石をつかんで潜め(Nip the Buds)

ex俺だって日藝中退したかった

切実な選挙への省察

 選挙が終わりましたね。

 当日は仕事だったので、期日前投票に行ってきました。期日前投票の「前」は「ぜん」です。前戯と一緒だと覚えましょう。

 どこに投票したかと言いますと、地元では、オール沖縄サイドのイハ洋一、比例は日本共産党です。自民党の古謝げんたは、SNSを見ても、自主的な政策が見えなかったことなどからという理由は後付けで、もちろん自民党だからです。選挙の告示前に、YouTubeで、古謝げんたのCMが流れていた。それは、自民党とも選挙とも言わず、単に「古謝げんた」の広告でしかなく、要は選挙前に少しでも名前を売っておこうというものという効果を有するのだけれど、公職選挙法的には問題がないのかもしれないが、なんとなく、卑怯な手口だなと思う。

 比例については、最後の最後まで立憲民主党日本共産党で悩んで、日本共産党に入れました。立憲民主党は、政策は悪くないし何よりホームページが見やすいのが良いと思うけれども、なんというか悪い人間がちらほらいるのが気になったからで、毎度のことながら日本共産党に票を投じました。ただ、この選択はかなり、個人的には白票や棄権に近いものでもあるという自覚がある。

 なぜなら、現時点で僕の人生は、日本共産党が守るようなものではないからだ。収入はパートに出ている配偶者からお金をもらうこともしない程度には出来るものだし、iDeCoにも入っているし、配偶者には僕の姓になってもらったし、最近好きなAV女優(今はセクシー女優)は、白桃はなで、乳首攻めに特化したさもあり監督のAV(今はセクシービデオ)をチェックする程度には性の対象は女性だからだ。正直なことを言えば、一番、現状維持で満足できるものであるから、最近考えるのは、程度の差こそあれ普通に自民党支持者になっていただろう。しかし、そうでないから、まあ、僕の一票で、抑圧されている、生きづらいと考えている人間のためになるんだったら、そうしようという気持ちが全くないと思うと嘘になってしまうし、それがなければ、選挙に行かないでも良いという考えのまま生きていくことになる。それだけではないが、そういった傲慢さが全くないという訳ではない。

 もしかしたら、沖縄は自民党のポコチンを舐めるようにしていくことに舵をきったら、ガンガンお金ももらえて、実は楽になるかもしれない。だけれども、そこへの嫌悪感と、現状維持を求めるが故に、毎回オール沖縄サイドに票を投じる。しかし、オール沖縄についてよく分かっていないというのも事実だ。島ん人ぬ宝みたいに言ってしまったけれど、もちろん、オール沖縄に対しては、あまりにも情緒的な政治であるという、地元から泥目線で見ていると、そう感じる。後進を育てるという気持ちが全く感じられない。自民党の凄いところは、適宜、若い人間を連れてくるところであり、このままでいけば、古謝げんたはいつかどこかのタイミングで勝つだろう。

 日本共産党も山添拓などがいるが、そのような人を連れてくるという努力が、オール沖縄はその努力が足りていないように見える。このままジリ貧になっていく可能性があり、そこについての危機感があるのだろうか。

 秘密投票の原則に反したことをベラベラと喋っているのにはそれなりの理由がある。

 それは、選挙への考えをここらで一旦、見つめ直さないと、ジリ貧になる前に投票に行かなくなる可能性を潰すためである。つまりは逆張りしていくことで見えるものを探っていこうと思う、

 まず投票所に行った時に、周りを見るだろうか。結構、家族で来ている人たちは多い。いわゆる、「ウチ外(ウチじゃ何故か、投票行って外食すんだ)状態」だ。楽しそうにしていて、それこそ子供が「誰に入れたの」と聞いて、「言わないよ」なんて言っていたりする。僕は、このやりとりの積み重ねは、正しいが、親が子へ選挙について説明することの放棄ではないかとも思う。どこに入れたかまではともかく、争点であったり、公約を見て、どこに入れるか考えたかまでは言うことこそが、親から子へ民主主義を継承することにならないか。

 他に、選挙で見るものといえば、びっくりするくらい軽率な人たちが多いということである。ここでいう軽率というのは、例えば、入れる相手の名刺を他人の目に入るように持っていたり、大声で連れ合いと、誰に入れれば良いんだっけと言っている人を見たことはないだろうか。軽率だなーと思ってしまうのだけれど、もしかしたら選挙ってそんなものなのかもしれないと言う気落ちになってくる。

 僕は、SNSでの「選挙に行こう」と一斉に言うムーブメントには正直乗り切れていない。そもそも選挙に行くし、この言葉の裏に、自民党公明党日本維新の会には入れるなよと言うのが隠れているからだ。選挙に行こう!と言っている人に、はい、自民党に入れに行きます!というとめちゃくちゃ怒られそうだ。それはそれで健全な選挙ではないだろう。もしかしたら公職選挙法に引っ掛かるのであれば、それは公職選挙法がもはや老害さん化していることになる。

 だが、それは切実さの裏返しということでもある。

 がしかし、切実さはマイノリティのものであり、軽率さはマジョリティのものであるからこそ、数では絶対に勝てない。

 選挙を切実に考えすぎていたんじゃないか。

 生稲晃子今井絵理子の当選を持って、日本の選挙が大衆の軽率さに支えられていることが自明の理になった以上、これに対抗するスタンスを考えなければならないんじゃないか。それには先に言ったように、数で勝てない切実さではなく、何も考えていないと同義の軽率さではなく、伝わることを考えた軽やかさだと何となく思っているのだけれど、それについては答えは出ていないので、今日はこの辺で。