石をつかんで潜め(Nip the Buds)

ex俺だって日藝中退したかった

魂をサンプリングするということ(エラボレイト版)

※この記事は、もともとのものを、同人誌「俗物ウィキペディア」用に推敲したテクストになります。

 

 伊集院光とNHKアナウンサーの安倍みちこが司会を務める『100分de名著』という番組で、大江健三郎の『燃え上がる緑の木(1993-1995)』が取り上げられた。大江健三郎にハマり始め時に読んではみたものの理解できなかった作品であったが、せっかくだからと、この放送に合わせて、番組の解説を聞きながら、一カ月かけてゆっくりと再読してみたら、とてつもなく面白い小説だったということに気付かされる良い読書体験を得ることが出来た。

 大江健三郎の小説は、デビューした頃などの初期に分類される作品はソリッドで濃密な文体で、今読んでもとてもカッコいいのだが、後期は特に、伊集院が「大江先生の本は何かとこう話題になるたびに手には取るんですけど、難しいって挫折してきて、唯一ね『「自分の木の下」で』っていう本だけは割と分かりやすく書いてて、40歳手前くらいのときに多分読んでこれ俺にも読めたと思ったら、先生が小学生向けに書いた本だって言って」と笑いを誘っていたように、例えば、登場人物の名前や紹介が不十分であったり、大江の長男の光が頭部に障碍を持って生まれたということを知識として持っているということを前提としているなど、大江作品全体の背景を抑えていないと分からないところがあって、ハイコンテクストとまではいかないが、親切な小説ではないことは確かである。

 なかでも作中に点在する、大江が読んできたのであろう世界文学の引用について、その意味を理解できずにいたのだが、「第二回 世界文学の水脈とつながる」ではまさにそのことについての解説がなされていた。

 番組にも指南役として登場した作家の小野正嗣によって書かれたNHKテキストには、「大江文学の特徴は、つねに他の文学作品や芸術作品との関係において小説が書かれていることです。別の言い方をすれば、大江健三郎の小説には、他の文学作品という対話者がいて初めて成り立つようなところがあるのです。対話するためには、相手の言葉が必要ですから、どうしてもそうした作品の一節や言葉が、作中に引用されることになります。」とある。加えて、大江自身が書いた、または書いたが完成しなかった小説までが出てくるが、これは『燃え上がる緑の木』に限らないので、手に取る順番を間違えると、難しい小説と感じてしまうだろう。

 『燃え上がる緑の木』も、タイトルからしアイルランドの詩人のウィリアム・バトラー・イェイツの詩から着想を得られたものであるように、ルーマニア出身の宗教学者ミルチャ・エリアーデ、ドイツの作曲家のワーグナー、フランスの哲学者のシモーヌ・ヴェイユ、ロシアの文豪のドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、谷内原忠雄『アウグスチヌス「告白」講義』などが全体を通して登場し、物語に大なり小なり作用する。

 番組では特に『カラマーゾフの兄弟』とヴェィユに焦点が当てられた。

 小野は、大江が大好きな作品であるということはもとより、虐げられた子供の物語とも読み説くことが出来る『カラマーゾフの兄弟』での、病気のイリューシャを主人公であるアリョーシャが慰めるシーンは、『燃え上がる緑の木』の病気のカジ少年をギー兄さんが慰めるシーンと重なるものであると指摘する。また、大江が子供という存在にひきつけられる理由について「大江さんには頭部に障害を持って生まれた光さんっていう息子さんとの共生、共に生きるってことが、大江さんのその文学のほんとうの、ほんとうのその柱なんですね。だから大江さんのお子さんが産まれてから、あらゆる作品に子供の問題ってのは描き込まれていると。」と話す。

 大江の息子の光という名前は、ヴェイユが「闇夜の世界でカラスが、光がほしいと願ったことで光が生まれた」というエスキモーの話を論じた事に因んでいる。その時の裏話として、母親に由来となる詩の話をしてから、カラスと名付けようかなと言ったら怒られたというユーモラスなエピソードもある。

