石をつかんで潜め(Nip the Buds)

ex俺だって日藝中退したかった

「考えさせられる」への揶揄への省察

千葉雅也の『現代思想入門』を読んでいたら、前半部分は、手前味噌だが、なんかこのブログで言っているようなことを言っている気がするとなって、楽しく読んでいたのが、「撹乱」という言葉が出てきて、ドキッとしてしまった。

というのも、コロナ禍になって三年近く経とうとしているが、今の所、コロナに罹っていない。職場でも罹っている人は数えるほどしかおらず、周りにも助けられているなと思う。それなりに自粛はしていると思っていたが、そこまで、コロナ以前の生活と大きな変化はなく、もしかして自分の人生って撹乱がなかったのか、となんとなく絶望してしまった。コロナには絶対に罹りたくないが、撹乱がない人生は楽しいのかとも考えさせられてしまった。

竹村和子の『愛について アイデンティティと欲望の政治学』を先日再読したところ、1回目は10パーセントも理解出来ていなかったが、今度は体感で30パーセントは理解度が上昇したような気がした。

この本は、ジェンダーに関する本で、とにかく難しかったのが、なんか重要なことが書いているっぽいぞ、という一心で読み進めていた。他の、アップデーターの本と違うのは、この本には、理論ではなく理屈から書いていると感じたからだ。この理屈から書くというのが個人的には重要だと思っていて、理論だけを言われると、数学の授業で公式を押し付けられこれをとりあえず当てはめてテストを解けと言われているような乱暴さを感じてしまうので、遠回りになってしまうが、理屈から説明しなければ、他者の理解は得られないと思っているからで、その考えが間違っていないと思えたからである。

この本では、なぜ、女性の同性愛者がレズビアンという呼称なのか、そこには二重の差別があるというからということなどが書かれており、そのあたりは、ふむふむと読んでいた。

特にこの本の中で強く心に残ったのは、同性愛者も結婚出来るようになるのは、本当に当事者にとっていいことなのか、ということだ。

現在の、少なくとも日本においては、結婚という制度が、異性愛が当たり前であるという前提の上で成り立ち、その歴史を積み重ねている以上、無批判に、同性愛者を差別する推進力を持っていた制度に同性愛者を組み込むということは本当に、当事者のためなのか、と考えさせられてしまっていることに気がついた。

ジェンダーに関する本を読んで、同性婚の解禁反対の立場に揺らぎかねない思考が出るということにとても驚いた。

ちなみに、僕個人としては、この本を読んでからは、性的嗜好を人に言うべきではないな、と思うようになっているので、そこを抜きにして考えなければならない以上、「人生は一人で生きるのにはあまりに長く、つらいことが何度も起きるというものである以上、その有事の時に、一人で生活しているよりは二人以上で生活をしている方が無難と言うのは自明の理であるが、そのリスクを回避できるというカードや法律によるプロテクトを、異性愛者だけに与えられているのは、やはり不当な差別だろう」と言う理屈で、結婚制度をすぐに無くしたりすることが現実的ではない以上は、同性婚の解禁に賛成という立場である。

この夏、三年ぶりにバナナマンの単独ライブが開催された。タイトルの「H」は、以前から発表されていたもので、当然待ちに待っていたのだが、配信ライブは見ないことにした。

なぜなら、「配信ライブは体験ではないから」。他者に押し付けることはしないが、バナナマンの単独ライブというのは、「体験」に他ならない。大体6月の四週目の、沖縄で言うところの慰霊の日の直後のバナナムーンで、単独ライブの情報が発表され、ファンクラブに入ったり更新したりして、チケットの取得に向ける。外れたら悲しみ、当たったら震える。2回しか行けていないが、あの体験は忘れられない。ライブビューイングは、ぎりぎり体験。コントライブで、日本中の映画館を埋め尽くしたという情報には、心底かっけえと思えたし、喜んだ。そこには、時間と場と感情の共有があった。だから、体験にカウントする。配信にはそれがないなと感じたので、だったら、DVDを購入するまで待とうとなったのである。

この行動が正しかったのかについては、夏が終わる今も考えさせられている。

東浩紀が「ぼくはそもそも、統一教会がカルトであるかどうかを判断する立場にありません」と言ったことが槍玉に挙げられていたが、純粋に「確かにな」と思ってしまった。法律による判例を出して、東浩紀の正しくなさを指摘している人がいたが、どうやら法律による判例を出すということが、法律学者でも法曹界の人間でもない東浩紀が「統一教会がカルトであるかどうかを判断する立場にありません」の証拠になることに気がついていないようであったが。どちらの態度が、関東大震災の時の外国人の虐殺と同じことに繋がるのかは少し考えれば分かる。

爆笑問題カーボーイ太田光が、昔の統一教会に入り浸って出禁になったというトークをして、ゲラゲラ笑ったが、この東浩紀の言葉への「確かにな」という立ち止まりがなければ、ゲラゲラ笑うことは何らかの齟齬が生じるのではないかという引っ掛かりがある。

このことについては考えさせられることが多い。

 

さて、ここからが本題です。

これらはこの数ヶ月で、考えさせられてきたことでした。

考えさせられるという言葉に対して、「いや、考えさせられただけだろ!」と条件反射的にツッコミを入れた方もいるだろう。僕はそれは「論破相撲の土俵に上がらされている」と考えさせられている。

この揶揄が、まかり通ってきたからこそ、考えさせられることをやめ、答えっぽいことを暫定的に言うようになったのではないか。言うなれば、「答え出させられますね」じゃないのか。

だったら、考えさせられた方が、いいのじゃないかと考えさせられる日々です。