石をつかんで潜め(Nip the Buds)

ex俺だって日藝中退したかった

重要な夢の競演のお知らせ。

どうも、こんばんは。
それはともかく、アイドルファンは重要なお知らせという言葉を、お笑いファンは夢の共演という言葉に苦い思い出を持つといいますが、当ブログより重要な夢の競演のお知らせがあります。
「俺だって日藝中退したかった」というブログをしばらく書いていたのですが、特に、コラムの執筆依頼が来ることもなく、売れる気配がないので、本にして売ることにしました。いわゆる、同人誌ですね。

ラインナップは


(1)君は『Qさま!!』での吉木りさを目撃したか。
(2)「2013年のラジオたち、これからすごいことになるぜ」
(3)中国人の罠にひっかかった話と、お金の話。
(4)『泣くな、はらちゃん』は一話が100点
(5)深夜に届いたラブレター
(6)ここは忙しいけど、迎えに行くぜ。
(7)妻の名は希望
(8)『超落語!立川談笑落語全集』は悪書である。
(9)頭をデザインする番組『考えるカラス
(10)伊集院光の「同窓会に行った話」
(11)コサキンが『ウチくる!?』DEワァオ!
(12)3本の漫才
(13)アルピーだって決勝行きたかった。
(14)『ダイノジ大谷のANNR』〜ぼくがブロガーになった理由〜
(15)お笑い界のPerfumeを見に行ったら、ももクロに会えた。
(16)種市死ね
(17)いつも心に加藤浩次を。
(18)ボクらの想像力の時代
(19)テレビを体感する番組『リアル脱出ゲームTV』
(20)政見放送かと思ったら、長井秀和の漫談でした。
(21)僕達は「恋するフォーチュンクッキー」が名曲だということと、指原莉乃のアイドルとしての正しさを混同すべきではない。
(22)くりぃむしちゅー上田の天下取り宣言
(23)『安堂ロイド』は電波豚ブーブくんの夢を見るか
(24)古美門研介の捲土重来を期せよ。
(25)グランジ遠山の、見る前に跳べの精神
(26)深夜ラジオ流行語大賞13&ベストラジオ13
(27)死にたい死にたいって言いながら生きていくからな、ずっと。
(28)異形のコント師日本エレキテル連合
(29)それぞれの「実存のゼロ地点」
(30)小説を応用するために、筒井康隆『創作の極意と掟』を読もう。
(31)JAPANESE PARTYバスツアー日誌『愛の渦』
(32)三四郎の、オルタナ漫才絶対頑張ります!
(33)スポットライトの中に立っていてね。
(34)「愛は愛でいつかどこかにたどり着くさ」


以上の34本です。
全部で10万字くらいあります。元記事は、ブログの中にありますが、かなりの加筆修正を加えました。自分でいうのもなんですが、かなり読み応えはあると思います。ほとんどが、上記のタイトルで、このブログに散らばっているので、気になる方は、読んでみてください。もし面白いと感じてもらえれば、今回の本は満足してもらえると思います。2011年から2014年上半期までのテレビラジオの感想と、年齢分の業を詰め込みました。
よろしくお願いします。


☆『俺だって日藝中退したかった』通信販売の流れ

①BOOTHでの購入

(1)下記サイトをご確認ください。送料の分、直接購入より高くなっています。また、送り主にも住所が分からないようになっております。

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ツイッターやっています。
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『怒り新党』の「臨時党大会」から考える有吉弘行のバランス感覚

 有吉弘行夏目三久が結婚したことも驚きだったが、それよりもその二人が出会ったきっかけである『怒り新党』の「臨時党大会」という名の、一夜限りの復活のほうが衝撃的だった。有吉の芸風的に、二度と共演することはないという思い込みは、軽々と裏切られた。

 『かりそめ天国』でのもう中学生の築地ロケに笑いながら、『怒り新党』のパートを待つ。番組が始まると、懐かしいセットをバックに、有吉と夏目が所在なさげに立ってマツコ・デラックスをスタジオに入るのを待っているという画には、やはり興奮してしまった。

 三人が揃い、マツコが芸能リポーターばりに二人のことを聞いている中で、夏目の今後の進退の話になると、二人で相談した結果、夏目が全ての仕事を辞めるといことが発表される。

