スピードワゴン小沢は、「僕らの世代でThe Blue Heartsとダウンタウンの影響を受けてない芸人なんていませんよ!」と言った。この二組はカウンターカルチャーとなり、今テレビで活躍している芸人の世代に、さまざまなフォーマットや、価値観を植えつけた。
僕と同じ20代のお笑い好きは、ダウンタウンチルドレンの彼らのネタを通して、ダウンタウン的な価値観を共有しているように思える。
その価値観というのは、枚挙に暇が無いが、一番大きいのは「既存のモノにないもの」を作り出す、つまり「斬新」が一番であり彼らの時代は、斬新さを競う時代になっていたのではないか。
感覚的な答えになってしまうが、その段階で「教養」というのがかなり蔑ろにされてきたように思える。
立川流家元の立川談志は「暇があれば、映画の一本でも、本の一冊でも読め」と弟子達に教えてきたという。
ここでいう「教養」というのはそういった文化的素養のことなのだけれど、いわゆるダウンタウンより下の世代は、それを重視せずに、ネタの斬新さを追求していったように思える。
悪く言えば、そんなことをする時間があるのならば、一冊の本を読むよりも一本の映画を見るよりも、その時間を先輩芸人との飲み会にあてたほうが、売れるためへの近道なのである。
もちろん、そういったことをしないほうが面白い芸人というのは、いる。
ただ、そういった芸人は「ど天才」であり、普通の人間が面白くなるためにはやはりインプットをするしかないのだと個人的には思っている。
そんな中、教養主義者とも言うべき、三人の芸人が、2008年からひっそりとpodcastをはじめた。
マキタスポーツ、サンキュータツオ、プチ鹿島による「東京ポッド許可局」である。
2008年のバラエティの情況といえば「笑神降臨」「キングオブコント(第一回)」「爆笑レッドカーペット」「イロモネア」が始まった時期であり、華やかである。
それらの番組にひっかからなかった三人は、記念すべき第一回として「完璧すぎる=おもしろい”ドラリオン”論」を配信した。
以降、現在に至るまで「葬式論」「宮崎駿論」「幸福論」のようなものから、「女子高生論」「キャベツ論」「おちんちん論」とまさに「夜のおかずからハッキングまで」状態のラインナップが並んでいる。
そんなpodcastを登録をしている人は14万人を数え、満を持して、2010年9月現在までに配信されている全144回のなかから、幾つかの回が選ばれ、書籍化することになった。
それが、今回紹介する「東京ポッド許可局〜文系芸人が行間を、裏を、未来を読む〜」である。
下手な説明よりも、帯にかいてある文を引用してみると
「『東京ポッド許可局』は、マキタスポーツ。プチ鹿島、サンキュータツオら3人の文系お笑い芸人が、お笑い・TV・プロレス・好きなお菓子・政治経済などあらゆる事象を、独自の視点で鋭く楽しく語り合うおしゃべりラジオ。膨大な放送回の中から『すべらない話』論や『ビートたけし論ベンチャー』論など珠玉の10回分を収録。局員による書き下ろしコラムや脚注など内容充実!『そういう世界もあったんだ!』『そういう見方があるんだ』と貴方の知的好奇心を刺激します!」
とある。
お笑い界の周辺にかろうじて手をかけているものと自称(自虐?)する3人が、多元的な見方を提示してくれるという行為がすでにエンターテインメントとして成立している。乱暴に言ってしまえば、論が正しいかどうかはあまり関係ないのである。
押し切るか、押し切られるか、まさに「論のプロレス」なのである。
収録されている回から、これは是非読んでほしいという回があったので、2つほど紹介したいと思う。
まず、今後お笑いを語る上で、ベースにもなりうる論がある。それはタツオが提唱する「手数論」である。
タツオ:基本的に今は「手数」の時代に入っていますよ、という話です。ここでいう手数というのは、限られた時間のなかで、物理的に笑いが起こる箇所、つまり手数をできるだけ多く盛り込むということです。
この手数論は、あのオワライターも思わずパクってしまうほどの分りやすいものである。
タツオは「M−1」や「爆笑レッドカーペット」は、その手数を増やしていこうという存在であると語る。
