石をつかんで潜め(Nip the Buds)

ex俺だって日藝中退したかった

絶対的フリオチ主義者バカリズムの最高傑作『ブラッシュアップライフ』がブラッシュアップした二つのフォーマットと、描いた4つの人生の真理

 「太鼓持ちの忍者が先輩忍者に言ったこと」という大喜利のお題に対し、「先輩って、着忍びするタイプですよね」「ピンク着てても、全然黒いっすね」「こないだ先輩だと思って、丸太に話しかけちゃいましたよ」「先輩だと思って、丸太にお酌しちゃいましたよ」「先輩の変わり身の術、丸太じゃなくて、マッチ棒でよくないすか」「なんかぁ、こないだクノイチたちが、先輩が巻いたマキビシ、キャーキャー言いながら拾ってましたよ」「先輩って、どんだけ分身しても本体にオーラあるから、バレちゃいますね」と答える。「忍者」と「太鼓持ち」のイメージを箇条書きにして洗い出し、組み合わせる。二つの数字を因数分解し、その解を組み合わせて、元の二つの数字を超えるというイメージだろうか。解き方は分かるが、やはり難しい。ちなみにバカリズムが出した答えは「あれ?センパイ?どこすか?センパイ?」「センパイの巻きビシ、分かってても踏んじゃいますわー。」「(イラストあり)(ノロシで)昨日はごちそうさまでしたー」痺れるね。脳にダイレクトに回答の真意を理解させる速度がある組み合わせとでも言うべきだろうか。何にせよ、一つだけ言えるのは、最初に思いついたものをいかに消していくかということである。忍者に対して、手裏剣を最初に思いつき、その先輩の手裏剣に対して、どうすることで太鼓持ちが出来るかを考えてみると、「懐に入れて温める」、「投げる速さやコントロールを褒める」が出てくるので、最初に思いつく答えとしては「先輩がさっき投げた手裏剣、あっためておきました」「先輩の手裏剣って、大谷より速いっすよね」当たりになるが、もちろん面白くはない。なのでここを掘ってもあまり太鼓持ち感が出ないなと、手裏剣と組み合わせることを、早々に捨てた。それから、他に何があったっけ、と考えて、巻きビシや、丸太を使った変わり身の術などを題材にしたら、太鼓持ちの特徴と接続できた、という思考の流れが、先述した解答となる。バカリズムの解答には、そこに、太鼓持ちへのうっすらとした軽蔑が見え隠れしている。最初に思いついたものを消すことで、他と違った角度での回答となるが、考えすぎてしまって、マイナーな五色米を出すと、どんなに太鼓持ちの要素を絡めても、伝わらないというノイズが生じて、ウケないので、「先輩が作ったチャーハンってパラパラだし、五色っすね」と答えたところで、聞いた人の脳に瞬間的に絵としてイメージさせることが笑いにつながる大喜利に関していえば、題材をいじりすぎるのも良くないということも何となく分かってくる。いかにみんなが思いつくことを避け、新たなイメージを作り出すかということが大喜利の入り口となる。

 バカリズム脚本の『ブラッシュアップライフ』が完結した。全十話を通して、生きていくことへの賛辞を描いたこのドラマは、現時点のバカリズムの集大成でもあり、最高傑作でもあった。そしてそこには、バカリズムがブラッシュアップした二つの既存のフォーマットと、四つの人生の真理もあった。

 まず、フォーマットのブラッシュアップについての話から始めよう。

 地方公務員として市役所で勤めている、親友二人からあーちんと呼ばれている近藤麻美は、その親友の、なっちとみーぽんと食事をしてラウンドワンで遊んだ日の夜、不慮の事故で死んでしまう。死後に辿り着いたのは、背景が真っ白の空間。直感で死んだことを悟ったあーちんは困惑しながらも、空間の先へ進むと、一人の受付係がいる。受付係から、33歳の生涯が幕を閉じたこと、来世がグァテマラ南東部のオオアリクイであることを知らされる。オオアリクイであることに難色を示していると、受付係が「生前の内容に基づいて」「必要な徳が不足」しているからでしょうということと、次いで、今世をやり直すことが出来ることを教えてきて、あーちんは今世をやり直す。

