石をつかんで潜め(Nip the Buds)

ex俺だって日藝中退したかった

重要な夢の競演のお知らせ。

どうも、こんばんは。
それはともかく、アイドルファンは重要なお知らせという言葉を、お笑いファンは夢の共演という言葉に苦い思い出を持つといいますが、当ブログより重要な夢の競演のお知らせがあります。
「俺だって日藝中退したかった」というブログをしばらく書いていたのですが、特に、コラムの執筆依頼が来ることもなく、売れる気配がないので、本にして売ることにしました。いわゆる、同人誌ですね。

ラインナップは


(1)君は『Qさま!!』での吉木りさを目撃したか。
(2)「2013年のラジオたち、これからすごいことになるぜ」
(3)中国人の罠にひっかかった話と、お金の話。
(4)『泣くな、はらちゃん』は一話が100点
(5)深夜に届いたラブレター
(6)ここは忙しいけど、迎えに行くぜ。
(7)妻の名は希望
(8)『超落語!立川談笑落語全集』は悪書である。
(9)頭をデザインする番組『考えるカラス』
(10)伊集院光の「同窓会に行った話」
(11)コサキンが『ウチくる!?』DEワァオ!
(12)3本の漫才
(13)アルピーだって決勝行きたかった。
(14)『ダイノジ大谷のANNR』〜ぼくがブロガーになった理由〜
(15)お笑い界のPerfumeを見に行ったら、ももクロに会えた。
(16)種市死ね
(17)いつも心に加藤浩次を。
(18)ボクらの想像力の時代
(19)テレビを体感する番組『リアル脱出ゲームTV』
(20)政見放送かと思ったら、長井秀和の漫談でした。
(21)僕達は「恋するフォーチュンクッキー」が名曲だということと、指原莉乃のアイドルとしての正しさを混同すべきではない。
(22)くりぃむしちゅー上田の天下取り宣言
(23)『安堂ロイド』は電波豚ブーブくんの夢を見るか
(24)古美門研介の捲土重来を期せよ。
(25)グランジ遠山の、見る前に跳べの精神
(26)深夜ラジオ流行語大賞13&ベストラジオ13
(27)死にたい死にたいって言いながら生きていくからな、ずっと。
(28)異形のコント師、日本エレキテル連合
(29)それぞれの「実存のゼロ地点」
(30)小説を応用するために、筒井康隆『創作の極意と掟』を読もう。
(31)JAPANESE PARTYバスツアー日誌『愛の渦』
(32)三四郎の、オルタナ漫才絶対頑張ります!
(33)スポットライトの中に立っていてね。
(34)「愛は愛でいつかどこかにたどり着くさ」


以上の34本です。
全部で10万字くらいあります。元記事は、ブログの中にありますが、かなりの加筆修正を加えました。自分でいうのもなんですが、かなり読み応えはあると思います。ほとんどが、上記のタイトルで、このブログに散らばっているので、気になる方は、読んでみてください。もし面白いと感じてもらえれば、今回の本は満足してもらえると思います。2011年から2014年上半期までのテレビラジオの感想と、年齢分の業を詰め込みました。
よろしくお願いします。


