石をつかんで潜め(Nip the Buds)

ex俺だって日藝中退したかった

岡村による舌禍事件を受けた爆笑問題カーボーイを聞いて思っちゃったこと。

 『爆笑問題カーボーイ(2020.5.5)』では、オープニングから45分をかけて、ナインティンナインの岡村の舌禍事件を受けてのトークが繰り広げられた。太田がメインとなったそのトークは、全方位に配慮しつつも要点をきちんと抑え、そしてそれに笑いも交えるというもので、何でこんなに論理的な思考が出来る人が、割り算出来ないんだ、あと、お小遣い0円ってどういうことだよと思わずにはいられないほどに、聞き入る放送となっていた。
 「いやあ、やっぱり何かあったときの『爆笑問題カーボーイ』は神回だなあ。太田さんは優しいなあ」
 いつまでもそれで終わっては駄目だということに、いい加減気がつかなければならない。今の日本で、まともなことを大多数の人に向けて発信出来ているのが爆笑問題太田光と、伊集院光くらいしかいないという世の中はなかなか狂っているなという認識はずっとあって、この二人に代弁してもらったように思い、全てを終わらせた気になるのは甘えであり、そろそろきちんと自分で考えるということをしていかないといけない。岡村による問題の発言以降、要点を掴めず右往左往してしまい、全てにおいて受け手となるしか出来なかった我々のような有り余るほどに深夜ラジオへの思い入れがあるリスナーは、ここから、思考することを始めなければならない。
 『HUNTER×HUNTER』での一幕に由来する、正しくは「沈黙!!それが正しい答えなんだ」がいつの間にか「答えは沈黙」へと変容してしまったインターネットスラングがあるが、黙るにしても、思考の末に黙るのか、ただ黙らざるを得ないから黙っているのかでは、ストレスの度合いが違う。
 つまりは、喋るにしても、黙るにしても、思考しなければならない。
本来であれば、太田のように、何故それが問題発言となるのか真の意味で理解したうえで、岡村の発言を批判しつつ、岡村さんの人間性と深夜ラジオの特性を擁護するなど出来なければいけなかったのだが、まず、批判と擁護という言葉について最近思っていることから説明したい。
 いつからか、この二つの言葉は、敵か仲間かを判断するための言葉に成り下がった。それはまるで、陣地のパーセンテージを増やせば勝ちという『スプラトゥーン』のようだ。飽きるまで終わらない、でも忘れられないその無料のゲームは、分断を産みつづける。
 そういうことからも、自分も含めて、批判しつつ擁護をするということが出来る人がいなくなっている現状はとても危険であり愚かであるので、まずは、「批判する」と「擁護する」という行為について改めて向き合い、取り戻さなければならないと考えている。でなければ、万が一、太田光が問題を起こした時、誰も守れなくなる。
 そのためにも、太田がこの件について、どのように語ったかについて、確認することから始めたいと思う。なお、深夜ラジオの書き起こしというのは、てにをはから始まり、言葉の詰まり方、呼吸の取り方を句読点で表現するなどして、細部に気を配らなければいけないし、そこまでしなければ絶妙なニュアンスは再現出来ないという不文律があるが、今回は敢えてそれを破る。そのようにしても、太田が語ったことの強度と柔軟性は損なわれることはないということもあるが、語り口で誘導するのではなく、批判と擁護のためにすべきことを抑えたいからであるということをご理解いただきたい。
 今回の件は大まかに「貧困」「女性差別」「深夜ラジオ」という三つの要素が絡み合っているが、太田はまず貧困についての説明から入る。若者の貧困が問題になっているのは、ずっと前からであり、新型コロナはあくまできっかけではなく、そこに追い打ちをかけるように現れた問題であり、若者の貧困それ自体は、住む家そのものがないということから、ただでさえ少ない給料から奨学金を返さなければならないといった程度の差こそあって、全く関係ない人もいるかもしれないがそれは恵まれた一部の人だけで、ほとんどの若者に無関係の話ではないことであり、さらにはそれを改善させるための運動をしている代弁者がいるという背景とその切実さを説明する。