 この「来世を提示されるも、人間ではないので、腑に落ちないでいる」という展開は、バカリズムのドラマ脚本デビュー作『来世不動産』を思い出すが、そこからさらに、今世をやり直す道が開ける設定が追加されることで、20分ほどのドラマが、450分の連続ドラマにリビルドされた。「来世不動産」自体が、ゼロからイチのフォーマットを構築する、いわゆるゼロイチなのに、さらにそのイチをジュウにする作業を本人にやられてしまうと、こっちとしてはお手上げだ。

 まずバカリズがブラッシュアップした一つ目のフォーマットは、会話劇としての強さである。

 一話にて、妹の遙が運転する車に姉が同乗しているあーちんが、ふと道に目をやると、保育園の先生たちが、子どもたちと散歩をしている。子ども達のうち数人は、カートに乗せられている。

「うちらの時、あのカート無かったよね。」

「あぁー、無かったねぇ」

「いいなぁ、運んでもらえて」

「今も運ばれてるけどね」

 ここ数年で一番の寒波が続いていたこともあって、寝っ転がりながらダラダラと視聴していたわけだが、ここで姿勢を正し、背筋を伸ばしてこのドラマを見ることに決めた。

 短いものでこのくらいピリッとしたものは他のドラマにも全くないわけではない。だが、同じく一話の「サービスのフライドポテト問題」は長尺で強すぎる会話劇は、今のところ『ブラッシュアップライフ』くらいでしかお目にかかれないものだった。

 仲良し三人組で、夕食を食べた後に、カラオケに行くと、そこで働いている幼馴染のふくちゃんにばったり約10年ぶりに出会い、その幼馴染から、フライドポテトをサービスしてもらう。すでに満腹状態の三人は、フライドポテトに手を伸ばそうとしないまま、会話を続ける。「食べてよ」と、互いに探りあう時間が続き、しばらくした後、あーちんが「もう言っちゃうけどさぁ。入んないよね」が切り出したことを皮切りに、三人は「サービスしてくれるならドリンクをタダにして欲しかった」「ご飯を食べたことを言ったよね」「誰が悪いか決めるとなると、ハナ差でフクちゃん」など言いたい放題かます

 バカリズムの脚本で笑いを産む場面では、よく言えば、バカリズム作ということが分かる、悪く言えば、役者が演じていてもバカリズムがチラついてしまっていたが、このくだりは、そう感じさせない。サービスのフライドポテト問題だけだと、バカリズムになってしまうが、ふくちゃんにまつわる雑談と成人式の思い出話が、合間合間に挟まれることで、会話としてとっ散らかると、それは、あーちんとなっちとみーぽんによるバカリズムっぽい会話となる。バカリズムの匂いを消して、エッセンスだけを残している。バニラエッセンスは舐めると苦いみたいな話だ。いや、違うな。この例えは無し。

 かつ、このやり取りが、この三人の関係性が掛け替えのないものであるということのフリとなっているので、その日、あーちんが交通事故で死んでしまうことが、悲劇として際立つ。あーちんの三周目の人生では、なっちとみーぽんが二週間も空けずに、東京のあーちんの家に入り浸ってダラダラするようになるが、その後の四周目での三人が仲良くならない人生の切なさへのフリとなっている。

 『ブラッシュアップライフ』は完全に、フってオトすといういわゆる、フリオチをベースとしたお笑いのネタの作りとなっていて、立て付けこそ基本に忠実な単純なものではあるものの、幾重にも張り巡らされていることで、とても綺麗で、かつ、連続ドラマという媒体でなされることによって、これらが生み出す反復と逸脱、対比のエネルギーがコントの何倍にも増幅されている。そして、このバカリズムの絶対ともいえるフリオチ主義は、最終回の最後の最後まで貫かれている。

 具体例を挙げると、同級生のれなちゃんに、彼氏が既婚者であることを、あーちん達が、レナちゃんに教えるシーンだ。あーちん達がシミュレーションしていたように、自らが不倫をさせられていたことを知らされた相手からは、一般的には「さめざめと泣く」「取り乱す」などの反応が返ってくることを想定するので、このイメージの共有はフリとなるので、れなちゃんの、彼氏が既婚者であることを知った即座にかつ粛々と相手に電話をかけ、別れを切り出すこともなく、連絡先を消せとだけ告げるという行為がオチとなり、笑いを誘い、喝采が起こる。そして、同様に、彼氏のふくちゃんが浮気をしていることを教えられたまりりんは、ふくちゃんをボコし、浮気した相手のしーちゃんには怒号を飛ばすくだりは、れなちゃんの冷静沈着な行動がフリになっているというわけだ。