 安倍は、叱られそうですけど、と前置きしたうえで「ゼロから産み出だすのと、引用してこう持ってくるのだと、引用して持ってくるほうが楽なのかと思ったんですよ。」と話すと、伊集院も「思うよね。最初はね。でもこの使い方はちょっと異質ですよね。」と頷きながらも、小野に尋ねる。小野はそれに「これだけ膨大な世界文学があるんですよ。その中からどれをどのように引用するかということ自体が、もうそれこそがクリエーションですよね。しかもね、引用ってのは、他者を受け入れる作法なんです。それはね、ほんとに、他の詩人たちの言葉も大江さんの作品の中に受け入れられて、そこで出会い、そこである種、対話していって、新しい言葉の世界が生み出されていく。」と答え、大江作品における世界文学の引用という行為の意味と効果について解説する。 

 その解説に対して、「いやなんか、自分の魂について考える。そのよすがになってくれた文学作品の自分を助けてくれたところをまとめたら福音書になるんだっていうことですもんね。自分のその息子さんとの関係、関係の中で生じた魂への疑問みたいなものを、ありとあらゆるものを読んで、それがどんどん解決に向かわせてくれたんでしょうね。」と伊集院が続けたのを聞いた小野は、「いや、伊集院さんの方が、僕なんかよりはるかに深く読まれてると思います。つまりやっぱ、自分の魂の問題っていうか、疑問を、世界中の詩人や文学者に投げかけているんだと思いますね。」と感嘆する。

 そして小野は、この回の最後に、大江文学における本という存在について、「読書って何かっていうと、人は苦しい時やつらい時に必要としているところにジャストミートするんだ、出会うんだっていう話を大江さんはされていて、なにか僕は大江さんにとっては、読書自体がね、祈りをささげることに似てるんじゃないかっていつも思うんですよ。注意力を傾けて、自分の持てる注意力を傾けて、他者の文章っていうものに触れていくと。まさにね、注意力っていうのは、その祈りの純粋な形だっていうヴェイユは、そういうことも言っているんですけれども、なにか自分の目の前にある、あるいはこう自分の考えている対象に向かって意を注ぐ。で、そう言われてみれば『燃え上がる緑の木』の教会の祈りって何ですか。集中です。集中するってなにかって言うと、注意を、注意力を何かに注ぐっていうことじゃないですか。で、これってまさに、ヴェイユの言っている、その集中力っていうものが、その祈りであるっていうことと響きあっていると僕は、思うんですけど。」とまとめる。

 伊集院の解釈を聞いた小野が終始、「その通りだと思います。」などと絶賛するようなリアクションを取っているのもよかったが、それは、やっぱりという気持ちもあった。というのも、大江と伊集院といえば、伊集院がパーソナリティーを務めていた『日曜日の秘密基地(2008.3.2)』という番組のゲストに大江健三郎が出演して、伊集院とトークをしていたのだが、ジャンルも年齢も異なる二人にも関わらずそれがとても噛み合っていて、素晴らしいものだったからであり、どこか深いところで繋がっているのではないか、とずっと思っていたからだった。

 強くそう思わされたのは、伊集院が、大江の本について、タイムマシーンだと評した一幕による。伊集院は、大江が小学生の頃などを思い出していると、その時に気付かなかったことに改めて気付き、そして、そのことについて文章にしているところが特に好きで、それにつられて、自分もなにか過去のことを思い出して、視点を変えてみるということをやってみると、調子のいい時には、今までとは違うことに気がつくことが出来る、その時の感情として、「面白いも怖いもゾクゾクも全部入った、うわ、俺、なんか、もっかいここに行けてるっていう感じすんですね。なんか、あれすごいですよね。喜怒哀楽の単純な笑いでも、単純な怖いでもない、あっ、なんだろこの感じ、大江健三郎の本によって、俺連れてかれてるっていう感じ。」と話していた。それは、伊集院とリスナーとの関係にも入れ替えることが出来る。『深夜の馬鹿力』でのフリートークの内容と、リスナーとしての自分のバイオリズムがバチっとハマったときに感じることが、まさに、「連れてかれてる」でもあり、そして喜怒哀楽のどれにも明確に属しない混沌としたものを面白く感じるというのは、まさに伊集院光から教わった価値観だったからだった。

