石をつかんで潜め(Nip the Buds)

ex俺だって日藝中退したかった

『俺の家の話』最終話及び全体のザッとした感想

『俺の家の話』面白かったですね。

さすがに最終回はリアルタイムで見ました。第一回を見た時は、介護の話メインで進んでいくのかと思いきや、プロレスラーとしてもカムバックし、そこのストーリーも並走する。

それと同じように、能の話とドラマの話、ドラマという虚と長瀬智也の表舞台からの引退という実、能という伝統芸能とどさ回りをして日銭を稼ぐ潤沢という大衆芸能、神へ奉納すると芸能ということに由来する幻想と認知症から来る幻覚、家という共同体における女性が蔑ろにされてきたということと「仕事で代わりはいるけど、夫としての代わりはいない」と言い切ることに対して「分かるけど無理」と否定するというジェンダー問題にいたるまで、あらゆる対極に位置するものが境目をあやふやにしたまま混在し、正しさ真実は明らかにされない。

血の繋がりによって保証されている家族が解体されたあとに、認知症ということで繋がるグループホーム認知症対応型共同生活介護)に入所する展開とか、テーマに即していますし、最終話の一個前で、寿一が寿三郎の亡霊と喋っていると思ったら、徘徊で帰ってきた寿三郎で、でもその会話自体は亡霊とだったというくだりに見ていて気づいて震えたのだけれど、そこも本当は、会話はしているけれど、あそこまでハキハキと喋っていないだけかもしれないし、正解はわからない。

加えて、一話に一回は踏み込んでくるエピソードが入っている物凄いドラマでした。

笑いの面でも、「思い出で補正するやつなんだっけ」「思い出補正?」「それ!」っていうくだりは、絶対に誰にも書けない書かれない切られてしまうくだりがあったりと楽しかったです。

 


最終回を思い返せば、やっぱり浮上するのは、「なぜ、寿一は死ななければいけなかったのか問題」だと思います。

長瀬が表舞台から去るということにリンクしたメタ的なエモ要素を抜き取って台本のテキストだけを取り出し、単純に考えると、寿一という、一度共同体からはみ出した人間は、戻ってきたとしても、その共同体から結局弾かれてしまうのか。それは、寿三郎のいう、そういうもんなんだよの勝利ということではないのかという、共同体の強度を証明するというある意味で、家父長制度の残酷さを提示していることにならないのか。もちろん、寿一が帰ってきて努力をしたことで、29世が秀生になるというラインが復活するため、家は継続するという一応の救いはある。

すると、寿一はただ家を継続させるためだけに死んだということにならないのか。

ここはある意味で、鬼滅の刃の、死ぬことよりも継続が絶たれることにも通じている気はして、個人から見ると恐怖感を抱きはする。

ちなみに、秀生に寿という名前が入っていないのは、家にある連綿と続く命名のルールからの分断を意味している。

 


ぱっと思いつく感想はこれくらいでしょうか。

シンエヴァと一緒で、あまりにも意味が付与している作品であるため、後数年は寝かせないと、冷静なことは考えられないような気がします。