 また、最終話直前に、空港であーちんとまりりんを見る謎の男性もそうだ。浅野忠信演じるこの男は、9話のラストにチラッと画面に登場し、一週間、視聴者をヤキモキさせ続けたものの、蓋を開けると、何十年も猶予があったのに、暴力で解決しようとするどころか離婚すら回避出来ない雑魚だった。この謎の男の存在が面白いのは、人生の目的を成就させるための苦労と孤独が並大抵なものではないことを、あーちんとまりりんによって知っているからで、ドラマの構造そのものがフリになっている。

 一般的な描かれ方をフリにして落とした後は、そのオチからずらして、違う角度の別のオチにする。一話のサービスのフライドポテト問題は、最終話に、サービスのフライドポテトの辞め時失っている問題へと繋がっている。このように、フリがオとされ、そのオチがまた新たなフリになるという、フリオチが幾重にも連なってるシークエンスを持って、円環構造を完成させる。サツマイモを海で洗うと塩味がついて美味しくなることを覚えた猿のように、大喜利の問いと答えを重ねてきたバカリズムの実績の賜物であり、それがラジオ挫折、トツギーノ都道府県の持ち方から連なる物語であるというその事実はあまりにも美しい。本作は、考察するものではなく、このフリとオチの配置を把握し、ペルシャ絨毯のような緻密さにうっとりするドラマだ。だから、このドラマに対して、伏線が回収されたというのはものすごく失礼な話で、フったものを全てオトしたというべきだ。

 二つ目のバカリズムがブラッシュアップしたフォーマットは女性同士の描き方である。会話劇が強すぎるが故に見落とされてしまうが、本作において、裏で悪口を言い合う女性はいない。このことに気づいたタイミングで、あれは手垢がついた表現であり、じんわりと女性を貶めたり、型にはめ込むものだったんだと知る。

 ラジオをやっていた頃、投稿されてきたメールがあんまり面白くなかったことを理由として、コーナーをやらなかったことでハガキ職人を戦慄させたこともあるほどの、おもしろの鬼であり、おもしろを食うサルトゥヌスであり、おもしろのセーラーマーキュリーこと水野亜美のIQであり、おもしろの週刊少年ジャンプ「1995年3・4合併号」であるバカリズムに、女性同士の会話を面白く描かれてしまったら、表面上は仲がいいように装ってはいるものの裏では悪口を言いまくっているという女性の描き方を見かけたら、安易でスベっているとみなしていいという免罪符を渡されたようなものだ。

 ここで出てくる疑問は、バカリズムジェンダー問題などに配慮して『ブラッシュアップライフ』を書き上げたのだろうかというものだ。個人的には、そう決めつけるのは尚早であると考える。それよりも、あくまで芸人として、手垢がついた表現を避けて避けて避けまくったことに加えて、その上でウケる方へと進んでいった結果であるというほうが幻想がある。その場合、本来の、ジェンダー問題の描き方として正しいのかどうかは分からないが、芸人のネタ作りとして絶対的に正しい行為であるということも主張しておく。良い悪いではない、芸人のネタの作り方として、圧倒的に正しいという話だ。恐らく、今後、バカリズムはアップデートしているのに、という言葉が過剰に意味を持たせたい奴らによる誰かを叩くための棍棒やスタンガンとされることが出てくると思うが、三谷幸喜宮藤官九郎なども含め、他人を笑わせるために作品を作っている喜劇作家、とりわけ芸人の、ウケるためならなんでもするという習性のえげつなさを舐めてはいけないと、今後産まれるであろう陳腐な紋切り型に対して今のうちから、釘を刺しておく。彼ら彼女らのモノづくりは、そんな綺麗なもんじゃない。以前、とある芸人が「舞台で女性のことを女と言うと、笑いが一気に引くのがわかるから言わないようになった」と言う発言がSNS上で拡散され、賞賛を始めとした様々な反応が巻き起こったのを見たが、これは単に、笑いを取るための最短コースを走るためのノイズを取り除いただけの話で、坂元裕二はさておき、他の三人のアップデートと見られるものは、全てとは言わないまでも、この延長線上でしかないと思っている。本作において、恋愛や結婚などについて描かれなかったのは、このドラマの本質には何ら関係無いとしたからだと思うに留めておいた方がいい。無論、製作陣による微調整はあるだろうが、本当に、このドラマの本質では無いから書かれなかっただけだと思うくらいが温度として、ちょうどいい。バカリズムにとって、『ブラッシュアップライフ』にとって、あーちんの恋愛や結婚、出産は、面白いハガキが来なかった週のコーナーと同じなのだ。