 大江の手法は、現代的にいえばサンプリングだが、『100分de名著』が放送されている一カ月の間に、同じようにサンプリングを用いた作風ともいえるクエンティン・タランティーノ監督作品の『Once Upon a Time in…Hollywood』を観てきた。

 1969年のハリウッドを舞台に、レオナルド・ディカプリオ演じる俳優のリック・ダルトンと、ブラッド・ピット演じるその専属スタントマンのクリフ・ブースらを描いた『Once Upon a Time in…Hollywood』は、タランティーノ作品のなかでは、『ユリイカ2019年9月号 特集=クエンティン・タランティーノ』にはタイトルの「…」がinの前か後かという文章が載るほどに情報量が多い映画であることは間違いないのだが、やはりこれまでのタランティーノ作品と比べると、構造が凝られているわけでもなく、途中に緊迫感があったりするものの、全体の印象としては、だらっとしたチルな空気が流れている。 

 ただそれは、とても心地良いもので、特にそれが集約されたような、クリフのトレーラーハウスでの生活を描いた場面などはたまらなく素晴らしい。タランティーノは、少なくとも映画を取ることは10作でやめると公言していて、今作が9本目にナンバリングされるわけだけれども、そんな作品で、いつも以上にサンプリングとパロディを盛り込み、それが本当に楽しんで映画を撮っていることが伝わってきて、そのことだけでもいくらでも語りたくなるほどだ。

 『アルコ&ピース D.C.GAREGE(2019.9.4)』では、アルコ&ピースの平子が「CG無いらしいですけども、ロスのあの頃の埃っぽさすら伝わってくるような光景だったんですが、こだわりってどうなんですかって聞いたら、たぶん、いっちばん聞いてくれたってとこなんだろうね。俺のことでっけぇ手で指差して、ユゥーッてまず言ってきて、びくぅってして、めちゃくちゃがなってきて、あ、殺されるぅと思ったら、よくぞ聞いてくれたの質問だったんだね。そっからばーって喋ってさぁ」と、タランティーノにインタビューした時の裏話を話していたように、再現された当時のハリウッドの街並みも見応えがあるものだった。

 何よりこの映画に心を震わされたのは、タランティーノが、この作品の中で偽史を作り上げたということだった。そのこと自体は『イングロリアス・バスターズ』でもなされていたのだが、『Once Upon a Time in…Hollywood』は、もっとタランティーノの個人的なことに踏み込んで、しかもそれは軽やかさをもって成し遂げられていた。映画の結末の意味に少し遅れて気がついた瞬間に、得も言われぬ感情が心に広がり、理屈を飛び越えた感動が押し寄せてきた。見終わった帰り道、「これは・・・・・・。これは・・・・・・。」とぶつぶつつぶやきながら、少し肌寒くなってきていた夜空の下、原付バイクを走らせていた。

