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『THESECOND2023』感想「来るべき漫才100年時代に向けて」

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 『THE SECOND2023』の当日は、空気階段の単独公演「無修正」と、ダウ90000の第5回演劇公演「また点滅に戻るだけ」を観るために在京していて、番組の放送時間と、帰りのフライトの時間がどんかぶりだった以外は、とてつもなく良い大会でした。

 何より、大会として、『M-1グランプリ』との差別化が出来ていたという事が、第一回から出来ていたということが、とてつもなく大きな意味を持つ。『M-1グランプリ』が、コンビとして15年以上の活動歴を持つことで出場資格を失うのであれば、『THE SECOND』は、それとは異なる基準で、評価されなければならない。例えば、『M-1グランプリ』がその歴史の中で、漫才の競技化を推し進めたという批判を受けるのであれば、競技化していない漫才が、目立たなければならない。その観点から言えば、今大会において導入された観客を審査員とするという制度は、上手く機能していた。そして、その結果、漫才という演芸が持つ自由さが存分に発揮されていたように思える。

 舞台に複数人で立って、中央に38マイクを置く。あとは与えられた時間をどうにかする。それをクリアしただけの闊達な漫才が観られた。それだけで、大会として、大成功だと言っていい。『M-1グランプリ』が抑圧として存在するのであれば、『THE SECOND』は、そこからの解放であり、もはや一つの「自由論」だろう。

 トーナメント制度の導入からも、思わぬ果実も収穫できた。それは、その日、一番つまらなかった人が存在しないということである。『M-1グランプリ』だと、どうしても、その日、その大会での最下位が生じてしまう。決勝の舞台にに立っているだけで、何千というエントリーの中でのトップ中のトップにも関わらず、つまらない漫才師という印象を一部の視聴者に与えてしまう。その数は多くはないが、大抵そういうすり替えをしてしまう人は、大きな声でワケ知り顔でほざき散らすので、害が生じる。トーナメント制度であれば、優勝者以外のファイナリストは、ひと組にしか負けていない。これはとてつもなく大きい。特に、今後も漫才を続ける人たちのとっては、ほぼ、無傷で終わっていた。とにかく最下位がいない大会だったということの美しさに気づいた時、いたく感動してしまった。ただ、流れ星改め流れ星☆の瀧上伸一郎改めTAKIUE改めたきうえが最下位なんじゃないかについては議論の余地がある。

 また、本大会の良かったところの一つに、戦いと戦いの間に、時間的な余裕があったということも挙げたい。審査してからの結果発表までの時間が長く、このことで、審査員は次の戦いをフラットに見ることが出来たのはないだろうか。

 テンポよく戦いが続いた場合、前の試合の漫才が頭に残ってしまい、絶対評価が揺らいでしまう可能性がある。例えば、本来だったら、二組とも3点を付けていた人が、前の戦いの漫才と比べて先攻に2点、後攻に3点を入れるということが、自分の経験から言って考えられる。また、『M-1グランプリ』でいうと、後半に行けば行くほど、観客も審査員も流石に疲れてくるので、理屈っぽい漫才がウケにくいということがあった。理屈っぽいおれでなきゃ見逃しちゃう案件だが、後半に理屈っぽい漫才が出てきたのだが、きちんとウケていたので、もしかしたら、これもリセットの効果なのかもしれない。

 一部は孫引きになってしまうが、『批評理論を学ぶ人のために』という本によると、レヴィ=ストロースは『構造主義再考』において、「「構造」とは、要素と要素間の関係からなる全体であって、この関係は一連の変形過程をつうじて、普遍の特性を保持する」という定義を提示し、それを証明するために、ドイツの画家のアルブレヒト・デューラーの、方眼紙に描かれた人の顔の素描を用いたという。

 デューラーのそれらの素描は、「方眼紙に描かれた人の顔は、目や鼻や耳や口といった「要素」の集合とそれらの相互的な位置の「関係」から、一人ずつ顔としての「全体」を構成」し、それらの「配置を「変形」」することによって、多様な風貌を産み出すものとなっている。

 それでもなお、「解剖学的な「構造」は一貫して保たれている」ことになる。だから、「「構造」は単独の「顔」の内部に見出されるのではなく、多数の「顔」と「顔」の「間に」こそあるのだ」と述べる。

 この文章は、漫才のことを言っているように読むのは、おかしいだろうか。

 誤読、拡大解釈を続けると、言うなれば、『M-1グランプリ』は、既存のカッコいい顔、可愛い顔を革新及び攪拌する大会になっており、対する『THE SECOND』は、老け顔のにらめっことでも言おうか。皮膚のたるみや太々しさ、狡さ、だらしなさといった、人生が滲み出ている顔だらけだった。それも、一人のおじさんとして、年齢を重ねることへの肯定をもらった気がした。 

 構造といえば、ダウ90000の『また点滅に戻るだけ』がとてつもなかった。これまでの公演は、もちろん普通に楽しんでいたが、個人的に、批評の言葉が見つからなかった。それ自体は、全くもって悪いことでもないし、蓮見翔は、まだまだ若く、おじさんとしての圧を消すためにしのごの言わずに、批評性を持った作品がドロップされるのをひっそりと待っていようと思っていた。しかし、今回の公演は、明らかに構造があり、そのことで、笑いとは別の強度も獲得していた。むしろ、もうちょっと待てたよ全然という気持ちになったし、観劇直後の友達から「蓮見、こっわ…」とだけLINEが来たし、誰かと話したくてしたDMを誤爆してしまったりした。それだけでなく、固有名詞の使い方が抜群で、そこから産まれる笑いの精度も上がっているし、メタファーも駆使しているし、メンバーの活用の仕方も絶妙に変えてきて、それが、どういうことかというと、あ、すいません、興奮してきて、感想を書き切るところでした。そっちは、また追って。ハスミン、待っててねー。

