石をつかんで潜め(Nip the Buds)

ex俺だって日藝中退したかった

「トイストーリー」における5まで連なるアメリカの「継承」と「クリエイティブ」の精神について

 『トイストーリー5』を観てきました。
 この数週間で、シリーズを再鑑賞し、初めて観たりしたため、良い鑑賞者というわけではないわけだけれども、この映画は、徹底して、アメリカの国における継承、子どものクリエイティビティの肯定、それぞれの実践に貫かれている作品だなと実感しました。加えて、最新作では、タブレット端末に対して、アメリカ発祥の思想であるプラグマティズムも取り込まれている。ここの結末については、やや凡庸であるのはやむを得ないなとは思っている。そもそも、リリーパッドは、この作品において、命を与えられる存在であるおもちゃであるのかという問いまで掘り下げることは出来たのではないか。
 歴史が浅い国であるアメリカにおいて特に継承という行為が重要視されていることはよく聞く話であるが、例えば、アンディの一番のおもちゃという位置を、ウッディがバズに継承する/しない、という話から始まっているように、シリーズを通して、ウッディもジェシーもまた子どもから別の子どもに継承されて流浪し、保安官のバッジはウッディからジェシーに継承される。もっといえば、「トイストーリー」という作品自体も、一作目から脚本に参加してきたアンドリュー・スタントンが監督となったことで、彼にトイストーリーが継承されたともいえる。反して、おもちゃを壊すシド、博物館に保管されることを望むプロスペクター、保育園にいて特定の持ち主が生じない状態にあるロッツォ・ハグベア、子どもに愛されたことのないギャビー・ギャビーなど継承の連なりにない者は、ヴィランとなる。
 また、子どものクリエイティビティ、イマジネーションへの優しい眼差しについても一貫していた。君のその想像力は、誰にも否定できないものであるという優しい眼差しがとても心地よかったし、我が子も、隙あらば工作をしているので、こういうメッセージは、とても助かる。そういう意味では、おもちゃ達から恐れられているシドにおいても、あまり否定的な意見を持つことができないところもあって、よく見ると、彼もまたクリエイティビティを発揮させて遊んでいる。こういうやつがハリウッドで特殊メイクとかをしているのではないかと考えてしまう。ある種、アンディとシドは表裏一体ともいえる。そして共通していることは、彼らが大人になった時点で、クリエイティビティを発揮させた職業に就いているかどうかの答えが作中においてはまだ描かれていないということである。これは、子どもにとって、クリエイティブすることがゴールであるという制作陣からの強いメッセージを感じる。甲本ヒロトが言った、「教室の片隅でほうきをギターにした時点で夢をかなえている」みたいなことに近い。アンディやシドがクリエイターとなってしまうと、スタッフの生存者バイアスとなってしまう危険性があるからである。
 そのほか、一気にシリーズを通して鑑賞したことによって、気になったことは、やけにヘテロセクシャルとしてのカップル成立が、キャラクターの結末として描かれているなということである。1や2などはしょうがないとしても、最新作においてもそのように描かれている。これはPIXARとして重大な瑕疵ではないのか、ということを考えていたのだけれど、おもちゃという存在においてやむを得ない価値観であるからだと、はたと気が付いた。それは、おもちゃたちと遊ぶ子どもというのは、異性間における性交渉でしか誕生しえないという現実があるからであると考えると、おもちゃたちがヘテロセクシャルを絶対的な規範とするのは意味があるのだと気づいた。異性愛こそが、おもちゃたち自分自身の存在意義に直結する絶対的な原理であるということはとても興味深い。いうまでもないですけど、だからこそ言わなければならないわけですが、僕は一切、異性愛や異性間における性交渉だけが、生物学的に正しいとか全く思っていないです。それを言っている人を見ると、生物学を専攻してねえだろって、唾棄するタイプです。あと、「需要と供給っていうものがあるから」とか言っている転売ヤーも、経済学部を卒業していないです。
 閑話休題、ここからが本題に入ります。
 「トイストーリー」を最新作までを全部、家族で一緒に観たんですね。過去作は家であれこれ教えたり喋ったりしながら、でも部屋の電気を消して、ポップコーン買ってみたいな感じで、最後に映画館で最新作を並んで観る。これはこの夏の思い出になりそうです。もともと、妻が「トイストーリー」がとても好きなので、この鑑賞体験をもって、妻から子に「トイストーリー」を継承できたし、僕としても要所において演出の意味だとか、解釈の仕方だとかを教えることで、例えば、「アメリカ人にとって、カーチェイスっていうのはあるある的に必要なものだし、もっといえば、アメリカ人は、大人以外が車を運転するという画がなぜか異様に好きなんだよ」みたいな映画の鑑賞方法を継承することができた。また、僕は家事をしながら見ているときもあったんですけど、2を観ていると、子が「あ、これシドだじゃない?」って言って、何だなんだってなって巻き戻してみたら、ごみ収集の現業員が1でシドが着ていたTシャツを着ていることに気が付いて、そのように発言して、ああそうだねとなったりした一幕がありました。僕の映画を観るときの目線って、ものすごく多動的で、イメージとしては、面で捉えてから、そのあと、画面上に点を打っていくんですけれども、うちの子は、視覚からの情報収集が長けているとずっと感じてきてはいたのですが、あらためて、自分が継承されているようで嬉しかった。もっと勉強して、映画における上下運動や脱構築的、構造主義、ジェンダー的なコードを読みとく遊び方を教えてあげたい。ただ、個人的にはいつもの流れで、宇多丸の映画評を流しながら、家事をしていたら、妻が「トイストーリーの否をラジオに送るってほんとうにどうかしている。そんなことをして誰が幸せになるんだ」とキレていて笑ったのと同時に、やっぱ今はまだそういう見方は教えないほうが幸せなのかもしれない、分かったようなことだけ言うようになっちゃうしとも思いなおしたりもした。

 

 

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このnoteは、世代の異なる社会人ふたりが、お笑い、カルチャー、生活といった様々な事象についておしゃべりしながら、取り上げたものの「ポスト」、つまりは、次なるもの、後に代わるものを、時には脱線し、稀に芯を喰ったりして、誤配を恐れずに探っていく、哲学的雑談実践プログラムです。

 

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「ガス人間」観たけどNetflixの日本制作ドラマは今後は観なくてもうええでしょう!

 ガス人間を全話観ましたけど、VFX凄かったですね。VFX凄かったなー。めっちゃかっこよかった。凄かったですね、VFX。うん、凄かった。でも、それと同時に、今後Netflixの日本が主導のドラマって観なくてもいいなってなりました。VFXとか、カーチェイスとか、ハリウッド作品とかと並んでも遜色がないくらいのレベルになっているんだなって感慨には耽りましたけど、あまりにも、脚本が尻すぼみで、ケレン味とパワーだけで押しまくってて、こんなのドラマとしてレベルが低すぎて、許容したらダメだろってなりました。こちらがツッコミを入れて成立する、その荒さを楽しむみたいな見方って、それをやってもらおうとする方もそうだけど、積極的に視聴者側がやっていくのってもう良くないですか。

 脚本がとにかくダメすぎたから、「パーフィーニ」とか、ボーリング場のダンスとかも、「いとしのエリー」とか、ルーブ・ゴールドバーグ・マシンとか、連続性のない演出に見えちゃって、切り取りを狙ってる安っぽい動機で作られている、ただのウケ狙いにしか思えない。脚本が浅いことを良しとしつつ、そういった演出を面白がるのって、記号ではしゃいでるだけで、動物と一緒じゃないか。制作サイドがやってることは、日テレとワタナベエンターテインメントが組んで売り出し始めた頃のブルゾンちえみと一緒で、ケミカル臭芬々としたただの化学結合の産物でしかない。でも、旧ブルゾンちえみさんこと、藤原しおりさんの登場コーディネーターとしての活動は応援しております。

 ドラマの折り返しに入ったあたりで、ガス人間が、実は殺意もなく、ただの命令に基づいて殺していたみたいな事が判明したあたりで、ものすごく冷めたんですよね。なんだ、怪人とかじゃないんかいって。ヴィランってあんま言いたくないですよね。怪人とか敵とかって言いたくないですか。それはさておき、そっから、脚本もガタガタだし、オンボロの車で悪路を走っている感じで見てられなかった。見たんですけど。ただ、ものすごく、優しい見方をすると、ガス人間に何かを命令することが、「死者を利用すること」の寓意であるとすると、それなりに重要なテーマたりえる気はします。死んだ人の名前をかたって、誰かを攻撃する場合、その対象が過去にその死んだ者を蹂躙した相手だったとしても、死者が遺言を残していないのであれば、死者の名の下に行われる行為は、すべて死者の目的外利用であり、冒涜となるのではないか。それは生きている者の願望を投影しているに過ぎないのではないかみたいなことですね。卑近な例で言えば、いるじゃないですか、談志が生きてたら何て言うんだろうね~みたいなことをいう、しょうもないやつ。談志師匠が生きてたら、まず、「志らくは、太田は売れてんだからそれが現実なんだ。だから言ってることは正しいんだ、お前みたいな人の名前を騙るだけのやつを、俺の了見では、バカと呼びますよ。」とは言うかもしれないですけど。誰も死者の代わりに喋ることも、行動することもできないのかもしれない、というテーマは拾い上げることができるかもしれない。これは僕にとってはとても重要な問題ではある気はします。

 脚本の文句に戻りますけど、原発作業員とか、万博、731部隊、ものすごい社会的なテーマを彷彿とさせましたね。でも、彷彿とさせただけでしたね。悪役に対しても、悪役だろうなってやつを悪役にして、殺して終わりっていうのもあまりにも陳腐に感じました。総じて幼稚化していると言っていい。ここも記号で戯れる動物的。あと自分でもびっくりしたんですけど、作品では、悪い奴とされる人たちとかがガンガン死んでいくんですけど、それももういいかなって感じたんですよね。悪い奴が死んだとしてそれで終わりになって、でも奥にいる悪とされる存在は生きているし、真相は分からないままになってしまう。だから、なんか、モリロバとか、中島歩とかうっすら悪いことしたんだろうなーっていう事しか残らないで、掘り下げることができない。森友加計学園あたりからの社会的問題への違和感とかみたいなのが自分の中に根付いているんだなと実感しました。そうじゃなくても、ここ最近、とんでもなく陰惨な事件に対して続け様で出たりしていましたけど、やっぱり、死刑じゃないのかよっていう言葉が出てくるけれども、僕の最近の思考としては、いや、20歳前半で、30年間、刑務所に入れられて、その後、50代で世の中に放り出される方が、キツくないかってなっていることもあるかもしれない。生きていくことの方が辛いしって。再犯した時に、誰かが被害を受けるっていう問題は生じるんですけど、享楽的刹那的に生きてきた人間にとって、いつか死ぬかもしれないっていうことよりも、自分が求めてきたものを何も得られないまま生きていくことのほうが耐え難いのではないのかって考えてしまう。彼ら彼女らの内面はわからないので、推察するしかないのだけれども、自分がそうでない人生を送っているのであれば、自分が、いつ死刑が執行されるかも分からない状態にいることのほうが辛いのであれば、逆の可能性は十分にある。そういう意味でも、あえて、全員を生かさずに捕えて全てを話させるという物語の方が、現代において、オルタナティブなものになるんじゃないかなって気がします。

