石をつかんで潜め(Nip the Buds)

ex俺だって日藝中退したかった

読書会やってみた。ドラマ『赤めだか』を100倍楽しむための記事(2)

前の記事の続き〜。

立川談志がどういう落語家という概要を説明した後は「業の肯定」や「現実は事実だ」などのキーワードを取り上げました。
特に立川談志が発言した中でもとりわけ有名なのが「業の肯定」です。
『赤めだか』で言うと、談春が中学生時代に上野鈴本へ落語を聴きにいったときのエピソードに登場(12頁15行目)します。

<人間は寝ちゃいけない状況でも、眠きゃ寝る。酒を飲んじゃいけないと、わかっていてもつい飲んじゃう。夏休みの宿題は計画的にやった方があとで楽だとわかていても、そうはいかない。八月末になって家族中が慌てだす。それを認めてやるのが落語だ。>

と話したあとに、出てきます。
この言葉は立川談志の著作『現代落語論其二 あなたも落語家になれる(1985)』ではこう書かれています。

<私にとって落語とは、“人間の業”を肯定しているというところにあります。“人間の業”の肯定とは、非常に抽象的ないいかたですが、具体的にいいますと、人間、本当に眠くなると、“寝ちまうものなんだ”といっているのです。分別のある大の大人が若い娘に惚れ、メロメロになることもよくあるし、飲んではいけないと解っていながら酒を飲み、“これだけはしてはいけない”ということをやってしまうものが、人間なのであります。><こういうことを、八つぁん、熊さん、横丁の隠居さんに語らせているのが、落語なのであります。>

一段登りたいお笑い好きが好んで使う「業の肯定」という言葉、明らかにこの本を読まずに使っているのであれば、そいつは自分の言葉にハクをつけたいだけだと思うのですが、それはさておき、この「肯定」というのは、あくまで、それが存在するということを認めるという意味合いだということが、引用元を読むと分ると思います。認めたうえでどうするか、ということであって、許すという意味までは含まれていない。
比較文学者の小谷野敦は、「業の肯定というのは当然だろう、否定すればそれは宗教だ」と指摘してはいたんのですが、これはちょっと、許すという意味が含まれていると捉えているからこそなので間違っているかなと思います。
 そして、この言葉は、『赤めだか』中の名シーンの一つに出てきた「現実は事実だ」にもつながっていきます。
『赤めだか』では、弟弟子の志らくに対して、嫉妬をしていた時の談志からのセリ(116頁4行目)です。

 <「己が努力、行動を起こさずに対象となる人間の弱みを口であげつらって、自分のレベルまで下げる行為、これを嫉妬と云うんです。一緒になって同意してくれる仲間がいればさらに自分は安定する。本来なら相手に並び、抜くための行動、生活を送ればそれで解決するんだ。しかし人間はなかなかそれができな。嫉妬している方が楽だからな。芸人なんぞそういう輩の固まりみたいなもんだ。だがそんなことで状況は何も変わらない。よく覚えとけ。現実は正解なんだ。時代が悪いの、世の中がおかしいと云ったところで仕方ない。現実は事実だ。そして現状を理解、分析してみろ。そこにはきっと、何故そうなったかという原因があるんだ。現状を認識して把握したら処理すりゃいいんだ。その行動を起こせない奴を俺の基準で馬鹿と云う」>

本質を貫く名台詞であり、馬鹿に対しても道を示してくれる凄い言葉ですね。
人間とは気を抜けば、自らの業をさらけ出し、知らず識らずその深さに沈んでいくものだと思っています。僕はこれを、「人は誰しも心の中にババアと鈴木おさむがいて、それに対峙していかなければならない」とも言っています。
では、この言葉は、どこから来ているのでしょうか。
それは、談志が立川流を創設したきっかけとなる落語協会との争いが大元にあるのでしょう。落語協会とは、落語家、講談師が所属する協会です。

<談志(イエモト)は、所属している落語協会の旧態依然としたありかたに疑問を持ち続けていた。そして真打試験に自らが地震を持って送り出した弟子が落とされて激昂した。立川談志を否定されたと思った。そして落語協会を脱会する。『赤めだか(270頁11行目)』>

 自分が真打の器であると認めた弟子が、真内になれなかったことで落語協会を抜け、立川流を創設する。当時のことは知らないのですが、脱藩くらいの勢いだったのじゃないでしょうか。
立川志らく三十周年記念 第三弾 THE NICHIDAI」にゲスト出演していた高田文夫が当時のことを、「世間は生意気な談志ということで、叩かれていたけど、自分とたけし(ビートたけし)が入門したことで、一気に談志応援モードになった」と話していました。
 談志は、自分が認めた弟子が真内になれなかったことに対して、落語協会へ嫉妬をせずに(この騒動については半ば勢いだとは思いますが)、きちんと状況を打破したという体験が「現実は事実だ」につながっていっていると思います。
 こんな感じで、二つのワードを話しました。ほかに、「イリュージョン」「江戸の風」について話したのですが、こちらは「本人が死んじゃったからもうわかんない」という結果に・・・・・・。
 ほかには、談志の十八番についての話をしたりと、本当に3時間はあっという間に過ぎていました。勉強不足でもあるにも関わらず、ぱぁぱぁとしゃべり続けて申し訳ないかぎりですが、後々聞いたら楽しんでもらったようでなによりです。
恥ずかしながら、食べ物の描写が多いということとかは、指摘されて気付きました。
立川談志自身も、ドキュメントなどで、残り物を食べ物を食べるシーンが多いのですが、それは余り物を適当に焼いたり、電車の中で、適当に食べていたりするものだったりとジブリなどのように見ているとお腹が空いて食べたくなってくるようなものではないのですが、『赤めだか』でも同じでした。
それだけ、生活は困窮していたということで、食べ物にまつわる思い出が自ずと多くなったということです。
このように、『赤めだか』のいいところは、貧しかったことだけでなく、兄弟弟子の廃業や死について、さらりと書いていることです。いくらでもドラマチックに書けるところを流すように書いている、乾いているのはすごくいい。
この感じは落語をモチーフにした『タイガー&ドラゴン』を書いた宮藤官九郎は登場人物の離婚や死をさらっと描く宮藤官九郎作品にも通じるところはあります。他にも、宮藤官九郎は映画『GO』で、主人公に古今亭志ん生を聞かせたりしています。
 このあたりを湿っぽく描いているかどうかで、ドラマが良くなるか普通かの分かれ目になるのかもしれないという話をしました。というか、まだ脚本家が発表されていないという話から、クドカンもあるんじゃないかという説もでました。
 という感じでした。
 読書会、たまたまの神回の気もしますが個人的にも楽しかったです。
 ドラマを待つもよし、先に『赤めだか』を読むもよし、それから談志、談春のCDに行くも良し、「落語 初心者」で検索するもよし、各々が落語を楽しんで、落語が盛り上がるって言うのが一番いいと思います。
 それでは、笑顔でさらば!