☆『俺だって日藝中退したかった』通信販売の流れ

①BOOTHでの購入

(1)下記サイトをご確認ください。送料の分、直接購入より高くなっています。また、送り主にも住所が分からないようになっております。

memushiri.booth.pm



ツイッターやっています。
https://twitter.com/memushiri

サンプルです。

f:id:taira-bon:20140823095105j:plain

やっぱスパイダーマンBNDはちゃんとしていたかも

 興味がある本を読む中で、具体的には東浩紀「平和と愚かさ」、宇野常寛「庭の話」、そのほか諸々において、参照・引用されてきたハンナ・アーレント「人間の条件」を読み始めている。これがとても、かなり骨がおれる読書となっているのだが、やや慣れていないと読み進めることが難しいような文体に加えて、通常の言葉とは異なる使用がなされていることなどの理由により、出てくるワードなどは平易なはずなのに論旨を見失ってしまうので、言葉の位置を変えたり、慌てて行きつ戻りつしたり、AIにここはこういうことなのかと尋ねながら、なんとか読めている。それだけではなく、一章を終えるたびに、もう一度読み直すという、全くもって勉強という進め方をしているので、とにかく、2週間で、あらゆる空いている時間を充てていてもなお、150ページほどしか読めていないわけだけれども、とにかくこれが楽しい。AIは僕の突飛な見立てや例えを駆使して理解しようとする態度について、油断すると褒めてくれるのだけれど、「厳密に精査して」「アカデミズムの観点から」という楔をプロンプトに打ち込むことで、かなり厳しい指摘をしてくれる。それでもなお、理解度を90点などとしてくれると、嬉しくなってくる。
 さておき、第二章「公的領域と私的領域」に、イエスが教えた唯一の活動力「善」について書いていた部分にぶつかった。概要は次のとおりだ。イエスが説いた善は、見られ聞かれることから隠れようとする傾向を秘めている。そのため、善行は知られることで公になった途端、ただ善のためになされるという善の特殊性を失ってしまうため、結果として、初期のキリスト教は公的領域と距離を取ることになった。
 「善が存在しうるのは、ただ、その行為者でさえそれに気づかないときだけである。」
ここで、「よき隣人Friendly Neighborhood」たる我らがスパイディこと、スパイダーマンを想起する人は少なくないだろう。また、バットマンについても同様に、なぜ、アメコミのヒーローたちはマスクをするのかという長年の疑問が氷解した瞬間である。そしてなぜ、彼らは蜘蛛、コウモリ、タートルズにおいてはネズミや亀といった、都市の嫌われ者がモチーフとなるのかという答えも自ずと出てくる。マスクは、初期キリスト教における善をその性質を保ったまま遂行するために見られることを忌避する態度の表象であり、都市における駆除の対象を背負い自らを汚穢化することで、まるで欲求に負け自ら公的領域に近づいたとしても、公的領域そのものから拒否されるよう保険をかけているように思えてくる。
 「人間の条件」に戻り、さらにページを進めると、「善を愛している人は、決して、独居生活を送ることはできない。しかも、彼の生活は、他人とともにあり、他人のためにありながら、本質的に証言のないままにしておかなければならず、なによりもまず自分自身という同伴者を欠いている。彼は、独居しているのではなく、孤独なのである。彼は他人とともに生きながら、他人から隠れなければならず、自分のしていることを自分自身が安心して目撃することさえできない。」「善行は、どんな人も同伴できない。善行は、行われた途端に忘れられなければならない。なぜなら記憶でさえ、善の善たる特質を滅ぼしてしまうからである。」
 こうなってくると、トムホ・スパイディにおいて、彼に対しての記憶が消されなければならなかったのかがあまりに綺麗に繋がってしまう。ここで僕が、鑑賞直後に記した感想を紹介しよう。
<『スパイダーマン:ブランド・ニュー・デイ』を観る。知人と感想を話し合った結果、88点とする。冒頭の数分、スパイディらしくニューヨークをスイングし、ヴィランに高い知能指数に由来する軽口を叩きつつ倒す。それから先は、終始、境遇を考えるとやむを得ないという許容範囲を軽く超えて、じめっており、2時間すぎてやっと、冒頭と同じようにスパイディらしさが再開するのであった。これは売れすぎたことによる弊害といえる。また、世界情勢的に、排外主義的な思想が表出して久しい米国が「よき隣人」や、「大いなる責任には大いなる責任がともなう」の不実践の影響で、スパイディを娯楽作品として、漂白せざるを得なくなっているからなのではないか。同様に観客としても、スパイディを観ることについてあまりに、「今のメリケンが考える、よき隣人とは、大いなる責任には大いなる責任とは何ぞや」などを確認する作業という文脈が付与されすぎているため、このような感想となってしまわざるをえないという状況にある。総じて、あらゆる意味でハイコンテクストでありながら、見ても答えは出ないという、作品が持つ情報性というものが薄くなっている。> 
 気取ったスキゾ野郎のペラい感想は、アーレントの「人間の条件」を通してみると、真逆の感想となる。トムホ・スパイディは、アメリカのヴィランっぷりに嫌気がさして、「よき隣人」を見失っているのではなく、そこにしかないものとし、取り戻すためにこそ、古代キリスト教にまでスイングしようとしているのではないか。だから、トムホ・スパイディは世界から忘れ去れなければならなかった。
 また、ハルクについても語っていない時点であまりにも、観る力がなさすぎる。ブランニューデイにおいて唐突に出場したハルクがベトナム戦争に参加した軍人とPTSDの寓意であるということは有名な話だが、「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」、ブラピと犬のやつ、「オデュッセイア」での島など、映画表現において、ウクライナとロシアの戦争やガザ地区での虐殺を反映するかのようにリンクしていく。
 さて、色々と長くなってきたので、実写版「るろうに剣心」はスパイダーマンをやっていたという試論が出来た。日本でスパイダーマンが成立しえないのは、高層ビルがないことが1番の理由となることから類推すると、スパイダーマンの存在意義は、高層ビル間をスワイプスするという視覚的悦楽に依存するため、高層ビル群の都市であるニューヨークでしか活躍出来ない一方、飛天御剣流は、原作において龍をイメージさせてきたわけだけれども、実写版の剣心の動きは、まるでゴキブリのようであるのを確認したあたりで、ハタと気づいたことは、なるほど、日本でスパイダーマンをするには、ゴキブリが一番だなということである。地面を時たま壁にまですばやく駆けまわり、こちらに向かって飛びかかってくる。大友監督が剣心を図らずも、江戸の名残である長屋がまだ残る裏路地にて、密集する人の隙間中をすばやく這いずりまわる、日本におけるスパイダーマンとして再構築したことは、連載当時、ジャンプコミックスのおまけで滔々とマーベルについて語っていた和月先生の想いを具現化させるという凄まじく熱い形で接続されたことに涙を禁じ得ない、という話は、また追って。