 そんな感じで、「ガス人間」をみて、Netflixのドラマ、少なくとも、日本制作のものは積極的に見る必要はないかなという気持ちになってしまいました。

 そもそも、最近のNetflixのコンテンツって、表現の自由ですキリッって感じを出しつつ、やっていること、差別や偏見を助長する危険性が高いコンテンツ、つまりはテレビからパージされて然るべきの、隅っこでやっててくれって感じのものを、金に任せて綺麗に見えるようにパッケージしているだけっていう感じしませんか。志がすごい低い。リスペクト研修とかやっているとか言っているけれど、研修しているだけで、それ活かされてなくないじゃん。ドドン!じゃねぇよ。

 テレビで育ってきたということもあるけれども、テレビでできることがおおよそ人間を馬鹿にしすぎない範囲だと思っていて、ちょっとこれはまだ詰めきれていないんで言葉足らずにはなるけれども、それはどんどん狭くなったとされたとしても、そこにコミットさせることがある種の優しさとか、そういうものなんだと思っている。

 

 

 

 

 

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佐倉絢音の「集団ごっこ」は、ほぼほぼルソーの「社会契約論」

 ここ最近は、TBSラジオで放送されている、佐倉絢音の『論理ロンリー』という番組をよく聞いている。佐倉は声優ということもあって、声が良く、聞きやすいということに加えて、アニメの文脈に沿った豊かな感情表現もあって、佐倉絢音が演じてる「佐倉絢音の日常」というラジオドラマを聞いているといった趣もある。それでも、楽しいだけではなく、人生について語ったり、災害について話すときは、ラジオを切っていいですからね的なことを話すなど、硬軟を織り交ぜた番組になっている。ネタバレ以外で、「ラジオ聞くのやめていいです」と言えるラジオって、総じて良いですからね。

 『論理ロンリー』においては、定期的に「集団ごっこ」という言葉が出てくる。番組のイベントにも使われたこの言葉について、2026年4月1日放送の#53にて、改めてそのワードの説明が本人から話された。

 「この世界、基本的には集団ごっこですからっていう、話をさせていただいたんですよ。そう、集団ごっこっていうのは、あの、人間は所詮、ひとりになろうとしても、本当の意味での孤独にはなれないし、群れようとしても、本当の意味での集団にはなれないんだよっていう、あのぉ、ことを言いたくって。なので、分かり合えてるって思ったところで、あの、他人が関わっている時点で、それは分かり合えてるごっこにすぎないから、あたしたちが生きているこの世の中の人間関係って全部、集団ごっこになるので、あのぉ、いろんなことに対して期待しすぎずに、その、なんか、こう、ちょっとあのぉ、なんだろ、思ってた人と違った、みたいな、失望しましたっみたいなそういう考え方、一回やめてみよーか、そしたら自分も相手も楽になるねーっていうことを言いたかったんですけど」「人は群れようと思っても所詮ひとりだし、あの本当にひとりになろうと思ったって、結局ひとりにはなれないんだよー、楽しいねー」

 圧力鍋の蓋を洗いながら、この定義を改めて、正式に本人の口から聞いた時に思ったことは、佐倉が自嘲するトーンで述べた「怖いねー」ではなく、「ん、ちょっと待って、これルソーじゃない?」である。

 ルソーとは、社会の教科書で聞いたことあるであろう、ジャン=ジャック・ルソーのことである。一番、通りがいいのは『社会契約論』だろう。とはいえ、この直感は、『社会契約論』を読んでいたからではなく、東浩紀『訂正する力』、『訂正可能性の哲学』、少し遡って『一般意志2.0』を読んで、大枠をインストールしていたために得たものである。こちらについては後述するとして、あまりに、佐倉の「集団ごっこ」と、ルソーの主張が一致するという何となくの印象が、やたらと頭に引っかかり、圧力鍋を使った牛丼作りにも身が入らなくなってきたので、とりあえずの概要を把握するために、宇野重規『すごい古典入門 ルソー『社会契約論』民主主義をまだ信じていいの?』を購入し、ページを開いてみる。すると、早速、次のような文章を見つける。

『いまから二五〇年以上前、ある男が一つの問いを立てました。/「誰かと一緒にいたい。でも、自分の自由は失いたくない。この二つを両立させるためには、どうすればいいのか」/そう問いかけ、一冊の本を書き上げたのが、これからお話ししていくルソーであり、その代表作『社会契約論』です。』

 誰かと一緒にいたいけれども、自分の自由は失いたくないという、一見、どちらかを諦めなければならないようなこの問いに対して、佐倉の集団ごっこは、一つの答えになりそうな気がする。試しに、問いと、佐倉の思想を接続してみると次のようになる。

「他者と関わりながら、自分らしさを出すためには、この世界における他者との関係性は、ごっこ遊びに過ぎないので、分かり合えているとも思わずに、期待をしすぎないようにすることで、他者と円満に関わりを持てる。」

 そこに、諦念などの感情も滲み出て気はするものの、あながち間違っているとも言い切れないのではないか。円満な関係を築くという目的がスタートであるからこそ、佐倉のこの態度は、人間関係の構築を諦めきっているわけではないということも分かる。

 思い切って原著を購入し読んでみた、ルソーの『社会契約論』の、第1遍第六章「社会契約について」においては、このように問うている。

『どうすれば共同の力の全てをもって、それぞれの成員の人格と財産を守り、保護できる結合の形式をみいだすことができるだろうか。この結合において、各人はすべての人々と結びつきながら、しかも自分にしか服従せず、それ以前と同じように自由でありつづけることができなければならな。』

 そして、同章にて、ルソーは社会契約について、こう述べる。

『われわれ各人は、われわれのすべての人格とすべての力を、一般意志の最高の指導のもとに委ねる。われわれ全員が、それぞれの成員を、全体の不可分な一部としてうけとるものである。』

 ここについては、宇野の補足をもらおう。

『ルソーが指す「一般意志」とは、市民全員が話し合い、互いの立場を認め合いながら、議論を尽くして作り上げた純粋な共通の意志のこと』

 『「多数派が勝ち、その意見が国民全体の意思と見なされる」』というものとは根本的に異なる一般意志に、『人々が、「自発的に従う」ことでこそ、市民は真に自由になれる』とルソーは考えた。

 現代的な感覚で「一般意志に従う」と聞くと、「世間一般の意思に従う」というイメージが発生し、何やら、全体主義の匂いがするようにも思えるし、柔らかく言っても、思考停止や、何かしらに縛られるような印象を受け、いずれにせよ自由を喪失するような印象を受けるけれども、そうではないようである。このことを音楽に置き換えて考えてみると、また違った解釈が出来るかもしれない。音楽を演奏する場合、原則的に楽譜という、守らなければならないものがある。加えて、演奏する形態がバンドであった場合、他のメンバーのリズムや、テンポと揃える必要が出てくる。ライブであれば、そこに客のノリも捕まえなければならない。であれば、音楽家を縛るものはいくつも出てくるが、楽器を演奏している音楽家を見て、なんて不自由なんだと可哀想に思う者はいないだろう。むしろ、音楽家に対して、あらゆるものから解き放たれた自由を見る。そして観客もまた、自由を得たような幻想に浸る。

 そう考えると、佐倉が言う「集団ごっこ」もまた、自らを縛るものではなく、自由への道のりとなりうる可能性を秘めている。ルソーを頻繁に取り上げる、東浩紀もまたどこかで「演じることの重要性」を説いていたが、その一致も、また、偶然ではないようにも思えてくる。

 と、ここまで考えてみて、「あやねるが言う、集団ごっこって、ほぼほぼルソーの社会契約論っぽいな」という思いつきから始まった事なので、もうあまり書くこともないのだけれど、例えば、一般的な人間関係においては、「そのように振る舞えているかどうか」で、かなり円滑になるんだなという実感を得ることが増えてきた。例えば、仕事で役職を得て、グループ長などになると、マネジメント術をまとめた本に書いているような「部下から声をかけられたら、タイピングする手を止めて、目線をモニターから外し、話しかけてきた部下の方に顔を向ける」、「不機嫌さを周りに出さない」、「メールやチャットは絶対にかつ、速やかに返信する」などの重要性が身にしみにて分かってくる。仕事が出来るかどうかというよりも、「自分はあなたにとって無害な上司である」という提示し続けることの方が重要なのではないか。自分にとっての上司である課長などに対しては、良い部下を演じる必要があるのだが。特にまとまりもなく終わり。

沖縄県知事選挙前に観たい映画『映画 ちいかわ 人魚の島のひみつ』

 入場者特典のハチワレの目印チャームを眺めながら、「なんか、宝島みたいな話だったな。くりまんじゅうのほうが良かったな」と思っていた。

 『宝島』とは、直木賞を受賞した真藤順丈の小説のことであり、読んでみたものの、思ったより普通だったのだが、映画のほうはとても良かった。映画もストーリーは原作に準じているため、そこまで騒ぐ必要のないものだったのだけれども、なにより、画がとてもよかった。アメリカ統治下においての当時の暮らしぶりから始まり、沖縄刑務所暴動、宮森小学校米軍機墜落事故、コザ暴動など、写真でしか見ることが出来なかった、沖縄の歴史が再現し、息を吹き返したようにスクリーンに投影されているところ、とりわけ、コザ暴動において、クラブの女性だったかが、サンシンをかき鳴らし、歌っているのを見て、ぼろぼろと泣いてしまった。あそこには、心のどこかで希求していたカタストロフィが不意に訪れた瞬間にこそ、歌わざるをえないというブルースがあった。

