石をつかんで潜め(Nip the Buds)

ex俺だって日藝中退したかった

(完成版) M-1グランプリ2022感想「タイタンの一滴、親殺しを成す」

 マイブームは、コロナ禍お礼参りだ。コロナによって抑圧された日々の中で、ささやかな、しかしそれでいて重要な、生きるための活力となっていたものを積極的に利用するというものである。簡単に言えば、名店を再現したインスタントカレーをよく食べていたのであれば、旅行の際に実店舗に足を運ぶみたいなことだ。折坂悠太の「トーチ」という曲が、とんでもなく名曲なのだが、ある日、地元でライブをするという情報を得た。しかも二日連続。折坂悠太は妻も好きなので、違う会場ではあるものの、そのような日程のライブは、子がいるために二人でライブを見にいくということが出来ない夫婦にとって、これ以上ない救済措置となる。

 舘ひろし以来の免許が無い妻に自宅近くの会場を譲ることで互いに合意を得て、チケットを購入し、折坂悠太のホーミーに似た発声を真似しながら楽しみに待っていた。そんな折、折坂悠太だけに、そんな折、ふと、これM-1と日程かぶらねえか、と不安になった。その予感は的中した。その時点で、リアルタイム視聴を諦めることとした。余談だが、折坂悠太のチケットを購入した直後くらいに、バンドのスカートが折坂悠太のライブと同日の日程のライブを発表し、京都のラジオ局αstationで放送されている「NICEPOPRADIO」を毎週傾聴している身としては、お礼参りとしてはこっちの方が比重高かったな、東京にも一年半行けてないし、とギリギリまで悩んでいた。これでもし、こっちを選択していたら、録画機器もない東京のカプセルホテルで、肘にコーヒーの粉をふりかけて舐めて過ごすしかなかったから、結果としては良かった。澤部さん、近いうちにライブ行きます。すんません。加えて、折坂悠太のライブも、妻の仕事の都合もついたことなどの理由で、日程を交換してもらえることになった。ただ、これでM-1をリアルタイム視聴することが出来るわけではない。

 ワンオペ育児が立ちはだかる。最近は、22時前、コンディションがいいと23時に寝る習慣になっている。そうなると子を起こさないことでリアルタイム視聴することが可能となるが、絶対に集中出来ないし、何より寝かさないという行為が、欧米であれば虐待にカテゴライズされる可能性がある。そうなると、選択肢は一つ。早く寝かせるのみ。と、ただ一言で言っても、これがかなり難しい。この一年の行動から導き出した答えは三つ。いつもより早く起こす。昼寝しない程度の活動に抑える。食事やお風呂を前倒しにする。可愛い我が子が、三原則を死守しなければならないモグワイとする1日はそうして始まった。その三原則とは、早く起こす、活動させすぎない、昼寝させない。

 いつもより早く起こすことは虐待にはならないはずだ。食事やお風呂を前倒しにするのも簡単。一番の難問は、活動を昼寝しないように抑えること。少し遊ばせすぎると、昼寝をしてしまうので、こうなってしまうと詰む。かといって、テレビを見させ続けると体力が消費されないので、早く消灯しても寝付かない。まさにポケモンモンスターボールを投げるタイミングとしての、瀕死の状態にさせないように、いかにキワまで体力を削るかということが重要なのである。お出かけも1時間ほどに留め、いつもはずっとテレビがついて、「ベイビーシャークドゥドゥドゥー」と流れているがそれも適度に消して、ひとり遊びをさせる。その合間に家事をしつつ、いつもより早く食事やお風呂の準備に取り掛かる。その結果、19時14分に寝かせることが出来た。普段、育児をしていることについて、何ら偉いとも思ってもいないが、この日ばっかりは、めちゃくちゃ偉いなと自分を褒めちぎった。ついでに段ボールもちぎったりした。普段しているからこそ、この絶妙なミッションをクリア出来たわけでもあるから、やっぱり普段も偉いということになる。ただ達成感に浸っている暇はない。すぐさまそ追っかけ再生をして、割とすぐに追いつくことが出来た。でも、もう来年はこんな状態にはなりたくないので、すでに来年の第2週、第3週に「M-1グランプリ?」というスケジュールを即入力した。というわけで、『M-1グランプリ2022』のネタ分析はじまりまーす。来年はホテル取るぞー。

 

 

1・カベポスター「大声コンテスト」

 まず、今年のファイナリストの面々を見た時の第一印象は、敗者復活戦との相性が悪そうな面々、というものだ。それは、発想及びテキストに比重が置かれているネタをする人たち。照明も強くない、狭くて面白いネタが続くだけで酸欠になりそうな、椅子がカスのライブハウスで見たいネタ。ビル風に吹き飛ばされてしまうようなネタ。そういうコンビが多く挙げられていたことで、ここ数年の敗者復活戦で敗れてきた出演者が報われたような気にすらなった。

 カベポスターについては、台本が先行してやりたいことがごちゃごちゃしているという印象があったのだが、ここ1、2年でそれがスッキリしだして、ネタがとても入ってくるようになっている。まるで、今年一年、会議の資料作成で、これまでの宿痾としての駄々らに長い文章を書いてしまい、上長にボロカスに修正を喰らいまくったことで、体言止めとかを使って、端的に伝えるということを覚えた僕のようだ。その反動で、好きな文章を書くときはどんどん長くなってしまっている。こういうことをこの場で書いているように。

 大声コンテストが待ち遠しいという話から、大声コンテストに出場した思い出を永見が始める。改めて見返すと、綺麗に笑いどころを組み合わせていて、めちゃくちゃ美しい。大声コンテストで3パート、実は一個の物語がそれを貫いていたというネタバレのパートという、4パート構成になっている。けれども、入り組んでいるという印象を全く受けない。引き算が出来る人間は強い。長文を書けば書くほどいいと思っている人間は伸びない。

 ツカミは、立川志らく審査員が誉めたので割愛、1回目の大声コンテストのパートは、このネタのチュートリアルとなっているが、ここだけで成立するほどに笑いを取っている。小学生あるあるで振っておいて、そこから実は、「ん」で終わる大声に向かないワードを叫んでいく。

 ここ、ボケが単語の羅列でしかないのが凄恐ろしい。面白いことを言っているわけではないにも関わらず、笑いが途切れなかったのは、観客の勘所もあるだろうが、主に、漫才師としての表現力によるものだろう。永見の顔や体が面白かった。出てくるワードもどれも繋がりがなく、脳の片隅にあって日常的にあまり使わないというところから引っ張ってくるというチョイスも絶妙であった。