 フライトまでの待ち時間、羽田空港Wi-Fiを使って、大江健三郎の『万延元年のフットボール』を読むときの顔で観ていたのは令和ロマンがアップした『世界一「THE SECOND」を愛する”セカおじ”くるまが徹底考察!』という動画だった。この動画は、後ろにうっすらと流れている木漏れ日みたいなBGMとは裏腹に、高比良くるまが早口で捲し立てた解説は、大会に向けた最高の視点の提示になっていた。

 「M-1は4分ですよね。どう違うかと言いますと、M-1の4分というのはぁ、丸々4分のネタが与えられている意味での4分なんですよ。ただこの6という数字。これがねぇ、使い方が色々あるのよねぇ!基本、これよしもとの原則で言いますと、ネタ出番というものがありまして。5分出番と、10分出番というのがあるんですよね。となると、みんな持ってるのは5分のネタか10分のネタなワケですよね。6分というのはプラス1分のいわゆるツカミみたいな時間を入れて良いですよという意図なんですよこれは。それによって、要はただのガチガチの賞レースじゃないですよ。ネタのフォーマットの鎬の削りあいじゃなくって、明るく楽しい寄席みたいな、割とふんわりした出来るような1分間を設けてくれる」

 この、くるまの言葉を踏まえた上で、この大会を観ていて気付いたことは、自分がいかに4分程度のネタ尺に慣れきっていたのか、ということだった。ネタ中、まだ終わらないのか、と不意に思ってしまう瞬間がいくつもあったからであるが、だからこそ、6分というのが搦め手のように油断出来ない設定だということが実感できた。きちんと組み立てないと逃げきれない時間であり、観客が慣れていない時間でもある。

 アンバサダーを務めたダウンタウン松本人志は、番組の冒頭でこの6分という設定についてこう述べていた。

 「M-1でいうとね、まぁまぁ4分ですよ。で、それより2分多い。単純にプラス2って考える人もいると思いますけど、僕、どっちかというと、この4分の中に2分間で、どう遊びを入れていくかっていう6分になってくると思うんです。で要するに、間とかテンポとか、緩急をつけることができるから、2分以上の、なんかこう、素晴らしいものが産まれるんじゃないかなと」

 さて、今回は、このことを踏まえつつ、『M-1グランプリ』への視点からちょっとずらして、その6分をどう使ったかというその構成を中心に考えていきたいと思います。

 

・Aブロック 一回戦 一試合目 金属バット(結成16年)vsマシンガンズ(結成25年)

 

 大会の初戦を彩ったのは、タバコやコンビニで買ったチキンの骨などをノールックでポイ捨てしそうな方と大阪の山奥に冷蔵庫などの白モノ家電を積んではボロボロの軽トラックを走らせて不法投棄していそうな方のコンビと、ゴミ収集車で働いている方と気のいいリサイクルショップの店長みたいな方のコンビ対決。

 「諺を知らん」という小林に、「ようけ意味知ってる」友保が、諺の意味を教えていくネタ。諺の意味を、現代的、金属バットの半径5メートル以内で説明していく。キャラが浸透しているからか、価値あるものでも価値が分からない者に渡しても意味がないという意味の「豚に真珠」「猫に小判」について、「デブやのにニューバランス」「偏見やわそれは。かまへんねんあれは。豚履いてもかまへんねんから」、「グリーン車乗ってるガキ」「口悪いなお前。ガキ見てんねんからやめろや」と、悪いボケと、ツッコミのあとで悪さが漏れてしまうくだりが、きちんとウケる。

 どんな人でもきちんとした格好にしたらそれなりに見えるという意味の「馬子にも衣装」について、小林は「うまくもないくせにさぁ、レアチャーシューとか乗っけてさあ、で、見た目気にしてさ、合うんやったらいいよ。合いもせんのにさぁ、なーんか紫玉ねぎとか乗っけてさぁ。普通に、Tシャツ着たらいいのにさ、コック服着てシェフ帽かぶってる大阪のお前んちの近くのラーメン屋か。」というボケは、「しゃらくさいラーメン屋あるある」と見せかけてからの最後に急カーブで友保の生活圏域の中に入り込む。このことで、テクニカルなボケが、リアリティのあるボケと変質する。さらに、友保の返しでの「あっこようチャリ停めんねん」について、友保は常連客とかではないという可能性が残るという、徹底して友保の悪さも残しているのは上手い。