 『映画 ちいかわ 人魚の島のひみつ』の骨子は、報酬が通常よりも高い仕事に釣られた、ちいかわらが旅に出て、旅先での課題を解決するというものであり、特段、優れているわけでも、劣っているわけでもない。

 人魚を食べて、不死、あるいは、『攻殻機動隊』よろしく義体となってしまった、ヒトハとフタバの視点から見ると、とてもビターなものとなっている。ざっくり言えば、セイレーンたちの悪意のない加害において、致命傷を負った友人またはパートナーであるフタバを救うために、ヒトハは、図鑑から得た知識をもとに、まさに起死回生となる解決策として、人魚を捕獲、煮つけにして食べさせることで、フタバを救う。フタバもまた不死になったことに気が付き、ヒトハに人魚の煮つけを与え、二人で、人魚殺しの罪を共有する。その罪のおかげで、仲間である周りの島民たちは、セイレーンによって、殺されていくが、自分たちを守るために、名乗り出ることは出来ずにいた。

 ジャック・ラカン的に言えば、想像界としてのちいかわ、象徴界としてのハチワレ、現実界としてのうさぎという解釈に加え、東浩紀がいう歴史の裏側に目を向けることなく、享楽に浸る無責任な観光客を実践しているシーサーとくりまんじゅうがいるように、本作を哲学的に見ることも可能であり、そこから脱線し、『攻殻機動隊』は、ドゥルーズのいうリゾーム的であるけれども、これは、リゾームを理解することで『攻殻機動隊』を理解しやすくなるのか、それとも逆なのかと思考をスキゾ的あるいは、パラノ的に巡らせていると、セイレーンは、沖縄における米軍だと考えると、その存在にしっくりくることに気が付いた。以下、ちいかわに政治を持ち込むものとする。

 セイレーンが、ちいかわの世界で討伐対象となる、でかつよのなかでも特に異質なのは、他のでかつよの限りなく動物的な存在と比べても、それなりに会話が出来るというところにある。一方で、『遠野物語』に出てくるような神の論理で動いている点もまた特徴的だ。つまりはセイレーンとその侍女たる人魚たちは、島民や、ちいかわたちとは違う原理で行動している。危機を提示することで奉納を求めることはなされるものの、こちらから攻撃しなければ無害であることに加えて、農作物が豊かになるという慈雨を呼び込むこともまた、神であるが故だ。

 共通の言語を有しているために、言語の壁は無いが、行動原理が異なるため、本来の意味でのコミュニケーションが成立しえず、落としどころを見つけることが出来ない。そのため、暴力の応酬が繰り返される。

 ナガノがコアな沖縄ネタをことあるごとに挟んでいることは有名だが、そのようなことを差し引いても、セイレーンは沖縄においての米軍として見ることが可能である。

 沖縄県民と米軍は、英語という共通の言語を介して会話をすることが可能である。また、基地を開放しての交流も行われる。県民が基地の中で就職することが出来れば、県内ではかなりの厚遇を得ることが出来るし、軍用地は莫大な資産を生み出すだけでなく、投資の対象となるという恵みもある。しかしながら、彼らは軍人である。そのため、彼らは沖縄においては、植民地に滞在している者の道理で生活し、戦時下と変わらない理屈で滞在し、軍の規定に依拠した倫理をなるべく超えないように無邪気に遊ぶ。

 沖縄県民にとって、もはや米軍は、民俗学でいうところの神のような存在となっている。こちらの理が原則的には通じないまま、この80年、極めて理不尽に、ランダムに、気まぐれに、分け与え、奪われてきた。

 厄介なことに、社会というのは、たとえ失われたものがあったとしても、大多数が得られたそれそのものの価値を優先し、失われた者の声を消し去っていく。だからこそ、セイレーンが辛味に悶えていても、おそらくうさぎが活用していることからもわかるように、それなりに殺傷能力の高いびんよよを持っていても、島民たちは、得たものがチラついて、トドメを刺すことができない。例えセイレーンがこのまま島民を食べていったってとしても自分だけは大丈夫だと思い込み、直接的に手を下すことができない。少なくとも島民においては、セイレーンを脅威でこそあれ、完全には敵だと見做しきれなかったのではないか。だからこそ、ちいかわなどの他所から来た者に、討伐を委ねるしかなかったのではないか。もはや、沖縄県民は、無能で悪辣な政府による学習性無力感によって、米軍基地が無い自分たちの生活をイメージできなくなっているのと同様に、島民たちは、セイレーンと人魚との関係を、自分たちで終わらす方法が何も分からなくなっているのだろう。

 ライカムという愛称で親しまれる、イオンの大きなショッピングモールがある。このライカムという名は、琉球米軍司令部のライカムに由来するのだが、このことを初めて知った時は、植民地根性ここに極まれりだなと思ったりもした。ただ、もはや、沖縄県はそういう状態ではなく、共存を超えて、もはや、末期癌の患者が癌細胞を切除手術できないほどに、何かを施すことができなくなってしまっていることに他ならない。だから、自分たちは何も選択することができない、この問題は他者による介入でしか解決できないと思い込んでいる。ステーキや沖縄タコスや、沖縄で売られている本物のハンバーガーが褒められても喜ぶだけで、実際には、そこには植民地であった過去の産物であるクレオール料理がもてはやされることへの反発や批評すら持てなくなっている。人魚の煮付け自体には、そういったクレオール料理的なニュアンスも感じなくはないが、重ねていうと、アメリカに阿諛追従して沖縄に負担を押し付けてきただけでなく、あまつさえ差別してきた自民党政権と、結局は自分のことしか考えてこなかった烏合の衆の野党による放置の結果でしかない。基本的に、冨樫義博の「立候補する人は信頼できない」というスタンスを引き継いでいるので、議員と議員になろうという人たち、議員を支持する人すらも誰一人として期待してない。NHKの朝ドラで沖縄が舞台となった際、いずれも、主人公が看護師と、飲食店という、ケアを想起させる職業につかされたことは偶然ではない。沖縄は、本土を癒し、奉仕させておけば良いという考えが透けて見えてくる。

 すでに指摘されているように、作中で流れる「島のうた」の歌詞「おいしい屋台がてんこもり/わたあめ/ビール/に/じゃがバターたこやき/すきやき/ケバブに/てりてりソースの焼きそば」の、ほぼ頭文字を取って繋げると「おわびにたすけて」となる。

 「お詫びに助けて」という言葉について、映画に沿って考えるのであれば、「助ける」ことは、「アゴアシメシの恩義の代わりに」ということになるが、お詫びという語義からは、違和感が残る。また、島民がお詫びすることは、討伐の報酬を上乗せするという嘘についてとなるが、これもまた、嘘のお詫びに助けて、ということになるため、文として成立しない。「過ちは繰り返しませぬから」の主語は誰なのか、「あいまいな日本の私」の「あいまい」が「日本」にかかっているのか、「私」にかかっているのかという問題を思いだす。あの歌だけでは、誰が何のお詫びに、誰に助けを求めているのかは分からない。

 ヒトハとフタバは、島を脱出するという結末になってしまった。もう島には戻れないだろう。罪を犯したのは、セイレーンたちも同じなのに、いつでもあの島に、あんだじーじーして、あじくーたーの料理を食べに行ける。ただし、その頃には、あの島は豊かではなく、島民たちは貧しくなっていることだろう。

 この結末は凡庸なものだと言い切って良いと思うが、最良の結末は、沖縄県民が沖縄県の未来を描くことができないことと同様に、思い浮かべることができない。手元には来月に行われる沖縄県知事選挙において主要な3人の候補によるチラシがあるものの、どう読んでも、どれも白々しく思えてきて、沖縄県は、セイレーンを失った島のように、どん詰まっていく未来だとしか思えないでいる。

 

 

 

ちいかわ映画入場特典 1回目

【譲】ハチワレ

【求】くりまんじゅう

M-1グランプリ2025感想「今年のM-1が、めちゃくちゃええですねな大会だった理由」

 本題から入りましょう。いつまでお正月気分でいるわけにもいきませんのでね。M-1グランプリ2025でかけられたネタの感想と、好きなくだりたちです。

 

1組目:ヤーレンズ

 恥ずかしながら、決勝3回目にして初めての漫才コントではないという指摘がなされているのを見て、確かにと膝を打ってしまったわけだが、気づいていましたよ感を全面に出して話を始めよう。漫才コントは、コントでもある以上、そこから降りることが出来ない。反して、しゃべくりであれば、出入りが自由となる。この制度上の縛りがなくなったからなのか、今年のヤーレンズは肩の力が抜けているようにも思わせながらも、一点のミスも生じていないように思わされるネタだった。それでいて、どこまでも、軽く、意味がない。

 そのことが、今大会の全体的な点数の高さ、楽しさを一気に運命づけたと言っても過言ではない。

 つまりは、言うことなし、なわけなので、揚げ足を取るかのように、ネタに組み込まれた客いいじりについて考えてみたい。

 ヤーレンズの二人の掛け合いは、それぞが好き勝手に喋っているにも関わらずたまたま会話が成立しているような、アルゴリズム体操のような美しさを感じる瞬間があるが、その反面、あまりにネタを繰(く)っている、二人で完結していると思わされる瞬間、つまりは観客不要のゾーンに入ってしまう危険性を孕んでいる。例えば、盗み聞きしているという心持ちで聞いているのが一番正しいミルクボーイの漫才については、観客不要のゾーンに入った方が面白い。ではなぜ、ヤーレンズにおいて、観客不要なゾーンに入ってしまうとあまり良くないのか、台本をなぞっているように思えてしまうかというと、それは二人の声が楽しすぎるからに他ならない。ミルクボーイの漫才は、二人とも声が低めで、ボソついているから良いのである。

 今回の客いじりは、この弱点を補完するためではないかと思案する。客いじりをもって、舞台の奥行きを演出していたのではないか。事実、上手側の今田耕司、下手側の海原ともこ、そして客席側と、全方向へのいじりが挟まれている。これはもう戦略だと言っても良いだろう。これ自体は、だから何なんだという気づきに由来する与太考察なのだけれど、そこまで緻密に構成が考えられているわけである。おそらく、構成とボケの配置については、今大会で一番練られていると言って良いにも関わらず、あの軽さを醸し出し続ける凄すぎないか。会話が流れるように流れていくわけである。だから、ヤーレンズは自分たちのことを乱れ打ちと述べていたが、決して、乱れてはいない。エンドレス・ウザではある。