 「お前以外言葉選びミスりすぎてるやろ。なんでおっきな声出さなあかん大会で最後『ん』で

おわんの」というところで笑うというネタのシステムを理解させた後は、応用編としての2回目の大声コンテスト。ここでは、速度をあげて、さらに笑いを重ねていく。

 続く3パート目ではお題が変わる。お題が変わるということは、笑いどころが変わるということ。1、2回目のコンテストのお題は「大好きなもの」「欲しいもの」、3回目は「しりとり」。この「しりとり」ということに対して、浜田が「最後が『ん』で終わらんように、大会側がテコ入れしてきてるやん。可愛いだけのトップバッターが優勝して盛り下げるから、運営動いてるやん」と突っ込んでいるが、実はこれも物凄い機能を有している。「大好きなもの」で笑いを取り続けることを2パートで終える判断は分かるとして、そこから「しりとり」に移ることに対して、正当性を保ちつつ、一個の山場ともなるくらいの笑いどころにしているのが凄い。2パート目と3パート目のジョイントのノイズの無さが滑走路として上手くいきすぎている。ここがあるから、4パート目のネタバラシでのフライトが気持ちい。サゲの「そこ口すぼめろや」も巧みすぎて、そこはもう引いてしまうくらいだ。

 永見に「人の人生なんやと思ってるんですか」と言われそうだが、「M-1グランプリ」という大会そのもの構造にも見立てられそうで、大会のトップバッターとして相応しいネタだった。

 確かに、永見が叫ぶとおり、軍服って字面は怖いけど、大声で言いにくいんだね。

 好きなくだりは「金運」「言葉選べよ」「酒池肉林」「マジで言葉選べよ」、大会側のテコ入れ、「『く』からじゃなくて、『ぐ』からでも良いですか」「なんか頼もしい人おんねんけど」からの「軍服」。

 

 2 真空ジェシカ「共演者の信頼」

 『M-1グランプリ2021』のファイナリストに選出されたことで、「ありがたいことに、ちょっとずつお仕事をもらえるようになってきたけど、もうちょっと共演者の信頼を得たいなー

と思ってるのよ」と話し出すガクに、「それならお前は、シルバー人材センターに行くといいよ。そこでは素敵な出会いがお前を待ってるから」と川北は答える。それを聞いて、ガクは「僕、共演者の信頼が得たいのに、高齢者の人材いらないから」と戸惑う。

 導入が乱暴すぎる。川北が、シルバー人材センターのネタを作ってきたはいいものの、若者二人がシルバー人材センターの中を歩くという導入にリアリティを付与することが出来なかったから、駄洒落でねじ伏せようと決意した瞬間を想像すると楽しい。

 なんと言っても、ボケとツッコミが、とんでもなく面白く感じてしまう。あまりに自分へピンポイントへ刺さってきて、これを理解出来ているのは自分よりも若い人だけで、審査員には伝わっているのだろうかという心配がよぎってしまう。思春期に聞く深夜ラジオのような、『人間失格』のようで、自分のお笑い偏差値が急上昇したような錯覚に陥ってしまうのは、昨年と同様だ。特に、このブログを書くために10回以上、漫才を聞いていたら、「戒名の歌を作ります」「かいみょんだ~。かいみょん。死んだーソングライターの~。」と言っていることに気がついた時は、めちゃくちゃ嬉しかった。

 「受付の人材智則です」「派遣のニューウェーブぅ?」、「本日はパトカーでお越しですか」「僕、あの韓国の受験生じゃないんで」など、絶妙なニュースやサンプリングをかましてくる。

 今まで真空ジェシカのどちらかといえば大喜利漫才と皆んなが言ってきたし、それに乗っかってきましたが、横スクロール漫才って言った方が良い気がしてきました。今年はそれが顕著な印象だった。ガクが見た風景を切り取っているので、大喜利漫才というにはお題が、場所でしか無い。ボケについては、観客と真空ジェシカで共有しているソースがあって、それをベースに面白いことを考える。ボケのところを、書き起こすだけで一番面白いのは真空ジェシカだろう。

 ただそれが故に、その場所で起こりうるボケが並び、横スクロールゲームのように処理しているように見えてしまう。また、全てが鋭角で、かつ高い水準のボケとなるので、緩急を綺麗に配置されているメロディが波打つような漫才になりにくく、際立ったボケが飛び出したことによる拍手笑いが起こりにくいということが、隠れた弱点となる。普通の漫才師であれば、ジャブとして見られるボケが、常に最大値を基準としてしまう真空ジェシカに至っては、ちょっと弱かったというミスに見えてしまう。

 だから、昨年と今年どっちが、川北が言うところの一年かけてどう梱包した漫才なのか、つまりは、以前と比べて、どう進化したのかということが分かりづらい。ちょっとテンポが速くなっているのは分かるが、その貯金は、オチ前の30秒近いタメで、全部スっていた。ここがふわっと終わってしまったことで、点数が伸び切らなかった気はしないでもない。

 余談だけれども、AEDのパッドが使い捨てということを最近知りました。そのため、ここでいう使われた形跡があるというのは、AEDが入っていたところが空の状態になっているということを踏まえて、ガクと川北が歩いているところ高齢者人材センターを想像すると、補充が追いつかないほどに使用頻度が高い場所となる。コロナ禍の飲み会で得た情報を活用してみました。おれでなきゃ捨てちゃうね。

 好きなくだりは、「うちにはいろんな人材がいてますよ」からの、「ああ、ちっちゃい関西弁だぁ。オレでなきゃ見逃しちゃうねぇ」という小さい関西弁をおそろしく早い手刀としたところ、シルバー人材センターを巡るという設定に「共演者の信頼を得たい」から捻り入る剛腕さ、年齢210歳の山下さんの「払い損のところすいません」からの「年金貰いすぎて卑屈になってる~。僕ら世代が文句を言いすぎた~」ときちんと反省するところ。

 

 3 オズワルド(敗者復活)「明晰夢

 「寝てる時に夢って見たことある?」「それくらいの権利はあると思ってるけど。」「ああそう、その夢が自分で夢って完全に分かってたらどう?」「どうって言われてもね」「例えばね、君が夢見てる時に、昔から憧れてたアイドルと二人っきりになって、これ完全に夢って分かってるから、好き放題できるとしたら、君なら何する?」「好き放題出来るんでしょ。それはもちろん」「なっ、好きなだけチェキ撮るよな」「あぶねー、全然違うこと考えてた」

 ネタは、夢って分かりながら見る夢のことである明晰夢について。

 オズワルドのネタは、徐々に構築されていく畠中の不条理さに、だんだんリアルを侵食されていく伊藤が、ツッコミをもって抵抗するという『呪術廻戦』でいうところの領域の押し合いが核となるので、急に「畠中の夢の中にいる」ということにされてしまうと、畠中の不条理さが、夢だからということで逆に正当性を持ってしまい、弱くなってしまう。テンポも悪い意味で早くて、これまでのオズワルドのゴーストを越えなかった。

 好きなくだりは、「あとこれ夢だから言うんですけどぉ」からの「あと伊藤って実は」「やめてやめてやめて」「ブラックコーヒー飲めないんです」「そうなんですぅー。だって致死量超えた麦茶の味がするからぁ」という伊藤にサードウェーブ系のスペシャリティコーヒーのお店を教えたくなったところ、「じゃ夢じゃないなら、今日俺がタピオカ並ばずに買えたのはなんで」「もう、流行ってねぇからだよ。あんなもの今並んでるやつの方が夢の中の可能性あるわ」。

 

