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『「テレビは見ない」というけれど エンタメコンテンツをフェミニズム・ジェンダーから読む』感想。

 『「テレビは見ない」というけれど エンタメコンテンツをフェミニズムジェンダーから読む』を読みました。

 この本の情報を見つけた瞬間、即予約。別に早く読みたいということではなく、読みたくねえ〜と思ったからだ。だからこそ、読まなければならないとも思ったためである。

 テレビについて語るということは、物凄く簡単だ。書き起こしにエモや肯定だけを散りばめるか、この本のように、フェミニズムなどの理論をもって、引っかかった点を議論の俎上にあげる。このいずれかをすれば、それなりに読まれるという現状は少なからずある。ただし、この二つの読者は基本的には交わらない。ここが一番にして最大の問題点だ。

 テレビラジオを楽しんでいる人たちからすれば、前者は読んでいて楽しいが後者は叱られているようで楽しくない。フェミニストから見たら、テレビラジオなどは、まだまだ差別が横行する場所であり、そこが批判されているのを見るのはやはり気持ちが良い。だからそれぞれが自分たちの好きな文章を読んで終わる。あくまで、一般的な印象ではあるものの、概ね間違っていないと思う。

 この本は、西森路代が主となって、清田隆之、松岡宗嗣、武田砂鉄、前川直哉、佐藤結、岩根彰子、鈴木みのりが、主に国内のバラエティやドラマが寄稿している。テレビラジオ好きが、Twitterをやっていても、西森と武田くらいしか知らないのではないか、この二人を知っていても、基本的には、テレビバラエティをチェックするような視線をもっている二人なので、特に男性はあまり良い印象を持っていないのではないかとも推測している。このメンバーに、テレビ等を好意的な視点で描く、てれびのスキマや飲用テレビ、ドラマで言えば青春ゾンビなどが入っていないということは、双方にとっての限界にある本だと深読みすることが出来る。本来であれば、この二人が入り、横断されることで、前進しなければならないはずだ。そしてそれが出来ているのは現状、渋谷知美くらいしかいない。

 もちろん、本の性質上、勉強になりこそすれ、バラエティについては楽しいことは書かれていない。槍玉に挙げられているという嫌な気持ちになる可能性の方が高い。だから、この本自体は読みやすくはあるものの、フェミニズムの勉強の入門ということでこの本を手に取ることはあまりお勧めできない。ある程度、考え方としてのフェミニズムにまつわる本を読んでからのほうが望ましい。この本は、フェミニズム批評を用いてエンタメコンテンツを語っているものなので、まずは、フェミニズムがどういうものなのかということを、それなりに理解し、どういった考えがフェミニズム批評のベースとなっているのかということを踏まえないと、いちゃもんをつけられているとなってしまうからである。批評というのは、見たい読みたいというとこにまで持っていかなければならないし、視点を多角的にさせなければならないと思うが、第七世代を傷つけない笑いという視点で見ようとは思わないだろう。

 読んでて全然楽しくなかったわけだけれども、読んで良かったとも思う。

 西森は、バラエティ番組については、「第七世代が浮き彫りにするテレビの問題点」「テレビ史から見える女性芸人というロールモデルと可能性」「わきまえない女たち 女性芸人とフェミニズムとエンパワーメント」、テレビドラマについては、「フェミニズの視点を取り入れた日本のドラマの変遷 二〇一四年から現在まで」、「坂元裕二宮藤官九郎野木亜紀子 三人の作家とフェミニズム」をこの本で書いている。ちなみに、この本では、西森に限らずエンパワーメントという言葉が頻繁に出てくる。権限委譲という意味とのことだが、もしかしたらフェミニズムの文脈ではもう少し違った意味になるのかもしれない。