 配置で言えば、楢原が「アンガーマネジメント」と怒鳴りながら出位の胸ぐらを掴んで揺するくだりは、その唐突さに一番笑ったのだけれど、まさか、あの脈絡なく入れられていた、2回挟み込まれた楢原の「まずは、ありがとう」はもしかしたら、アンガーマネジメントだったのではないのか。そう考えると、唐突に、アンガーマネジメントとキレた理由も分かってくる。そうだとしたら、恐るべし配置である。

 そのほかにも、日英同盟により破棄されるまで80年以上続いた「栄光の孤立」と、鉄の女と呼ばれるマーガレット・サッチャーによるサッチャリズムにおける小さな政府と、獅子舞の後ろをやることが決まっている母親、本国初の女性首相を産み出すために暗躍していたとされる麻生太郎、これらが42歳で独身である楢原の口から溢れることに、何らかの政治的メタファーを見出したいところではあるが、アルゴレリズム体操における「パッチンパッチン、ガシンガシン」くらい、そこには何の意味もないのである。

 本当に、今大会の満足度は、ヤーレンズの大手柄に他ならない。

 好きなくだりは、「決めつけの刃じゃないですか」からの「見たことなさそうです」、「栄光の孤立ってやつなんですけど」からの「19世紀イギリスじゃねえかよ」、「心の声、麻生太郎じゃん」、「ポカリ飲んだら茶柱たってた」からの「ゴミだよ、じゃあ」、「アンガーマネジメント」。

 

 

2組目:めぞん

 良いところを挙げていくと、初見で、やっていることや言っていることが全て分かるという意味において、ダレることのない構成、サンボマスター山口の「行きますよぉ」のイントネーションを完コピ、笑い飯哲夫に褒められる立ち姿と、オーソドックスな漫才の技術だけで言えば、今大会ファイナリストの中では一番高いだろう。このままいけば、一生食いっぱぐれることがない漫才師となるコンビだろうということが容易に想像がつく。そのくらい、早口で捲し立てるところなども聞き漏らすことのないほどの滑舌の良さ、緩急の付け方などが基礎がしっかりしている。技術だけで言えば、間違いなく、M-1グランプリの出場資格を有する漫才師の中では5本の指に入るだろう。そのくらい、国民的な漫才師の萌芽を感じさせる。では何故、点数が伸びなかったのかを考えてみたい。

 大方の意見としては、歌ネタだからという意見が出てくるだろう。確かに、サンボマスターの「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」を出してくるのは、3月に同期と一緒にライブに行くためにこの1ヶ月ほど聞き込みをしていた自分にとっても、やはり安直な選曲であり、意外性はそこまで無い、という印象は否めない、ちょっと厳しい選曲ではある。そこに加えて、10秒以上歌ってしまうと、めぞんの漫才のBPMと、楽曲のBPMのズレが目立って、中弛みをする印象を与えてしまう。歌ネタがインフルエンサー夫婦の離婚くらい軽視されているということを差し置いても、ただ、ここまで点数が伸びなかったのは、それだけの理由ではないように思えるか。もう少し、別の角度から考えてみたい。

 ネタの大枠をおさらいすると、こうだ。

 女友達に彼氏のふりをしてと頼まれて面倒くさがる原に対して、初手から、本当に面倒くさいと吉野は訝しむ。「ミキのことを女として見てないから」という原の言葉に対しても「強がらないで」と吉野は食い下がるが、本当に強がっていないということが分かってくると、ミキが本当は原のことを好きなのではないかという方向で攻めていく。そこから実は、原はミキに一度告白するも振られているということが発覚する。

 このネタにおいて、いまいち乗り切ることが出来なかったのは、ミキの不在ではないだろうか。いまいち、ミキがどういう女性なのかが分からないため、ドラマに奥行きがないのである。加えて、吉野があまり女性と縁がなかったことを「最後にできた女友達が小六の頃に男子に混ざって遊戯王カードやってくれてた高田さんで終わっている俺への当てつけ?」だけで処理されているため、吉野が原に食い下がる動機が見当たらないのである。

 このネタの重大な欠陥は、歌に重きを置いたことではなく、観客がドラマに没入する理由がないことにある。

 女性が「ミキ」というM-1グランプリにおいて、漫才師を想起してしまうことにも気になった。よっぽどの意味が無ければ、普通であれば避けるべきである。Twitterにて、本人たちがミキじゃないと気持ちが乗らなかったと話していたが、脚本が良ければ名前は何だってよくなるはずだろうって思ってしまう。もしくは、吉野か原のどちらかが、ミキという女性に何かしらの思い入れがあるのであればそのエピソードを落とし込んだ方がいい。たとえば、高田さんとのほぼ実話であり、その名前がミキだったから、ミキという名前に固執しているということであれば、吉野を逃さないことにそれなりの整合性が生じる。

 過去の大会のアキナにおけるネタでもそうだが、M-1グランプリにおいて、恋愛ネタそのものはかなり難しいということが分かってくる。なぜなら、恋愛話について感情移入させるためには、話者のキャラクターを認識してもらう必要があるのだが、限られた4分程度では、かなり難易度が高い。かつ、年齢に合っていないといけないなどその他にも色々とクリアしないといけないハードルが多い。また、昨今の、他者の恋愛というコンテンツ自体が、恋愛リアリティーショーにおけるドラスティックな展開を望む視聴者と、恋愛に興味がないと言われている若者などの視聴者という、恋愛における価値観の二極化が指摘されている状態にあるため、もはや万人受けする素材ではなくなっているとも考えられる。

 実は、恋愛ネタは、タイムパフォーマンスも、コストパフォーマンスもかなり悪くなっているのではないか。封印すべきは、歌ネタではなく、恋愛ネタである。

 最後に、めぞんの漫才の技術はとんでもないので、本当に、次こそはインフルエンサーの脱税くらい色めくネタによって、捲土重来を期す。

 好きなくだりは、紹介VTRにおけるエントリーNo.953時代の吉野のルックからのエレファントカシマシの宮本風を経ての若い頃の町田康みたいな現在、「女として見てないから」に対する「出た最悪な言葉!女として見てない、女と思ってない、いやいや、お前が女と思ってるか関係なく、その子は女の子だから、神様でさえ人の性別を決められないこの時代に、人の性別を勝手に決めるなよ」、漫才終わりお辞儀もせず逃げるようにハケていく吉野、「歌とかで終わるの、今後やめようと思います」。

 

 

3組目:カナメストーン(敗者復活組)

 「あぁー、それはかなり、ダサいんじゃないかなぁーっと。」、「みんなと仲良くやるんだよ、カナメストーンのメンバーだったらぁー」、「イィーア」、「ねぇ、やめてよ、時をかける少女でバカにしてくるの」、「そりゃ出るだろ、オレの中の仲間由紀恵も」、「やめて、その一番興奮した時に出る音」、「なんでお前のお手製の回転扉味合わせたら、機嫌直ると思ったんだ」。

 何周も繰り返されたやり取りの中で産まれてきたようなカナメストーンの笑いからは、東京のライブシーンの良くない匂いがする。そりゃあ、このアクの強さは、ちょっと正攻法では、ここには上がってこれないよと、訳知り顔で苦笑せずにはいられない。とはいえ、捩じ込まれたのだから、こっちのもんである。カナメストーンの漫才は、漫才の現在地を示す今大会にとって必要だったのだろう。少なくとも、敗者復活戦の審査員たちは、異次元レベルの漫才を披露していたミキよりも、乱数としてのカナメストーンを決勝の舞台に押し出した。

 ネタの話に戻ろう。

 カナメストーンの漫才は、基本的には、山口が零士をおちょくっているという構図になっている。「ダーツの旅のロケに行った時、村人と仲良くなれる自信がない」という本当はそんなこと思っていないだろうという設定も、山口が零士を熱くさせておいて失敗を誘うためにやっていると措定した場合、そこでまず、嘘が無くなる。その後も、どれだけリアリティのない展開が繰り広げられても、あくまで山口が零士をいじって楽しんでいるという、中学からのやり取りの延長線上に位置することになる。中川家の礼二が言う、「設定、なんでもいける」というのはそう言うことではないだろうか。この、嘘が絶対存在しないというシステムは、漫才として無敵なんですよね。からかい上手の山口さん。違約金払いの永野さん。

 また、博多華丸の博多大吉は「内容のグロテスクさ」と、「にも関わらず笑える」と講評していたが、これもまた、敗者復活戦でのネコニスズの「ママはいずれ死ぬ」のような観客に、あえて嫌な気持ちにさせるものとは違って、山口が零士の失敗を誘うためだけに向けられたものであることに起因しているからだろう。加えて、感覚的なことを言えば、どこまで言っても、二人の漫才は、ピュアネスに由来するコロコロコミック連載のギャグ漫画チックであり、ずっと、部室の、教室の端っこのノリが続いている。だからずっと、カナメストーンはYOU ARE (NOT) ALONEであり、だからこそ、ツカミに敗者復活戦のメンバーを連れてきて、ネタ中に観客とともに零士を攻め立てた。カナメストーンの漫才を見ることは、鹿嶋市立鹿島中学校のサッカー部に入部することと同義なのかもしれない。

 おそらく、今大会で、初めてカナメストーンを見た人は、あまりハマらなかった人の方が多いと直感的に思う。実際、熱心なカナメストーンのファンというわけではないため、そこまで多くは知らないが、「俺の中の仲間由紀恵が」、「時をかける少女」、「観客を味方につける」、回転ドアというカナメストーンによる独自のくだりは、もっと面白いものがあるということが容易に想像がつく。そこまで熱心なカナメストーンの漫才を見ているわけではない自分でも、絶対にもっといいネタがあるだろうとは思わずにはいられなかった。実際、敗者復活で見せていた最高傑作の「手のM-1」だけはどうしても決勝の舞台に持ってきてほしかった。「手のTHE SECOND」が楽しみだ。

