たまげるくらいに面白かった阿部幸大「ナラティヴの被害学」(以下、「ナラ」とする。)読了後、「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」(以下、ネルソンさんとする。ネルソンとする場合は、登場人物のこと)を観てきたが、これがびっくりするほどに完璧に副読本となっていたので、色々と共有したい。その前にナラより前提を抜粋する。
(p10)
「ナラティヴ」とは日本語に訳せば「物語」という意味になるが、本書では「ナラティヴ」に、もうすこし限定的な意味を与えようとしている。まず、ナラティヴとは、ある事象に与えられる、「このような原因や動機や順序にしたがって、このような一連の出来事が起こりました」という説明である。それは、なんらかの対象について知るための回路であり、「なるほどそういう原因と動機と順序で、そういう出来事が起こったのか」と人が理解するための装置である。ナラティヴとは解釈であり、われわれは、このナラティヴという「窓」を介して対象にアクセスすることによってのみ、その対象から意味を受け取ることができる。つまりナラティヴとは、知識の形式である。
(16p)
ナラティヴという用語は人文学の基本概念だが、被害学(victimology)は私が本書によって人文学の対話に新たに導入しようとしている方法論である。たとえばフェミニズムがあらゆる現象からジェンダーという論点を抽出するように、ナラティヴの被害学は、あらゆるナラティヴから被害/加害という論点を抽出しようとするものである。
(17p)
あるナラティヴが、誰が被害者で誰が加害者であったという理解を受け手に与えるか、さらにはその理解に基づいて、人々がどのように物事を考え、感じ、そして発言し行動するようになるか、誰に同情し、誰を嫌悪するようになるか、そういった諸効果についてクリティカルに検討すること
「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」のネルソンは、アフリカ系アメリカ人のベトナム帰還兵であり、戦争の体験に関する講演会を重ねてきた=ナラティヴを紡いできた実在の人物である。そして、ナラは主に近代のアメリカ史と、アメリカの小説や映画のナラティヴを分析する論文集である。つまり、「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」は「ナラティブの被害学」の射程圏内ど真ん中にある作品となる。特に、本書を、映画の鑑賞にあたり、読んでみるのであれば、「第6章 デブラ・グラニク『足跡はかき消して』におけるベトナム戦争と9・11以降のホームランド」「第8章 『トップガン』シリーズにおけるアメリカの軍事史と例外主義」「第10章 ティム・オブライエンとヴィエト・タン・ウェンにおけるベトナム帰還兵と癒しの旅」が良い。ちなみにこの本を読んでいると、沖縄のことは書いていないのに、沖縄のことを書いていると思わずにはいられないという意味でも必読である。
さて、以下は、覚書と所管となる。一回しか見てないので、記憶違いがあればすみません。
⚪︎アメリカはベトナム戦争において、敗北者であり加害者であるが、ナラティブによって歴史を修正してきた
世界史におけるベトナム戦争ではなく、アメリカにおけるベトナム戦争の受容については以下のとおりとして学んだ。
「保守にとってベトナムとはアメリカを苦しめるトラウマであり、それを忘却するないしは修正することでアメリカ人は回復し、前にーーつまり、新たな戦争にーー進む必要がある。リベラルにとってそれはベトナム、ラオス、カンボジアの人びとにとたいしてアメリカがふるった暴力にほかならず、ベトナム戦争はアメリカ例外主義というものが建国以来常に武力行使を正当化するために動員されてきたナラティヴであることを暴いた戦争として記録されるものである」(156p)