 ドラマを見ていると、これはアレがやりたかったんだろうな、と気になってしまうが、バカリズムを始めとする製作陣による、この二つのフォーマットのブラッシュアップは、どんどん取り入れていってほしい。もちろん、社会的な問題を取り上げ、作品に落とし込めることは重要だが、それだけがなされるのであれば、女性の描き方はそれでいいということにならないか。搾取、抑圧されていない個として自由な女性や女性達を描くこともまた同じくらい必要な事ではないのか。それらを並行して描くことは可能なはずなので、どんどん、『ブラッシュアップライフ』のフォーマットはパクられてほしい。ゴミのポイ捨てがひどい公園が二つあって、ゴミ箱を設置した方は余計にゴミが増えたけれど、花をたくさん植えた公園ではポイ捨てが減ったみたいな話だ。この例えは、間違ってないと思うので採用。

 次に『ブラッシュアップライフ』は、人生で大事なものがなんなのかという事を四つも描いてしまっちゃっているということについてだ。

 一つ目の人生の真理は、体育会系の暴力性と文化系のねちっこさを兼ね備えている社会科の教師のミタコングの痴漢冤罪イベントで描かれた「嫌いな人間が対象であっても、正しくないことに対しては、見つけてしまった以上は、見逃さずに尽力して取り組むことこそが、誠実さである」だ。

 二周目の人生で、電車通勤になったことでミタコングと同じ電車に乗り、偶然にもミタコングを助けたあーちんだったが、三周目で問題が生じる。三周目のあーちんは、東京に住んでいる不規則な勤務時間のテレビ局のプロデューサー。そして、ミタコングに痴漢の疑惑が起きる日は、夜中まで撮影があることがほぼ確定している。流石に物理的に無理だろう、そもそも嫌いだし、とあーちんは、一度は諦めかけるが、ミタコングの妻が現在、妊娠中であることを思い出し、撮影を巻いて、助けに行くことを決意する。少し横道に逸れるが、このドラマは、ふくちゃんをミュージシャンにさせないというミッションを達成しなかった理由が、今後の人生でふくちゃんに子が生まれることを知っているからだったように、『ブラッシュアップライフ』はアンチ反出生主義ともいえる眼差しに満ちている。コンビを解散するにあたって、元の相方から、マネージャーとして付き合っていこうと持ちかけられたものの、そっちで張り切っている姿に引いて断ったというあの日のタスマニアンデビルの目つきをしたバカリズムはもういない。

 これまでと同様に、他では描かれなった「撮影を巻く」という行為を縦軸とした四話は、ドランクドラゴン塚地武雅の登場で視聴者にカタルシスを与え、無事、定期ミッションもクリアする。この「徳を積む」というドラマ特有の、設定が縛りとなって、あーちんの行動に説得力とリアリティを付与させる。つくづく、この「徳を積む」という設定はとても便利だ。幼少期を日本で過ごしている者なら、ニュアンスを含めて、スッと入ってくるこのワード。

 中学一年の最初の数学の試験にて、最後の問題に「同じ数字を繰り返す掛け算のことは何というか」という設問を配置し、その答えを漢字で書かなかったことで誤答として98点となった上に、初代のデジタルモンスターを没収したまま返却しなかった上門という教員を助けることが自分には出来るだろうかと考えてしまった。もし二周目でこのイベントに出会うなら、問題に「漢字で書きなさい」と書いているか確認し、もし書いていないのであれば、あえて「るいじょう」と書き、98点になったうえで、そこを突いて、100点にさせるかもしれない。

 そして、あーちんのテレビプロューサーとしての職業の描き方は、打ち合わせと、視聴者にとっては全くもって無意味な作業に見えるエンドロールの出演者の順番を決めることだが、ここには「どんだけ華やかに見える世界も事務作業で成り立っている」という労働の真理もある。これが二つ目だ。

 三つ目の「結局、価値があるのは友達やパートナー、配偶者、子といった気の置けない関係性にある他者とのダラダラした時間」に関しては説明するまでもないので割愛する。誠実に、自らに課せられた業務をこなす合間に、このダラダラした時間があるからこそ、我々は生きていけるということについては、このドラマのファンに向けては言うまでもないので、割愛させてもらう。

