石をつかんで潜め(Nip the Buds)

ex俺だって日藝中退したかった

「夜衝」感想

 現代コント史において、ゼロ年代一番の事件といえば、まず間違いなくバナナマンの単独ライブ「pepo kabocha」になるだろう。完成度の高さから今も語り継がれているこの公演は、マスターピースである「secretive person」が所収されているだけでなく、単独ライブのラストを30分の長尺ウェルメイドコント「思い出の価値」で締めるという、その後の芸人の単独ライブのフォーマットを形作ったと言っても過言ではないという革新性も兼ね備えている。加えて、20年近く経ってもなお手に取りやすく、そのことからも色褪せずにいること、その後のバナナマンの活躍など、そういった背景も加味すると、やはり、一番の事件としやすい。

 テン年代はというと、やや難しいところではあるが、かもめんたるの単独ライブ「メマトイとユスリカ」に一票を投じたい。カート・ヴォネガット的な壮大な世界観と強固な物語を持つことになったこの単独ライブでかけられたコントの連なりは、岩崎う大の作家としての方向を定める一つの転機となったといえるが、それだけではなく、空気階段の水川かたまりに衝撃を与えたことで、空気階段の単独ライブ「baby」や「anna」の萌芽にもなっているという意味を考えると、まあ妥当だろうと判断出来る。

 では20年代はといえば、気が早いかもしれないが、2030年以降になり、結局何だかんだで振り返ると「夜衝」ということになるだろう。テニスコート神谷圭介と、玉田企画の玉田真也が企画し、ダウ90000の蓮見翔が脚本を書いたコントライブ「夜衝」は、あと10年はしがめるライブだった。「夜衝」とは、台湾の若者たちの間で使用されている「夜にふと湧き上がる衝動」という意味の言葉だそうだ。台湾にて暮らしている義姉に、その夫に確認してもらったところ、「何でその言葉知っているの」と笑われたくらいには、若さとモラトリアムというニュアンスも含まれるのかもしれない。

 「夜衝」の事件性はというと、端的にいえば、芸人のコントには無いものばっかりで構成されている自由さに尽きる。

 現実と地続きであろうとする強い意志を感じる設定の中で、オフビートではあるものの情報量が多い、漫才とは異なるれっきとした会話劇を展開していく蓮見の卓越したテキストの笑いが、神谷を始めとする演者のしっかりした演技力によって表現されるという身体性によって担保されている。加えて、誰がどのタイミングで舞台に飛び出してくるかわからないというのも、二人または三人というメンバーが出てくるという前提の上に成り立った芸人のコントにはない楽しさだ。もちろん、その前提が強固であるが故に、一人二役のコントに胸が躍るし、全く知らない若手がちょい役で出たりすると、それはセリフとかでどうにかできただろう憤りを感じたりする。

 一つの設定で押し切る、セリフひとつで設定を転換させる、唐突に歌い出す、最後の長尺ネタでこれまでのコントを繋げるなどなど、発明された瞬間は凄かったものが、ただのフリを伏線ヅラするなどの小賢しいテクニックが多用されている賞レース対策に毒されたネタばっかり見ていた自分に、「夜衝」でかけられた9本のネタが、綺麗に顎に入ってしまった。

 9本のネタに勝手にタイトルをつけるとすると「シネコンのゴミ回収」、「謎解き」、「閉店日」「持ち込み」、「夢」、「定食屋にて」、「カラオケ」、「パーキングエリア」、「久米川ボウル」。

 1本目の「シネコンのゴミ回収」は、シネコンで映画を見終わった人たちが捨てるゴミを回収する仕事をしている三人が、出入り口の前に設置してあるゴミ箱の前に立ち、映画を見終わった客たがぞろぞろと出てくるのを待っているという設定だが、これぞ会話劇というコントだった。