 そこで有吉は「まあほら、何か、みんなの話を聞くと、離婚の理由ってすれ違いか、価値観の違いじゃない。ダブル違いでしょ。価値観のほうは、まあ、無理だとしても、すれ違いだけ潰しとくかみたいな。」と二人が出した答えに至ったロジックを説明する。これだけでも名フレーズであるものの、名著『お前はもうすでに死んでいる』で感じられた、リアリストの徹底したリスクヘッジでしかないが、もう一つのやり取りがあったことで、今回の放送がさらに意義のあるものたらしめた。 

 それは視聴者からの、昨年から凝った料理を自炊をしたり、椎茸やサボテンを育てるようになったのは、夏目の影響だったのかと思ったという内容の手紙が読まれると、有吉は「これはちょっと僕の名誉のために言わしてほしいんですけど、まったくそういう影響は無いです。僕個人の、僕個人の成長です。」ときっぱりと明言する。その後に、マツコに圧をかけられる形で、「結婚の影響です」と半ば言わされてはいたものの、やはり、ギラギラした芸人が自分のことを気遣った行動の数々は、自分自身の成長の賜物であると有吉が発言したことには大きい。

 「すれ違いだけ潰しとくか」「僕個人の成長です」というこの二つの言葉が揃うことで、有吉と夏目の選択は、互いを尊重した結果であるということが際立った。

 これを成立させる、有吉のバランス感覚たるや。

 この番組のなかで繊細なポイントは二つ。性的マイノリティに属するマツコがウェディングドレスを着るという演出と、夏目が仕事を辞めるという報告だ。

 いずれも扱いを誤ると大きなミスにつながりそうなセンシティブな題材だが、有吉は、軽やかに処理していた。これは、キツイことを言った後に、笑い顔を見せて、ジョークですよとエクスキューズを見せるというような小手先の技術だけの話ではない。

 有吉がマツコへの結婚報告を直接出来なかった顛末を、笑いを交えてトークすることで、マツコが有吉に攻撃する流れが生まれる。この導線がスムーズに機能したことで、有吉がいじられる側に立てた。この場面で、いじられる側に立つこと決められることも凄い。そして、この角度でいじられるなら、やはり、マツコしかいない。

 今回の「臨時党大会」が無ければ、夏目が半年後に引退した時に受ける印象はまた違ったものではなかったのではないか。そのことを考えると、おしゃクソ事変に匹敵する名勝負だったと思う。この放送に対して議論を仕掛けてくるなら、それなりの覚悟を持ってこいよという凄みもあった。

 そんなことを、打ちっぱなしのコンクリートの壁に向かってブツブツと喋りかけていたら、知人から今週とその発端となった前々週の有吉のラジオ『SUNDAY NIGHT DREAMER』を聞くように勧められ、音源が入ったMDを譲り受けた。まず、2021年4月11日の放送のオープニングで、拘置所から送られたリスナーからの手紙が読まれる。検閲され黒塗りになっていたことをいじりつつ読み上げて笑わせる。

 それから二週間後の2021年4月28日の放送で、先の手紙を送った人から、放送内で読んだことに対するリアクションとして再度手紙が届く。そこには、常識に沿って考えたら、いわゆる他者の合理性のサンプルのような行動が詰まっていて、もう笑うしかなくなってくる内容だった。

 手紙を送った人は、同じラジオを聴いているということだけが唯一の接点だが、それには、ある種の許容を生み出す力がある。しょうがねぇなあ、に持っていく推進力だ。

 有吉は自らが産んだ流れが、メディアに与えられるギャラクシー賞をもらえるんじゃないかと期待し始め、全く関係無い話から刑務所に話を繋げたり、良い話を引き出そうと、アシスタントの二人にカツアゲまがいのことをする。そして、番組のラストで、有吉はこう叫ぶ。

 「私は、あなたたちを許します!」

 黒塗りの手紙から始まった物語がいつのまにか、有吉弘行に回収されるというオチのコントになっていて、きっかけそのものはきっかけでしか無くなっていた。このバランス感覚たるや、である。

 さて、当たり前のように、「バランスが良い」と有吉のことを2回も評した。読んでいる人にも、そのニュアンスは伝わり、確かになあと思ってくれた人もいることだろう。この当たり前に使われる、バランスが良いという言葉について具体的な指標はもちろんない。基本的に、芸人に対して主に使われるが、ただ単にミスをしないだけではあまり使われない。例えば、麒麟の川島であれば、いわゆる、まわしの旨さであったり、その場その場での緩急の付け方など、安心感があるとは言えるだろうが、バランス感覚が良いというのは、ややしっくり来ない。少なくともその芸風も関わってくる。危ないと思わせるギリギリのところまで踏み込むと思われている芸風であることが必須条件である気がしてくる。