 さてさて、最後の四つ目の前に、いったん、ドラマの本筋に戻る。

 プロデューサーデビュー作の初回放送の日に死んでしまったあーちんは、4周目の人生を始めるが、そこでの中学時代に、優等生のまりりんこと宇野真里と仲良くなるというラインが出来る。それから5年後、成人式で二人は再開、その後またしばらくして、地元に帰ったあーちんは、まりりんといつものお店でお茶をする。そこで、あーちんはまりりんにこう問われる。

「そういえばさぁ、前から聞きたかったんだけど、あーちん何周目?」

「何周目?人生」

 ここで七話が終わるところはたまらなかった。そして八話で、まりりんも、あーちんと同様に、人生をブラッシュアップしていたこと、人に生まれ変わるために徳を積み直す以外の目的があり、実はそれが、飛行機事故で亡くなったなっちとみーぽんを救うことだということが明かされる。

 あーちんがまりりんから聞かされたのは、「なっちとみーぽんが海外旅行に出かけた時に搭乗した飛行機にスペースデブリがぶつかり、飛行機は墜落し、二人は亡くなってしまう」という、重い話になるという前フリがあってもなお、ずんと落ちる、存在した1周目の未来であった。死ぬことが半ば天丼のボケ化して緊張感が無くなっていたところに、視聴者は、そもそも死ぬということはそういうことであるという身も蓋もない事実を思い出す。

 それから数十年後、まりりんも亡くなるが、まりりんは今世をやり直すことを決め、まりりんの二周目がスタートする。その中で、まりりんは、自らがパイロットになって、墜落することになっている飛行機に搭乗することを目指すが、4週目のあーちんと同様に、親友三人と仲良くなりそびれてしまう。あーちんはここで初めて、自らが、一人の親友を失っていた、欠落した存在であったことを知る。まりりんは、まりりんで、自らに出来うる最大の方法を持って、親友を、その他の命を救おうとしてきたが、その結果の一つとして、あーちんが死んでしまう。

 まりりんが選んだ行路の困難さと、道中の孤独は計り知れないが、ここでようやく、まりりんはあーちんとの関係性を取り戻す。あーちんはあーちんで、失っていたことすら認識していなかった失っていたものを取り戻し、また別のものを失うことを阻止することを決意する。こうして、『ブラッシュアップライフ』は、徳を積んで人間に生まれ変わるために自分の人生を磨く物語から、本来自らの手中にあった親友たちと過ごす人生を取り戻す物語へと変質する。この重要なシーンが、これまでに散々、加藤が「粉雪」を歌い上げるような喧騒の場の象徴であったラウンドワンのカラオケルームというのも、対比の効果が作用し、場の緊張感を増幅させていた。

 そして、最終話の10話で、無事、悲願を成就させる。流れ星のように、空を滑り落ちていくスペースデブリを見守る二人のシーンは、カタルシスという言葉では言い表せない感動があった。そして、散々フッてきた、あーちんとまりりんが、なっちとみーぽんが、熊谷ビューティー学園のポーズをしているそれぞれが持っていた2枚のプリクラをつなげ、本来の、四人で撮ったプリクラが意図せず再現される。欠落したピースを取り戻した物語のまとめとして、あまりに美しすぎるって。

 最後の真理はこれだ。

「人生の目的というものは本来無く、強いていえば、極力、利己的に振る舞わないように留意する中で、余力があれば他人にとっても良い行いを重ねていくということくらいではあるけれど、道中、すべきことはどうしたって出てくるので、その時は、そのすべきことを成しうるために、相応の準備と覚悟を持って対処することが必要であるが、それが終わればまた日常が始まる。」

 人生の真理にしては長いしまどろっこしいな、と思ったあなた、まとめサイトに毒されています。そもそも、真理とは、長いしまどろっこしいし、曖昧さや矛盾を孕んだものなのであり、だからこそ、哲学は歴史と冗長で装飾語に塗れた言葉が連ねられてきたのだ。

 フォーマットのブラッシュアップ、フリオチ主義、円環構造の美しさ、そもそもの大枠のストーリー、人生の肯定と、アンチ反出生主義、バカリズムの最高傑作とどこをとっても素晴らしいドラマだった。何より、このドラマが好きな人は、心のどこかで「徳を積むか」と、ゴミを拾ったり、気が乗らないけれども誰かがしなければならないことを引き受けたりして、世界が少し良くなっていくことに繋がりそうなところも良い。

 お見事でした!

 

 

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