「なんか、忙しい時と暇な時の緩急ありすぎません、この仕事」

「あぁ、確かにねぇ」

「一位じゃないすかねぇ」

「何が」

「瞬間最高忙しさランキング」

「ああ、そうかもね」

「なんか、他にありますかね、なんか急にヴァーって忙しくなる仕事」

「急に人がばーって来るようなタイプの仕事でしょ。なんかあるかもね」

「ちょっと思い付かないっすね」

 気だるい感じの会話から始まり、そこからどんどんと転がっているような停滞しているような会話が続いていき、自分達の仕事とLiLiCoが直接対決しそうになる。

 2本目の「閉店日」は、25年営業していた地元のスーパーの閉店の日、店長と店員二人が営業時間終了後、店長からの最後の挨拶をシミュレーションするネタ。3本目の「持ち込み」は、漫画の持ち込みに来た女子高生二人組と編集者のやり取り、大学に講演に来た元プロ野球選手に対して大学生がヤジを飛ばしまくる「夢」、職場の昼休みに同僚数人と定食屋に来た一人が仕事の愚痴をこぼす「定食屋にて」、先輩二人と一人の後輩がカラオケに来たが一人の先輩が全く歌を知らないという「カラオケ」、夜のパーキングエリアでの一幕を描いた「パーキングエリア」、家族でボーリングをしているところに数人のクラスメイトと鉢合わせる「久米川ボウル」へと続く。それぞれが繋がることもない、個別のコントであり、「夜の衝動」という空気を纏っていることで、世界観がまとまり、「peppkabocha」を初めて見た19年前に思った「映画じゃん」という感想を抱いた。ところで、ちょうどその頃は自堕落の極みだった大学時代で、夜明けも近い時間帯に、ウエストに行って、かき揚げうどんを食べてから、また帰宅し、そのまま昼まで眠ったりしたのも、夜衝なのだろうか。

 特に好きだったのは、「定食屋にて」と「パーキングエリア」だった。

 「定食屋にて」は、ネタバラシをしてしまうと、昼休みに同僚数人と定食屋に来たうちの一人が、仕事の愚痴を話している間、他の同僚はその話を聞きながら、めちゃくちゃ飯を食べているというネタだ。それだけなのになのか、それだけだからなのか、一番余韻を引き摺ったのはこのネタであった。

 このネタがいいのは、マジで舞台上で飯を、しかも、こんなに食っているのを初めて見たっていうくらい、飯をちゃんと食べているというところも要素としては大きいが、同僚たちが、飯を食いながらも、同僚の入り組んだ愚痴をきちんと理解し、それを噛み砕き、愚痴をいう同僚の気持ちを汲み取りつつ、会社という組織の中でのパワーバランスを考えた相槌を打っているところだ。ここで、斜に構えて、同僚の愚痴が聞かれていないということを描くことは簡単だが、ディズニーランドでミッキーの耳を模した帽子を恥ずかしそうにかぶっているのはダサいこととする蓮見は、そうしなかった。全員が真面目であることから生まれるおかしみを足すことで、ただ舞台上でガッツリ飯を食うというコントが、ポリフォニックな笑いになっている。ここの斜めを避けることに衒いがないのは、新しい感覚と言える。

 「パーキングエリア」は、パーキングエリアに立ち寄って休憩していたカップルが、帰る間際になって車の鍵を無くしてしまっていることに気づいて、すでに1時間近く鍵を探しているところから始まる。そこに、トイレに行っていて深夜バスに乗り遅れた男が出てきて、カップルの事情を把握すると、鍵を一緒に探すから見つかったら乗せてってくれと交換条件を提示してくるが、カップルの女性のほうが、知らない人を乗せたくないと言い、揉め始めたところに、別の女性が登場してくる。さらにしばらくすると、ツーリングしている親子、別の男女の二人組と、どんどんパーキングエリアに集まってくる。最初のカップルと、深夜バスに乗り遅れただけでもコントは展開できるのに、そこにそれぞれの都合で、パーキングエリアに集まった8人だが、最終的に川渡りパズルになっていく、めちゃくちゃワクワクするコントだった。オチも素敵。