 そうして考えてみると、バランス感覚を持っていると思わされる何人かの芸人の言動がいくつか思い浮かんでくる。それを一つ一つ挙げても良いが、バランス感覚を理解できない人達から、遡って袋叩きにあいそうなので、それは辞めておくが、「バランスが良い」人たちは、全員売れっ子ではないだろうか。これはメンタリズムでも何でもなく、きっと現在売れているという事実も重要な要素だからだ。

 売れていることで、視聴者は勝手にその芸人やタレントの言動には多くの制約が設けられると思い込む。ましてや、今の場面は炎上しちゃうんじゃないかと勝手に心配してしまうようなご時世であれば尚更だ。

 バランスが良いとされる人たちは、そこのラインを見極める。社会的なアウトと、点を線で見てくれるファンだからこそ踏み込んでほしいところのキワキワのラインを見極め、あえてそこまで踏み込み、いや、少しだけ飛び超え、疑念を持たれる前に元の位置に戻り、話の方向を変える。この場合は危機に限らず、名誉すらも避けられる。

 言ってみれば、バランス感覚があるというのは幻想でしかない。しかし、視聴者側の勝手な線引きと、演者の嗅覚と場の舵取りという確かな技術に裏打ちされた位置取り。それらが揃って初めて、バランス感覚すげぇなあとなるのではないか。

『「テレビは見ない」というけれど エンタメコンテンツをフェミニズム・ジェンダーから読む』感想。

 『「テレビは見ない」というけれど エンタメコンテンツをフェミニズムジェンダーから読む』を読みました。

 この本の情報を見つけた瞬間、即予約。別に早く読みたいということではなく、読みたくねえ〜と思ったからだ。だからこそ、読まなければならないとも思ったためである。

 テレビについて語るということは、物凄く簡単だ。書き起こしにエモや肯定だけを散りばめるか、この本のように、フェミニズムなどの理論をもって、引っかかった点を議論の俎上にあげる。このいずれかをすれば、それなりに読まれるという現状は少なからずある。ただし、この二つの読者は基本的には交わらない。ここが一番にして最大の問題点だ。

 テレビラジオを楽しんでいる人たちからすれば、前者は読んでいて楽しいが後者は叱られているようで楽しくない。フェミニストから見たら、テレビラジオなどは、まだまだ差別が横行する場所であり、そこが批判されているのを見るのはやはり気持ちが良い。だからそれぞれが自分たちの好きな文章を読んで終わる。あくまで、一般的な印象ではあるものの、概ね間違っていないと思う。

 この本は、西森路代が主となって、清田隆之、松岡宗嗣、武田砂鉄、前川直哉、佐藤結、岩根彰子、鈴木みのりが、主に国内のバラエティやドラマが寄稿している。テレビラジオ好きが、Twitterをやっていても、西森と武田くらいしか知らないのではないか、この二人を知っていても、基本的には、テレビバラエティをチェックするような視線をもっている二人なので、特に男性はあまり良い印象を持っていないのではないかとも推測している。このメンバーに、テレビ等を好意的な視点で描く、てれびのスキマや飲用テレビ、ドラマで言えば青春ゾンビなどが入っていないということは、双方にとっての限界にある本だと深読みすることが出来る。本来であれば、この二人が入り、横断されることで、前進しなければならないはずだ。そしてそれが出来ているのは現状、渋谷知美くらいしかいない。

 もちろん、本の性質上、勉強になりこそすれ、バラエティについては楽しいことは書かれていない。槍玉に挙げられているという嫌な気持ちになる可能性の方が高い。だから、この本自体は読みやすくはあるものの、フェミニズムの勉強の入門ということでこの本を手に取ることはあまりお勧めできない。ある程度、考え方としてのフェミニズムにまつわる本を読んでからのほうが望ましい。この本は、フェミニズム批評を用いてエンタメコンテンツを語っているものなので、まずは、フェミニズムがどういうものなのかということを、それなりに理解し、どういった考えがフェミニズム批評のベースとなっているのかということを踏まえないと、いちゃもんをつけられているとなってしまうからである。批評というのは、見たい読みたいというとこにまで持っていかなければならないし、視点を多角的にさせなければならないと思うが、第七世代を傷つけない笑いという視点で見ようとは思わないだろう。

