石をつかんで潜め(Nip the Buds)

ex俺だって日藝中退したかった

いとうせいこう『今夜、笑いの数を数えましょう』「第二章 ケラリーノ・サンドロヴィッチ」の雑感。

いとうせいこう『今夜、笑いの数を数えましょう』の「第一夜 倉本美津留」の雑感 - 石をつかんで潜め(Nip the Buds) http://memushiri.hatenablog.com/entry/2019/03/22/233655

 

 続きです。

 いとうせいこう『今夜、笑いの数を数えましょう』の第二夜のゲストはケラリーノ・サンドロヴィッチということで、主に、「演劇での笑い」と「ツッコミ」について語っていました。
 ケラは、「最も好きな笑いの嗜好は、整理されているものじゃなく、混沌としたものやグロテスクなもの、ちょっとワケのわからないものにこそあるんだ」と話し、まさにそういう笑いが好きな自分としてはやっぱり一気に前のめりになりました。
 まず最初に出たのは「自覚」と「無自覚」ということの話で、ケラは、第一夜での倉本の「袖が長いと笑ってしまう」という発言を持ってきて、『当事者に自覚はない。だからこそ面白い。そういう日常の無自覚なものと、無自覚になれない創作者は戦っていかなきゃいけないわけですよ。例えば、おもしろい顔には思わず笑っちゃうでしょ?「面白い顔をする人」じゃなくて「無自覚な、元々面白い顔」。なかなか手強いですよ。こうした無自覚に打ち勝つ、自覚的な笑いを作り続けるのは。』と話す。
 例えば、お笑い芸人にもそういうタイプに二分できるとは思うのですが、第三夜のゲストバカリズムはそこに入るだろうし、ここからは少しずれるかもしれないけれど、東京ポッド許可局ではマキタスポーツが「単独前はものすごく意地悪になっていた」、ダイノジの大谷は「ネタを量産するときは、電柱のポスターにすらいらつくようになった」と言っていたように、他にも芸人のフリートークで「何かに怒った話」が頻出するのは、その位、自覚的に笑いを作るということは違和感(≒笑い)へのアンテナの感度が上げないとできない、もしくは自ずと敏感になってしまうということだろう。
 そこから、いとうが「絶対にセリフをおもしろくしちゃう何かがある」という、シティーボーイズのきたろう論になるが、これがおもしろかったので是非、きたろうの顔を思い浮かべながら読んでほしい。本文のなかにも例としてあげられているが、「よくわかりました」というセリフで、きたろうのセリフなのか、いとうのセリフなのかで、イメージが違ってくるという話は、確かに、となりました。
 ここからは恐らく、舞台に立ったことがある人でないと分からない領域の話になってくるのですが、この章で一番、掘り下げて聞きたいと思った個所を、引用すると「若いお笑い芸人を演劇で潰しちゃうのは簡単なんですよ。役者よりも幅が狭いから、勘所が限定されている。」「なにしろ、お笑いの人はお客の反応がすべてなんですよね。受けるものだけが正解という世界ですから。そこが演劇の人との一番の違い。良し悪しは別として、笑わせてなんぼの人特有の価値観が染みついている」というところになる。
 確かに印象論として、演劇での笑いは、ものすごくフリが長いなと思うこともあるし、逆に、4~5分のネタの長さのコントで一分以上笑いを出してこない手法をやるお笑い芸人のコントは、「演劇的」と評されるというのがある。しかもその場合は、「おいおい勇気あるな~」「実力あるからそれができるんだな」という意味合いであって、それこそ演劇での半ば無自覚とは違って、自覚的にフリを長くしているという様子がある。また、演者の生理や価値観ということもあるだろうが、恐らく客側の「それを待つという意識」の土壌があるかどうか、の問題もあるだろう。
 ついこないだ、演劇ユニットのテニスコートの単独ライブ『パリドライビングスクール』を観たのだけれど(youtubeにいくつかコントあります。単独自体はオフビートなコントの数々でものすごく良かった。)、フリ長いなと思ってしまったことがある、ネタを舞台で見ることに慣れている僕でさえ、その感覚を切り替えるのにやや時間がかかった。