 実は、4人目の登場人物となる伊藤修子演じる女性は、あまり人が立ち寄らないパーキングエリアにて定期的に家庭のゴミを不法投棄をしているのだが、スリルを楽しむためにわざわざお金を払って高速道路を使い、このパーキングエリアに寄って不法投棄を続けていることについて語るくだりが、気っ持ち悪くて圧巻だった。

「あたしね、車持ってないです。車ってぇ、お金かかるでしょ。でも、たまにどうしても必要な時ありますよね。レンタルにしたらぁいいんですけど、高いんですよね。で、近所に、ホームセンターがあるんですよ。そこでね、カラーボックスを、二つ買うんですね。そうすると、代車借りれれるんです。1,600円でぇ、車ぁ借りれるんです。重いものを買うときは、そうやってね、あの、車借りるようにしてるんです。だからねぇ、私の家にねぇ、カラーボックスだらけなんです。で、でもぉ、カラーボックスじゃないのにしたらいいんですけど、一番ぅ、サイズと値段が反比例してるのがカラーボックスなんです。何回か、そういうことを繰り返してるうちに、家の中がカラーボックスだらけになって、寝る場所が無くなっちゃって、しょうがないから、カラーボックスをそのまま、ばって捨てたんですよ。そしたらその、スリルにハマっちゃって。で、カラーボックスを捨てるたびに、またカラーボックス買って。これ、これはねぇ、あのぉ、いたちごっこだっつって。あの、新しく買ったカラーボックスを、このまま、ばって捨ててみたんですよ。そしたらねぇ、なんかきもちよくないんですよ。やっぱりね、家にあるものを捨てるからヒリヒリするわけで、ね、これからはね、要る要らないじゃなくてね、なるべくね、長く家にあるものを捨てるようにしてます」

 伊藤修子の他にも、見ていてナチュナルにむかついてくる役を演じたら天下一品の玉田、舐められたり翻弄されたりするのが上手すぎる神谷、演技がナチュラルすぎていくつものコントで重要な役どころを担っていたロロの森本華、ダウ90000の中島百依子、忽那文香、ちょろっと出てくる蓮見翔など、全員がそれぞれのコントでその持ち味を遺憾なく発揮していたが、中でも、ラブレターズの溜口がとてつもなく輝いていたということは嬉しかった。

 ラストネタに相応しいセンチメンタルさを持った「久米川ボウル」では、溜口は、家族とボウリングに来ている高校生役で、そこにクラスメイト三人がやってくる。家族とはしゃいでいるところをクラスメイトに見られて気まずいというコントかと思いきや、実は、クラスに馴染めず、このクラスメイトともこの場で初めて会話をしたということが発覚する。さらに、これから、このボーリング場は、体育祭の打ち上げでクラスメイト全員がやってくることを知る。残酷な設定のようだが、世界って優しさに満ちていて、拗ねている人間はそれに気づかないだけだったという救いがある。

 ちなみに、『ハライチのターン』にて、ハライチの澤部と、オードリーの春日が、溜口のことを「ネタ書いていない方なのに、銀縁丸メガネをかけるな」と同じネタ受け取り師のムジナとして扱っていたが、溜口はラブレターズのコントの演技指導担当であり、単なるネタ受け取り師ではないんですよと、当て書きの究極体二人に伝えたい。タメは銀縁丸眼鏡をかけてロングコートを着ていい側の人間であると。

 この一年で、ダウ90000のコントを色々と見てきたけれど、それとはまた違った良さがあって、とにかく「夜衝」は面白かった。「パーキングエリア」にて、「夜ってこんな、なんでもありだったっけ!?」と神谷が困惑するくだりがあるが、コントってこんななんでもありだったんだと改めて思わされた公演だった。