 この漫才自体は、珍しくはないフォーマットであり、このネタで6分作るのは難しくないと思割れる。同じお題で解き続けて、ウケたところを残していけば良いし、順番をそれなりに変えても融通が効く。ビュッフェと言っても良いだろう。この漫才の弱点は、全体を通して、リズムが平坦な印象に終始してしまう。金属バットみたいなオフビートな漫才だと、よりそう見えてしまう中で、仏シリーズとして布石を置いたり、言い間違いがネタふりになっていたりするなど構成はきちんと練られていたと思うが、ずっとドタドタしているマシンガンズに、音として飲まれてしまった感は否めなかった。ところで、ビュフェといえば、ビュッフェで、お腹に溜まるカレーを食べるのは悪手という風潮がありますけど、一周回って、ホテルのカレーは美味しいに決まっているから、ミニカレーを作って食べるようにしています。

 これまでの金属バットの漫才においての「思想つよっ」は、ものすごくワードとして不適格だった。例えば、共産主義のことをアカということに対して、そう返しているのを見たことあるけれど、その呼称は一般常識の範囲であって、思想の強さは関係ない。金属バットのニンに合っているといえばそれまでなのだけれども、いや、だからこそ、その前の言葉は重視して、本当に思想を強くしなければならない。例えば、同性婚に賛成というフリに対して、思想つよっという返しが、もはや成立しないと言ったら、伝わるだろうか。金属バットが使っているからとかではなく、この言葉がお笑いとして斬新なワードだったのは、もう10年以上前の話で、このワードそのものが、他者の大事にしている部分を自らの暴力性に無自覚な人間が、嘲笑いながら踏み躙るものになっているというニュアンスが付与されてしまっている。

 この問題については、ヒラギノ游ゴさんの『自分のスタンスが定められるほど世の中のことを調べも考えもしてない人の言う「思想強い」、白状でしかない』というツイートが、的確だろう。ヒラギノさんといえば、「自撮りおじさん」の発生と、有害な男らしさと訳されたトキシックマスキュリニティ(Toxic Masculinity)について語ってほしいです。

 そういう意味で、軽々しいノリで使うには、別の文脈からの意味が大きくなりすぎているが、今回はというと、「飛んで火にいる夏の虫」の説明を受けた小林が「ワクチンね」と返したところで、出た。ワクチン接種を拒否するというデリケートな話題からマイクロチップを使って、ICOCAを入れた方がいい、一万円入れたら重くなったなど、小学生的なノリが展開されることで、その危うさを絶妙に回避し、きちんと自分達の漫才らしさを損なわずに笑いにしていた

のは、ものすごく良かった。

 ここ最近の金属バットは、自分達のやりたいことを残しつつ、大衆とのバランスがうまく取れ始めているようで、とても良いですね。

 好きなくだりは、「馬子にも衣装」とその中での「紫玉ねぎあたりから友保が自分の家の近くのラーメン屋のことかと考え始めて、虚空を見る小芝居」と、「飛んで火にいる夏の虫」からの「嘘も方便」、ラストの、カウントダウンしてからの撤退。

 対するはマシンガンズ

 結論から言うと、ファイナリストの中で、一番、寄席の風が吹いている漫才だった。寄席と言っても、吉本の芸人が最近言い出した感がある、吉本興業の常設の劇場でやっているものではなく、落語家がメインの末廣亭などの狭義の寄席。マシンガンズの漫才は、イロモノとしてのそれだった。

 往年のフォーマットはそのままで、脳みそをひっくり返すようなボケもない、初動からドタドタとしたリズムで右上がりに上げていくとかそういうことを全く考えていないような、既知のマシンガンズなんだけれど、ただただ二人で掛け合っている合間合間に、ふっと、昭和のいるこいるのような間での相槌を打って話の流れを進めたり、古今亭志ん生志ん朝立川志の輔の「落語 DEデート」で放送される何十年も前の落語家が言いそうなことを、特に西堀が言っていて、びっくりした。マシンガンズだけ、靴を脱いで漫才していた気がしてきた。

 例えば、開口一番、西堀がテレビに出れて嬉しいと叫んだ後に、「テレビ出たくてやってんだからさあ」や、滝沢の「ひどい仕事みたいのいっぱいやってきたなあ、なんか」に対して、西堀が「まあ、あんま言えないけど地獄みたいな仕事が多いね。」が返してから、追加で言った西堀の「皆さんは良いね、地獄じゃなくてね、うんうん、大変だよねぇ、うん」、滝沢のゴミ清掃員をやっているという自己紹介に対しての西堀の「ね、やってんだよ。拾ってんだよ」。

 全部、言わないでいいというか、全く無の言葉で、おそらく間を埋めるためだけに脳直で発せられている言葉なんですけど、だから良い。この枯れ木の山の賑わいのような言葉が、寄席演芸の肝だと思っているので、良いね良いねとなり姿勢を正した。

 ツカミをたっぷりした後、「ひどい営業」「居酒屋でのバイト」と、自分達がムカついたことをただただ喋っていく漫才。実体験ということなので、ベタに寄ってもゲラゲラ笑って、確かに、マシンガンズの円熟を感じました。

 好きなくだりは、しれっと差し込むToshlのアゴいじり、小声の「ね、やってんだよ。拾ってんだよ」、伸び伸びやる滝沢をたしなめる西堀。

 審査の結果、金属バット269点、マシンガンズは271点と、マシンガンズが金属バットを燃えないゴミに分別し、勝利。金属バットは、1点が2人、マシンガンズは1点が1人という差が勝敗を分けた。

 今後も続くであろう大会の初戦として、新しさや若さ、勢いだけでは勝てない、漫才師として能力が球体に近い方が勝つ可能性が高いという、一個の方向性を示した良い試合だったと思います。