 読んでて全然楽しくなかったわけだけれども、読んで良かったとも思う。

 西森は、バラエティ番組については、「第七世代が浮き彫りにするテレビの問題点」「テレビ史から見える女性芸人というロールモデルと可能性」「わきまえない女たち 女性芸人とフェミニズムとエンパワーメント」、テレビドラマについては、「フェミニズの視点を取り入れた日本のドラマの変遷 二〇一四年から現在まで」、「坂元裕二宮藤官九郎野木亜紀子 三人の作家とフェミニズム」をこの本で書いている。ちなみに、この本では、西森に限らずエンパワーメントという言葉が頻繁に出てくる。権限委譲という意味とのことだが、もしかしたらフェミニズムの文脈ではもう少し違った意味になるのかもしれない。

 これらの文章の判断は、実際に読んでもらってしてもらうものとして、個人的な印象でいえば、バラエテイの章については、ちょっと自らの結論に必要なところだけを拾っていないかなといった感じなど、色々と思うところはあるが、何より、気になっているのはバラエティについて書いているのに、見て楽しんでいるというのが全く伝わってこないということだ。ここが、どうしても個人的には引っかかってしまう。笑いについて書いているのだから、どこで笑ったかということも加えなければ失礼な気がするが、それもある意味でのトーンポリシングになってしまうのだろうか。そこも含めて、自らの差別意識を顕在化させる意味もあるのだろう。

 ドラマの章は、割合、楽しく読めた。坂元裕二の「問題のあるレストラン」は他の人の文章にも取り上げられていたように、おそらく近年のフェミニズム批評的にも、重要な作品であるということが窺えるが、特に、宮藤官九郎の「監獄のお姫さま」が、宮藤官九郎が最近の作品で、女性の叫びを描く契機となっているという旨の指摘などは、あまりこの作品を楽しめなかった者としては膝を打つ指摘であった。

 基本的に、Twitterという文字数が限られた媒体であれば、どうしたって、必要な結論に至るまでの論理や思考が削られてしまうので、殴り合いになってしまうし、印象は悪くなる。ただ、本になることで、西森の考えなどを認識、理解することがそれなりに出来た。全てに同意することは出来ないが、今後、西森の文章を読む素養は出来た気がする。そういう意味でも、バラエティの章も含めて、読んでよかったと思っている。西森のことを好きになることはないが、指摘の必要性ということをより分かった。

 その他にも、岩根彰子の「画面の向こうとこちらをつなぐシスターフッド」は、読み応えがあった。本当にドラマが好きな人であるということが伝わってくるだけでなく、なるほどそういう見方があるのかなと気づきもあった。

 さて、問題は、清田隆之が書いた「人気バラエティー番組でのジェンダーの描かれ方」という文章である。バラエティを語ることは、簡単であるという見本のようなものだった。一見すると、正当な主張のように読めるが、よくよく読むと、疑問点が浮かび上がってくる。

 フェミニズム批評というのは、あくまで批評をフェミニズムの観点からやるものであると認識している。そのため、批評のルールやマナーに則られなければならないものであるが、そういったものが蔑ろになっていたり、意図的かそうで無いか不明だけれども誤読や誤解、自説ありきの切り取りといった、テレビは簡単に批評出来ることの弊害が、清田の「人気バラエティー番組でのジェンダーの描かれ方」という文章は、それらに満ちていて、ちょっとひどいなと思わずにはいられなかった。

 清田は、冒頭から「本書の書名ではないが、筆者自身もほとんどテレビを見ない」と書いているが、その後に、「欠かさず見ている番組は特になく、寝しなにぼんやりバラエティーを眺めるか、SNS(会員制交流サイト)で話題になっているドラマやドキュメンタリー「TVer」「paravi」「Hulu」といった動画配信サービスで後追いするのがもっぱらの視聴スタイルだ。」と続く。