4 ロングコートダディ「マラソン世界大会」

 4番目という出順だからなのか、敗者復活戦から這い上がってきたオズワルドの出番が終わったからなのか、ひととおり客席があったまったからなのかは分からないが、見ている側の緊張が解けたような状態にホットさんぴん茶くらいスッと入ってきた、とにかく軽やかでファニーな漫才だったが、実際は、とんでもない発明に支えられた漫才でもあった。

 敢えて乱暴にいえば、「マラソンの世界大会に出場。どんなやつに抜かされた」大喜利になり、その答えは「走り方めちゃくちゃ変なやつ」「他のランナーを人混みやと思っているやつ」「まだ何の大会かよく分かってないやつ」「お味噌汁持ってるやつ」「結び方分からんから、靴紐持ちながら走ってるやつ」「まだ靴履けてないやつ」「青春」「大奥」「主催者」「太ってるやつ」。大喜利漫才とはいえ、これらの答えはやっぱり動きがないと面白くない。何より、「太ってるやつ」という、マラソン選手は痩せているという共通認識があるが、漫才でそれを演じるときに、脳内で兎を痩せさせるという、観客が勝手に行う漫才に乗っかるために必要な作業を暴く、叙述トリック的なボケにはめちゃくちゃ笑った。

 兎と堂前がボケる、いわゆるWボケ漫才となるが、この漫才にはどうしたって笑い飯が立ちはだかるが、このネタは設定のおかげか、Wボケをしているという圧があまり無いWボケ漫才となっていた。

 笑い飯の「奈良歴史民俗博物館」では、「相手が展示物となる→ナレーションでボケる→ツッコんで交代する」が1ターンとなる。ロングコートダディのネタは、「走っている→抜かされる→フェードアウトしていく」が1ターンとなる。このターンの繋ぎ目に関してのみ言えば、笑い飯の「代われ!」よりも、次ターンへの移行がシームレスな印象を与える。これは、マラソンという設定も強く影響しているのであろう。抜かされたランナーがフェードアウトしていく間に、抜いた奴のセリフを持ってくることで、視線がそちらに向けられるので間も繋がれるし、余韻の笑いが楽しい。「奈良時代の人々の暮らし」という導入も不要となっている。

 噂によると、偶然生まれたネタらしいが、とにかくスッキリして無駄なくだりがないというか、上手く言語化出来ないが、ネタの引き算に関する発明を見たような気がしてならない。体脂肪率は低いのに筋肉の質が高い、マラソン体系の細マッチョ漫才でした。

 好きなくだりは、「Are you japanese?」と問われた兎が「舐めんなよ」とばりにアップをかましながら「はい」と答えるという兎のマウント取りというニンが出ていたところ、「太った人に抜かされた」という叙述トリック的ボケ。

 

 5 さや香「老化」

 雌伏の5年を経て、決勝の舞台に戻ってきたさや香

 昨年の敗者復活戦での「からあげ4」のネタは、から揚げ店巡りの妻と、からあげよりはトンカツが好きな僕から、あれはない、と大顰蹙を買っていたので、今年の出場に際しても全く期待していなかったのだけれど、とかくこのネタには度肝を抜かれた。さや香仕上がってるよ、という噂もなかったので、よく潜んでいたと舌をまく。とんでもない伏兵。寄席で見るよりも単独を見たい漫才師。一言で言うのであれば、あまりに強度が凄い。台本、表現力、そして演芸として、硬度がとんでもなく、ネタを聞いている中で、ただでさえ猫背にも関わらず、どんどん前のめりになっていた。『M-1グランプリ』でかけられたどのネタよりも、強度でいえば一番だと言っていいと思う。これまでに優勝した関西勢コンビのエッセンスを感じさせつつ、漫才のそもそもの楽しみの原点である、知らない人たちの会話が聞こえてきて笑ってしまうということに忠実であろうとし、かつ、その表現においても寸分の狂いもなく外さない。そんな原理の漫才としての喜びに、口喧嘩におけるリアリティも兼ね備えている。何度も言うが、強度がすごい。

 面白くなっているというだけでなく、どっちがボケでどっちがツッコミか知られていないということがとても強みになっていた。

 「いつまでも若くないですよ」というツカミからの「30代になっての身体の衰え」という、ここまで聞いたら、面白くなるとは思えないようなテーマからの、石井の「僕はあの、免許の返納をしました」と、ギリッギリまで油断させてからの急展開には完全にやられてしまった。この間、流れるような30秒弱。素晴らしい。

 「29歳で免許を取ったけど、身体の衰えを感じてきたから、34歳で免許を返納した」「事故起こしてしまう前に返納してしまわなあかんねやないか」という石井の行動は当人の勝手なのだが、一般常識に基づいて石井に違和感を抱き、異を唱える新山。石井は自らの免許返納の正当性を伝えるも「俺今一番好きな食べ物、お漬物やで」「それ言われて、あ免許返納やなってならんよ別に」「だってこの前、漬物だけでご飯三杯食ったからな」「ご飯三杯食えてるやん」という設定の開示後というやり取りで、一瞬の考えオチをハメてくる感じも、定石を外された感じで気持ち良い。

 石井は中盤までトーンをそこまで変えずに反論しており、お父さんの元気さをいじられたあたりからキレ始めているのも自然だし、面白い。以降も、論点が動きまくっているから、ネタに集中する。そして、集中して見るということと抜群に相性がいい。

 互いに論破しきれないという会話が笑いを気持ちよく重ねていくことも含めて、間違いなく、大会一つ目の爆発となった漫才でもあった。 

 最後の、「俺はもう神様に誓ったから。二度と運転しませんって神社の賽銭箱に返納したから」ということで、石井が言っていたのが、正式な免許返納ではないことが判明してからの「免許奉納」は、全く予想できないところからの二段ジャンプ、痺れる。

 改めて、とんでもなくいい設定だなあと思います。社会問題として世間が共有しているからこそ、若くして免許返納するということはおかしいけど、石井の理が通る余地がある、これが肝で、それがなければ、喧嘩漫才となる理由がなくなってしまう。御見逸れいたしました。 

 好きなくだりは、ツカミからの「免許の返納をしました」、「お前、家族で遠出するときどうすんの」「そんときはうちのオトンに車出してもらう」「どういうつもりで乗ってんの」からの「返納せいや!」。

 

6 男性ブランコ「音符運び」

 「ダブルメガネを侮るな」というルッキズムで始まった、男性ブランコのネタは「音符運び」。

 この手のネタは、どうしたって、バカリズムの「都道府県の持ち方」を連想してしまうので、それをどうやって打ち消すかということが一つの勝負ともなる。男性ブランコは、二つの意外性を持って、自分達の世界観に落とし込んでいた。