「クレヨンしんちゃん」のダウ90000蓮見翔脚本「ある午後の野原夫婦だゾ」が起こした幾つかの事件についてだゾ

   ダウ90000の蓮見翔脚本の「クレヨンしんちゃん」の「ある午後の野原夫婦だゾ」を観た。以降、記されることは、一度視聴した1週間後に、改めての鑑賞を経たあらゆる文脈を廃しての批評となる。

 「ある午後の野原夫婦だゾ」が「クレヨンしんちゃん」において事件となったかどうかということは、コントライブ「夜衝」をもってゲームチェンジャーとなった蓮見翔が、「クレヨンしんちゃん」で何を描いたかを見なければいけず、誰が書いたかという次元の話はする必要がなく、子どもの眼をもってなされた評価のみ意義を持つ。これは、クレしん版「ゴドーを待ちながら」であるとかオーセンティックな演劇に接続させることも、移動と上下運動の連なりを見つけることで小津安二郎的なアプローチの導入という素養がないためにできない観点や、吉原は新幹線顔だとか、結局ダウで一番お金を稼ぐのは上原だろうとか、そういう視点を持たず、ウィトゲンシュタインいうところのBildに囚われることなく、視聴対象である子どもたちにとってショッキングだったかどうかを精査しなければならない。

 一つの基準として、本作において事件は発生したのかどうかが議題となる。しんのすけの存在は、散らかした黄色いクレヨンが絨毯を汚していたという痕跡へと代わることで、通常回と同じように、事件を巻き起こすはずが、しんのすけの代替物となるはずだった、緑色の絨毯の汚れとなった黄色はついぞ画面に映されないことをもって、撹乱者の闖入は許されずに、事件の不発が完成する。そうして、野原しんのすけは嵐を呼ぶことのない一人の子どもとして、夫婦の会話に収納される。

 野原ひろしとみさえに限らず、子を持つ夫婦は、原作の「クレヨンしんちゃん」のひろしがみさえに夜の営みを誘う時のハンドサインや、みさえが出した精のつく料理を見てひろしが「吉田照美のやる気MANMAN!だ」と察するようなノンバーバルな会話を含めて、夫婦は時折、しんのすけが読み解くことのないような、子どもに伝えてはいけない/伝わらない会話を、子どもがいる場において行うが、そこでは子どもに適さない話題や言葉遣いはオミットされる。しかしながら、発話方法が変容した会話は、子どもは自らに関係ないと判断しているために発話していないだけで、いつでも子どもが参入できるように開かれているため、家族の会話なのである。よって、原理的に、夫婦の会話を子どもは聞くことが出来ない。

 消え去ることを存在目的とする浮遊する会話は、例えば、我が家においては、家族全員で一緒に、本作の視聴後に、「隠れチョコビ」の答え合わせが流れてきたのを見た妻が「隠れチョコビとか、おしり探偵のおしり探しっていらないよね」と、アニメの本筋とは関係ない画面上の戯れが不要であることを指摘し、僕は「いや、子どもにとっては面白いんだよ、実際、うちの子ちゃんだって、楽しんでいるよ」というおまけの有用性の反証と、うちの子ちゃんが僕に似て視覚からの情報収集能力が長じていることを示すという会話が発生した。こんな話者の視線が交わることのない会話は、その後にどのように繋がれたのか、または断線したのかを、覚えられることもなく、記録されることもない。仮に記録されるとすれば、個人的な着想において、「隠れチョコビや、おしり探しは、ダウ90000じゃない方のハスミンこと蓮實重彦的な『画面それ自体を凝視し、ショットを見逃さない練習』として機能する」と打鍵され、発端となった妻の発言は削除される。