 好きなくだりは、テレビで見たことないことを指摘されて泣いてしまう零士、村人にクワが刺さったことに対する「事故だったんだよ」というやけにリアルな弁明、3回見た時のワイプの所ジョージがVTRを見ずに恐らくスタジオにいる若手芸人のじゃない方扱いされがちな方にアメカジをプレゼントしてているところ、フットボールアワー後藤がリリースした「高低差ありすぎて耳キーンなるわ」の新作「声高すぎて日本中のイルカこっち向いた」を聞いた零士の「やばっ」と爆笑して、ハイスクールマンザイの出演コンビがテレビで見ている面白い人にいじられた時ぐらいに、はしゃいでいたところ。

 余談だが、個人的に一番、頭の中で綺麗に絵が描けたのは、「海辺からこっちを見ているイルカ」だった。

 さて、敗者復活組ということは、多分、恒例となったあのコーナーにまいりましょう。

 もはや本家で無くなった文化、敗者復活の3組、誰に入れたかスクショを載せよ~のコーナーです。今年、選んだ三組は、イチゴ、生姜猫、豆鉄砲でした。まず、イチゴ、「こいつ声でけーかも」で心を掴まれて、めちゃくちゃ笑いました。徹頭徹尾、意味が不明。生姜猫は、「チェンソーマンの映画を見た」という話題から入って、という予想していない方向へと持っていってくれるという、技術の拙さもまだまだ微笑ましくパンクバンドの如く、沁みました。豆鉄砲は、あの出立ちで、割と理屈的な漫才を見せてくるんですが、東のあのカクカクとした動き含めて、見れば見るほど好きになっていきます。

 20世紀、「今日から俺がムーニーマン」というツカミ、最高でした。あと、木本のスタイリング、スーツと特に革靴が

 そして、新コーナー。うちの子ちゃんグランプリでは、TCクラクションが、今のところ優勝です。今の所というのは、子ども過ぎるため、少しずつしか見ていないためなのですが、ゴリラが元々好きなうちの子は、ひっくり返って笑っていましたので、これが覆ることはなさそうなので、今年はTCクラクションが優勝です。順調に育っていて何よりです。

 ちなみに期待されていたネコ二スズですが、フリの「ママはいずれ死ぬ」というワードにより、我が家では検閲されてしまいました。

 本題に戻ります。

 

 

4組目:エバース

 真面目に漫才を見ているので「人間に車の代わりになってくれ」って無理がすぎることと、さすがに脳みそが披露しかけていたタイミングで糖分が不足していたこともあって、乗り遅れてしまったまま、漫才が終わってしまったというのが本当の第一印象だった。

 この文章を書くために、何度か見直してみての感想は、やっぱり見事なネタである。ただ、あんまり、心に踏み込んでくるようなネタではなく、もしかしたら、あまり好みのネタではないのかもしれないとも思っている。客席もめちゃくちゃウケており、笑いの量で言えば、冒頭からほぼ全てのくだりで、95点近く叩き出していると言っていいほどにウケている。審査員コメントも絶賛の嵐で、結果として870点という今大会一番の点数となった。ナイツ塙の「僕の師匠の内海桂子が、漫才は言葉で絵を描きなさいって教わったんです。今までの歴代チャンピオンはみんな絵が浮かぶんですよ、でも、本当に今日は絵がどんどん浮かんできて」というのは、とりあえず、エバースの漫才への講評で出てきた言葉だということは何かに使えると思うので記録しておこう。おばあちゃんのお葬式とか、坂元裕二に憧れたのが丸わかりの脚本とかに。

 エバースの漫才は、佐々木による町田へのロジカルな追い込みが軸となる。

「町田に車をやらせる」と設定されたスタートに対して、そのゴールは「町田が車になる」、「町田が車にならない」のいずれかとなるが、基本的に観客は「町田が車になる」というルートが選択されることを望み、想定する。そのため、ネタの展開は「どう町田が追い込まれていくか」に限定されてしまうため、佐々木が町田の逃げ道を塞いでいく方法までは流石に予想出来ないにしても、「町田が徐々に納得させられていく」過程が繰り広げられるということが、設定を提示された時点が決められることになる。これは、カナメストーンのネタの構図とは真逆にあると言ってよく、自由が入り込む余地が失われているのである。これは、エバースのネタが雑談なのかという問いにも通じてくる。雑談というのは、道中の余白もゴールもないからこそ、雑談なのである。本当の雑談は雑談を目指しているのかということは哲学的な問いにもなるが、個人的にエバースの漫才にハマりきれない理由を強いてあげるとすれば、それと同様に、論理の動線の不自由さにあるのかもしれない。いや、真面目に漫才を見過ぎだろう。

 そうこう考えているうちに気がついたことが一つある。それは、エバースはブラックマヨネーズの系譜にあるのではないか、ということだ。ブラックマヨネーズのネタがあまりに完璧すぎるため、少しでも論理のぶつけ合い/攻めぎあいが始まると、ブラックマヨネーズを想起してしまう。少なくとも、復活後のM-1グランプリにおいては、いかにブラックマヨネーズの漫才のフォーマットを換骨奪胎するかが水面下で繰り広げられていた。つまり、ブラックマヨネーズじゃないですよという顔をしつつ二人で言い合いをするかということは、意識の有無を問わず、20年代の漫才における裏試練となっていた。

 吉田からのいかなる相談も「皮膚科の先生に相談をする」としてしまうというゴールが決まっているため、徒労に終わることを知りながらも小杉は、吉田の主張に代替案を提示する。吉田も「最終的には皮膚科の先生に相談すればいい」と思っているにも関わらず、小杉の代替案の穴を指摘する。そんなブラックマヨネーズが敷いたレールを、いつの間にかエバースは爆走しかけているのではないか。少なくとも、エバースとブラックマヨネーズの類似性が指摘されているのを見たことはない。

 この見立てが正しければ、誰かが言っていた、『LEON』のゲイリー・オールドマンの悪役を、あらゆる日本の若手俳優が模倣をするも、模倣にとどまっていたところ、『十三人の刺客』にて稲垣吾郎が到達したと話していたが、それに似た感動を感じる。

 エバースのネタが、本当に雑談となった時、とんでもないことになるのではないか。

 好きなくだりは、神奈川県民が言う「えのすい」、「車の免許持ってたらレンタカー借りるだろ」への町田の本気でキレかけているように聞こえる「あ?」が『アナザーストーリー』で放送されていたかなりピリついていた演技指導の賜物だとわかるくだり、「思われねーよ、実際は」、町田からジープへのアハ体験、「人として後ろに下がってんのよ」。

 注意しないといけないくだりは、レンタカーを借りた場合「わ」ナンバーとなってしまうためその時点で車を所持していないことがバレてしまうことと、「なぜならこいつを裁く法律はまだないから」と町田は言うけれど、警察は、明確に違反している法律がない不審者を逮捕する時、とりあえず、一般的に考えられる目的とは異なる目的でその場にいたとして、住居不法侵入や建造物侵入で逮捕するらしいというところ。

 

5組目:真空ジェシカ

 「もう一個上の階かと思ってた」

 ヤーレンズ評でも確認したように「舞台を大きく使う」ということは、漫才のテクニックであるが、上手側、下手側、観客側ではなく、上方にまで舞台を拡張した例は寡聞にして把握していない。ツカミ一つとっても、このクオリティであるため、もう、ボケの面白さや、真空ジェシカがどう進化しているのかは、もうここで語ることは諦めていますので悪しからず。

 「過去5年間で、初めてと言っていいくらいのツカミでのミスをしてしまっている」とスマホのメモ書きにも残していたが、2回目を見た時に、全体的にテンポは悪くなく、よく言えば、例年より伸び伸び漫才をやっていることで、前半が冗長に映っていたのかもしれない。博多華丸の博多大吉が、ネタ時間の長さを指摘していたことと、1点差で最終決戦を逃してしまったこともあって、あー、やっぱりそうか、と引っ張られてしまったのだけれど、笑い飯の哲夫が91点と一番低いんですが、コメントが振られていないので、どう思っての点数なのかが気になる。

 「負けに不思議の負けは無し」と言われるぐらいなので、ツカミから「ワクワクしてきたぁ」までの前半にある弛みとそのことでギアが入るのが遅くなっていたなど、気になった部分はいくつか挙げることができるが、そこも割愛しよう。そのくらい、真空ジェシカが好きなので。

 好きなくだりは、「車椅子テニスの選手が2連続で車のネタ引いたっ」というガクのアドリブを受けた川北が「名門のペーパードライバー講習には一流のペーパードライバーたちが集まるらしいから」と説明する間の普段なら見せないようなニヤつきを堪えている川北の顔、「栄光?」、転売疑惑への予防線を張る中川シャー子、「いや、初めましての時以外もお願いしなくてはならない」、「走るボタンを押せ」、ファントムに対して思い出が一個しかないところ、何回見てもどう考えても何にもかかっていない青しんごだったというオチのオチてなさ。

 真空ジェシカについては、優勝しても、このくらいの分量になりそうな気がします。

 

 

6組目:ヨネダ2000

 ヨネダ2000もまた、真空ジェシカの漫才と同じで、特に語ることはない。なぜなら面白すぎるし、やっていることは素人目においては、その進化や凄さが分からないからだ。でも楽しい、それだけで本当にすごい。そのため、アンタッチャブル柴田の「100万円、ドリブルで稼ぎましょうって設定で入って、あややが邪魔しにきて、でも、二人であやややっちゃって、最終的にあややがダンクしたんで、10万円もらえるってネタ」という説明以上でも以下でもない、というしかない。

 ただ、めぞんの項目で、漫才とその中に出てくるBPMとの違いから生じる、テンポのズレについて話したこともあるので、ヨネダ2000における音楽について考えてみたい。結論からいうと、ヨネダ2000は、漫才の大半に歌を組み込むということで、ある一つの偉業を達成している。

 ちなみに、AIをネギでひっぱたいてみると、松浦亜弥の「桃色片想い」のBPMは、公式情報として明確な記載は少ないですが、楽譜情報やカラオケのテンポ設定からおおよそ150BPM前後、またはそれよりやや速い150~160BPM程度と推測され、明るく軽快なJ-POPらしいテンポ感です、ということを教えてくれた。

 つまり、ヨネダ2000の漫才は、ほぼ、明るく軽快なJ-POPであるわけだが、ネタに音楽を取り込むことを飛び越えて、音楽にネタを組み込むレベルまで持っていくことで、、関東の女性二人が無理しているように見えることなく、関西の男性二人の、つまりは正統であり始祖とされている漫才のテンポにまで肩を並べているということだ。男性二人がこのBPMの漫才をする場合、得てして、言い合いが生じる刺々しいものとなってしまうが、ヨネダ2000の場合は、ハッピーなものとなっている。