 また、サンプリングということからは、いとうせいこうのダブポエトリーも連想した。

 いとうは、TBSラジオの『アフター6ジャンクション(2019.8.5)』の「LIVE&DIRECT」というコーナーに出演し、ダブポエトリーについて解説する。「80年代くらいか、70年代くらいか、ジャマイカで産まれました。自分達が録音したトラックを、ダブエンジニア、まあ、つまりエンジニアの人が最終的にレコードにする際に、えー、まあ、ボーカルをオンにしたり、まぁ、あるいは、ベースを抜いてしまったり、時には、というように色んな事をやるように、つまり技術者が音楽に関わるっていう革命を起こした。だいたいは、低音と高温をものすごく強調するような音楽で、まあそれが各地にダンスミュージックにものすごく影響を与えて、みんながダブサウンドっていうのをやるようになりました。で、ヒップホップもそれに僕は近いと思っていて、要するにDJっていう非音楽家が音楽をやるという意味ではダブと、ダブも、実はヒップホップもジャマイカ系移民が、あのまあ、やったと言われているんですけども。えー、何故かジャマイカから20世紀後半にふたつの非音楽的な音楽が産まれた。で、これをやっぱり僕は、ずっとやりたくて89年にヒップホップをずっとやってたけど、なんか音楽とまぐわえないと思っちゃって。フリースタイルも無かったからまだ。その頃は。で、僕は一回辞めちゃうんですけど。ラップを。それでその90年代ずっと何やってたかっていうと、いろんなDJ達と、この自分の詩を次々読んで、アドリブで読んで、それにダブをかけてもらうっていう。それがやっぱり、意味と、意味でこっちはセッションする。音楽をやっている人達は意味じゃない音を出してるんだけど、それが意味に聞こえる時がある。で、これがやっぱり音楽の醍醐味なんじゃないかっていう風に思って。意味で踊ってもらう。」

 それから、スタジオで披露されたライブパフォーマンスは、いとうせいこうが、バンドが演奏するレゲェ風の音楽に乗せて、田中正造の言葉を読み上げるというものから始まった。

 「真の文明は山を荒さず。川を荒さず。村を破らず。人を殺さざるべし。人は万物中に生育せるものなり。人類のみと思うは、誤りなり。いわんや、我ひとりと思うは誤りの大いなるものなり。人は万事、万物の中にいるものにて、人の尊きは万事万物に背き損なわず。元気正しく、孤立せざるにあり。明治44年5月14日。田中正造is the poet」

 さらに、九鬼周造、ナナオサカキ、与謝蕪村が読みあげられていく。

 田中正造が百年以上前に書いた文章を、現代人のいとうせいこうが令和元年に、日本の真裏で産まれた音楽に乗せて読みあげることで、過去と現代、さらには国までもがぐちゃぐちゃになって混ざり合い、そのことで、様々なテキストが、ランダムさも含めてクリティカルで再解釈できる瑞々しいものとして息を吹き返して、現代に接続し、新たな文脈となり未来へと繋がっていく。((令和5年、『万延元年のフットボール』を再読し、これがそれと同じ構造を持っていることに気が付きました。((ここに脚注を書きます))))

 タランティーノはインタビューで、「一年半前にシャロン・テートの名前が話題に出たら、20世紀に起きたなかでも、もっともひどい殺人事件の犠牲者として彼女のことを思い浮かべるだろう。俺は彼女が生きていた姿を見せたかったし、彼女をひとりの人間として描きたかった。」と話していて、こういうことか!と、映画を見て心が震えた理由を、追って理解することが出来た。映画が好きな人は、シャロン・テートの名前が出たら、『Once Upon a Time in…Hollywood』を思い浮かべるであろうから、その意味だけでも、タランティーノの手によってシャロン・テートは現代に接続することができたわけである。そしてそれは『燃え上がる緑の木』のカジ少年のエピソードや、大江健三郎が描いてきた、死んだら森の中に生えている自分の木の根っこに戻って再び生まれ変わるという話をはじめとした死と再生の物語と共鳴する。

 『100分de名著』の第4回の最後に、大江健三郎が今まさに『燃え上がる緑の木』の最後の文章であり、「喜びを抱け!」という意味を持つ英単語の「Rejoice!」を書いて執筆を終える瞬間という貴重な映像が流された。

 そこで大江は、「障害のある子供に父親が死ぬということを教えることをどうするかということは、まあ、僕にとっては非常に大きな問題です。子供に自分が死ぬということを君は恐れることはない。自分が新しく生まれ直してくることがあるかもしれない。その時には君と一緒にあるということをね、言いたいという気持ちは持っているわけですよ。」と語るが、もう泣けて泣けてしょうがなかった。