 見てんじゃん。

 その視聴時間は書いていないが少なくとも、ほとんど見ないとは言ってはいけないだろう。テレビで放映されることを前提として作成された番組を、動画配信サービスを通して見た場合、テレビを見たとカウントしないというのは詭弁だ。清田は、テレビの現状にうんざりして見ていないというポジションと、現在のバラエティ番組を批評できる資格を有する程度にはテレビを見ているというポジションの両方を獲得しようとして、こういった矛盾が生じている。このような、意図的な誘導や、誤読が少なくない。リアルタイムで見なくなったが、や、毎週欠かさず見ている番組は無くなったが、で済む話だ。

 ここから、「ロンドンハーツ」「しゃべくり007」「水曜日のダウンタウン」「全力!脱力タイムズ」「月曜から夜更かし」「激レアさんを連れてきた。」を取り上げ、「本章の執筆期間に放送されて回のなかからジェンダー的な視点で違和感を抱いたシーンにフォーカスしながら、そこで描いている構図や提示しているメッセージなどについて考察」していく。

 もう一点、考察として不十分だなと思ったのは、ここで「水曜日のダウンタウン」で取り上げたパートだ。

 「ネタ番組でつけられたキャッチフレーズ、どんなにしんどいものでも渋々受け入れちゃう説」での、3時のヒロインに提案された「男社会に喝!女性差別差別絶対反対!超濃厚フェミニズムトリオ!3時のヒロイン!」「ズバッと鋭く論破論破論破!男社会にタックルだ!令和のトリプル田嶋陽子!3時のひろいん!」の二つだ。

 見た時は、腹を抱えて笑ったが、一緒に見ていた妻は椅子から転げ落ちるくらい笑っていたが、もちろん、そういう指摘はあるだろうなともチラついたことは確かだ。

 清田の主張はこうだ。

 「バラエティー番組のなかでイジられるということは、視聴者にとって「からかっていい対象ですよ」というサインになりかねない。例えば『水曜日のダウンタウン』で3時のヒロインにつけられた「男社会に喝!女性差別差別絶対反対!超濃厚フェミニズムトリオ!3時のヒロイン!」というキャッチフレーズは、明確にフェミニズムをちゃかしている。二つ目の「ズバッと鋭く論破論破論破!男社会にタックルだ!令和のトリプル田嶋陽子3時のヒロイン!」にいたっては、「フェミニズムの直接表現に配慮」という注釈をつけたうえで提示されていた。おちょくるようなコピーを勝手に作っておきながら、「フェミニストに怒られちゃうかも(笑)」と言わんばかりの注釈をつけ、さらに田嶋陽子の名前まで持ち出してイジり倒している、誰がどのような意図でやったことかは説明していないが、フェミニズムを「からかっていいもの」として扱っていることは間違いなく、そこに根深いミソジニー女性嫌悪)を感じざるをえない。」

 清田の指摘は一理あるが、一理しかない。すでに書いたように、少なくとも僕は、このくだりを見て腹を抱えて笑った。少なくとも僕は、この清田が指摘しただけの一つの構造でしかなかったら、鼻で笑うくらいだっただろう。能動的に配信でお笑いライブを買って、ほぼ声を出して笑わないまま見終わって、あーあのネタ良かったなと思うくらい、笑うという行為のネジがバカになってる自分が腹抱えて笑うということは、単純な笑いではないということは自分が一番知っている。

 ここには、3時のヒロインのネタが全くそうではないこと、それなのに、大きなものを背負わされそうになって困惑している様、そして、そういったものを背負わせるだけ背負わせて後々勝手に失望していく人たちなど多くのことを連想させるから、爆笑できるのである。たしかにここを考えた作家の人は、めちゃくちゃ筆は乗ったとは否定できないが、やはり単純なものではない。

 繰り返すが清田の指摘は正しいが、それらを踏まえないとフェアな批評とは言えないんじゃないかなと思う。問題は、そんな端々で危うさが見つかってしまうこの章だが、全体を通して見ると、かなりの説得力を持っているように読める。しかし、フェミニズム批評は、批評全体の内側にあるものだ。だから、批評のルールは誠実さを持って守らなければならない。フェミニズムの視点から論じているから多少の乱暴は許されるということは決してない。

 改めていうが、この本は、フェミニズムに興味がある人だけでなく、マスコミ関係に就職したい人、今も働いている人、フェミニズム批評がただ単にバラエティにいちゃもんをつけているようにしか思えない人などなど、あらゆる人が必読な本だろう。

