた「愛犬家連続殺人事件」をもとに、脚本がかかれている。



小さな熱帯魚店を営む、吹越満演じる社本は、さえない男であり、彼の家庭はかろうじて体裁を保ってはいるものの崩壊寸前だ。食卓に並ぶ料理は冷凍食品、食事のときに会話はなく、一人娘は携帯をいじりながらごはんをたべ、知人からの誘いがあるとご飯を投げだして出かける。
とあることがきっかけとなり、社本一家は、でんでん演じる村田に出会う。村田も社本と同じく熱帯魚を営んでいるが、村田の店は店舗も大きく、アルバイトも大勢かかえ、社本の店とは比べ物にならないほど華やかだ。
性格も社本とは真逆で社交的だ。距離をどんどん縮めていく村田にとまどいながらも、付き合いを始める。
そんな村田に、あることをお願いされたのだが、そのことで、社本は、抗うことも抜け出すこともできない、運命の奔流に巻き込まれていく。(以降ネタバレ含む)

村田は、人を殺し、死体に手を加えることを屁とも思わない。商品の魚たちにエサをあげるように、死体から肉をそぎ落とし、それが終われば、美味しそうにコーヒーをすする。
その姿は、「悪人」とラべリングすることが全くの無意味のように思うほどであり、これは狂っているということなのかということすら自分で判断がつかなくなるような錯覚に陥る。


観客は自らの<ボデー>から、常識という名の肉をはがされ、倫理という名の臓器さえもバラバラにされる。善か悪か、○か×かという二元論は<透明>になる。同じように、善悪の彼岸に存在するキャラクターがいる。
ダークナイト」の「ジョーカー」だ。
ジョーカーは、ダークナイトの中で、バットマンと観客を、言葉で揺さぶる。
村田もまた、社本に、我々に語りかける。

「お前の言っている地球は丸くてツルツルして青いだろ。俺の考える地球はよ、ただの岩だ。ごつごつガタガタした岩のかたまりだ。」

ジョーカーがアメリカで見かけるおしゃれなスーツに身をまとうならば、村田は、誰でも一度は苦笑いしながらも付き合ったことはあるような、でも嫌いにはなれねーなというような、中小企業の社長のようなガハハ親父だ。
社本にわざと自分を殴らせる村田の姿は、バットマンに「俺を殺せよ!」と叫ぶジョーカーの姿を思わせる。
そのときに確信した。




この映画は和製「ダークナイト」であり、村田は「ジョーカー」だ。


しかし、監督はその先へと進む。社本がバットマンになることを許さなかった。
バットマンにできなくて、社本がやったことは何か。



それは、対峙する敵を殺すことだった。社本はどうなったか。
社本は、「村田」になった。
バットマンジョーカーを殺せなかった理由は、ここにある。彼らは表裏一体であり、ジョーカーがいなくなれば、ゴッサムシティの治安を脅かす存在になるのが自分だということを、バッドマンは知っていたのだろう。



村田には愛子という妻がいる。彼女は、村田の殺人や死体解体の手伝いをしてきた。そして一緒にのしあがってきた。
しかし、村田が社本に殺されると、次は社本に対して従順になる。
観客は、彼女の心理を理解できなくなる。わかることは「この女は、こうして生きてきたのだろう。」ということだけである。




「愛子」という名前はシンボリックだ。
前作「愛のむきだし」を想起させ、本作では、教会、十字架、マリア像といった、キリスト教の象徴がことあるごとに、映像として差し込まれるのだが、そのキリスト教が説き続けてきたのは、愛だ。
だが愛子の移り身をみて、愛は常に「勝者」のそばに寄り添ってきたという痛烈な皮肉を目の当たりにする。


この映画は何よりも、お笑いが好きな人にみてほしい。
R18指定で、グロテスクな表現も多い。近年、傑作を生み出し続けている韓国暴力映画群(オールドボーイ・息もできない・殺人の追憶・チェイサー・・・・・・)にも勝るとも劣らない「痛さ」がある。



じゃあ、なぜ、お笑い好きに見てほしいのか。
それらの韓国映画と異なるのは「冷たい熱帯魚」は笑えるのだ。しかも、多くの場面で。
ジョーカーが病院で手を洗っていた場面で吹き出してしまうように、村田がユーモラスに見えてしまうときがあるのだ。
これがこの映画のキモであり、グロテスクな部分だと思っている。




自分を含め、お笑いが好きな人は、「お笑いは素晴らしい」という言葉に酔いがちだ。しかし「冷たい熱帯魚」を見てしまうとそんなロマンに浸れない。
あくまでも、笑うという行為は異質なことなのだ。



監督や作者といった作り手は、「神の視点」をもつ。神は構築した世界に対して、責任をもたなければならない。
しかし、観客はどこまでも無責任だ。いうなれば「悪魔の視点」だ。
だからこそ、笑えるということに自覚的でなければならない。


邦画ブームの主流から外れ、陰惨であり、文明でフタをしていたはずの現実を投げつけてくる。
冷たい熱帯魚」はそういう映画だ。
しかし、見終わったあとに映画のロビーにいる観客たちは、岩盤浴に行ったあとの丸の内OLのような、話題の泣ける絵本でボロ泣きした童貞高校生と同じような、爽快さに包まれたような顔をしているだろう。