 まず、パブリックイメージの裏切り。男性ブランコといえば、『キングオブコント』でのネタからも、柔和なネタをするというイメージを持たれている。その他の受賞歴が、「エモネタ王決定戦」を第2回、第3回の連覇、『SDGs-1グランプリ2022』優勝と、見るからに柔らかい。新しい素材かと思ってしまう。SDGsといえば、ポカリの瓶ってどうなったんだというそれはさておき、音符運びの最中の事故で浦井が死んでしまうというダークなネタとなっているのが一つの裏切りだ。全て不可抗力というところは男性ブランコっぽくはあるものの、ネタ初見後の感想として、嫌さが全く残らない。じわじわと、めちゃくちゃ人が傷ついていると思い返していく。過去に、立川志らくが和牛を評して、「ゾンビネタをしても客がひかないのは、その品の良さから」という旨をコメントしていたが、それに近いだろう。男性ブランコが纏っている品の良さが、浦井が100均の便利グッズみたいなキレ方になるグロテスクさを完全に脱臭している。浦井が倒れてしまう時に、断末魔を叫んだのは、システムを理解させるための最初だけで、他はミニマムに死んだことを表現しているのも、理由の一つだろう。「音符をどう持つか」ではなく、「音符を運ぶという仕事の中での事故でどう浦井が死ぬか」になっている。

 もう一つが、今大会で一番、身体性が高かった漫才だったということ。ダブルメガネのくせに、二人ともパントマイムが上手すぎる。特に、平井のパントマイムは見事で、音符の重さが伝わってくる。つながった音符のくだりのパントマイムは何回見ても、無音でも面白い。

 フォルテッシモがブーメランのように戻ってきて、浦井の首を掻っ切った描写は見事で、村上龍の『半島を出よ』で、ブーメラン使いのタテノが、ブーメランを投げて犬の首を切り落としたシーンを思い出した。

 この2点で、いつもとは違う男性ブランコを堪能できた。ダブルメガネを侮っていました。

 最後に、平井の腕時計はゴツすぎるし、ダブルメガネが浅間山荘の話をしていたら、もうそれは連合赤軍メンバーである。

 好きなくだりは、つながった音符の重さに耐えきれずモーニングスターのようになってしまった時の平井の回転の動き及び平井の倒れ方、「フォルフォルフォルフォルフォル」からの「おまぇ」、「何が一番ダメってね、その事故が起きてから、なんにもしてないのよ」。

 

 

 7 ダイヤモンド「新しい日本語」

 「男女兼用車両の電車に乗ってさ」「いや、男女兼用車両って。普通の電車やろ。変な言い方すんなよ。」「で、その居酒屋でさ、有銭飲食したんだけどさ」「有銭飲食って何なの。」「お金払って飲み食いすること」「や、全部そうやろ。お前、あの有銭飲食って言うことによって、普段から無銭飲食してんのかなって思われるよ」と掛け合い始めていると、小野が野澤の言い回しに突っ込んでいると、野澤が「いちいち、うるせえな」とキレる。小野は「いちいち、うるせえのお前な」と返すが、野澤は「じゃあ、全身浴ってなんだぁ。全身浴。そんな言葉無かったのに、半身浴が流行ったから全身浴なんて言葉が生まれたんだ。裸眼もね」と自身の正当性を主張し、俺が新しい日本語を作るんだと宣言する。

 例えば、ネタのシステムが提示されると、オープンソースとなるので、ネタを聴きながら、出てきた言葉を脳内で変換させるという作業が生まれる。中盤以降に、新しい日本語が畳み掛けられが、脳内変換とツッコミのタイミングが噛み合わないので、あまりツッコミで気付かされたみたいな気持ちよさが好きなかった。脳が疲労してたあたりに出てきたという出順も、客席の返りの悪さの要因に少なからず影響している気がします。

 お屠蘇気分で見返してみると、ゲラゲラ笑ってしまった。このネタは実は単純で、小野のリアクション含めてバカバカしい漫才なのだけれど、初見時は、なんとなく、言葉いじりの漫才が複雑なことをしているように思えてしまったというか、スッとその良さが入ってこなかった。天空闘技場で、カストロは、念能力によって高度なダブルという自信の完全なる実態を伴った分身で、ヒソカに挑んだものの、ヒソカはあっさりとカストロに勝つ。その時に、ヒソカカストロに対して「君の敗因は容量(メモリ)のムダ使い」と言い放つが、ダイヤモンドの敗因はこれに近い。

 ダイヤモンドの漫才はいくつも見たことがありますが、いろんなシステムの漫才があって最高なので、今後に期待いたします。

 好きなくだりは、「お前、めちゃくちゃ食べるなー」、「ギター無し漫才頑張ってこうな」。

 

8 ヨネダ2000「イギリスで餅つき」

 稀代のなにわ小吉顔の誠と、漫画太郎フォルムの愛という、90年代後半ジャンプの後半掲載漫画テイストの二人が織りなす漫才は、今大会で一番、何を言っても野暮となるものだった。脱力的であるものの、圧倒的に華があって、音楽的。M-1グランプリという大きな文脈からの飛翔にうっとりしてしまう。ということは、漫才の定義を拡張したということでもある。

 そもそもの設定の「イギリスでお餅をついたら、一儲け出来るっていう計算が出たのね。だから、イギリスでぺったんこー、ぺったんこーって言いながらお餅をつく」という楽しすぎるものに加えて、DAPUMPの「if… 」という選曲も、もはやネタに組み込まれる音源で言えば、手垢がつき過ぎて冷めてしまうものになっていたと思われていたが、それを剛腕でねじ伏せる「もしも」を「餅も」とするこのセンスも馬鹿馬鹿しさを突き通して素晴らしい。

 もちろん、ノイズはあって、餅つきに入るまでがぎこちなかったり、テクノ的なミュージックだったら、イギリスよりもドイツの方が良いんじゃないかとか後々ぼんやりと思ったりする。ドイツ人の方が、餅まき好きそうだし。こういった些細すぎる違和感を潰していけば、もっとその世界にどっぷりダイブさせてくれるはず。サビに入るまでの序盤すらも、どこかリズミカルである状態に持っていければ、中盤から後半にかけてもっとグルーヴィーになり、なんで笑っているのか分からないけれども腹が爆発し続ける。徹底して無意味に向かうのであれば、徹底してロジカルにノイズを潰していき、意味を剥奪していかなければならない。

 今年の夏に受けたMRI検査で、その装置で聞いた音は、単音の電子音と、ドラム缶を転がすようなゴウンゴウンという音が徐々に折り重なっていく様子は、ミニマルテクノから始まって、中盤からノイズミュージックになり、最後にそのノイズが畳み掛ける中という構成がめちゃくちゃちゃんとしたものだった。ヨネダ2000のネタを見た時に、このことを思い出したし、ここに何かヒントが隠されている気もする。是非、体に不調がある人は、確認してみてほしい。