 この本を読むことで、テレビ等がどういう視点でチェックされている時代なのかを把握するという意味でも重要だ。もちろん、ただ単に、炎上防止のためのチェック項目を知ることが出来るということも出来るが、それでは本当の意味での、差別をなくすということには繋がらないので、ここに出た作品をチェックする等をしなければならないし、他のフェミニズムの本も読むなどをしなければならないということは言っておきたい。

 アップデートアップデートと言われるが、アップデートは1から2になるものではない。1.1や1.03のように刻まれていくものだ。人によってその数字は違うが、そのくらい読んで損はないと思う。いやマジでね。

 以上!(厚切りジェイソン

お知らせ

クイックジャパンウェブにて、AUNコンビ大喜利王決定戦というライブのレポを書かせてもらいました。

ご一読、面白ければ配信の購入お願いいたします。

ほんと、3時間近くふざけ倒してて、かつ大喜利は面白くて最高にオススメです。

 

 

 

 

とりあえず一年の記録

一年近く経過して、現在自分が間違えているのか正しいことが出来ているのか分からなくなったのでとりあえずまとめてみます。

最近は仕事が慌ただしく、そのこともあって時々、マスクが煩わしく感じられ、仕事中、喋っていない時は、たまに外すようになっている。人に話しかけられたらきちんとつけるが、トイレに行くときや、歯を磨くときの移動の時は外していたりする。

マスクは不織布マスクを使っていたが、耳が痛くなるので、ユニクロのものを利用している。週末や休みの日は、子供の散歩を担当しているのだけれど、その時や、コンビニなどで小さな買い物をするときはマスクを外している。コンビニなどは、支払いは電子マネーなので、一言程度は発することもある。例えば、昔なら、こういった日記を書くときは、モスバーガーなどにも行っていたが、今はそういうことは全く無くなった。

五輪について、さっさと中止を決定しろとは思うが、もともとスポーツに全くと言っていいほど興味がないので、自分が五輪を中止しろというのはフェアではないと思っていたが、もうそんな段階ではないとも思っている。

一方、文化で言えば、この大型連休に合わせて準備されていたライブ等が壊滅的な状態になったわけだけれど、これに関して言えば、例えば政治はどうするべきだったのかということを考える。事前に、三月くらいに、このまま行けば、大型連休前に、緊急事態宣言を出さざるをえなくなると明確に言えば、ここまでライブ等への打撃は大きくなかったのではないか。こう後手後手に回っている印象などからは、五輪開催ありきで動いていると思われてもしかたのないと思うことは正しいのだろうか。

あくまで自衛のために、マスクや手洗いなどは継続し、外食なども少なくしている。

自民党憎しや他山の石で、東京と大阪の首長があれだからムカつくという感情になっているのかもう判断がつかない。例えば、うちの知事はよくやっていると思うのは何らかのバイアスがかかった認知なのだろうか。

為政者がアホやから遠征がでけへん。

それはそうだが、よくよく考えてみると、それなりの皺寄せなどはあるものの、自分にとって、コロナ禍における不都合というのはそれだけではないのかと思い、もっと苦しい人がいるにも関わらず、ただ怒っているだけなのは欺瞞ではないのか。

六月に東京に行きたいと考えている。

もちろん、日帰りで史上最短史上最悪の遠征にするつもりではあったけれど、どうししても夜の部に行きたい。そうなると一泊しないといけない。

じゃあ、そのあと、PCR検査はどのタイミングでやれば、周りの人に迷惑をかけないですむかなども、まったく分からない。自分のコロナへの知識というものはその程度でしかない。そもそも、県外に行くことを上司に言わないとダメかなーなんて思っているレベルだ。

一年頑張ったから、今の生活と同じように、感染対策をすれば大丈夫だろうと思うのは、気が緩んでいるのだろうか。それもわからない。

本当に、粛々と日々を暮らしているだけだ。

とりあえず、今の思考の記録或いは吐き出しとして留めておく。

 

 

 

 


こういうことを書くと嫌われるんだろうなと思ったので、ついでに書くが、渡辺直美のオリンピッグの件。テレビのコーマシャル作っているやつなんてこんなレベルの発想だし、今もそういうのが普通に放送されてるだろと思っていたら、思いの外、みんなが嫌悪感を露わにしていた。もちろん、つまらないというのは共有しているが、もっと冷めて、怒るほどその連中の発想に期待していないというのがあった。

 