 これらの文章の判断は、実際に読んでもらってしてもらうものとして、個人的な印象でいえば、バラエテイの章については、ちょっと自らの結論に必要なところだけを拾っていないかなといった感じなど、色々と思うところはあるが、何より、気になっているのはバラエティについて書いているのに、見て楽しんでいるというのが全く伝わってこないということだ。ここが、どうしても個人的には引っかかってしまう。笑いについて書いているのだから、どこで笑ったかということも加えなければ失礼な気がするが、それもある意味でのトーンポリシングになってしまうのだろうか。そこも含めて、自らの差別意識を顕在化させる意味もあるのだろう。

 ドラマの章は、割合、楽しく読めた。坂元裕二の「問題のあるレストラン」は他の人の文章にも取り上げられていたように、おそらく近年のフェミニズム批評的にも、重要な作品であるということが窺えるが、特に、宮藤官九郎の「監獄のお姫さま」が、宮藤官九郎が最近の作品で、女性の叫びを描く契機となっているという旨の指摘などは、あまりこの作品を楽しめなかった者としては膝を打つ指摘であった。

 基本的に、Twitterという文字数が限られた媒体であれば、どうしたって、必要な結論に至るまでの論理や思考が削られてしまうので、殴り合いになってしまうし、印象は悪くなる。ただ、本になることで、西森の考えなどを認識、理解することがそれなりに出来た。全てに同意することは出来ないが、今後、西森の文章を読む素養は出来た気がする。そういう意味でも、バラエティの章も含めて、読んでよかったと思っている。西森のことを好きになることはないが、指摘の必要性ということをより分かった。

 その他にも、岩根彰子の「画面の向こうとこちらをつなぐシスターフッド」は、読み応えがあった。本当にドラマが好きな人であるということが伝わってくるだけでなく、なるほどそういう見方があるのかなと気づきもあった。

 さて、問題は、清田隆之が書いた「人気バラエティー番組でのジェンダーの描かれ方」という文章である。バラエティを語ることは、簡単であるという見本のようなものだった。一見すると、正当な主張のように読めるが、よくよく読むと、疑問点が浮かび上がってくる。

 フェミニズム批評というのは、あくまで批評をフェミニズムの観点からやるものであると認識している。そのため、批評のルールやマナーに則られなければならないものであるが、そういったものが蔑ろになっていたり、意図的かそうで無いか不明だけれども誤読や誤解、自説ありきの切り取りといった、テレビは簡単に批評出来ることの弊害が、清田の「人気バラエティー番組でのジェンダーの描かれ方」という文章は、それらに満ちていて、ちょっとひどいなと思わずにはいられなかった。

 清田は、冒頭から「本書の書名ではないが、筆者自身もほとんどテレビを見ない」と書いているが、その後に、「欠かさず見ている番組は特になく、寝しなにぼんやりバラエティーを眺めるか、SNS(会員制交流サイト)で話題になっているドラマやドキュメンタリー「TVer」「paravi」「Hulu」といった動画配信サービスで後追いするのがもっぱらの視聴スタイルだ。」と続く。

 見てんじゃん。

 その視聴時間は書いていないが少なくとも、ほとんど見ないとは言ってはいけないだろう。テレビで放映されることを前提として作成された番組を、動画配信サービスを通して見た場合、テレビを見たとカウントしないというのは詭弁だ。清田は、テレビの現状にうんざりして見ていないというポジションと、現在のバラエティ番組を批評できる資格を有する程度にはテレビを見ているというポジションの両方を獲得しようとして、こういった矛盾が生じている。このような、意図的な誘導や、誤読が少なくない。リアルタイムで見なくなったが、や、毎週欠かさず見ている番組は無くなったが、で済む話だ。

 ここから、「ロンドンハーツ」「しゃべくり007」「水曜日のダウンタウン」「全力!脱力タイムズ」「月曜から夜更かし」「激レアさんを連れてきた。」を取り上げ、「本章の執筆期間に放送されて回のなかからジェンダー的な視点で違和感を抱いたシーンにフォーカスしながら、そこで描いている構図や提示しているメッセージなどについて考察」していく。