 

・Aブロック一回戦 二試合目 スピードワゴン(結成24年)vs三四郎(結成18年)

 

 スピードワゴンは、「春には春の、夏には夏の恋、季節に合った恋愛をしてこそ一人前の男」ということに気がついた小沢が、バーで出会った女性との一年の恋を描いた「四季折々の恋」。

 小沢がボケを繰り出してどんどん世界観を構築する中で、それに負けじと我を出して悪目立ちしようと、まともなツッコミをあんまりしてない、これぞスピードワゴンの漫才という感じだった。6分を、ワンシチュエーションコメディの舞台として使い切る。漫才と違ってコントは冒頭で外すと取り戻せないとよく言われるが、このネタを賞レースでかけるということは、相当、このネタへの自信と、きちんと舞台に立ってきたという自負がないと、このネタをかけるのは無理だ。

 構成も見事で、恋愛ドラマとしての盛り上がりと、漫才としての一個の理想の形である後半に向かって右肩上がりで盛り上がっていく形が、うまくシンクロしていく。冒頭で、もう少しハメられていたら、更なる相乗効果が生じていたとんだろうなと思うと少し残念ではある。

 好きなくだりは、「女優だから好きになったわけじゃねぇだろ、好きになった女がたまたま女優だった」。

 マシンガンズ浅草東洋館の風をまとっていたなら、三四郎は、まごうことなく、新宿バティオスの風を吹かせていた。賞レースという舞台に寄せていることなく、一回戦の漫才の中で、一番笑いました。

 「二人とも片親です」という哀しきツカミ、10年以上前からツイッターで文字だけ見ていて無茶苦茶やなと笑っていたが、お茶の間に届けられるまでにこんなに時間がかかったのは、ネタ番組製作スタッフの怠慢だろう。

 ネタは「占い」。あって無いようなものの本筋の中で、「新宿カーボーイ」「HEY!たくちゃんの牛すじ煮込み騒動」「三四郎は歯が欠けて売れた」「ダウ90000」「佐久間宣行」など、お笑いにまつわる、固有名詞をガンガン出してくる漫才だけれども、その素材に頼らず、きちんと使い方を捻っているので、必ずしもお笑いファンだけに向けた漫才とはいえない。梅水晶というワードは、東京の安い居酒屋ユーザーにだけ向けられている気がしたが。

 マキタスポーツいうところの、ツッコミ高ボケ低の漫才で、相田が放つボケ自体は全体的にくだらないけれども、小宮の独特なツッコミで大きく笑いを産み出す。最初からそれが上手くハマって、後半のグルーヴがきちんと産まれて、とても気持ちよくゲラゲラ笑いました。

 好きなくだりは、未来の大会『THE THIRD』のゾーンに入ってからの、「出川さんが社長になってた。不安すぎるよ、出川さんが社長。やばいよやばいよ。リアルガチで。ほわーい」からの、「審査員の皆さんにハマったんですね、ダウ90000の皆さんにハマったんですね」からの「せめて蓮見だけだろ」からの、佐久間宣行が3位になって「しゃしゃり出てくんなぁ」からの、キングオブコメディの「『警察に捕まり終えている』の!?」までの後半の畳み掛け。

 審査の結果、スピードワゴン257点、三四郎は278点で、勝者は三四郎

 

・Bブロック 一回戦 一試合目 ギャロップ(結成19年)vsテンダラー(結成28年目)

 

 関西対決が、一回戦で行われるという、こちらもトーナメント制ならではのドラマ。先攻はギャロップで、ネタは、林にそろそろカツラをかぶったらどうかと勧める毛利と、今さらかぶりたくない林との攻防戦。

 初見時は、導入部分の、毛利が林にカツラをかぶせるという理由を、「そろそろ、いけると踏んでんねや」で処理していて、少し無理があり、あんまり入ってこなかった。ここは、「みんなハゲすぎちゃう?」があんまりウケなくなってきたから髪生やしてほしいとか、なんでも良いから、この最初の理屈の筋が通して、毛利の動機づけをきちんとして欲しかった。二回目見るときに、一旦そこを気にせずに観たら、あまりに巧みな漫才だった。オチも見事。

 元々、カツラをかぶる必要がない林が、カツラを「毛量の違うカツラを何個か作って、良いタイミングでかぶっていく」という毛利からの提案を聞いていく。カツラを三つ作ることから始まって、三つは少ないから、100個、100個を年3回、年6回とシミュレーションを重ねていく。その中で二人の会話の論点が、「カツラの数を決める」、「カツラの管理」、「カツラであることがバレるリスク」、「どうやって生やしたのと聞かれた時どうするか」

とどんどん展開していく。脳内に投影される場所も葬式や、研究所など、パンパンパンパンと変わり、飽きさせない。

 『M-1グランプリ』出場時には、立川志らくにハゲかたが面白くない、松本人志にはハゲてないと言われた林だったが、そのハゲかたで笑いをバンバン取ってて、胸が熱くありました。どこで熱くなってんだって話ですけど。

 好きなくだりは「死んだときどうする。志なかば。ほんまに志半ばやわ」からの棺桶にみっちり詰められたナンバー1から100までのカツラ、毛利の「ほならカツラかぶんなや」と言ってからの林の「お、おう」というオチ。 