 13年ぶりの女性コンビファイナリストということもあってか、特筆すべきことがネタの外で、2点あった。

 まず一つ目が、山田邦子が、ネタを終えたヨネダ2000に、ネタ作りについて話している瞬間は、単純に、美しいなとすら思えた。

 子供と一緒に沖縄そばを食べに行った、国際通りから入る商店街の奥の奥の方にあるその店は、周りできつねダンスを踊ったら瓦解するくらいにはボロくなっていて、店内もお世辞にも綺麗とは言い難いことに加え、「酔っている人お断り」「注文は人数分お願いします」「五千円、一万円はお断りです」「人数分の注文をお願いします」と毛筆でしたためられた貼り紙が所狭しと貼られていた。圧を感じたのか、まだ文字を読めない子が、張り紙の一つを指差し、こちらを見て何かを訴えようとしていた。子が少しでもうるさくしたら怒られそうだなと怯みながらも、一杯のてびちそばを注文すると、何も言わず、真っ先に子の取り分け皿を差し出してくれた。無害な客には最高の店だった。冷静に考えれば、何十年も観光地の真ん中でお店を切り盛りしてきたなかで、酔客にはかなりの迷惑をかけられてきたのだろうし、小さい店なので数人で押しかけられて一杯のそばをシェアされたのでは回転率も悪くなる。店主も高齢で、キャッシュレスを導入する必要性をあまり感じてないのだろう。そうか、これは自治なんだ、と独立軍のV6みたいな気付きを得て、なんだか泣きそうになってしまった。そうなるくらいには、ここ最近は情緒がおかしくなっているということを差し置いても、邦ちゃんヨネちゃんの邂逅は美しかった。

 テレビという世界で、という留保をつけるが、いわゆる女芸人として天下を取った、山田邦子が、ヨネダ2000にアルカイックスマイルをもって話しかけるというのは、近年のM-1グランプリの中でも名シーンで、行間から滲み出ていた何かが凄かった。個人的にはマジで点数の推移とかはどうでも良いので、邦ちゃんにはもうしばらく審査員を続けてほしい。切にそう願う。

 もう一つは、立川志らくの「女の武器を使ってなかった」発言。一つ目がこの場で交差したということ、そして、その言葉が割合、批判を呼んだということは、後々、重要なことになりそうな気がするので、記録しておきたい。

 まず、この発言については、そういう言い方をすなよ、とはなったものの、本当に、そういう言い方をすなよ案件なのかはきちんと精査しなければならない。なぜなら、立川志らく一門には女性の弟子がいるからである。女性落語家という言葉が、まだ存在し、そして、直の弟子にその女性落語家がいる以上、志らくにとって、男性が主流の演芸における「女の武器」というのは何なのかということは、今もなお、向き合っている問題であると措定ことが自然だからである。女の武器を使うこと、または捨てることが、芸事に限らず、ホモソーシャル社会に組み込まれることなのか、妥協することなのか、反発することなのかは、簡単には出ない問題のはずだ。ただ、大前提として、あのコメントだけでは、その真意は判断できないということだけは確かであるので、パターンで考えてみたいと思う。

 志らく師が正しい場合。これは、女の武器というのが、「彼氏が欲しい」というようなネタをするということを指しているのであれば、正しいと言わざるを得ない。現代において、男が、いつまでも女は色恋のことばっか考えてんだよなあと喜ぶためだけにしか存在しなくなったシチュエーションのネタである以上、そして、昨年の「THEW」でそういったネタがかけられていることも踏まえると、そういう安易な場所から出来る限り遠い場所に連れていったヨネダ2000は間違いなく、女の武器を捨てている。

 次に志らく師が間違っている場合。これは女の武器が、女性の身体的特徴を指している時。ヨネダ2000のネタは、一般的に男性の声よりも高い女性の声だから映えることや、イギリスで路上で餅つきをして人気者になるという世界観にファニーさが増すことは間違いない。男性の声だと、愛のパートが重くなり過ぎてしまう。あくまでこのネタはどこまでも軽やかな方がいい。だから、厳密に言えば、「女であることがネタの補強材料になっている」ということになるので、ざっくり言うと「女であることの武器を活用している」となる。

 ちなみに、巷で取り沙汰されている、抜群のリズム感については、愛と誠それぞれの資質となるので、それらは女の武器という言葉に回収されないことは付け加えておく。 

 少なくとも真意を確認するまでは、いずれにも傾ける以上、「女の武器」という言葉に対して、これからも都度都度、因数分解した上で、現代的な再定義が今後も必要であるが故に、「志らく、そういう言い方すなよ」に対しても急ぎの答えを出してはいけないのである。

 好きなくだりは、「そっぽを向いていたイギリス人が、片手で、アイ!アイ!と始めるところ」「もちも君が一人なら」。

 

9 キュウ「全然違うもの」

 「やっぱりさ、世の中、全然違うものってたくさんあるよな」「ん、全然違うもの?」「例えば、リンゴとズボンとか全然違うよな」「まあ、全然違うよなあ、そりゃ」「あと、東京とマグロとかも全然違うよな」「まあ、全然違うよなあ、そりゃ。そんなん言い出したらキリがないだろ」「あと、死神とピザとかも全然違うよな。」「いや、全然違うだろ、そりゃ。そんなん言い出したら、大抵のものが、いや、お前、死神とピザは、どちらも『かま』を使うでしょ~」。

 キュウのこのネタは要は謎かけなので、種明かし以降にいかに見ている側をも、どうにも笑いきれなかった。途中で「ステーキとかけまして」もちょっと、ノれなかった。

あと、自転車とヒラメなど全然違うとされたものについて、ねずっちなら共通点を見出しそうだなと思ってしまった。タイタンライブでの初見時も、右肩下がりになっていた印象だったが、あまり改良されていなかった。

 ダイヤモンド同様に、ハマっていないこと、ハマらなかったことにびっくりしてしまったのだけれど、冷静に考えれば、これら二つのネタは、笑いの回路というか、漫才の構造、ネタでやろうとしていることを理解するための脳の部位が近いところにあるという感じもするので、やむなしかという感じもしないでもない。ちょっと、残念すぎた。次こそは。

 好きなくだりは、「青じそと大葉は全く一緒でしょ~」。

 

10 ウエストランド「あるなしクイズ」

 ネタ順が、前回の出場時と同じ、10番目と決まった時には、もう笑ってしまったと同時に、ウエストランドっぽいなぁと半ば諦めつつ、その、らしさを楽しんでしまっていた。北海道にいるタイタンライブ仲間の友人は、「タイタンライブのじかんでーす」とツイートしていた。無いのは、エピグラフだけ。正直、見ている側としては、だいぶ肩の力は抜けていた。さや香優勝かとすら思い始めていた。ただ、この順番こそが、振り返るだにあまりに出来すぎている、優勝への道のりのためのフラグになる。那須川天心さん、ありがとうございます。当方、格闘技に全くもって疎いのですが、強いということは伺っております。ますますのご活躍をお祈りいたします。小倉優香さんとお付き合いされていた方ではないですよね。

 ネタは「あるなしクイズ」。河本が出した、あるなしクイズに井口が答えていく。

 前回のネタは、どうかしていること井口に対して、河本がツッコミとして機能しきれていなかったが、クイズという構図に、二人のやりとりが落とし込まれることによって、河本が井口の答えに対して正解と言わないことで、それが井口の否定となるという図式が成り立ち、そうなることで、井口がおかしなことを言っていると図式が、くっきりと浮かび上がっていく。

 「アクション映画にはあるけど、恋愛映画にはない」という問題に対して、あるなしクイズにはあるまじき、一つ目のお題から答え始める。「正解はパターン。アクション映画はいろんなパターンあるけど、恋愛映画は全部一緒だから、正解は、パターン。」と井口は答え、河本に違うと否定をされるも「恋愛映画、全部一緒だよ。冴えない女の子が、ひょんなことから王子様系の男子と知り合い、いい感じになるもイケイケの女子の恋敵が現れ、そっちに取られそうになるが、結局自分が選ばれた。やったー。こればっかりだろうが!」と食い下がる。