 それから太田は、続けてフェミニズムの問題について話す。若者の貧困と同様に、性産業ひとつをとっても、例えば、セックスワークをすることは男性からの性の搾取であるから無くすべきだという考えもあれば、性を売りにすることも女性の自由であるから働くことは自由であるといった考えがあるように、性風俗産業だけでも、見解にはグラデーションがあるが、政治的な、構造的な理由によって、性風俗に限らず望まない仕事、ブラック企業への就職などをせざるをえなくなるということへの反対意思であり、憲法第22条で定められている「職業選択の自由」が守られていない、権利が阻害されていることであるということはどの立場からでも一致しているところだろう。仮に性風俗産業に流れ着いたとしてもそんなに儲けられるわけではないという事実もあり、だからこそ、もちろんそれは貧困の問題と大きく重なる部分が存在する。
 最後は深夜ラジオという場についてだ。爆笑問題が話していたように、深夜ラジオというのは、もともとは人気者が一時的にするものだった。それをいつまでも続けていいものに変えたのが、他ならぬ伊集院光爆笑問題、そしてナインティンナインであることは間違いないと思うが、だからこそ長く続けてきたことによるパーソナリティーとしての葛藤や、リスナーとの連帯から、それらがあるゆえに生じた一種の油断のようなものまで、発言にいたったことまでの背景を太田は話す。
 深夜ラジオに限らず、ラジオというのは、時間こそ限りはあれど、面白ければハチミツを買いに行ったみたいな話を延々と出来るというのが一番の魅力だろう。それを端的に表すエピソードがその日に生まれた。それは、『伊集院光とらじおと(2020.5.5)』にて、伊集院光の師匠である、三遊亭円楽がゲストに出演して、話しの流れから、伊集院と円楽が二人会をやるということになった。そのネットニュースの見出しは『伊集院光が師匠・円楽との“二人会”挑戦へ「僕、落語やります」ラジオで語る』だったが『深夜の馬鹿力』を二十年近く聞いている身からすれば、そんな簡単な話ではない。かなり前から、伊集院は、落語を一人で散歩がてらさらっていたりするというトークをしたり、『とらじおと』が始まった頃に円楽にゲスト出演してもらったり、正月に挨拶に行った話をしたりと、徐々に徐々に伊集院としてはかなりデリケートに外堀を埋めてきたはずである。そして、今回の放送でやっと、円楽のほうから、「二人会をやろう」と言いださせたという経緯がある。師匠と弟子という付き合いは続いていたとしても、伊集院は落語を止めた身であり、伝統芸能の世界では、そんな伊集院からは、いくら落語をやりたいと思っていたとしても、師匠に対して二人会をやりましょうというのは言いだせることは絶対に出来ないことであり、だからこそ、円楽から強制的に開かれるという方向に持っていかないと行けなくて、それまでの伊集院の作戦は、十何年前に『Qさま!!』で共演したところから始まっていたとも思えるし、この日の放送での、いつもよりも甘えているような伊集院の円楽への対応は決めに行っていたとも深読みが出来るわけだが、そのくらい余白がある案件でも、ネットニュースに上がってしまうと「タレントが落語をやる」くらいの味になってしまうんだなあ、とそのざっくりさに複雑な思いを抱いたばかりであったが、それくらい、ラジオでの話しは、よく言えば繊細、悪く言えば、聞き流してくれよ、放っておいてくれよという思いに成り立っていることは、否定できない。
 本当に今回の岡村による舌禍事件は、様々な問題がバッティングしたことによることであると思うので、だからこそ、岡村一人を糾弾すれば良いというものではない。しかし、その分、考える責務をリスナーも負うべきだろうと考える。
 太田は終始、重なるという言葉を使っていた。それは、分かりあえないはずはないという希望であり、それをリスナーに伝えるために使っていたはずだ。
 『ONEPIECE』には光月おでんによる「異形を恐れるは己の無知ゆえ!!」というセリフがあったが、我々は、フェミニストに限らず、深夜ラジオやバラエティ番組を批判する人を異形だと思ってしまうのだが、それは主張を芯から理解しようとしていないからであり、せめてベースとなる知識くらいは得るべきだ。
 太田は、あくまで、岡村の知識の無さからくる配慮のいたらなさをやんわりと指摘した。矢部が30年越しに返した「性格変えろ」はすぐには難しいかもしれないが、知識を得ることは案外簡単だ。もちろん、難しいのは自分と他者を接続するための批判と擁護が出来るようになることのほうだ。でも、知識を得ることでしかスタートラインに立てない。

 きっと何度か失敗はするかとも思うが、いつかは出来るようになるはずだ。我々はそれを、誰あろう岡村隆史から学んだはずだろう。