 つまり、ヨネダ2000は、関東の女性コンビでありながら、関西の男性漫才コンビに比肩するほどの、テンポを獲得していることになる。当たり前だが、ヨネダ2000は、音楽にフリーライドしているわけではない。「桃色片想い」のBPMを体に叩き込むこと、ネタが音楽に飲み込まれないために練られて随所に配置された数々の笑いどころなど、そこには、どこまでもネタであろうとする強い意志に溢れている。新しいフェミニズムかと問わざるを得ない。

 構成力の高さも見逃せない。「ルールの説明と実践というチュートリアル」、「応用」、「愛が本気になる」という、三幕構成が用いられている上に、それぞれのが長さも絶妙だ。

 だからこそ、愛が100万円をゲットするために本気になる理由が欲しかった。冒頭で一言、愛が100万円を欲しがる理由を話すだけでも、ネタに奥行きがさらに出ていたと思われる。とはいえ、ヨネダ2000には、そのような理由づけがないことがヨネダ2000の魅力でもあるのでもどかしさはあるのだが。

 好きなくだりは、あややにレスをもらって照れている愛、ふっ飛ばされる誠、少し考えて本気を出す愛、あややと愛の対決を別室で見ているわけではないという無意味な設定。

 

 

7組目:たくろう

 たくろうの漫才のシステムを知った状態で、ツカミを見返してみる。

「メガネのパーマ、木村バンドと」

「裸眼のっ、化け物っ、赤木です」

 木村バンドが喋り始めて7秒で、赤木は、木村に巻き込まれて、勝手に追い込まれて、ずれたことを言ってしまう人である、ということを説明していたことに気が付く。挨拶的な笑いを起こすためのものではなく、本当の意味でのツカミとなっている。反面、木村の「リングアナやりたい」という申し出に対して、「リングアナ?何がええのあんなして」から始まって、終始、赤木は木村に乗ろうとしない。結果、赤木がその設定に入るまで50秒以上の時間を使っている。そこまで溜めてから、木村がリングアナ風に「タイトルマッチを行いますっ」とアナウンスし、赤木を見つめる。そこで初めて赤木もリングアナ風の発声で「お願いしますっ」と乗りはじめる。

 一度、緊張と緩和を経てからは、木村の発言の3文字の英語に反応して、赤木がリングアナっぽく喋っていくという、一見すると、単なる大喜利の羅列のような形式をとった漫才となっていくのだけれども、実は、木村から赤木への大喜利のお題が、明確には提示されていない。赤木は、木村の「リングアナを二人でやりたい」という申し出に巻き込まれ、何も分からないが、でも喋らないといけないというプレッシャーに負けて、勝手に大喜利を出されたものとして、空気を探りながら、都度都度答えていく。大喜利羅列系のネタは数あれど、ボケが迎えうつのではなく、ボケが追っかけるとしか言いようがないタイプの漫才は寡聞にしてすぐには思いつかない。

 大喜利羅列系のネタは、基本的には、外しのテンポを入れることはあれど、後半に向かってグルーヴを生み出すために、直線的に、速度は増していくのが定石である。ただ、たくろうのこのネタは、「たくろうのネタを圧縮した名刺としてのツカミ」「なかなか入らない設定」「リングアナとして木村についていく赤木」「選手の名前を合わせられなかったことでテンポを乱していく赤木」という、超早い、遅い、早い、ちょっと早いという順になっていて、これまたよく分からない。

 本当に、不思議なネタである。

 不思議というか、深く考えれば考えるほど、構成、役割、形式すべてが、既存のネタとは何かが徹底的にずれており、不気味の谷の奥底から拾ってきたもののように思えてきて、怖くなってくる。たくろうの漫才を構成する要素一つ一つは、不協和音の原因なのだけれど、すべてを合わせると、調和しているように見えているだけのような気もしてくる。たとえば、自分が産まれてきてから撮影された写真を、何千枚、何万枚とAIに食べさせて生成させた、今の自分の写真を見た時に、遠目から見ると今の自分なのだけれど、じっくり見てみると、誰だこいつ、となることに気がついたものの、一緒に見ている知人たちは、めちゃくちゃ似てるね、と言い合っているような不気味さを持っている。

 「ミッドサマー」の感想を書いているわけではないので、漫才の楽しさに戻ると、この微細に振動するそれぞれのズレが、漫才中盤以降の、深夜の大喜利で何を言っても爆ウケする状態を生み出しているのではないかとしか考察しようがない。

 好きなくだりは、PCR5年連続陽性、BBQウインナー係、「なんで意地悪するの、意地悪線といて」からの「おじいさんちゃう、おさみさんは」、上戸彩の「まだまだ続きが見たくなりますねぇ」という思い出す限り上戸彩から発せられた中でも最上級の賛辞。

 

 

8組目:ドンデコルテ

 狂騒が明けてから、一部の人々に、読書家、けん玉の技術、人の良さ、革靴が趣味というあまりにも、あまりにもすぎるその人物像に、アラフォー界隈に初めて「メロつく」という感情を芽生えさせている渡辺銀次と、4つ下で宜野湾市出身だったら浦添市出身の40歳の筆者なら、友達の友達の弟くらいで繋がりそうな小橋共作。

 全く想定外の展開を見せたという意味では、ドンデコルテは、間違いなく今大会で一番の衝撃度であった。

 シックなブラウンのスリーピーススーツに、個性的な色使いのペイズリー柄のネクタイとポケットチーフを合わせて着こなしている、やけに清潔感がある男が、朗々と歌い上げるかのように、デジタルデトックスのメリットについて語っていく。その中で、自分はデジタルデトックスはやらないということを、さらりと挟んでいたことに気がついた小橋に、なぜ、やらないのかと問われると、男はこう答える。

「渡辺銀次、40歳独身。厚生労働省の定めた基準によると、貧困層に属します。国も認める低所得。私はこんな自分と向き合うのが怖いんです。スマートフォンを置いて、わざわざ意識をはっきりさせてこの現実を直視する勇気などないんです。」

 ここでドカンと笑いが起きる。サンパチマイクの前に立って喋り始めてから1分かけて先述したセリフに入る。この溜めがしっかり効いていたから、本当にやられてしまった。たっぷりとした緊張からの緩和を皮切りに、後半に向けて畳み掛けていくという意味では、たくろうのネタと構成は似ている。また、ネタ全体を通した、「渡辺銀次」という男にまつわる情報の出し方も、文学的だ。最初に渡辺であることを名乗って、相方からはナベさんと呼ばれ、最後に自ら、渡辺銀次と名乗り、思想を開示していく。ものすごく、文章的なテクニックを感じる。というか、こんな感じのことを、小川哲の「言語化する小説思考」に書いていた気がする。

 他にもテクニカルな部分がいくつもある。例えば「古い小銭がピカピカになる動画」、「年金とか保険料は税金なのに税金って言わない」など、ネタ中に出てくる、あるあるの精度も実は高い。また、「大体あの年金とか保険料ってなんで税金って言わねぇんだよ、味方みてぇな顔で近づいてきやがって。あんなのペテンだからな」と現実に向き合いかけた時の喋り方が、これまでと変わることで、現実と向き合っていない時間が虚構の姿であるということを分からせるなどの表現力もある。

 このネタにおける、表現について、セミナーだ、教祖だと言われていたが、昨年の国民が茹だり切ったあの夏に多く見た政治系ショート動画の影響を受けている可能性が全く否定できないものであることは指摘せざるを得ない。見せ方もそこから持ってきているかもしれないし、ウケた理由も観客がそれらを見てあの独特の喋り方を受け入れる余地が出来たからかもしれない。にも関わらず、「自民党はありません」というくだりについて、イデオロギーの左右を問わずに、なぜこんなにも笑えるのかというと、政治の話をしているようでありながら、銀次が実は全く政治の話をしていないからだろう。銀次の主張をよくよく聞いてみると、ただただ、これは自分が現実から目を背けているという話しかしていない。銀次があまりに個人的な話をしているために、第二波フェミニズムのスローガンである「個人的なことは政治的なこと」への誤配が生じてしまっている。これは本来、業の肯定の話である。

 好きなくだりは、銀次のスーツの着こなし、Vtuberが好きだというだけで現実に向き合っていないとも取られなかねない偏見、「自民党はありません」、「敵ではない」というオチから感じる優しさ、あまりにウチナーグチすぎる小橋の「もういいよ」。

 銀次に期待することは、「アメトーーク」の「読書芸人」への加入、カゲヤマ益田の実家を出る前に居住区画をPOPEYEで特集、アルコ&ピース平子とのスーツ購入動画、「気分は上々」でウッチャンにチャーハンを振る舞う、『ONE PIECE』の好きなキャラを3人あげる、爆笑問題太田光に喫煙所でいじられながらも読書の話をしたという話をカーボーイで聞くこと。

 

9組目:豪快キャプテン

 審査員コメントで、ミルクボーイの駒場が、「聞いた方がええ話と、聞かんでええ話」「ほんまに聞かんでええ話を聞いてみたらめちゃくちゃおもろかった」と評していたとおり、本当に、聞いて何の意味もない会話であると同時に、一番、見れば見るほどこのネタの題材の良さ、嘘の無さ、成立している会話に、ドラミングのような大きめの音が叩かれ続けているようなテンポ、どれをとっても惚れ惚れとしてしまう。

 「小さいカバンを買いに行こうと思っているし、相方である山下にも同様に小さなカバンをプレゼントする」という提案をベーやんが持ちかけると、「いや、いらんよ、俺はそんなんね。なんで俺の買ってくるの」と拒否をする。それでも小さなカバンは良いものだというベーやんに対して、「小さいカバンはいらん」と「大きければ大きいほどなんでもいいと思ってます」と、拒否し続ける。大は小を兼ねる論者である山下が、「簡単にいうたら、俺とお前やったらね、俺の方がええです」と自らの思想を提示することで笑いが起き、漫才が始まる。そこから、小さなカバンを持たずにコンビニに行く山下が、ポケットがパンパンであるということへと展開していく。