 そこから、「YouTuberにはあるけど、タレントにはない」「スポーツ観戦にはあるけど、お笑い観覧にはない」、「路上ミュージシャンにはあって」という、あるとされたお題に対して悪口を垂れ流す。ここで井口が喧伝している悪口は、それぞれのカルチャーの内側からなされたものではなく、知識を得ることで多種多様なパターンを見出すことを放棄しているので偏見に凝り固まっているが故に自らが正しいと思い込んでいる視野狭窄な人間の口から発せられる、程度の低い悪口が模されている。井口が持たざる者であるということから来る、やっかみも含まれている。それは、あるあるよりも劣っていて、批評性が全くなく、だからこそ、笑いに転じているわけである。もっと精度が高い悪口になっていくと、がなられると、笑えなくなってくる可能性が出てくるのだから、これでいいのである。ちなみに、それをナチュラルにやっていたのが、爆笑問題の田中が言った「声優は毎日結婚している」である。絶対にそんなことはないのに。

 アクション映画を見ない人にとっては、アクション映画なんて、車の運転を荒くして、銃を乱射して、ビルを爆発させるというパターンしかないし、そもそもタレントの方が捕まり続けているし、スポーツ観戦になされる分析だって、スポーツ選手からしてみればウザいはずである。

 だから、井口は5分近くずっと間違えたことを捲し立て続けているわけだが、間違えているということは嘘を吐いていないということであり、よって、井口はボケないボケになっている。漫才というのは、嘘を言っていないという幻想を纏うに越したことはない。クイズの出題者と回答者という設定も、発話する比率が一方に偏ってもおかしくはない。そういう意味でも、よく出来ている。漫才中の河本の、小さい声で否定する感じは、東京フレンドパークでの「ボディ&ブレイン」の関口宏のような落ち着きようであった。

 悪口を重ねるという行為が、自然なグルーヴを生み出しやすくさせているが、積み重ねていくというよりも、幼児が強弱をつけておもちゃの太鼓を叩いているような、歪なリズムとなっている。さや香らと比べるとどうしても、導入のぎこちなさであったり、拙さが見えてしまう感じも、出されたお題にその場で悪口を言っているという幻想を固めてくれる。ウエストランドの漫才は、上手く見えなければ見えないほど、良いのである。

 さて、ヒラギノ游ゴ氏のツイート「ほうぼうに噛みついてヘイト撒き散らす系のネタ」「傷つける傷つけないの話は個人的には論点じゃなくて、あの程度の視座のやっかみやつっかかりは何ら真新しさがないし、ああいう他人への執着のあり方に気持ち悪ってなったことない? おもしろいか? みたいな所感」というツイートについて、ウエストランドと名指しはしていないものの、投稿された時間帯的に、ウエストランドのことであると断定してもなんら無理はないでしょう。

 ヒラギノ氏は、お笑いの知識を得ることで多種多様なパターンを見出すことを放棄しているので偏見に凝り固まっており、自らが正しいと思い込んでいるほどには視野狭窄で、ウエストランドの漫才がなぜ、少なくとも決勝に進出するほどに大衆に受け入れられた問いを設けることなく、ヘイトという危ういものと一緒くたにしている。これは差別に対しての解像度が低く、自らの暴力性に無自覚過ぎる。

 今後、誰かをヘイト扱いするときに、それが全くもって正当なものであるとしても、漫才に対してヘイト認定をしたという二重の意味での乱暴さを背負うことが出来るのか。そして、あの人は、漫才をヘイト扱いしたくらいだから、今回もその程度の軽さなんだろうという誹りに立ち向かうことが出来るのか。

 批評というのは、補助輪でもある。

 逆を言えば、このくらいの粗い悪口こそがウケるということは、世がアップデートしたという証左であるという理屈立ても可能なわけで、少なくとも、自分は笑えなかったからという否定ではなく、なぜ、これがウケたのかということを考えることが、お笑い分析の最低限のマナーだと思っております。それが出来ないのであれば、パターンを崩している恋愛映画の紹介をしてみてはいかがでしょうか。余談ではございますが、ワンピースに関するコラムも、ウエストランドの漫才と同じくらいの理解度やイメージで任侠を語っていて、任侠映画見たことあるのかな、と思いました。

 ヒラギノ氏の主張に、「皆目見当違い」と揶揄することは、とてつもなく簡単なのでやらない。

 そう書き終わった後に、クイックジャパンWebに、ヒラギノ氏の「“悪口漫才”への反応から考える、お笑いとコンプライアンス」という記事が掲載されているのに気がついた。書き直しさないとなのかよ、ベストラジオにも取りかからないといけないのに、と思いながら読んでいたものの、リライトは特に不要だったので、精査は追記をもって行いたいと思う。フェアに闘いたいので、色眼鏡と色ブラジャーと色ボクサーパンツを脱いで畳んでほしいので、まずは一読してほしい。ただ、URLを貼る義理はないので各自で探してください。

 まず個人的に苛立っていることは、論争にすらなっていないことだ。大晦日に掲載された記事を確認出来たのは、二日後だった。

 実は、ブログやツイートに良いねや、リツイートなどで反応してくれた、かつアカウントをフォローしている人を非公開リストに入れて、たまに眺めている。いや、かなり眺めている。お笑いのトピックは大抵このリストで把握したりするのだが、この記事及びツイートに対しての反応が全くなかった。これは、観測範囲がかなり限られているということを抜きにしても、お笑いファンから完全に無視されており、論争を起こすという力が皆無という事でもある。啓蒙としても、評論としても伝播する力がなく、機能していない。何故かというと、この文章には伝えよう、という気持ちが微塵も感じられないからだ。大会を通してでも笑ったところを全く紹介していないので、この人は、イチャモンをつけるために番組を見たのか、と御用の方の穿った見方、泥目線で見てしまう、ウエストランドの漫才の書き起こしすらせず、なんとなく、ウエストランドの悪口漫才に当てはまっていそうなことを書き連ね、ただただ印象を悪くすることに終始している。書き起こすことで、ヘイトに加担するからという言い訳は認めない。なぜなら、ワンピースの任侠との関連性を示した記事でも個別具体的な事例がなかったから。これこそ、ヘイトスピーチじゃないのか。

 特に、スタンダップコメディについての文は不思議であった。

 黒人コメディアンが、女性コメディアンがそれぞれの立場から見える社会の無自覚な差別構造をネタにして皮肉るスタンダップコメディには、「傷つける作用の効果的な利用を高度にシステム化」しているという。そしてそれらは、ネタにされた側も笑うという。それが<甘受する器のあることがセレブリティ自身にとってある種のステータスであり、人間的な成熟の証>だというが、疑わしい。セレブは金持ち喧嘩せずの精神や、井桁弘恵言うところの「こっちにもブランディングってもんがあるんだよ」の精神で笑っているのであり、路上でそんなことをしたら銃で撃たれないかと思ってしまう。

