石をつかんで潜め(Nip the Buds)

ex俺だって日藝中退したかった

ペポカボチャの呪い。あるいは、なぜ「secretive person」が名作なのか。もっと言えば、かが屋論になりうるそんな文章。

 大学生になって初めて一人暮らしを始めることとなり、一枚のDVDをレンタルした。それはBS日テレで放送されていた『epoch TV square』というおぎやはぎバナナマンが出演しているシチュエーションコメディだった。その面白さ、と面白いだけでは説明できない感情に心を動かされ、その出演者であるバナナマンの2002年の夏に行われた単独ライブを収録した『pepokabocha』もレンタルしてきた。
 もう、とにかく一本目のコント「pumpkin」からぐいっと引き込まれた。
 照明が暗めの舞台の中央には、台の上に置かれているカボチャと、それを挟むようにして椅子に座っている二人の男がぼそぼそと話し始める。「何これ」「カボチャ」「うん、いやもう、それは分かってるけどさ。おい、そろそろ電車無くなる時間だぞ。大丈夫か。」「あー」「大丈夫か」「あー、ああ、今日さ、おまえん家に泊まってもいいかな。」「うん、それは別に良いよ」「悪いな」。ローテンションなまま始まったコントは、設楽が「俺の言うことに絶対服従する奴隷を手に入れること」と言いだすことでじんわりと展開していく。
 カボチャ一個で奴隷にしようとする設楽の論理とそれにまんまとはまっていく日村のやりとりに、混乱しないように必死でしがみつこうと前のめりになったまま、10分に及ぶ日常とも非日常ともつかない世界観の会話劇に見入ってしまう。
「pumpkin」が終わった瞬間、まず、めちゃくちゃ面白いけど、今感じている面白いは、コントとしての面白さなのか、だとしたらコントってこんなのもありなのか、と衝撃を受けた。
 その余韻を味わいきる前に、二本目の「オフィスのオバケ」がすぐに始まる。 「pumpkin」が作りだした不穏な空気をまとったままコントは進み、最後にぞくっとさせられるオチが待っている。そこから、設楽が好きなスネークマンショーの影響が色濃く反映された「ブルーフォーブラッフォーガングリフォン」と続き、今見てもなお圧倒的な完成度を誇る名作「secretive person」でライブ全体を通して笑いの量では一番の盛り上がりを迎えたあとは、無邪気さの中にあるペーソスが光る「mountain」、まだまだアングラ感が漂う「赤えんぴつ」、飲み会の帰りのテンションと酔いが醒めた時のテンションの落差と日村のドタバタが映える「puke」、雨の中で傘を差してバスを待っている二人の会話劇からのナンセンスなオチで不思議な感情にさせられる「rain」、最後に「思い出の価値」のいい話できゅっとしめる。
 『pepokabocha』で披露されたコントはどれもバラバラでも、それがどこか、ライブが開かれた夏という季節の負の側面の空気の様な、夏への恨み節のようなものが通底していることや、結成9年目にしてもまだ世に出られていないバナナマンの鬱屈した感情を吐露したような空気が蔓延しているような気にもさせられることで、9本のコントに統一感がもたらされており、それがこの単独ライブの唯一無二のウェルメイドさを生み出している。
 この単独ライブの満足度と完成度の高さは、一本目のコントと最後のコントに共通して登場するカボチャが、他人を奴隷にするためのものから、喧嘩をした恋人どうしを再び結びつけるものという役割が反転するという構成の妙だけからくるものではない。
それはきっと笑いの種類の豊富さによって成り立っているもので、台本の面白さというテキストによる笑いはもちろんのこと、台本からはみ出たアドリブで起ったような笑いや、コメディアンとしての力量を示す演技や身体能力などの動きによる笑いに留まらず、加えて、「secretive person」の爆笑だけではなく、「ブルーフォーブラッフォーガンブリフォン」のにやにや笑い、「puke」はとにかく下品な笑い、「赤えんぴつ」のブラックな笑い、「rain」でのニヒルでシニカルな笑いという様々な種類の笑いがあり、かつ、切なさやいい話まで詰まっていることによるもので、その多方向から攻めてくる「面白い」をベースとした強烈なウェルメイドさに、はじめて見終わったあと、映画じゃん、と打ちのめされてしまった。
 中でも「secretive person」は『pepokabocha』の中でも緻密な台本とバナナマンふたりの演技力、それにパズルがハマっていくような心地よさ、セミの鳴き声で始まりセミの鳴き声で終わるという演出が表現している夏の日のけだるさ、それら全てに裏打ちされた名作となっている。
 日村が友人の設楽と会話していると、設楽の「スウェーデン人軍曹の彼女と結婚するので、結婚式をあげるための教会を探しにハワイに行ってきた」という近況が、会話の中でそれらがひとつひとつ、しかもバラバラに発覚していくというもので、そんな言わない設楽に「言えよ」とつっこんでいくということがメインのコントだ。
今でこそ、ひとつのツッコミや設定で突き進んでいくフォーマットのネタは新しいものではなくなったが、十数年も前に高い位置で完成させていたという事実はあまりに大きい。その上、このネタ自体はこの単独ライブより前に出来ていたというのもまた恐ろしい。
 このコントの肝は「設楽がただ自分のことを言わない奴である」ということなので、そんな設楽の異常性を描きだすためには、いかにこの二人は普段も仲が良い、そこにはれっきとした友情が存在するという関係性が存在するということを観客に示さなければならない。
 その積み上げは、会話の端々に仕掛けられている。例えば、「あー、暇だな」「あー、暇だな」というやりとりがあることで、この二人は、特に予定も無く、とりあえず、無駄に日村の家に設楽が遊びに来たものの、結局することがないので時間をもてあましているということが分かる。また、海外旅行に出かける前の日と、帰ってきた日に遊んでいるという関係性も相当に仲が良くないと発生しないことなので、だからこそ、そんなに仲が良いのに、何も言わないということの面白さが輝きだすし、その関係性は、日村がどれだけ設楽を攻めたててもきつくなりすぎないという効果も生み出している。
 「彼女でもいりゃあなあ」という日村のセリフへの設楽の「彼女ねえ」というやり取りも設楽が嘘を吐いていないというところもポイントが高い。友情関係があるという前提やこれらのやりとりががないと設楽はただの秘密主義者になってしまう。
設楽はただ言わない奴であるという説明を、こうした、細やかなセリフを随所に配置することで対処しているので、説明的なセリフを排除され、それがリアリティを産んでいる。その他にも、興奮している日村を見ている設楽の表情は「何でこんなに怒っているんだ」と言いたそうなものになっているのも芸が細かい。
 『epoch TV square』もそうだが、この体験は、ネタというのは5分ほどの長さで、丁寧なフリにきちんとツッコミが入って、爆笑出来れば出来るほど素晴らしいという『爆笑オンエアバトル』という価値観からの強制的な脱却を意味し、以後の自分のコント感に多大な影響を与えることとなった。
 コントだからといって笑いが起きない時間が長くてもいい、設定を過剰に説明するようなセリフは不要なので極限まで削ることが出来る、そのことで、会話や登場人物の感情の動きにリアリティが付与される。会話に、そのコントには直接関係ないやりとりが挿入されることで、これまでの二人の関係性が見え、コントに時間軸の奥行きが産まれ立体的になる。
 何より、コントのために登場人物がいるのではなく、彼らの日常を切り取ったらそれがコントになったと思わせるというコント観はとてつもなく衝撃的であった。
 これらは今も、呪いにも似ているほどに強力なものとして残っている。