石をつかんで潜め(Nip the Buds)

ex俺だって日藝中退したかった

大江健三郎『宙返り』を読んで考えはじめたこと。

 新型コロナが出る前、今年こそは愛媛に行こうとしていたのだけれど、ご存じのとおり、この有様。ここ最近は、行けそうで行けないという状況のロミオとジュリエット効果で、ピークに到達しそうになっている。
 一番の目的は、大江健三郎の生家を訪ねることなので、それ以外はホテルとかに籠って、本を読みながら、ウォーキングやレンタサイクルで、一日一か所だけ行って、食事はテイクアウトという感じなので、個人的には行っても良い気はするがなかなか悩んでしまう。本も、大江健三郎を読むうえで重要な、ドストエフスキーの『罪と罰』と決めている。コーヒースタンドとタップルームも目星をつけている。郷土料理はなかなか量も多くて見つけられないが、他人のあげ足を取り続けている泥目線人間なので、揚げ足鳥は食べたい。
 生家を訪ねる前に、少し前から放置していた大江健三郎全集を読み始めた。
 今この瞬間の鬱屈した心情に、バキバキとキマって染みいってくる。一番驚いているのは、笑ってしまう部分が多いということだ。その笑いも、狙っている笑いではなく、大江本人は、大真面目に書いていることから生まれる笑いだ。恐らく、これは大江のヒューマニズムに由来するものであり、ヒューマニズムも突き詰めた転向によるユーモアが産み出す笑いだと睨んでいるが、そのことはもう少し考察が必要なので、今日はこのくらいにしておく。初期の短編「勇敢な兵士の弟」は、大笑いしてしまった。『ごっつええ感じ』のコントを思わせるので是非一読を。
 そんななかで読んだ『宙返り』という長編小説が心に引っかかっている。本当は、出版の年数が古い順に読むつもりであったのだが、大江の後期あたりに所属するこの小説を読んだのは、帯にある「人間ハ、自由デアル方ガイイヨ」という言葉が気になったから。
 それは今が自由じゃないからで、だからこそ自由ということの定義を見直したくて、國分功一郎の『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』なんかを読んでいたりしたから、自分ルールを少しだけ破って読んでみた。
 『宙返り』は、『燃えあがる緑の木』の続編であり、ノーベル賞受賞後の復帰作であり、そして、話もドラマティックなこともほとんど起こらないので退屈で、テーマも新興宗教の信仰が絡み、単体で読むと割と難儀するだろう。でも、読ませるのである。
分厚い文庫本二冊読んだ最後の最後に出てくる「人間ハ、自由デアル方ガイイヨ」という言葉が出て終る。綺麗にここに向けて振られていて、綺麗に落としたとか、そういうものでもないのだけれど、読後一カ月以上経った今でもものすごく心に残っている。
初期の『遅れてきた青年』で、思わずメモした「<<俺は殺すよ、ただ、それがむごいかむごくないかということだけが問題なんだ。おれは戦争にいって、この世界には正義も悪もない、善行も犯罪もおなじだと知ったんだ。ただ人間は他の人間にむごいことをしてはいけないんだよ。>>」というこの一文と、つなげられそうな気がする。これは、昔から、戦争はダメだけれど、戦争が起きたことで発展した科学で救われた人間もいるし、差別はいけないけれど、差別を受けている人々が奮起する話やそのまま潰れてしまうフィクションや過去などに感動するという気持ちが生まれるのは悪いことなのかと思っていたので、その答えに繋がるヒントを貰えたような気がしたからだ。
 ここをつなげるためには、全集を読破し、さらに、戦後民主主義などを勉強しなければならないから今は直感をメモするに留める。ちなみに、大江健三郎全集を、生活で読書に避けるマックスの時間を使うという計算をしてみたところ、読破するのは300日かかることになるので、当面はとても忙しい。ただ、あ、この小説はこれでブログ書けるなと思っていたりするから超楽しい。
 何故、「人間ハ、自由デアル方ガイイヨ」という言葉がこれほどまでに引っかかっているのかというと、単純だというそしりも受けようが、世の中の事柄を、自由か自由でないかで考えると、今までとは明らかに思考の道筋が別ルートを辿っていることが実感できるからである。パラダイムシフトと言っていい。そして、恐らくその基準で、動いたりすると、あらゆる人から怒られる気もしている。
 今の一番のストレスは、旅行に行けないことなのだが、それは、移動する自由が抑圧されているからであるということが考えられるし、じゃあGOTOトラベルは移動する自由を拡張する良い政策かといえば、それは経済的な理由により、移動する自由を抑圧されている人には感染リスクが拡大する恐れだけを押しつけることになるから、やはり良くないということになるわけである。立場によって、髪型を伸ばす自由もない制度はやはりグロテスクだろう。
 『宙返り』の余韻はもう少し続きそう。