 もう一点、考察として不十分だなと思ったのは、ここで「水曜日のダウンタウン」で取り上げたパートだ。

 「ネタ番組でつけられたキャッチフレーズ、どんなにしんどいものでも渋々受け入れちゃう説」での、3時のヒロインに提案された「男社会に喝!女性差別差別絶対反対!超濃厚フェミニズムトリオ!3時のヒロイン!」「ズバッと鋭く論破論破論破!男社会にタックルだ!令和のトリプル田嶋陽子!3時のひろいん!」の二つだ。

 見た時は、腹を抱えて笑ったが、一緒に見ていた妻は椅子から転げ落ちるくらい笑っていたが、もちろん、そういう指摘はあるだろうなともチラついたことは確かだ。

 清田の主張はこうだ。

 「バラエティー番組のなかでイジられるということは、視聴者にとって「からかっていい対象ですよ」というサインになりかねない。例えば『水曜日のダウンタウン』で3時のヒロインにつけられた「男社会に喝!女性差別差別絶対反対!超濃厚フェミニズムトリオ!3時のヒロイン!」というキャッチフレーズは、明確にフェミニズムをちゃかしている。二つ目の「ズバッと鋭く論破論破論破!男社会にタックルだ!令和のトリプル田嶋陽子3時のヒロイン!」にいたっては、「フェミニズムの直接表現に配慮」という注釈をつけたうえで提示されていた。おちょくるようなコピーを勝手に作っておきながら、「フェミニストに怒られちゃうかも(笑)」と言わんばかりの注釈をつけ、さらに田嶋陽子の名前まで持ち出してイジり倒している、誰がどのような意図でやったことかは説明していないが、フェミニズムを「からかっていいもの」として扱っていることは間違いなく、そこに根深いミソジニー女性嫌悪)を感じざるをえない。」

 清田の指摘は一理あるが、一理しかない。すでに書いたように、少なくとも僕は、このくだりを見て腹を抱えて笑った。少なくとも僕は、この清田が指摘しただけの一つの構造でしかなかったら、鼻で笑うくらいだっただろう。能動的に配信でお笑いライブを買って、ほぼ声を出して笑わないまま見終わって、あーあのネタ良かったなと思うくらい、笑うという行為のネジがバカになってる自分が腹抱えて笑うということは、単純な笑いではないということは自分が一番知っている。

 ここには、3時のヒロインのネタが全くそうではないこと、それなのに、大きなものを背負わされそうになって困惑している様、そして、そういったものを背負わせるだけ背負わせて後々勝手に失望していく人たちなど多くのことを連想させるから、爆笑できるのである。たしかにここを考えた作家の人は、めちゃくちゃ筆は乗ったとは否定できないが、やはり単純なものではない。

 繰り返すが清田の指摘は正しいが、それらを踏まえないとフェアな批評とは言えないんじゃないかなと思う。問題は、そんな端々で危うさが見つかってしまうこの章だが、全体を通して見ると、かなりの説得力を持っているように読める。しかし、フェミニズム批評は、批評全体の内側にあるものだ。だから、批評のルールは誠実さを持って守らなければならない。フェミニズムの視点から論じているから多少の乱暴は許されるということは決してない。

 改めていうが、この本は、フェミニズムに興味がある人だけでなく、マスコミ関係に就職したい人、今も働いている人、フェミニズム批評がただ単にバラエティにいちゃもんをつけているようにしか思えない人などなど、あらゆる人が必読な本だろう。

 この本を読むことで、テレビ等がどういう視点でチェックされている時代なのかを把握するという意味でも重要だ。もちろん、ただ単に、炎上防止のためのチェック項目を知ることが出来るということも出来るが、それでは本当の意味での、差別をなくすということには繋がらないので、ここに出た作品をチェックする等をしなければならないし、他のフェミニズムの本も読むなどをしなければならないということは言っておきたい。

 アップデートアップデートと言われるが、アップデートは1から2になるものではない。1.1や1.03のように刻まれていくものだ。人によってその数字は違うが、そのくらい読んで損はないと思う。いやマジでね。

 以上!(厚切りジェイソン