そこからの「ポケットパンパンな人とすれ違う」、「どこに何が入っているかはポケットの方が把握しやすい」、「ポケットパンパンな人への偏見とその訂正」

までは、見返せば見返すほどめちゃくちゃ面白い。

 山下のキレっぷりもたまらないけれども、そのキレへの正当性を担保しているのは、ベーやんの表現力だ。山下のキレを無効化するかの如く、どこまでも飄々としているので、「ポケットパンパン同士でご飯を食べに行くことになる」、「ポケットパンパンだとお腹もパンパンか」という、ずれた反応も、ただただ本当にズレたことを言っている人であり、あんまり山下の話を聞いていない人になっている表現力も凄い良い。ここまで他人からの説教が体に入っていない人を演じている姿は、昔のバナナマン設楽の演技を彷彿とさせる。その反面、広島弁で、関西でも受け入れられるであろうテンポの漫才をしているところが凄い。

 エバースが亜種としてのブラックマヨネーズからの系譜であるとすれば、豪快キャプテンは、正統な系譜と言ってもいいだろう。加えて、「どこに何が入っているかポケットの方が把握できますやん」からの財布、携帯、カードケースの位置を説明してからの「ポケットパンパンやん」に対しての「ポケットパンパンよ」を経ての、「そんなんいれよったらどこに何があるか把握できんじゃろ」からの「全部教えたやん」という痺れるくだりはミルクボーイ味もある。

 ここで気がついたことがある。

 山下は、べーやんが小さなカバンを購入する分には「勝手に買うたらよろしやん」だが自分の思想的には小さなカバンは不要であるというNOT FOR MEと、不要なプレゼントはいらないという自己決定権、短気が先であるという性格の受け入れ、ポケットがパンパンでも几帳面な人はいるというルッキズムの否定をしている。実は、山下の主張は、めちゃくちゃ令和の価値観じゃないかということに気がついてくる、山下の敬語も、トーンポリシング対策のように思えてくる。ドンデコルテの1本目のオチ「まっじっで凄い」にも通じる、この。数年前なら、ここから「女性が小さなカバンを持っている」という「あるある」が挟まれていたり、そこに展開するネタだとしても、決勝に上がっていた可能性はある。ただ、ウケているネタは、先述した通りに、自分は自分、他人は他人というバウンダリーについてである。そこにもこのネタには希望がある。素晴らしい。どうしよう、山下ギャンブルゴリラが、フィメールラッパーに見えてきた。

 好きなくだりは、綺麗なダイノジ感のあるルック、ベーやんの広島弁を関西弁の漫才に全くの違和感なく落とし込んでいるところと広島弁であれば落とし込めるという発明、ポケットパンパンやん」に対しての「ポケットパンパンよ」を経ての、「そんなんいれよったらどこに何があるか把握できんじゃろ」からの「全部教えたやん」まで。

 想定されるこのテキストへの批判と応答は、NOT FOR ME、自己決定権、ルッキズムの否定というのが、令和の価値観ではなく元々あったもの/あるべきものであったのであるみたいなやつに対して、あくまで人口に膾炙したという意味なので、うるせえ、文脈で察せられるだろ。

 ちなみに僕は、陰獣のフクロウが好きなので、ポケットパンパンの人に重要な仕事を振りません。

 

 

10組目:ママタルト

 少し、エキシビジョンマッチ感が出てしまっていた空気が、それは、ヤーレンズ同様、ママタルトの漫才が楽しいからに他ならない。ママタルトって、なんでこんなに季節に即したネタが合うのだろう。冒頭から少し失礼なことを言ってしまったので、今大会で一番好きなくだりは、「明けましておめでとう」からの「こんな鳥居のギリギリまでチャリで来んな」からの「チェーンでチャリと鳥居をくくるなよ」という肥満の肥満たるゆえんと二重の意味で体重が乗っかかっているくだりであることは、きちんと言っておこう。ここが一番、脳内で絵が描かれました。

 問題点としては、やはり後半の失速と、舞台が初詣先の神社で完結してしまったところだろう。他のネタと比べると、舞台も小さく、ストーリーも単一動線的に思えてしまった。

 好きなくだりは、チャリに鳥居をくくることを檜原に咎められた際に、不謹慎であることではなく、盗まれることを気にしている肥満、「ここの神様、だいぶ海外の絵本やん」、「なんで俺、鳥居くぐる時、TikTokの新入社員やねん」、「全然もうええわ」。

 

 

 

 

 例年であれば、ファイナルラウンドまで感想を書いているが、今年はあまり書く気が起きない。それは家庭の都合で、子を寝かせつけてから自分が寝るまでの1時間で一本のネタを何回も見ながら、感想を書くということに疲れたからというわけではない。無論、手抜きでも、足コキでもない。今年の大会でかけられたネタの数々の感想を書くのは、本当に楽しかった。生活における余白時間が許されるのであれば、敗者復活戦に出た全組のネタについてまで書きたいくらいだ。イチゴについて書きながら、イチゴが一番好きだと言っていた、あののことを嫌がりたい。あなぜなら、それは、皆が言っているように、過去最高レベルの大会に匹敵する大会だったからに他ならない。

 では、去年はどうだったかというと、個人的に、大会後は最悪な気持ちになっていた。これは、令和ロマンの漫才が好みではないからなのかと、一年ずっと塞ぎ込んでいたが、そうではないということに、今大会の感想を書いていて気がついた。昨年は、令和ロマンが二連覇する/阻止されるのかという、レースになっていたことに冷めてしまっていたのだ。令和ロマンの髙比良くるまは、『HUNTER×HUNTER』のパリストンであるということについては、王位継承戦編が完結したあたりでじっくり語ることにして、M-1グランプリを賞レースとして見ていないということに話を戻すと、じゃあ、何として見ているかというと、漫才の博覧会として、だ。

 現時点での漫才を大きく10種類に分別し、その中での一番となった10組の漫才師がそれぞれのネタを披露する。M-1グランプリは、自分にとって、いつしかそういうイメージとなり、賞レース後のウイニングランのようなものだ。だから、順位も、点数も正直、来週には忘れていたりするので、そこへの語りに全く興味が湧かない。漫才の種類を見ることが出来ればそれでいいのである。だからこそ、今年は本当に見ていて満足だった。今年のM-1がめっちゃええ大会だった理由は、1つ。10種類の漫才を見ることができたから、に他ならない。

 ここまで書いていきたことは、基本的には勝手な解釈を持って社会性を付与して、キャッキャキャッキャしているだけである。それが批評であると言われたら嬉しい限りなのだけれども、ここまで色々と書けるのは、それぞれの漫才師が自由にネタを作ってきた結果である。その自由さが、豊潤さにつながっている。だからこそ、2019年以来の満足度の高い大会だったと言われているのである。

 あー、まっじっで楽しかったっ。

 

 さて、本題に入ります。

 知人と、雑談をしております。社会人の二人が雑談をし、その雑談を稟議によって叩いている、テキストコンテンツです。よろしくお願いします。

 

 稟議ディンドンドン

 https://note.com/ringidingdong2

 

 

 ニュートン!りんごが落ちたところでお時間です!(松尾アトム前派出所)