以下、ナラまとめ。アメリカはベトナム戦争において、敗北者であり加害者であることは、歴史的な事実である。そのため、アメリカの保守政治家からはベトナム戦争はアメリカのグレートネストを棄損したものとなる。レーガンらにより、「ベトナム戦争における被害者はベトナム人ではなくアメリカ人兵士であったというこの修正主義的な歴史」(302p)は再配布され、新たにナショナリズムの形成に使用された。
「かくしてベトナム戦争はアメリカの「文化的トラウマ」として再構築された。保守かリベラルかを問わず、アメリカはベトナム戦争における被害性と加害性の物語をアメリカ国内の問題として完結させ、ベトナム、ラオス、カンボジアの真の被害者の存在を忘却し、消去してゆくことになった」(303p)
これは、日本の様々な南京大虐殺、慰安婦、沖縄戦における日本軍からの自殺強要などにも当てはめられるだろう。ちなみに、スパイディの新作にも出てくる、ハルクはまさに、ベトナム戦争における帰還兵とPTSDの関係性が表出されたものとして受容されてきた歴史があるとのこと。
⚪︎ポストメモリー世代
マリアン・ハーシュによる言葉。ざっくりまとめると、親たちが経験したものの悲惨な記憶を、自分では経験はしていないもののナラティヴや、平和学習などで受け継いだ世代のこと。
ネルソンの息子ショーンは、まさにベトナム戦争におけるポストメモリー世代ということになる。ショーンは、父であるネルソンのPTSDのことを把握しているにも関わらず、軍人という職業に就くことへの忌避感を持っていない。このズレは、ポストメモリー世代への記憶の継承の困難さを表しており、その表象が、ショーンは妻の連れ子であり、ネルソンとは血が繋がっていないという設定になっていると推測できる。
リリー・フランキー演じる黒井という、ネルソンの戦争体験を取りまとめている人が、自分の親もまた、戦争経験者であり、家庭内において暴力を振るっていたということ、つまり自らはポストメモリー世代であることをネルソンに告白するシーンがあるが、その時の二人の構図はというと、ネルソンはトイレに、黒井はトイレの外にいる。二人の間には、分厚いコンクリートの壁が屹立していることもまた、ポストメモリー世代への継承の困難さの表れである。排泄する場所であるトイレという記号において、個室トイレの室内にいるネルソンは排泄を堪え、黒井は個室トイレの前で漏らしてしまうという反転している。ここで、ネルソンが漏らさなようにしているものは、トラウマの発露たる暴力や、ベトナムでの発話として聞くに耐えない言葉なのだろう。日本やアメリカでの公演とは異なる語り口が必要であるため、改めて表象の困難さと、2回のターンとフォークロアを歌うという、心の中の汚穢をナラティブに変えるというスイッチングを個室トイレの中で実践する必要があった。
ちなみに、僕は40代であり、沖縄戦における、ポストメモリー世代の子ども、つまりはポストポストメモリー世代となる。要は、沖縄戦においてその被害者となることが出来ない世代と言ってもよく、このことと、古謝玄太を支持していた割合が最も多いのが30代、40代男性であるということは、無関係ではないと思われる。また、「ワンピース」におけるホーディーたちもまた、ポストメモリー世代と言える。
⚪︎ベトコンを見つけることが出来なかった場合もあることについて
映画において、ベトコンがいる村と目星をつけて、実際には手当たり次第歩いて見かけた村を襲っているだけなのでそこに作戦などはないわけだが、村を焼き討ち、村人を虐殺するも、結局はベトコンを見つけることができなかったシーンがあった。この空振りとなった捜索は、イラク戦争において、大量破壊兵器を発見されなかったことを想起させる重要なシーンだ。つまり、イラク戦争で大量破壊兵器を発見することができなかったという敗北の歴史は、アメリカにおける初めての軍事作戦における失敗ではなく、敵を措定する命題を組織において定着させ、駆逐のためであれば、さしたる根拠がなく、疑わしきだけで罰して、失敗を咎められないというアメリカの手口は、ベトナム戦争の頃からあったナラティヴであるとされ、アメリカ史への再接続が試みられる。これは、塚本監督における歴史修正を認めず、解除する作業であり、そのアティチュードに痺れる。