 ウエストランドの漫才は、批評性のない偏見に基づいた悪口であり、仕組みそのものがヒラギノ氏が紹介しているスタンダップコメディとは全くもって異なるものである以上、この話に持っていくということは論理の飛躍と指摘せざるを得ないし、ただ、スタンダップコメディの話をしたいだけのマンスプレイニングとも言えなくもない。そりゃ、悪手じゃろう。

 その上で、スタンダップコメディの「傷つける作用の効果的な利用を高度にシステム化」を信じるというのであれば、峯岸みなみとその夫が、ウエストランドの漫才でいじられた側として早々にウケをいただいていたという、ウエストランドの漫才が「傷つける作用の効果的な利用を高度にシステム化」されている証拠を紹介しないのは、誠実さに欠ける。有吉弘行の「青空」を聴きながら読んでたら、悔しくて泣けてきた。

 また、少なくともお笑いファンは、ウエストランドの漫才を、「マイノリティからマジョリティへのカウンター」、厳密には「おちんちんを世界に向けてドロップしてしまった、チビでモテなくて、お金もない、ただただずっと喋るマイノリティから、地位や名声を得てチヤホヤされているマジョリティへ放たれたてんで的外れなカウンター」ものとして受け取っている。

 これらのように、ウエストランドの漫才がいかに嫌いかというために紹介している全てが、ウエストランドそのものを補強する論理にもなりうるということに、気が付いていない。なぜなら、ジェスターとやらもスタンダップコメディとやらも、その本質を理解していないからだ。鬼越トマホークの金ちゃんの「人を傷つけるお笑い最高!!ウエストランドさんおめでとうございます!!時代変われ!!」というツイートも批判していたが、鬼越トマホークのやりとりこそジェスターだろう。ヒラギノ游ゴ=ウエストランド漫才論書けるぞ。

 ただ、何よりもムカついているのは、繰り返すが論争の起こさなさだ。お笑いからノイズを消し去りたいのなら、まずは他者に伝えることを第一とすべきである。笑った人を責めるような文章は書くべきではない。いつどんな角度から石が飛んでくるか分からないお笑いが大好きな僕と、そうでないヒラギノ氏でも、笑いの受容についての建設的な議論を交わせると心の底から思っている。

 あと、このことは、別にヒラギノ氏だけじゃなくて、アップデーター全員に言っている。お前らもっと伝えることを意識しろよ。お笑いファンに無視されても良しとするなよ。こっちはこっちでちゃんと考えてんだよ。お前ら、あれだな、宮藤官九郎三谷幸喜はちゃんとアップデートしてるのに、他はしてないみたいに言うよな。去年なんかその言い回し、めっちゃ見たぞ。それ、この二人しか見てないだけだろ!もともと、そういうことで笑いを取ってた人が、そんなことを言わなくなった人、配慮するようになった人は、いっぱいいるぞ。言わないけどな、なぜなら、お前らはそれをチェックして過去を蒸し返すから。自説を曲げかねない人たちを無視するなよ!自説を曲げろ!妥協しろ!止揚しろ!その上で整えろ!コンビニでエロ本は撤収されたのに、本屋でBLが普通に置かれているのは何でだという素朴な疑問に答えろ!こっちがどんだけ、妻の話をするときに、奥さんって言って、ちょっと落ち込んだりしてるか考えろ!もうちょっとしたら、後輩とかクラフトビール飲みに誘うからな!お前らがホモソーシャルホモソーシャルって言うから、調べたら、ちゃんと自分がそういう場が苦手だって感情に理屈がつけて飲み込めて、楽になって、それは本当にありがとうな。芸人のYouTubeで、おちんちんの大きさランキングとかの動画って全然面白くないけど、それを言うと、おちんちんが小さいからだろって言われるみたいなことに抗っていこうな。ただ、AV新法の際に、業界がヒアリングされなかったことは明確な差別だと思ってるからな。そうやって、世界は良くなっていくんだよ!お笑いファンもだぞ、ちゃんと、本とか読め!その上で自らの基準を設けろ!そんなんだから、有事の際に慌てふためくことになるんだよ!分からないに怯えるな!カーボーイ聴きました、太田さん、ありがとう~、じゃねえんだよ!さて、サウナ行くか、じゃねえんだよ、ととのうな、ごちゃごちゃし続けろ!サウナなんて嘘!スパイスカレーは本当!ソロキャンプは、襲われないという前提にいることに無自覚な男性の特権って、友達が言ってて、ハッとしたから嘘!

 

 好きなくだりは、YouTuberへの悪口として「数年経って、これはこれで認めなきゃいけないけどなあという風潮あるけど」をかましたところからの「警察に捕まり始めている、あっ、警察に捕まり始めているっ」、「佐久間さーん」を入れた決断、路上ミュージシャンのパートでの「警察に捕まり始めている」という史上稀に見る嫌なワード回収、「正解なんてどうでもいいんだよ、もっとワードくれよワード」。

 最後に、悪口論を言うときは、誰かの悪口になっている。哲学的~。

 

ファイナルラウンド

ウエストランド「あるなしクイズ」、ロングコートダディ「タイムマシン」、さや香「男女の友情」

 

 導入をすっ飛ばして、悪口を飛ばしまくるウエストランド。小さな悪口を前半に並べてからの小劇団への悪口の捲し立てという流れが上手くハマり、前半で一つの山場を作れたことが大きい。そしてこの瞬間、小劇団ディスはタイタンのお家芸となった。そして、誰も気にしていない1本目の弱点というか整合性が取れていないところというか、井口が「ある」とされるワードへ答えた時に、先に出された他のワードの「ある」に当てはまらないというところは、2本目では解消されている。「田舎にはあるけど、都会にはない」「引け目!」と答えた後、河本が先に出したアイドルにも引け目はあるのかと問うと、「アイドル、引け目感じてるに決まってるんだろ、嘘ついて売れようとしているんだから、そんなの。引け目のかたまりだろ」と喚く。こうすることで本当にクイズに答えようとしている感が出る。さらに後半に、劇団ディスを上回るひどい悪口をぶっこむ。

 「M-1にはあるけど、R-1にはない」「はい、えー、夢」「そんなことない」「希望、希望、大会の価値。大会の規模。M-1は決勝行くだけで人生変わるけど、R-1は何にも変わらないから、夢!」。

 R−1を切った後に、大阪人への悪口を挟む。そこで一旦、観客は呼吸を整えることが出来たのか、待ち望んでいた井口の爆発が、最高のタイミングで訪れる。

 「うざい!ある方は全部うざい!」「M-1も?」「M-1もうざい!アナザーストーリーがうざい!