 テンダラーのネタは、ざっくり分けると「スカウト」「野球」「ビールかけ」「酔っぱらいの介抱」「駅伝」。

 自分が審査員だった場合、良くも悪くも、これに3点を入れるのは自分なら躊躇ったろうなと思った。おそらく、劇場で絶対ウケるくだりを6分間繋いでいる、ある意味で、この大会でかけるネタの組み立てかたとして、一番ズルいじゃないですか。まずやろうと思わない。でもその理由は、ずっちーなもあるけれども、絶対に受ける別々の漫才のくだりを六つも集められないからの方が大きい。続けているだけの漫才師にはこれは無理でしょう。そして、テンダラーが決勝まで勝ち残り、この作りのネタを3本するという戦略だったと仮定した場合、単純計算で、絶対に受けるくだりがある漫才が18本あるということになる。そういう意味では、とてつもなくコスパが悪いとも言える。

 吐瀉物、排泄物などをネタにしても引かれなかったり、今もうビールかけやってないだろみたいなツッコミを指摘させないほどの間の詰めかたなのだけれど、きちんと聞き取れるという技術面でのカバーのおかげで、ギッチギチ感がない。

 浜本の「漫才やってる自負は、二人ともあるんで」という発言は伊達じゃないし、闘ってきた相手が口を揃えて「強い」というのは、そりゃそうだろう。一番相手にしたくないし、そう思っていたのは、当のギャロップではないだろうか。そう考えると、ギャロップは初戦でテンダラーを制したからこそ、弾みをつけたとも考えられなくない。

 好きなくだりは、戦術。

 審査の結果、ギャロップは277点、テンダラーは272点で、ギャロップの勝利。

 ダイジェスト漫才を通り越して、走馬灯漫才になっていたテンダラーの、伸縮自在の漫才の唯一の弱点といえば、ストーリー性が希薄になってしまうということで、ウェルメイドな展開を持った漫才と比べると、笑い以外の満足度で後塵を拝してしまう。強いて言うなれば、ここが分かれ目になった気がします。

 

・一回戦 二試合目 超新塾(結成21年目)vs囲碁将棋(結成19年目)

 

 一回戦最後は、松本人志言うところの「他流試合」。この言葉を聞いた「ラップスタァ誕生」を応募動画から観るという、序二段から大相撲見てる奴みたいな妻が「スタイルウォーズね」と言ってきましたが、HIPHOPカルチャーが好きではないので、はい、とだけ答えました。

 先攻の超新塾は「飲み会の盛り上げ」と「映画の予告」と、3分ネタを2本。さすがに21年も複数人での漫才をやっているので、五人である意味がない漫才なんてしない。かつ、6分間、ずーっと楽しい漫才。

 イーグル溝上の笑ってしまうツッコミ、『爆笑オンエアバトル』の頃からとても好きでした。

 好きなくだりは、超新塾のネタが、サンキュー安富が嘆いてから入るということをすっかり忘れていた自分、アイクぬわらの「アメリカ人のタクシーの呼び方」、映画のタイトルを言われたアイクぬわらサンキュー安富が睨み合うところ。

 後攻の囲碁将棋のネタは「モノマネ」。

 二人ともモノマネに挑戦したことがなく、もしかしたら、やってみたら上手いかもしれないので、そしたら勿体無いので、試しにやってみたいと言い出し、文田がこれから披露しようとするモノマネのお題は「街で買い物する様子が、とても毎日がスペシャルとは思えない竹内まりや」で、根建が「ちょっと生意気だわ」と止める。

 そこから、ちょっと生意気なモノマネのタイトルを、文田がどんどん出していくが、そこに根建も対抗し、二人でかぶせていく。

 モノマネを題材としたネタなんだけれどもモノマネをしないという、押井守ゴジラ映画を撮るならどう撮りますかと質問されて、ゴジラ出さなくてもいいですよねと答えたエピソードや『ゴドーを待ちながら』を彷彿とさせる、ありそうでなかった漫才。始まりから、こう展開していくのかと、すごくワクワクした。これは好みなのだけれど、もうどうせなら、モノマネしない方向で突っ切ってほしかったので、個人的には、ラスト1分あたりから、失速したように感じられてしまったのが、勝ったから言える本音のところ。

 こちらもある種のビュッフェ漫才。Wボケの笑い飯が、互いに競い合うように別々のベクトルのボケを重ねていくのに比べると、囲碁将棋が仲良すぎてゲラゲラ笑いながらネタ作りをしているせいか、傾向が似た回答になっているのはご愛嬌。そんな大喜利の答えで殴り合う中でも、根建の方がツッコミであり続けて、きちんとツッコミが機能して強い笑いどころを産み出しているのが漫才を観ているなとなって、気持ちいい。

 根建の目がずっとバキバキだったこの漫才は、何より一番、大喜利が強かった漫才だろう。「うるさいお題のモノマネは?」という大喜利があって、それに対してめちゃくちゃ面白い大喜利の答えを出し、なおかつ、きちんと漫才というフォーマットに落とし込んでいる。近年は、大喜利そのものがフィーチャーされて久しいのだけれど、個人的には、大喜利そのものは空手の型化して欲しくないというか、あくまで野球でいう素振りであってほしいというのがある。羅列して漫才にするのではなく、きちんと構成を考えて配置し、矛盾や破綻のないストーリーを紡ぎ出してほしい。大喜利漫才をするなら、ここを目指してほしい。