そしてこの手口のゲートウェイとなるのが、アジア人は差別していいということを内面化させて行われた沖縄での女性を買った代金やタクシー料金の踏み倒しとなる。
⚪︎裏「宝島」として
全編の割合からすれば、1割にも満たないと思うが、ネルソンを初めとした兵隊たちが、ベトナムへの派兵前に、軍人としてのスキルの習得と、心得を内面化する作業が沖縄県でなされるシーンは、裏「宝島」となっていた。やはり、印象的なのは、「沖縄はテーマパークだった」という旨の術懐である。とはいえ、これは「今もってなお」と言わざるをえないという現実がある。彼らは、休暇中に、コザの街に繰り出し、女性に、買春をすると見せかけてお金を踏み倒すという性加害を加え、タクシーにただ乗りをして運賃を要求した運転手に暴行を加える。ここで、アベノミクスが主張した経済とは異なり、暴力と差別はいともたやすくトリクルダウンされるということが提示される。そのことを「宝島」で描かれたコザ暴動に接続されると、より泣き笑いしてしまう最高なシーンとなる。
現在、沖縄ではホテルがガンガン立っている。僕は、これを憂うべき状況だとは全然思わないけれども、かといって素晴らしい状況だとも思わないことに加えて、避けられるべき状況だったとも決して思わない。沖縄は、まだまだテーマパーク化し、ことあるごとに主張しているけれどもハワイのようになっていくと思っている。ここでいうハワイとは概念のことになるが、観光客ファーストとなり、地価が上がり、地元民が元々の居住区に住めなくなってしまったり、歴史がウォッシュされたり、観光産業に依存してしまうため大して所得は上がらず、一部の県外企業や元々の地元の強い企業だけに富が一極集中するような状態にいつの間にか鳴ってしまっているということである。日本初のカジノができるのは沖縄県かもしれない。それは新しい知事が辺野古基地への移設を容認したことで、北部にまでその「経済効果」は広がっていくだろう。割を食うのは、搾取される誰か、何か、ということを考え続けていかなければならない。そう危惧している。その途中に、歴史が反復され、もう一度、沖縄県内において暴動が起きた時に、カタルシスを感じずにいられるかは分からない。
⚪︎カウンセリングのシーンについて
PTSDを治療するためにネルソンは、精神科医ニールのカウンセリングを受ける。ここは作中でも反復されつつ、少しずつ前に進むことが示される、重要なシーンだが、二つの違和感があった。まず、一つ目は、フロイトの精神分析に基づいたカウンセリングは、患者はカウチソファに座って、医者と顔を合わせずに、治療に関係のあることやないことを話しながら行われるはずだが、本作では、向き合って話し合っている。ここについては、最後に、精神科医もPTSDの治療も始まったばかりであったため、手探りだったことを伝えるシーンで回収される。では、カウンセリングそのものは不十分だったのかというと、そうではない。この欠落は、こちらも終盤において、カウチソファに座るネルソンに対して、息子ショーンが背後に立って、顔を見ずに手だけをネルソンの手に添えるシーンにおいて、埋められる。不完全な治療法は、家族のケアによって補完されていた。これらは斎藤環「イルカの否定進学」「生きのびるためのラカン」を読んでいた知識による。ちなみに、精神科医ニールが白人であることはやはり、白色人種と有色人種の階級における非対称性を感じずにいられないが、最後に友好関係を結んでいることがわかり安堵した。
二つ目の違和感は、カウンセリングにおいて、精神科医ニールの「なぜ、人を殺したのか」という質問の反復である。これは、戦場における隊長などからの「なぜ、人を殺さない」という投げかけれる続ける問いかけを反転させたものである。であるがゆえに、ニールの質問もまた、同様に誘導しているとも取ることができる。これはおそらく、ネルソンは自分が被害者であること、また、戦争だから殺さないと殺されるから殺したという一元的な視点に閉じこもっているところから、ネルソン自身で抜け出させるためのもの、つまり自らの手で脱構築させることが目的のはずだが、カウンセリングとしては危ういものだろうと思いながら見ていた。一つ目と同じく、その不完全さは、作中でその理由を明かされることになるため、なるほどね、となった次第である。
