石をつかんで潜め(Nip the Buds)

ex俺だって日藝中退したかった

正しさと了見について、武田砂鉄『日本の気配』を読んで思ったこと。

 RADWIMPSが、『HINOMARU』という曲をリリースしたということで、歌詞の内容が軍歌的だと批判されたことを受けて、フロントマンで作詞作曲担当した野田洋次郎が謝罪をするということがあった。それを受けてコラムニストの能町みね子は、「批判されてすぐに謝ったのはロックじゃない。そこだけは間違いない。」とツイートした。
 音楽ジャーナリストの宇野維正が、小沢健二のコンサートでの、『改めてすごいなと思ったのは「女子!」と「男子!」じゃなくて「女子の気分の人」と「男子の気分の人」と言う小沢健二のMCのジェンダーへの高度な配慮。ライブも実質上男女の2トップ。そしてステージの36人も女子17人男子19人(確か)とほぼ半々。アメリカか!(いい意味で)』とツイートし、セクシャルな事柄に配慮したことの素晴らしさを讃えていた。
 アルコ&ピースがラジオのスペシャルウィークの企画で、アベンジャーズから、一員であるファルコンを脱退させようという企画をやったところ、ファンから批判が殺到し、炎上となった。
 僕の通勤路の途中に、大きな十字路があり、月曜日の朝は、「辺野古基地はいらない」という旨が書かれたプラカードを持った人たちが立っている。
 能町みね子、宇野維正、ファルコンファン、辺野古基地に対して反対する人達。彼ら、彼女らは、全くもって正しいと思う。
 しかし、それ以上に、拒否反応を示してしまう。
 それは何故か。
 RADWIMPSにロックじゃないといった、能町みね子は、音楽ライターでもないし、ましてや音楽家でもない。にも関わらず、ロックじゃないと断言していることに強い違和感を覚える。
 また、自身が、オネエタレントという括りに入れられた時は激怒していたが、違う畑の人間には簡単にロックじゃないと言いきれる。
 もっといえば、能町みね子のこれまでの言動をみていると、明らかに自身に非があるときでも、一切謝罪の言葉を述べない。そんな人間が他人の謝罪を批評し、ロックじゃないと言えるのだろうか。その三日後に、無粋だけど一応言っとくけど、私が「謝罪したのはロックじゃない」って言ったのは、「似非リベラルの時代にこの歌詞を書けることがロックだ」と言って来た人がいたからそれを揶揄しただけで、「〇〇はロックだ/ロックじゃない」なんて言い方はふだんしないです(ダサいし)」とツイートしていたのだが、それこそダサい。
 宇野維正は、その小沢健二のコンサートに向かう道中のタクシーの車内でのやりとりをこうつぶやいている。『「大阪城ホールまでお願いします」 タクシー運転手「誰かのコンサートですか?」 「はい。運転手さん知らないと思いますけど」 タクシー運転手「誰ですか?」 「小沢健二って人」 タクシー運転手「ああ!かぐや姫の!」 「かぐや姫にはいなかったと思います」』
 何故、タクシー運転手が小沢健二を知らないと決めつけることができるのだろうか。実際知らなくても、このつぶやきから滲み出るほどの選民思想にも近い、上から目線に、たかだか一リスナーがなっていいのだろうか。
 確かに小沢健二の歌はとても素晴らしいが、歌は市井の人のもののはずだ。
 セクシャルマイノリティにだけ配慮し、半径5M以内の他人を下にみるのは、小沢健二を聴く意味はないんじゃないだろうか。小沢健二がライブ会場で歌うヒット曲と、タクシーの運転手が会社の忘年会か何かで照れながら一曲だけ河島英五(この選曲も先入観からくるものかもしれないが)、価値は同じなんじゃないだろうか。
 アルコ&ピースの企画と、腐女子として、同人BL雑誌でオカズにすることと何が違うのだろう。
 毎週月曜日の朝は、御多分に漏れず憂鬱だ。仕事に加えて、唯一の趣味であるラジオの投稿を前の日に終える。今週のお題難しかったや、多めに出せたから今週多く読まれるかも、でも無理かなあとか、火曜日のラジオに送るやつは今日考えないと考えて、気を紛らわせる。
 そんななか、老人たちが、「辺野古基地はいらない」という主張のプラカードを掲げても、仕事にもいかないでいいご身分だなという黒い思いが、心のなかで鎌首をもたげる。
 月曜日の朝の僕にとっては、遅刻しないことと、その日の夜にラジオを読まれることだけが切実な問題であって、そういったことに配慮出来ない人たちが理想とする政治に何の意味があるというのだろうか。
 例をすべてあげればキリがないが、インターネットを散策すると、このような、正しさが大通りを闊歩している。しかし、これらのように、必ずしも、正しさが心に刺さるとは限らない。それは生来の気質であるところの天邪鬼にも由来するところだが、正しさアレルギーにある。
 正しさの押し付けやそれだけを求めることは良くないが、正しさアレルギーにある状態も良いとはいえない。なぜなら、それもまた、均衡を保てていないからだ。
 しかし、このアレルギー症状がどんどんひどくなっていっているという自覚はある。
 つまりは、正しいことを相手が言っているな、と思ってしまえば、受け入れたくなくな ってしまう。
 正しさといえば、武田砂鉄の『日本の気配』という本を読んだ。
 この本は、日本の政治についての事柄がとても詳しく書かれており、知らないことばかりが多く、とても勉強になった。そしてとてつもなく、正しさに溢れていた。だからなのか、この本を読んでいる間、ずっと何故、自分が悪いと思っていないことで説教をされている子供のように、ずっと腑に落ちない気持ちでいた。
 ここ最近は、武田砂鉄が嫌いな理由、つまりはこの、えも言われぬ受け入れ難さの根っこについて考えていたのだけれども、何を思い付いても、どの角度で考えてもしっくりくる答えが見つからずにいた。
 本を読んでいると、「皮肉をいわせてもらえば」というような言葉が出てくる。また、他の連載では、「編集者にテーマを決められて」といった言葉も出てくる。著書名が日本の「空気」ではなく、「気配」という理由を書くときもこの二つの言葉の意味を辞書からひいて書いていた。
 武田砂鉄の文章は、保険で足元をガッチガチに固めていて、それでいて攻撃が投石くらい弱くHPを一桁ずつ削ってくるというもので、個人的には、その戦法がとても気持ち悪い、ということに気がついた。
 いうなれば、「その了見が気に食わねえ」である。
 「了見」という言葉は、解釈は正しいものではないかもしれないが、ニュアンスとしては、人間として所属するコミュニティの常識をベースにしながらも、これまでの経験で培ってきた嗅覚のことである。常識は理屈によって構成されるが、了見はもっと生理反応的なもので理屈はあとからついてくる。僕の了見は、武田砂鉄の文章を拒否する。
 当たり前のことだが、人は正しさだけでは生きておらず、だからこそ、正しさだけでは削られないし、削られたくない部分がある。
 正しさも正しくなさも過剰に可視化されている時代ならば、正しさの内側にある、了見をしっかり持たなければならないと強く思う。
 そして、きっと、了見に沿った行動を粛々と継続することだけが、誠実と呼ばれるのだろう。

 

 

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