石をつかんで潜め(Nip the Buds)

ex俺だって日藝中退したかった

思ヱヴァ遠くへ来たもんだ

先日、『シンエヴァンゲリオン』を見てきました。

初見の感想は、「上手くまとめてはいるけれども、上げようとして作られているところで上がりきれず、個人的には不完全燃焼ではあるけれども、大団円を迎えることが出来たのではないでしょうか」というものでした。もちろん、ミサトが髪をかきあげるところなどは流石に上がりましたが。

何より、TVシリーズから振り返っても、アスカが一番頑張っているなと改めて思わされて、アスカの最後の戦闘シーンは一番込み上げてくるものがあり、そこは泣けました。やっぱり、アスカだよ。

なのに、上がりきれなかったのは、Qを復習していなかったことと思われます。もうすでに、何をしているのか分からなくなっていたという自らの不徳の致すところです。

 あと、一番の要因は、要所要所で「90年代だなー」と思ってしまったところ。「逃げちゃダメだ」というテーマは最初からのものであるものの、「逃げるは恥だが役に立つ」と言われるように、あまりに時代から離れてしまっているなあと思ってしまいました。結局は、父殺しの物語になってしまうんかいというのもある。

 あと、5年、いや3年早く完結していれば、素直に感動出来たのかもしれないはいられなかった。大きく言って、この二つが感情にブレーキをかけてしまっていました。

 帰宅して数日経った後、気が進まないけれど、一応、見返してみようかな、という気持ちを持っていたある日、一度、眠りにつくも、1時間ほどで起きてしまい、すぐには寝られそうにないという状態のなか、まあ、見てみるかという気持ちで、部屋の電気を全て消し、ヘッドホンをつけて、見ると、これがめちゃくちゃ良い。

 あんなに、退屈だった、シンジとカヲル君のピアノの連弾のシーンの意図が分かり、心にじんわりと沁みてくるし、あんなにムカついていた、ミサトを始めとする周囲の大人のシンジへの説明のしなさの意図がおおよそではあるが理解できる。

 シンジは、コミュニケーションが言語でしか出来ないと思っているけれども、そうではないという希望が描かれており、

 説明をしないではなく、シンジがああなることが想定つくから、説明をすることが出来ないのだと理解できる。もちろん、細かい設定などはほぼ調べていないけれども、情報の取捨選択のスキルが少しは上がっているから、これは雰囲気のワードだなと捨てることが出来る。

 そして、シンを見ていることで、この物語がどこに向かっているのか、そしてQがどういう位置付けにあるのかということが分かっているので、そこも正誤はさておき、ついていけてる。それらがクリアになった時、この作品の立ち位置を理解することが少しは出来ました。

 真っ暗な部屋でヘッドホンをつけて見るというエヴァとの最初の出会いと同じ視聴方法が正しいのではないのかと思うようになっている。リアルタイムではなく、かつVHSではあったものの、大学受験中という鬱屈した心境で見た時と同じように。

 総評すると、少年は神話にならずに神木になったのだ!というラストにこそ、物凄い意味を読み解けられそうな気もする。

とりあえずなるはやでおかわりしようと思います。