⚪︎ベトナムでの講演について
ベトナムで、ネルソンは戦争体験について講演を行うことになる。ここについて、ベトナムの風景やベトナム料理がほぼスクリーンに投影されていなかったことからも、これは観光ではないと観客に突きつけてくる。そして、ベトナムシーンでの風景といえば、ネルソンの講演を見にきている、満席の聴衆の視線である。もちろん、本来の視線はネルソンに向けられているわけだが、その「なんて言う?」という眼差しは、もちろん、観客である我々に向けられている。ネルソンは、ナラティヴを構築している。さて、あなたたちはどう構築するのか、と。それはまるで、口ロロの新曲「We See The Light」のように我々に問いかける。
ただし、白色人種は、前線に黒人を送り続けていただけでなく、贖罪まで黒人にやらせるのかとイラつきは忘れないでおきたい。
ナラで知ったことで驚いのだが、ベトナム帰還兵が、傷を癒すために、ベトナムに改めて観光に行くということは、アメリカとベトナムの国交正常化の流れで、アメリカが推進していたこともあって、一部では実際に行われていという。そしてそれは心の傷の治癒に一定程度、有効だったという。
⚪︎残飯の上で立ちすくむネズミについて
繰り返しカットインされる、残飯を漁るネズミのシーンがある。この気持ち悪い映像は、ベトナムでは野ネズミのように森の中を這いずり回り、アメリカでは戦争に行かなかった者のおこぼれをもらって都市を逃げ回るドブネズミとなってしまったネルソンの心象風景として受け取ることができる。カウンセリングのシーンにおいて、フロイトの話をしたが、そのフロイトを再解釈したジャック・ラカンの精神分析に倣えば、残飯の上にいるネズミは、ネルソンの現実界ということになる。現実界については、斎藤環「生き延びるためのラカン」より抜粋する。
「認識したりコントロールしたりできる領域が想像界。精神分析の力を借りるなど、限られた状況下でなら認識・コントロールもある程度可能なのが象徴界。いかなる方法論をもってしても、認識もコントロールも不可能な領域が現実界、ということになる。」
ベトナムでの従軍とアメリカでのホームレス体験を経て、アンコントローラブルであるネルソンの現実界は、残飯のなかで立ち尽くすネズミという状態になってしまった。それはナラティヴを構築し続けている間も、ずっと変わらなくなってしまったものとなる。そして、半ば脈絡もなく、残飯の上にいるネズミという吐き出したくなるシーンの投影が反復されることは、いつ出るかわからないPTSDの症状を演出したことが分かってくる。
飛躍した話をすると、映画を見てしばらくは、ネズミからタートルズのスプリンター先生しか連想することが出来なかった。タートルズは、ニューヨークの黒人が居住する地帯のメタファーだとされているため、接続することは可能だけどなあと思っていたが、スプリンター先生からタートルズへの「街に行くな」という警告もまた、スプリンター先生からタートルズたちへのメモリーの継承の困難さであることに気づいた。傑作「ミュータント・タートルズ:ミュータント・パニック!」を見ると、シェーンとその友達の気持ちが分かるかもしれない。ちなみにスパイダーバースシリーズのモラレスは、タートルズより恵まれた階級なんだなということも見えてくる。
⚪︎小学生からの質問が歌っているようだったことについて
「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」という小学生からの質問について、メロディアスで歌われるように、問いが投げられていた。まるで反戦歌としても受容されている「グリーングリーン」のようなフォークロアを想起させる。
そしてまたネルソンが現実界を、象徴界である言語活動へと変換するスイッチにも、音楽は用いられる。
以上です。
上映館数が増加してほしいですね。