 やはり演劇と芸人には、同じ「フリ」でも何か決定的な価値観の違いが横たわっているようにも思える。で、ネタの尺を30分もたせて初めて実力派と言われる芸人をやる以上は、そのフリの違いに自覚的にならない限り、長時間の鑑賞に耐えうる芸とはいえないのかもしれない。オードリーの武道館での漫才も30分以上だったが、くだりとしてクドイ部分に、「長いなあ」となるか、「しつこいな~(笑)」となるかが芸の分かれ目なのだろう。
 話がずれたので元に戻すが、ケラは『演劇の演出でそんなに笑いに慣れてない人に巻くが開いてから言うダメ出しで多いのは、「あそこもうちょっと待って」ですかね』と話、小池栄子にツッコミのことで演出した話をする。そこは本文を読んでほしいが、間の取り方でセリフに含まれてくる情報が変わってくるという話をしている。自分がテレビツッコミに毒されているということを凄く自覚出来るエピソードである。
 そしてここからはツッコミの話へと入っていく。ケラによるダウンタウンの「クイズ」のネタでの浜田のツッコミの話が聞けたりするのだが、いとうはツッコミに対して『基本的に今の人たちはツッコミを笑わせるタイミングだと思ってるけれど、ホントは主になんの機能があるかというと、そこまでの状態のまとめなんですよね。「そんなわけないだろ!」というのも、それは現実的ではないっていうまとめなんです。このまとめてしまうことが、芝居の中で現実的な日常をやりたい時に、人は現実をまとめないでしょってことで。』と話す。ここに関してはやや、小説家としてのいとうの視点も入っているように思えるが、ツッコミはまとめっていう認識は、テレビツッコミに毒されていると持てないような気がする。
 ツッコミといえば、『爆笑オンエアバトル』の復活SPで、東京03が結成四日目でネタを披露してオンエアとなっていたVTRを観ることが出来たが、今でこそ東京03が大好きだが、アルファルファが好きではなかった。というのも、アルファルファのコントは、飯塚が、全てのコントでキレすぎてて、「そないキレんでもええやん」となっていたというのが理由なのだけれども、角田が加わったことで、そのキレに自分の中で理由が出来て好きになった。これは、角田が、きたろうのように無自覚の人寄りで、そんな人がアルファルファに加入したことで、飯塚が小ボケに対しても大ツッコミをしていたのが、小ボケ、大ボケ、大ツッコミというホップステップジャンプのような段階を踏めるようになったという構成の変化ももちろんそうなのだけれど、角田の容子には観客に「こいつには怒鳴ってもいい」という説得力があったからというのは少なくない、と思う。
 ツッコミの話のなかで、スルーするという手法の話になり、現在の漫才師でもそれを使っているということが出てきた。確かに「わざとスルーする」という手法は散見されるけれども、これはあくまで、「さっきからスルーしていたけど何なん」というためだけのものであるのが大半で、演劇的な「スルー」とは違う気がします。なので、スルーしているな、ということがばれると、中盤で「さっきからスルーしていたけど何なん」が来るんだなと思ってしまうので、その手法を使いたいなら、隠す努力が必要になってくる。
 大きな意味でツッコミになると思うのですが、ケラは一時期「なんで俺をみるんですか」ってセリフを多用していたということで、このセリフは確かに面白い。「みる」という無言の行動に対して、「俺を巻き込むなよ」という情報が入っているところが良いということか。
 セリフでいえば、「○○は△△が嫌いだからな」というのが凄く面白い、と思っています。自分が人をすぐに嫌ってしまうというどうしようもない人間であること、さして周りから好かれているわけではないという自覚をもっているからとかそういうのの発露だと思うのですが、だからこそ面白いんですよね。受けるとは思っていないんだけれども、面白い。ある種、嫌われ者という存在への偏愛に近いのかもしれない。それはかっこつけたかもしれませんが。
 こんな感じで、この章をまとめるとしたら、「ツッコミは笑いを産むタイミングではなくて、それまでのまとめであったり、リズムをつけるものであったりするので、一度そういった本質的な機能に立ちかえってみる」「面白いセリフを探してそれをどう活かすのか考えてみる」ですかね。
 

 第一章の記事はややウケでしたが、続けます。