 好きなくだりは、漫才前のモーフィングで時間が経過してもほぼ変わらなかった根建、ギニューゆずるからの「何もプラン決まってねえのかよ。掲げるだけ掲げて、中身決まってないって、選挙公約かてめえ」からの「そんなスカスカじゃねえよ」、「一人ワハハ本舗」からの「努力の割に報われねえよ」という何となく分かる感じ。

 審査の結果、超新塾は255点、囲碁将棋は276点で、囲碁将棋の勝利。

 とてつもなく、良い勝負だったんじゃないでしょうか。大会の報せを聞いた瞬間から、囲碁将棋の大会だろうという空気はあって、あらゆる意味で、機運が高まっていた点は否めないけれども、そこに奇面組の没キャラみたいなイロモノの中でも1番のイロモノの、超新塾が絡みついていく戦いをしたことは、ちょっと胸が熱くならざるを得ない。 

 『ONE PIECE』の「頂上決戦編」で、ルフィたちのことを苦しめた、これどうするんだよってなったマゼランのドクドクの実の能力に対して、対して強くないMr.3ことギャルディーノのドルドルの実の能力が、一矢を報いることに役立った時のような興奮。漫才の相性っていうのはわからねェものです。

 最後に、超新塾が、人文字で「正」の字を作り、「囲碁将棋のやってきたことは正しい。」にはシンプルに震えました。これまでの道のりを含めて、超新塾のやったことは美しいですね。まあ、一人なんで複雑骨折か、脇腹を突き破って左右3本ずつの腕が出てこない限り、「美」は出来ないんですけど。

 

・準決勝第一試合 マシンガンズvs三四郎

 

 マシンガンズは、飛び出してきて、松本に金属バットに間違えられたこと、三四郎と闘いたくないこと、待っている間エゴサーチをしていたことなど即時性のあるやりとりを、たっぷり2分弱繰り広げる。こうなると「エスパーかよ」「かぶせで滑んなよ」まで楽しい。

 本ネタは「文化祭の営業の愚痴」「Yahoo!知恵袋」と、明らかに10年以上前からあるものだと思われるが、あまり気にならない。

 好きなくだりは、「かぶせですべるなよ」までの2分。

 好きな西堀から吹いた寄席の風は、「ひどい仕事の話を聞いてほしいねえ」と言った後の「こんだけ人いるしねぇ」、「イルカのDVD」、「みんなだったら死んでるぜ」、「どんな嫌いでも死ぬこたないんだよ」。

 三四郎は「弟子入り志願」。

 「小宮、くら寿司の醤油差し、金輪際ぺろぺろしないでよ」と相田がボケ、小宮が「言うとしたらお前だろ」と、真空ジェシカの「言うとしたら僕~」のサンプリングに、「松っちゃんも怒ってるよ、あれ。くら寿司だから」と別の角度から付け足す、見事なツカミ。

 一本目より、さらに、小宮のツッコミが冴え渡る漫才だった。持ってくるネタは、お笑いファンでないと分からないところが多くもなっていたけれども、きちんとウケていて、マシンガンズの「ゴミと発明」までは許容範囲だと言うことが分かる。

 「たわけが」「丹田から何言ってんだよ」「与太並べてんじゃねえよ」「奇天烈ばっかじゃねえかよ」と、やっぱりワードセンスというか、漫才どころか地上会話でも使わないんだけど、意味としては理解しているというギリギリのラインのものを持ってくる才能、改めて大好き。

 「THE SECOND」について、「審査員は一般のお客さん」「ネタ尺6分」「放送尺4時間」と、大会そのものをいじるくだりがエアポケットになってしまった問題について、このメタはダメなんだと笑ってしまったんだけど、もしかして、観客が完全に「THESECOND」の大会側の意向を組んで、その存在意義を理解していることで、従来の賞レースとの違いを芸人サイドだけがいじっていい齟齬だと思っているからだとしたら、とんでもない皮肉な結果である。

 好きなくだりは、「こちとら芸人だよ馬鹿野郎」への「こちとら一般人だよアホンダラ」、「こうもとー、タトゥー入ってても大好きだよーじゃないんだよ」。

 結果は、マシンガンズ284点、三四郎256点と、マシンガンズ、売れっ子への大金星。

 つい最近、タイタンライブに出ていた三四郎の漫才でめちゃくちゃ笑ってからというもの、優勝候補の囲碁将棋の漫才を掻き乱して捲るなら、三四郎しかないと思っていただけに、この結果は悔しくはあるものの、めちゃくちゃ格好良かったですね。三四郎の、どがちゃかな漫才の見方が、日本列島に響き渡ったのではないでしょうか。

 これでネタ番組の出演が増えないの、本当に怠慢ですよ。

 

・準決勝第二試合 囲碁将棋VSギャロップ

 

 根建がややリラックスしているように見えた囲碁将棋の2本目は、「副業」。テイストもきちんと1本目と変えてきている。今大会で、一番か二番かってくらい好きなネタで、何度見ても笑える強度がある。