いらないんだよ。泣きながらお母さんに電話するなあ。ゆうしょうしたよぉ~じゃないんだよ、どうでもいいんだよあんなの。見てらんないんだよ。」

 M-1の歴史を塗り替える親殺しだ。

 この大爆発と毒は、ウエストランドの出番が終わった後も、まるで『HUNTER×HUNTER』の貧者の薔薇のように、審査員を観客を蝕みはじめていく。

 ロングコートダディは、タイムマシンに乗って、江戸時代に行こうとチャレンジするネタ。1本目と同様にファニーで楽しいネタ。

 さや香は「男女の友情」。新山が最初のテンポを崩してしまったことによるロスが尾を引いてしまったことで、石井の唐突なアジテーションも、唐突さを欠いてしまった。すでにさや香に関しては、減点方式で見る目になっているので、その勢いに乗れなかったことが、大きな失点となる。モヒカンを坊主とする人が海外の人という認識も、ビタッとハマらなかった。1本目ではその、論破の仕切れなさで良い方向に転んでいたが、2本目ではそうなっていなかった。

 しかし、2本目のネタも強度はとんでもなく、もし、2本目と1本目が逆だったら、優勝もあり得たかもしれない。

 好きなくだりは、ウエストランドは、タイタンのお家芸の小劇団ディスと、親殺し。

 ロングコートダディは「帰りたい時はどうしたらいいですか」「左の方に『もう帰る』というボタンがございます。」「もう帰る!?」「それを押してください。」「もう要ります?」、2回目の「去年やんけー」、てやんでぃフラグ。

 さや香は、「なんであいつの気持ちわかんねんだよ、みゆきの気持ち考えてやれよ。」「勝手に名前決めんといて」「勝手なイメージでみゆきって」「名前みゆや。」「惜しっ」、「モヒカン坊主やて」からの「無理やな」。

 

 ある漫才コンビがいた。

 国民的アニメを実写化するなら、というネタがお馴染みで、NHKの「オンエアバトル」にも出演していた。オンエアを勝ち取ってはいたものの、そこそこの成績だったそのコンビは、目立っているとはお世辞にも言い難く、熱心な番組のファンには名前を覚えられているというレベルだったろう。ある時、彼らは、事務所ライブに出るにあたって、売れっ子の先輩に漫才を見てもらい、アドバイスを受けてもらう機会を得た。その先輩は、そんなことは滅多にしない人だった。その結果、彼らの漫才は、これまでに無いくらいウケた。しばらくして、コンビは解散した。理由は、漫才というものはこんなに頑張らないといけないのか、と愕然としたからだという。コンビは5番6番。先輩は、爆笑問題太田光。ライブはタイタンライブ。二ヶ月に一回、粛々と通っているライブでの楽屋ウラの話だ。10年以上前にラジオで聞いた話だから、間違って覚えて、とんでもないくらい創作が入っているかもしれないが、強く心に引っ掛かっているエピソードだ。これだけでは救いがないので、メンバーの一人の猿橋は、今も爆笑問題のネタ作りに参加しているし、もう一人の樋口はファミ通のライターになったことを申し伝えておく。樋口がファミ通のライターになった経緯は、伊集院光と樋口が、とある勝負をしたことによるのだが、これがまた、『深夜の馬鹿力』史に残る傑作トークの一つであり、ぜひ、深夜ラジオマニアの友人から当時のMDを借りるなどして合法的に聴いてほしい。さりとて人生は続く。

 長井秀和日本エレキテル連合など、タイタンから世に出ていく若手がいたが、どうにも漫才師が育たなかった。そこにやっと出てきた若手の漫才師が、ウエストランドになるわけだが、フックはあるにも関わらず、どうにも賞レースにハマりきらないその姿に、少なくとも、地方で限られたタイミングでしかウエストランドを見ることができないものにとってはそうで、そのため、何年もやきもきとしていた。他人に自分の一喜一憂を仮託する、いつだって観客はそんなもんだ。それでも、ウエストランドは、2020年に『M-1グランプリ』のファイナリストに選ばれた。その時の、曝け出したことすらも曝け出したウエストランドの漫才を見た時に、誇張なく「円だ」とそう感じた。その日の漫才が、いつもと何かが違うのは明らかだった。その通り、ファイナリストに選ばれた。原付バイクで走り抜ける12月の夜の国道は、風のせいもあって体感温度が一気に下がってとてつもなく寒いのだが、心の内から湧き上がる暖かいものを持って、耐えることができた帰り道だった。ただただ、ライブ見ているだけなのに、勝手なもんだ。先日、そこの近くのファミレスで食事をした時に鍵を忘れてしまい、翌日に取りに行くということで、同じ道を同じ時間、同じ方法で往復したのだが、あの日の帰り道と、これほどまでに気のありようでこうまで寒さがつらいのかと驚いた。

 しかし結果は、かんばしいものではなかった。それから2年、まさかまさかの捲土重来を果たすとは。キュウも含め、ウエストランドがファイナリストに選ばれた時は、子がお絵描きしている横で、大声で叫んでしまったし、Twitterのタイムラインでは、「2タイタン」という、タイタンから二組がファイナリストに選ばれるという意味の、その1秒前まで存在しなかった言葉が同時多発的に生まれていたことは、一つの瑣末なエピソードとして記録しておきたい。今後も使う言葉でもあるわけだし。

 爆笑問題として激動だった年に、最後の最後に、ウエストランドが『M-1グランプリ』で優勝するというのはあまりに出来すぎている。大河ドラマだったら、流石に今年だけで3話は費やされている。ウィニング漫才は、『M-1グランプリ』という権威と、それらを取り巻く環境を茶化すという親殺しのようなもの。あまりに出来すぎている。しかも、大会の歴史上、最も強度があると言ってもそんなに異論が起こらないネタになっていくであろうネタをかけたさや香を下して。面白いって思う感情って、本当に面白い。

 正直なことを言うと、ダイヤモンドやキュウの漫才が会場でハマらなかった時、すごく懐かしい気持ちになった。これでこそ『M-1グランプリ』だよと。これ、弾かれるか!と。手数を重ねる時代を経て、テキストも動きも質が行ききってしまい、爆笑することにやや疲れてしまっていたので、心技体ニンの調和性が求められているような気がする今がちょうど良いと、枯れたお笑いファンは勝手に思ったりしていた。

 どこで、ウエストランドまじで優勝するんだと思っちゃったんだろうか。

 M-1グランプリのファイナルラウンドでかけられる2本目は、別の強いネタか、同じシステムのネタに大別される。ウエストランドは、後者になるが、この場合の強みは、すでに笑い方を観客は把握しているので、前提を省略でき、重めの笑いもジャンプなく組み込めることだ。それに加えて、ファーストラウンドから2本連続をかけることが出来たのも、僥倖だ。天が味方したと見てもおかしくない。一番爆発していたのは、もちろんだが、それより何より、ウエストランドが圧倒的に票を獲得したという結果に、漫才とは作りこまれたものであってはならないという宿老審査員の思想を見た。傷つけ合う笑いに戻ってほしいという単純な話ではなく、原理原則の話だ。ウエストランドは、作り込んだネタを披露するというM-1グランプリの前提からは圧倒的に、異物であった。

 太田光審査員説というデマを流したことで、自ら耳と鼻を削いで、流罪を申し出たことで、実況を封印していたことは一生の不覚だったが、とても嬉しかった。

 これからもタイタンライブに通い、どっかのタイミングで太田光代審査員待望論を流すという乱を起こしたいと思います。

 以上!(厚切りジェイソン

 

 

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