暮れの元「MAD HOPE」

 今年は、ブログを更新しないという目標を立てておりまして、ほぼ、達成できました。
 それは、充電期間中のようなものを設けるというか、いったん、一人でやることをしないでおこうということが、理由となります。
 去年は、本当に最悪な、半年を過ごしました。ただ、僕のすごいところは、そこで反省し、粛々とフォームを変えることが出来るところであり、それは東浩紀言うところの、訂正する力を有しているということに他ならないわけです。では、なぜ、自分を変えるしかないのかというと、僕は原則的に、人は人を変えることができない、もっと言えば、人は人に変えてもらうことすらできないと思っているからです。だから、自分が意識を変えるしかないわけです。世界へのプロンプトを打ち込むのは、自分自身しかいないので、自分自身を変えるしかない。それは決して、アップデートというものではなく、インストールしていくしかない。幸いにも、僕は、そのキャパシティもまた有する、でかつよなので、どんどん、人生におけるあらゆる要素を、乱数としてがんがんに注水していき、それをまず受け入れるという一年でした。抽象的な話はこのくらいにして、具体的なことを振り返りましょう。
 まず、表に出しているものでいうと、「稟議ディンドンドン(https://note.com/ringidingdong2)」という、小林さんという方とテキストコンテンツを始めました。本当の出発は、小説の新人賞挑戦っていうのがあるので、そこから話したほうがいいですね。先述したとおり、ベースには、一人で何かをやることに興奮しなくなっていることに気がついたということがありまして、そこのあたりは、凛ドン(https://note.com/ringidingdong2/n/n1dc55e9c2cfe)を読んでもらえたら、大体の流れはわかるので、今後はご贔屓によろしくお願いします。手前味噌ではありますが、話している内容も、あんまりインターネットで見ないようなことだと自負していて、かなり面白い/興味深いことをやっていると思います。
 次に、全く表に出していないものでいうと、これまた別の方と「北の国から」を揃えて見ていくということをしました。ほんと楽しい作業でしたね。「北の国から」がそもそも、ここまですごい作品だとは思っていなかったんですが、ドラマシリーズからして、すごかった。何といってもセリフが桁違い。でそれを少しずつ見ては、定期的に感想を言い合うんですけど、これもとても楽しかったです。得難い体験となった理由って、やっぱり、今、「北の国から」を見るってことだと思うんですよね。これが、リアルタイムでドロップされていく、Netflixの最新を一緒に見ましょうっていうものとは味が違ってくる。感想も考察とかじゃなくて、五郎、あんま良いお父さんじゃないですよね、とか、原田美枝子いいっすねとか、あ、あんま僕、顔がピンと来てなかったかも、え、石橋静香のお母さんなんですか、言われてみれば似てるわ、とかそのレベルの話と、その実情は雑談に近いんですけど、誰かに左右されない感想を言い合いえるわけですから、これは本当に良かった。ミルクボーイの駒場の審査くらい、めっちゃええすねな体験でした。その方は、同じ、東京ポッド許可局リスナーでもあるので、夏だかに、関東地方で「北の国から」が再放送されることを知った時に、鹿島さん、これって……、となったのも良い思い出です。ペース的に、見終わるのって8月くらいになりそうですね、真夏じゃんってなる予定でしたが、全然、過ぎて、11月くらいになりましたね。「北の国から」って、人間関係の話なので、人間関係で失敗して干される形で、一年で別の部署に移動した自分には染みました。
 仕事で言えば、そうして、誰から見ても、干されたと揶揄されるような部署に行くことになったんですが、そこでめちゃくちゃ仕事しました。仕事あるんかいって、ツッコミましたからね。同期に現状を話すと、そんなわけあるかい、って言われてたんですけど、自分がそう思ってました。いや、これまでで一番残業してるんかいっていう。とはいえ、仕事自体は、やや炎上案件感があったのですが、何とかやり切り、その中で、いろいろなタスクを得たのと、ちゃんとやる人という名刺を新たに配れたので、首の皮一枚でつながりました。それを乗り越えてからは落ち着いて仕事をしているので、重い腰を上げて、これまで馬鹿にしてきた、ビジネスにおけるマネジメントの本とか読んでます。スッカスカなので、一冊、3時間もあれば読めるんですけど、肯定的な気持ちで読んでいます。結局、上司のやることって、ニコニコして、班員からの突然のフリにできる限り急いで取り掛かる以外の何ものでもないんですね。干されたから、勤め先の場所も変わったんですけど、その流れで、自転車で通勤するようになり、なんか自転車では物足りなくなって、徒歩とランにいつの間にか変わりました。めちゃくちゃ健康になっていて、なんか、干されて飛ばされたことで、干されて飛ばされた感が出ている以外は、万事よし、なんじゃないかと、人生の難しさを感じています。これまでに無いくらい、人生を省みた気がしますね。今はもう、うるせえよ、全てがとなってはいますが、ここを経たことで、ミドルエイジクライシスや、鬱になることを回避できそうな気がします。あと、四十肩は、分割キーボードを買ったので、これも回避できるでしょう。
 家庭の話で言うと、一番のニュースは、今年の頭に、こんまりをやりました。妻が音頭をとってこれが実質、3ヶ月くらいかけたんですけど、これもやって良かったですね。ごみ袋を僕だけでも、10袋以上出しました。本も200冊くらい捨てました。
 妻で言うと、妻の不幸ではない選択により、子をワノペ対応することがめちゃくちゃ増えました。それなりに成長してるので、家にいても勝手に遊ぶ時間が増えているので、昔よりは楽になっていますが、毎週土日がそうなので3ヶ月くらいは大変でしたが、今は何とか掴んでおります。僕のことは、バーソロミューくまと呼んでくれ。じゃあ、自我無くなっちゃうじゃん。すいません、ONE PIECEを空島で止まっている皆さん、ネタバレしてしまって。
 ここでエンタメのランキングとか書くべきなんですけど、なんかすごくダルいのでやりません。 
 お笑いでいうと、今年からは、東京への参拝は避けて、行ったことのないところに行こうということで、トム・ブラウンを見に宮城県に、真空ジェシカを見に静岡県へと行ってきました。参拝っていうのは、いわゆる遠征のことで、そこあたりの経緯は、稟議ディンドンドンの「ポスト・遠征」の回をご一読ください。やっぱり、旅はいいですね。行かないとわからないこと、先達はあらまほしきことなりみたいな。え、仙台城ってもう無いんだ、みたいな。確かに、仙台城をテレビで見るとき、伊達政宗の像しか見たことないかもってなりましたね。そして、その近くで、日本で初めてスケートをした場所みたいなのもありました、はず。
 来年は、あと半年近く、小説の賞の結果を待たないといけないのかなりダルいからもう一本書き始めるかとか、仕事は落ち着きそうだなとか、2月のタイタンライブ30周年楽しみだなとか、そっから先は夏まで参拝できないからどうしようかな、そんときはこれまで見れていなかった話題の配信とか見ればいいかとかありますが、どうにでもなるし、どうにもなりませんからね。

 以上、暮れの元気なご挨拶でした。
 それでは、良いお年を。

M-1グランプリ2025宇宙最速感想

ご無沙汰しております。

今年もまた、ビジネスホテルにてM-1グランプリを見ました。

 

 

 

一組目はヤーレンズ

ヤーレンズは内側にこもってしまうという弱点を、卑怯スレスレで積極的に周りを巻き込むようなくだりを入れていて、ネタに広がりを見せている。その上で、ネタの流れもスムーズで、ボケが渋滞していないように思えるっていう意味では技術面でも進化しているように思える。ここ一年は単独に行けたり、タイタンライブでもみれたりと色々と見ましたが、マジで、ヤーレンズのなかでも完璧な出来だったんじゃないでしょうか。外にも内にも完璧。麻生太郎、サッチャーと、こちらも、意味が発生しない範囲なんだけど、引っ掛かりのあるくだりもあって、ただの適当喋っているだけじゃない感もいいんですよね。実は前のタイタンライブでかけていたネタですが、ほんとにボケがほぼ別物になっていて、笑いました。

 


二組目はめぞん

完全に初見のコンビ。展開までがちょっと遅い気はしましたね。こういう、完全にフィクションである漫才ってさらに、裏切りをもう一個入れないとだいぶ乗れないというか、初見では、誰にも感情移入できないから、どこかで見たくだりを組み合わせているようにしか見えなくなってしまう気はします。

 


三組目は敗者復活組のカナメストーン。

中盤、よく聴くとダレた部分もあったんですが、要所要所で、自分たちの持ちくだりを入れまくって、それが綺麗にはまって、持ち直してましたね。ほんっと、無垢な中学生のふざけ合いを純度高めまくった感じと言いますか。お見事でした。

敗者復活で好きだったので、パッと書きたいのは、生姜猫ですね。発想がとてもよかったですね。ツカミで、「チェンソーマンの映画見た?」というもので、そこで、おっとなるわけですけど、そこから、〇〇警察の話になって、そこで終わるのかと思ったら、警察にオラつく若者が入ってくるという展開は予想できなかったんで、この多角的な広がりには興奮しました。それでも、まだ発声が全然出来ていない感じとかが若さであり、見ている中でのフックとなってとてもよかったです。ちなみに、チェンソーマンの映画は、あまりに映画であり、台風クラブや学校の怪談を彷彿とさせる、素晴らしかったです。

 


豆鉄砲。修学旅行のカメラマンの漫才。このルックで、理屈的というか、概念の話をする漫才をしていて、面白いんですよね。同じ感じで言うと、空前メテオが、キヨスクがどーのこーのって漫才をしていて、それも良かった。定義の曖昧さ、グレーさを突いてくる着眼点といえば良いのでしょうか。

 


敗者復活戦のブロック代表はそれぞれ、20世紀、カナメストーン、ミキでした。そして、決勝戦に出場したのは、カナメストーン。この3組で、発想、楽しさ、面白さ、笑いの量、技術、それぞれが何かで突出しているという感じでしたが、審査員が一番掻き乱すであろうコンビを送り込みたいという気持ちの差で、カナメストーンになった気がしますね。

しかし、20世紀の木本のスーツ姿、めちゃくちゃかっこよかったですね。ああいうデザインの革靴ってずっと欲しいんですけど、なんて調べれば良いんですか?

 

 

 

四組目はエバース。前提が、町田を車になってほしいって無茶苦茶すぎるんですけど、その無茶苦茶さが、なぜかリアリティを持ち出すという、で、それが飛躍していればするほど、グルーヴが産まれるってことなんですけど、すごかったですね。個人的には、もうちょっと前半が短くても良いかなって思いましたけど。末締め?的なワードを狙いに行かなかったのも、自然で良いですね。

 

 

 

五組は真空ジェシカ。最初は、スタートのリズムを掴み損なったかなという印象を受けました。だから、本音を言うと、いつもよりは乗り切れなかった気がしたので、ヒヤヒヤの方が勝りました。多分、2本目にさらに強いのを持ってこようとしていた作戦(単独ライブとかでもっと面白いネタがあった)かと思うんですけど、ちょっと、このスタートダッシュ失敗(と思っている)が影響したのかなと思います。初めてのタイプのミスな気がします。

 

 

 

六組目はヨネダ2000。

 


しばんちゃんが、最後にネタを15秒でまとめていたんですけど、図らずもそれが、しばんちゃんのネタの読解力と、ただただおバカで楽しいネタということではなく、構成も展開を入れて、飽きさせないようにしているということが明らかになってましたね。

 


七組目 たくろう

待ってましたよ、本当に。数年前の準決勝で、タイムラインに衝撃を走らせたことを覚えている。このネタについてはまだ感想がまとまっていないので追って。実はこのネタではそんなにハマらなかったので、点数がめちゃくちゃ伸びたのは意外でした。

 


八組目 ドンデコルテ

ダメな鳥肌実と言いたくなるような、政治的的(誤字じゃないよ)な漫才で、技術もあって面白いのに、ここまで名前を聞かなかったというのは、本当に、時代が雨で、芸が車理論を思い出させるほどに、時代にマッチした(これはかなりめんどくさく表現しないといけないので追って)ネタだったと思います。実際、渡辺銀次は、マンキンタンというコンビで、ロケットライブという番組の時に、このコンビが一回見て、めちゃくちゃ面白かったんですよね。だから光るものは当時からあったわけなんですけど、やはり、何かそれ以外のものが降りてきた(ここでいう時代性)と言わざるを得ないと思います。デジタルデトックスというネタ選びも自然な話かと思います。政治的な主張の皮をかぶった、自分の業を肯定してくれという甘えですからね。

 


九組目 豪快キャプテン

点数はあんまり伸びませんでしたが、変則的なネタだらけだったので、喋りあう漫才に久々に会えた感で嬉しくて、シンプルに楽しく見ました。ギャンゴリの人間性を、爆笑問題カーボーイで太田さんに絡まれているのを知っていたので、それがあるかもしれません。審査員が言っていたように、小さなカバンを貰えば良いんだけど、小さなカバンを認めていないから貰おうとしなかったり、ポケットがパンパンでも生活できるという、我の強さに説得力があるルックをしているからそれが強い。

 

 

 

十組目 ママタルト

面白かったんですけど、エキシビジョン的に感じてしまいました。

 

 

 

ファイナルラウンド ドンデコルテ、エバース、たくろう

 ドンデコルテがちょっとだけネタをずらしてきたなかで、エバースの2本目は顔芸を入れたり、比較的笑いが生まれやすいような、初速が速いネタで、一本目とカラーを変えてきて、あーこれはエバースかなーってなっているところに、たくろうが全ボケさらにハメてきて、上回って優勝するという素晴らしいファイナルラウンドになって、久々に、どうなってしまうんだー状態に陥ってとても興奮しました。