その傾向は印象として、ではなく、やすきよ、ダウンタウンのデータを抽出して、それらと歴代M1チャンピオンとを比較検証したうえでの、論なのである。
■比較対象
やすしきよし→22分・笑いの数72回(18秒に1回)
ダウンタウン→5分・笑いの数17回(15秒に1回)
M−1優勝者平均→4分22秒・笑いの数33回(8秒に1回)
■M−1グランプリ2008 最終決戦の3組
ナイツ→3分54秒・笑いの数37回(6.3秒に1回)
オードリー→3分34秒・笑いの数42回(5秒に1回)
NON STYLE→4分・笑いの数49回(4・9秒に1回)
このデータを見れば、手数論の面白さが一目瞭然であり、M1を長く見続けていて、近年の流れに多少なりとも違和感を覚えいてるような人は、はたと膝を打つだろう。
もちろん、この章の中で、手数(量)だけでなく、ボケの質や、漫才コントとしゃべくり漫才について等にも触れているので手にとってほしい。
お笑いに携わる人間ならば、ビッグ3について言及することは、「肯定」という側面からのみが許される範囲であった。ビッグ3はそういったサンクチュアリだ。
しかし、この「ビートたけしベンチャー論」は、「ロマンで語られがちなビートたけしを、徹底したリアリスト」として語ることから始まる。
マキタ:(浅草に行った理由として)”ロマンという保険があったから”とあったから、なんてうっとりするようなことをいいながらも、じつはもっとリアリスティックに「演芸をやっているようなやつらなんて、みんなバカだ」と思っていたはずなんだよ。世の中も演芸会も穴だらけだ、自分にはアイディアがある、そういう頭で今日のビートたけしという像をなんとなく思い描きつつ、演芸界にフロンティアとして入っていった人だと俺は思うんだ。
鹿島:ベンチャー企業の社長と同じように、たまたまそこが空き家だったから、そこが儲かりそうだったから芸人の世界に入ったわけで、最初から芸人にさえなれればそれでいいや、という人たちとはぜんぜん違うんだね。
マキタ:自分で有り金を全額賭けて、リターンが大きかったんだよ。それをかなり戦略的にやった。”死に場所”を求めて全賭けしたんじゃないかな、と俺は思ってる。
と、ビートたけしがベンチャー的であることの理由を語っていく。そして、タモリ、ビルゲイツ、松下幸之助等の第一人者が、第一人者たる所以にも触れていく。
北野武は、ベンチャー企業として、「ビートたけし」を売り出していったということである。
それが成功した理由は、タツオは「理の追求」があったと語る。
タツオ:芸人になるということは、ある種のギャンブルだと思うんです。で、ギャンブルをやる人というのは二パターンある。ギャンブルは最終的には運が重要ですけど、運だ、というところから入って最初から何も考えずに運に賭ける人と、ギリギリまで”理”を追及する人がいるんです。(略)タモリさんや、たけしさんという人たちは、ギリギリまで、理を追求して、ギャンブルに勝った人だと思う。
どのようにして、たけし=ベンチャーが構成されていくかは、本を読んでほしいので割愛するが、ここには「リアリストとしてのたけし」という見方の提示がある。
これこそが東京ポッド許可局の醍醐味なのである。
お笑いを真面目に論じることは、野暮の極みだ。
芸人にすら「ライブに来て、必死にレポートを取って、ブログにアップする」という行為はネタの対象にされている。
ただ、「ベタ」も「ネタ」も「敢えて」も「逆に」も全てがやりつくされ、ボーダレスになっている中で、何故それだけがタブー視されないといけいないのだろうかとも思う。
「つまんない」って言うやつが、一番つまんないのだ。
プロレスについて語っている「悪性のエンターテイメント論」にあるマキタスポーツの言葉は、この本の核となる言葉だと思う。
最後にそれを引用して終わりたい。
マキタ:音楽に限らず、こういうラディカルな運動というものが一つ一つ文化には必ず起こるわけだよ、悪性のそういう”教養胞子”みたいなものはいろいろなところにばら撒かれていて、それが芽吹いていくのが「健全に汚れた社会」だと思うわけ。でも、どんどん世の中がきれいなものになっていったりすると、その芽が断たれていくでしょ?それがすごく気持ち悪い、生きにくいって感じがするんだよ。