 文田が「副業をやりたい」と言い出し、根建が「はっきり言って、お前に副業なんて10年早いわ」と突っかかると、文田が「『はっきり言って、お前に副業なんて10年早いわ』って言われると思ってぇ、僕あの10年前からあっためてるんすよ」と返す。単なる、やりたいことがあるのでやってみる系の漫才の導入として、新しいことに加えて、この「10年早えって」が、漫才が進むにつれ、20年、100年と増えていくのが、舐めている度になっているので、「その日の温度や湿度によって若干スープの味を変えるラーメン屋」、「一種類のフランスパンしか作ってないけど行列ができるパン屋」などの大喜利の回答を数値化しているという良い効果を生み出している。そして、根建も「ライス無料駐車場激広ラーメン屋やれ」、「惣菜パン屋さんやれ、強豪校の隣で」と応酬し、そこで笑いを掻っ攫うのも良い。

 文田の「舐めている」パートから、根建の「努力がいらない」パートへの転調もシームレス。「大学病院の売店」、「学校指定の制服屋」と、何も知らない他人から見たら努力がいらないと思われているお店として、良いところを突いてくる。汗水垂らして努力したお金でホンダのシビックを買おうとしている根建だからこそ、体重が乗っかっていた。

 好きなくだりは、シミュレーションに入ろうとした文田が根建に止められた時に「え、終わった?終わった?」と言う斬新なところと、パン屋さんは幼稚園児でもやれると思われる仕事からの舐めているという理屈、「何も見ずに鶴折れます」からの「鶴も空気入れるからな」を経ての根建が鶴に空気入れた人に対してキレるところ、アパレルの集いでの「BEAMSで店員やってます」「あ、学校指定の制服屋です」「ウケるかも」という街のユーモアbot(@cityhumor_bot)みたいなところ、生意気な漫才師オチ。

 ギャロップの2本目は「電車でのストレス」。

 電車での「座れない」、「日差しが強い」、「席をうまく譲れない」などの電車でのストレスを上げていき、一つ一つクリアしていく。電車の中での話に終始するのとテンポも速くないので、しゃべくり漫才を聞いたという満足度が高い。

 好きなくだりは、ドア側の良い立ち位置を乗っていた人に取られての「それはルール違反やわ」、たまにしか電車に乗らない人にとってめちゃくちゃ共感する「なんで駅名どこも書いてないの」というあるある。

 審査の結果は、囲碁将棋、ギャロップともに284点。そこで、大会規定の「同点の場合、3点が多い方が勝ち」により、ギャロップの勝利。

 囲碁将棋は負けてしまったが、1点=面白くなかったと評価を下したのが0人というのは、震えるほどにゾクゾクした。『HUNTER×HUNTER』の「会長総選挙編」での会長選挙投票のルールくらい縛りが効いて、囲碁将棋が敗退するという、とんでもないドラマを生み出していた。悪意を排除するためのシステムが、残酷さを持った瞬間であった。この一点においても、どれだけ大会側が、トルコアイスくらいシステムを練ってきたかということが分かるし、これだけで「如何にして、『THE SECOND』は炎上しない大会を開催できたか」という新書が書ける。とにかく、冨樫義博展と同じ規模で、議事録を見せてくれ。

 Bブロックから決勝戦に進出したのは、ギャロップに決定。にしても、二回戦に勝ち上がった全組、ほぼ6分にアジャストしていて、一回で観客の感じと、時間感覚を掴んでくるの、やっぱベテランってとんでもねえ。

 

・決勝戦 マシンガンズvsギャロップ

 

 先攻のマシンガンズは、腹立つこと。3本目で一番、即興性を強めたネタ。

 本当に恥ずかしいんですけど、西堀のボインのマイムで、今大会一番笑ってしまいましたことをご報告いたします。

 好きなくだりは、「ネタがないのにここに立ってるメンタルすごくないか」、「イオンに営業来てんじゃねえんだぞ」からの「みなさん、どっから来ましたか?」、西堀の「俺は、絶対俺たちがこの大会の趣旨に合ってると思ったんだよ。まさかのギャロップで、あいつらも趣旨に合ってんだよ」というまさかの気付き。

 後攻のギャロップは「フランス料理」。

 掛け合いで行くのではなく、林の一人喋りを真ん中に鎮座させるという、これまでの2本から、さらにテイストを変えてくる。ツカミも、「みんな、生えすぎちゃう?」からの「やっぱり、みんな生えすぎちゃう?」を経ての、「お先ハゲさせてもろてます」と完璧な組み立て。

 林がひとりで喋る中でも、ソースを舐める林の面白い顔のくだりなど一連の流れが楽しすぎるので、そもそも「おっちゃんおばちゃんはフランス料理を食べてもパンが一番美味しいと言う」という話だったことを観客は忘れてしまう。だから、「パンー!」で、ドカンとくる。6分という長さを活用した例だろう。

 ボケが目立ち、ツッコミでドカンと笑いを産む、ここに来て原点に回帰した漫才で優勝す流のは、単純に美しいですね。

 好きなくだりは、林の下ネタスレスレの舐めダルマ、パーン!。

 文句なしの結末。気になったのは、ギャロップの毛利が「mission complete」と、サイボーグ高校生の戒堂晃みたいなことを言ってたくらいです。 

 総エントリー数133組の頂点に立ったのは、ギャロップ。お見事でした。

 まず、『M-1グランプリ2022』のエントリー数7261と比べると、その数の少なさに驚いた。にも関わらず、ファイナリスト全組の漫才の向いている方向、登っている山がバラバラで、