こういったズレを忘れないようにしたいと思う。

伊集院光 深夜の馬鹿力(2021.4.6)放送分感想

 2021年4月5日放送の『伊集院光 深夜の馬鹿力』を聴きました。かなりのベスト回でした。
 新しい前の席の笑い声担当が埼京パンダースの河野和夫という、一時的かもしれないけれども、長年のリスナーからしたら座りが良い形に収まったというトークから始まり、この回は帝王と呼ばれ始めたことの弊害として、フワにイジられたことへのリアクションから始まり、Uber eatsで「四川風のモツのピリ辛炒め」を頼んだら猫に食べられて、しかもそのことで妻に怒られた話、『おしん』を見ていたけど内容がつらすぎて落ち込んでいたところに脚本家である橋田壽賀子が亡くなって、いつかは『とらじおと』にゲストとして来てもらって『おしん』の話をしたかったけど、叶わぬ夢になってしまう。そして、三遊亭円楽と寿司を食べに行った話へと入っていく。軍艦島にロケに行った話もとても良かった。
 フワからいじられて思ったことへのトークは、朝から爆笑して聞いきながら脳が滾り、総毛立つほどに興奮して、それは、エヴァンゲリオンを最近見た影響で脊椎に電極を指していたというのもあるけれど、その日は1日、余韻に浸っていたが、それはその内容の痛快さもさることながら、「やっぱり伊集院さんムカついていたんだ」ということも乗っかっている。他にも、「稼げるところまで稼いだらコロナ終りで留学しようくらいのプランが・・・・・・」というくだりで、元ブルゾンちえみこと藤原史織までさり気なく斬りつけているあたりなんて惚れ惚れしてしまう。
 誤解されているのと、お前は長年のリスナーだからそんなこと言ってるんだろうと言われるのも嫌ではあるが、伊集院光は配慮の人だ。例えば、伊集院が落語家ということを隠してラジオパーソナリティとして活動をしていた頃に、立川談春立川志らくらに、そのことを番組中にばらされそうになるという話は、そこだけを聞くと、この二人は、ひどい奴らだなとなるが、これから売れようとしている当時の若手同士、さらには落語という伝統芸能を背負っているということへの思いというのは、そこだけでは測れないものであるという説明をさらりと挟んでいたりする。そういった心遣いというか、誰かに何かを言われない、怒られないことへの細やかなフリについて、人一倍気を使う人だということはリスナーならば理解しており、だからこそ、冒頭でいきなりフワについて話したことが面白すぎるのである。余談だが、深夜番組の中では相当の長寿番組となっているこの番組だが、恐らく、一番と言っていいほど、その週初めて聞いた人に優しい番組となっている。その位、説明などを入れてくれるし、それが嫌みったらしくないのが、伊集院光という男の話芸なのだ。
 フワや神田伯山からの、下からのツッツキに反応したというトークゾーンをだけを切り取って、伊集院大人気ねえだとか、いや、伊集院さんは身に振る火の粉を払っただけだとか、伊集院の行為の正しさを問うことは簡単だ。むしろ、そこに陥っている人は、SNSに毒されているとすら僕は思う。長年のリスナーは、伊集院光という存在の全て正しさを求めていない。少なくとも僕はそうだ。勘違いされては困るが、番組でのトークに引いている時は引いている。子供の頃の写真をヤギに食べさせていた話なんて、ドン引きだ。 
 あくまで、フワに関するトークは、師匠である三遊亭圓楽と寿司を食べに行った話への照れ隠しであり、自分でその話を低い水準に持っていくという行為だと受け取った。その目論見のとおり、この話をしたことで、この回は、ウェットな神回になり損ね、問題回またはベスト回となった。
 2時間を通しで聴き終わったあと、とても満たされた気持ちになっていて、その理由と、「わ」から始まる単語でどうやって芸能人の悪口を言うかを考えていたけれど、ある瞬間、その答えに気がついた。
 この日の放送は、生きていくということそのものじゃないかと。 
 皆がなぁなぁにしていることに大人気なくムカついたりして余計なことを言ったり、予想外な失敗が降りかかって間抜けなことになった被害者は自分のはずなのに何故か怒られたり、やれたら良いなと思っていたことに間に合わなかったことに気がついて後悔したり残念な気持ちになったり、自分だけが正しいと思って誰かと競い合ったり、そのことを振り返って自分の若さと過ちに気付いてを反省したり、余計なことを言いすぎたと反省したり、身勝手な行動の後始末を知らない間に誰かにしてもらって助けられていたり、生きていくということは、それらの積み重ねで総じてみっともないけれども、寄りかかれる人がいるだけで、捨てたもんじゃないと思えて、また明日から頑張れる。
 例えば、伊集院は、自身と圓楽のことを「神と信徒みたいなものだから」と例えていたが、それこそ、先代の三遊亭圓楽と今の三遊亭圓楽伊集院光とリスナーがそれに当たる。それだけじゃない。伊集院が話していた『おしん』のあらすじや、軍艦島にまつわるエピソードの数々もまた、生きていくということを感じさせるもので、入子構造のようになっている。トークは過去と現在が行ったり来たりし、時間軸が混沌と、しかし秩序を保ったまま存在する。これこそが伊集院光トークの真髄だ。どのエピソードも、一ヶ月に一回出れば嬉しいかなというレベルのものだが、それが一週間に一気に聞けたのだから、そりゃあ満足するし、興奮する。本人も最後に「なんかー、6時間くらい喋ったような気がすんなぁ、今日は。遠ぉーい昔のようだよ、オープニングが。」と、こぼすはずだ。
 伊集院光、ここにあり、という放送だったと思います。