 大江健三郎が『燃え上がる緑の木』を当時、自らの集大成として執筆し、最後の小説と位置付けていたとのことだが、そんな作品が、こんなにも希望に満ちた言葉で締められるわけである。

 ここまできて、ようやく、サンプリングという手法が持つ効果や役割をつかめたような気がした。

 そもそも、ここまでの文章、および、これまでにブログ「石をつかんで潜め」にアップしてきた記事は、お笑い批評という性質によるものが多いが、基本的には引用である。選んだわけではなくて、辿りついたという表現がしっくり来る手法だが、気付けば、「石をつかんで潜め」という名前も、大江の『芽むしり仔撃ち』の最後の「僕は自分の嗚咽の声を弱めるために、犬のように口を開いてあえいだ。僕は暗い夜の空気をとおして、村人たちの襲撃を見はり、そして凍えたこぶしには石のかたまりをつかんで闘いにそなえていた。」という一節を受けたもので、意図せずして、大江健三郎の模倣になっていたわけである。

 『燃え上がる緑の木』は、主人公のサッチャンが、K伯父さんから「この物語を書くよう勧めてくれた」から書いたというていが取られている小説で、その時に、サッチャンはK伯父さんからアドバイスを受ける。

 「あったことをそのまま正確に復元しようと、神経質になることはない。それよりもね、こういうことがあったと、サッチャンの言いはりたいことを中心に書いてゆくのがいい。ありふれた本当らしさの物語ではないんだし、とにかくこのような物語を生きたと、きみが言いはり続けるのが書き方のコツだ。」

 言いはる、という言葉からは、正しくないかもしれないけれども、間違っているかもしれないけれどもという揺らぎのニュアンスが読み取れるが、だからこそ、読まれるか読まれないに関わらず、文章を書いている人間にとってなんと勇気が湧き出る言葉だろうか。

 そして、さらに、『日曜日の秘密基地』での大江の「自分自身が、あの普通の人間として生きていて、普通の現実生活を生きていて、その地続きで辿りつくことのできるものからね、毎日文章を書き直すことによって、一歩、あの、ジャンプすることが出来るっていうことがあると信じているわけなんです。それを頼りにして、あの、五十年間、小説を書いてきたわけです。ですからね、それは本当によく受け止めてもらえるかどうかってことはね、あんまり考えない。」という言葉にもつながっていく。

 『燃え上がる緑の木』にて繰り返される主題は、「魂のことをする」だが、自分にとってのそれは何なのか。

 数学で習ったベン図という、複数の円が重なり合う図式があるが、あのように、全く関係ないように思えるものが重なる瞬間に、異様に魅力を感じる。落語家が近況や世相をマクラとして話して、そこからシームレスに古典落語に入るのを見て快感を得るようなものだ。サンプリングによって産み出されたものから、新たな文脈を提示することが出来るのであれば、こんな楽しいことはない。

 お笑いそのものに限らず、お笑い批評を取り巻く環境もどんどん変化している。お笑いが大衆芸能の一波である以上、気安く語られること自体はむしろ歓迎すべきことでもあるのだが、その語りやすさに付け込んで政争の具にしたり、自身の思想の補強や、正しさの証明に安易に使われているという状況にはプチ反吐が出たりもする。それは何故か。現代において最大の敵である分断を進めるからである。意図的にせよ、無意識にせよ、そういうことをする人間の声が通りやすい時代であることは間違いないが、それに抗うための武器として、サンプリングを始めとしたあらゆる手法を用いて、好きなものと好きなもの、好きなものと嫌いなもの、嫌いなものと嫌いなものを接続させるために、誠実さをもって文章を書くということがお笑い批評となっているのであれば、それこそが自らの魂のことである、と言い張っていこうと思っている。