そこには、とてつもなく豊かな景色が広がっていた。

 『M-1グランプリ』は、構成作家などのお笑いで生計を立てている人々が審査をしてる以上、少なからず、ある一個の方向性に向かうようにお膳立てが整えられてしまう可能性を孕んでいる。これは、やらせとかという意味ではなく、その年の漫才群から抜きん出たものを拾い上げる中で、どうしたって、何らかの意味が見えるような道筋や傾向が生まれるという話である。そんな難しいことを抜きにして言えば、似たような漫才であれば、相対評価になるので、何かが欠けている方が落とされるという生存競争が、決勝戦に向かうまでに行われると言った方が誤解は少ないかも知れない。

 対して、『THE SECOND』は、ディレクターらによる選考会は最初にあるものの、その後の、ノックアウトステージ、グランプリファイナルと、半分以上の審査が、観客に委ねられるので、大会で同じような漫才師が出てくきたら、番組として盛り下がるよな、ということまでは考えないはずなので、先述した『M-1グランプリ』で生じうる淘汰の可能性は少なくなる。にも関わらず、ファイナリストが多種多様だったのは、すでに16年以上、芸人にしがみつく中で、自ずと他の芸人とやっていないことをやってきたからに他ならない。金属バットの友保が「負け癖がついている」と述べていたが、この舞台に立てただけで大儲けであり、全然勝っている、ということは、最大限のリスペクトを持って、伝えたい。

 『M-1グランプリ』の役割が、既存の漫才の革新及び攪拌にある以上、そこでかけられるネタは、現代の日本に住んでいるなかで抑圧されていること、価値観の変化、大衆の美しさとグロテスクさ、病理などの歪な部分が、強く反映され、時には上手く忍ばせられたりする。これらを社会性というのであれば、『THE SECOND』のネタには、社会性をあまり感じなかった。寄席で、都内のライブハウスで、常設の劇場での、日常からの離脱としてのささやかなハレの延長線上にあった。寄席は悪所だという言葉があるが、社会から隔絶された自由な漫才がそこにはあった。もちろん全くないとは言えないが、ちょろっといじるだけで、おおむね、そうだった。あくまで、その場でウケるだけに特化したからだろうか、ずっと演芸だった。それが嬉しかった。

 例えば、マシンガンズでの「ブス」という発言であったり、紙を出したりする行為だったり、テンダラーの走馬灯みたいなあまりに鉄板すぎるくだりをくっつけていく構成、超新塾のワクワクさんなど、異常に多かった「死」というワード。若手の大会で同じようなことがネタの中に存在したら、それこそ論争が産まれたり、審査員からのご指摘対象になってしまうのではと勝手に思ってしまうようなノイズに繋がるような引っ掛かりが、少なくとも個人的には、ほとんど無かった。悪所としての寄席であるならば、それもありだからだ。

 それは、彼らが芸歴を重ねていて、今も客前で漫才をしているという厳然たる事実があるからである。それらのくだりなどが残っているということは、同じことを舞台でかけ続けてウケてきたからということに他ならない。ウケないのであれば削られるわけで、残っているのは一番の観客たちが許容しているからであり、そのことを外野が今さら是非を論ずる余地など皆無だからだ。すんません、その話、終わってんす、だ。

 ただ一点だけ、一点だけ、本気で怒っていることがあります。誰も損しなかった大会に水を差す話題。もちろん、お分かりですね。

 そう、今田耕司の鼻うがいのCMについてです。

 東野幸治の「今田さんどうもありがとうございました」という下品ないじりに加えて、松本アンバサダーの「鼻うがいのCM、ウケてましたねー」という一言。このやり取りのせいで、鼻うがいを馬鹿にしていいみたいな空気が一部で醸成しつつあるということが本当に許せない。松本は、無自覚であることにも暴力性は存在する以上、自らが権威であることをもっと自覚すべきであって、こんな状態は健全ではない。トキシック・松キュリニティですよ。

 幼少期からの慢性鼻炎であり、ナザールを手放せないほどだったのが、食塩水での鼻うがいでを一日二回することで、ナザールを使う回数が激減するほどに鼻詰まりがかなり改善された身からすると、この風潮が出来上がることを絶対に止めなければならない。600mlに、小さじ二杯程度の食塩を入れて混ぜるだけで、全く痛くないですからね。おそらく花粉症にも効果はあるはずで、正式に耳鼻咽喉科の医者が勧めている行為なので、絶対に茶化してはいけないことだってことを強く釘を刺しておきます。

 素晴らしい大会に水を差すな、鼻に管を挿せ。ホコリの除去を目指して塩水を注入しろ。百万円目指して笑いを取れみたいに言うな。

 アンバサダーがダウンタウン松本人志になったことは、10年以上も爆笑問題ネタ番組でトリをとらせてきたフジテレビにしては、あまりに権威のつけ方が一辺倒すぎるな、としか思っていないので、全然怒ってないです。その話、終わってんす。

 『M-1グランプリ』がホテルに泊まって、一人で観たいなら、こっちは、ライブビューイングが出来る個室を借りて、みんなと観たい。是非、実現させましょう。事務調整、めちゃくちゃ得意です。ただ、僕は最速感想を書かないといけないので、23時5分には解散となりますが。

 ニュートン

 りんごが落ちたところでお時間です!(松尾アトム前派出所)

 

 

 ツイッターが終わるらしいので、公式LINEやっています。

lin.ee