思ヱヴァ遠くへ来たもんだ

先日、『シンエヴァンゲリオン』を見てきました。

初見の感想は、「上手くまとめてはいるけれども、上げようとして作られているところで上がりきれず、個人的には不完全燃焼ではあるけれども、大団円を迎えることが出来たのではないでしょうか」というものでした。もちろん、ミサトが髪をかきあげるところなどは流石に上がりましたが。

何より、TVシリーズから振り返っても、アスカが一番頑張っているなと改めて思わされて、アスカの最後の戦闘シーンは一番込み上げてくるものがあり、そこは泣けました。やっぱり、アスカだよ。

なのに、上がりきれなかったのは、Qを復習していなかったことと思われます。もうすでに、何をしているのか分からなくなっていたという自らの不徳の致すところです。

 あと、一番の要因は、要所要所で「90年代だなー」と思ってしまったところ。「逃げちゃダメだ」というテーマは最初からのものであるものの、「逃げるは恥だが役に立つ」と言われるように、あまりに時代から離れてしまっているなあと思ってしまいました。結局は、父殺しの物語になってしまうんかいというのもある。

 あと、5年、いや3年早く完結していれば、素直に感動出来たのかもしれないはいられなかった。大きく言って、この二つが感情にブレーキをかけてしまっていました。

 帰宅して数日経った後、気が進まないけれど、一応、見返してみようかな、という気持ちを持っていたある日、一度、眠りにつくも、1時間ほどで起きてしまい、すぐには寝られそうにないという状態のなか、まあ、見てみるかという気持ちで、部屋の電気を全て消し、ヘッドホンをつけて、見ると、これがめちゃくちゃ良い。

 あんなに、退屈だった、シンジとカヲル君のピアノの連弾のシーンの意図が分かり、心にじんわりと沁みてくるし、あんなにムカついていた、ミサトを始めとする周囲の大人のシンジへの説明のしなさの意図がおおよそではあるが理解できる。

 シンジは、コミュニケーションが言語でしか出来ないと思っているけれども、そうではないという希望が描かれており、

 説明をしないではなく、シンジがああなることが想定つくから、説明をすることが出来ないのだと理解できる。もちろん、細かい設定などはほぼ調べていないけれども、情報の取捨選択のスキルが少しは上がっているから、これは雰囲気のワードだなと捨てることが出来る。

 そして、シンを見ていることで、この物語がどこに向かっているのか、そしてQがどういう位置付けにあるのかということが分かっているので、そこも正誤はさておき、ついていけてる。それらがクリアになった時、この作品の立ち位置を理解することが少しは出来ました。

 真っ暗な部屋でヘッドホンをつけて見るというエヴァとの最初の出会いと同じ視聴方法が正しいのではないのかと思うようになっている。リアルタイムではなく、かつVHSではあったものの、大学受験中という鬱屈した心境で見た時と同じように。

 総評すると、少年は神話にならずに神木になったのだ!というラストにこそ、物凄い意味を読み解けられそうな気もする。

とりあえずなるはやでおかわりしようと思います。