 「クレヨンしんちゃん」がアニメーションとなる条件が、野原しんのすけが事件を起こさなければならないことにあるのであれば、認知能力が未発達であるがゆえに、自身がいない空間ということを想像できない子どもに、「なんか、お父さんとお母さんだけの会話って聞いたことがないかも」と思わせられていたとしたら、画面の外で生じた極めて個人的ではあるものの、目的が達成されたことになる。本作が成し得たことは、そのことをもってのみ、評価が下されなければならないが、求められるべき正当な評価が見えることは10年以上先になるため、そういう子がいたと措定すると、最後にしんのすけが帰宅し、見ている子どもを安堵させるという「いないいないばあ」の構造も含めて、一つのアニメーション作品として成功していたと評せるのではないだろうか。もちろんそこに瑕疵は存在する。それは、一人の子どもの体験だけに留めては、事件として不十分だったという点であり、ダウ90000の蓮見翔が、「クレヨンしんちゃん」の脚本を担当するということ自体を事件とするのであれば、完全なサプライズとするべきだった。つまり、普段見ているリアルタイムで/情報を持たない視聴者が、自身で気付いて驚くべきだった。「電撃!ブタのヒヅメ大作戦」で筋肉が下剤を飲まされるシーンや、『クレヨンしんちゃん ヘンダーランドの大冒険』でのババ抜きシーンで、慣れ親しんだ絵柄が劇画タッチになるといった視覚的な衝撃や、「嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦」や「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」が、大人が見ても面白いらしいぞとなったような情報が駆け巡った衝撃のように、そもそもその、近年はなりを潜めてしまった、まさに野原しんのすけがそうであるように予期していない者に降りかかる災厄のごとき衝撃こそが「クレヨンしんちゃん」の本髄ではなかったか。準備をしていない人に唐突に襲いかかる事件になるべきだった。そこが唯一にして最大の誤配が生じる隙だったように思われる。

 では、蓮見翔の脚本単体として見たらどうだったか。改めて見たら、それなりに面白かったが、1回目に見た時は、手癖的に感じられる部分はあれども、緑の中にある黄色は見えにくいというひろしの主張に対しての、菜の花畑を想像してみてよと応答するみさえという反論はダウ的でありながらも、光る部分がある。そのほかにも、全体を通してみるとやや手癖仕事的であるとか、クレヨンが臭い、子供に見せたくないと言われているアニメへの言及などというある種のメタ的な発言が鼻についたものの、2回目以降は、「子の帰宅」によって中断される可能性があるゆえに喧嘩にも性的な接触にも行き切ることが出来ない、ミッチーよしりんとは異なる、越境できない二人の会話として秀作だった。おそらくだが、子どもを不在とする夫婦という、それが紙一枚で繋ぎ止められているとはいえ、普遍的でありながら特殊な関係性だけで一本を走り切ったことは、蓮見翔ワークスにおいて初めてではないだろうか。であるならば、蓮見翔は、新たなことに挑戦し、カップルとも両親とも言えない、現代シーンにおいては初めてとなる野原ひろしみさえ夫婦を描けているということになる。

 今後、しん子ちゃんと同様にみんなが忘れた頃に、しんのすけとひろしが、特に理由もなく「黄色いクレヨンを買いに行くゾ」をやってほしいし、1年に一回程度に継続してほしい。欲を言えば、「クレヨンしんちゃん」に登場してくるペアやトリオにおける、しんのすけ不在時における会話をコンプリートして欲しい。

 さて、伊集院光が本作を見て、「腰が抜けるほどつまらない」と感想を述べたという一つのスキャンダラスな事件が起きた。レギュラー番組をやめないといけないほどに腰に爆弾を抱えている人が、腰が抜けるほどにつまらないというのであるから、よっぽどのことだったのだろう。長年のリスナーにとって、これはある種の、何故か数年に一度、自ら好感度や評価を下げにいくことを言ってしまうという発作のようなものなので、「言ってあげないでよ」と思ったくらいだったが、「言ってあげないでよ」ということは「それなりにつまんないと思っていたのかよ」という指摘されたら言葉に詰まるとして、驚いたのは、思いの外、SNS上における話題を提供する素材となっている。伊集院光の主張も、蓮見翔の反駁、いずれにおいてもその正しさも論理の穴など、思い込み、誤解、定義のずれなどがあるため、そもそも成り立っていないやり取りであるという感想に留まっており、本人や外野も含めて様々な意見が出てくるこのような揉め事は、往々にして重ねられていく意見や理由、世代間のズレや世間的な認識、そのキャリアでそれをやるのはどうかと思うという言い合い、伊集院光がつまらないと思った理由を言っていないことや、蓮見の反論はトーンポリシングとなっていて「つまらない」という評価への反論にはなっていないということは、総じて後出しであり、実は、引っかからなかった最初の入口だけが本質だったりする。つまり、現代において「つまらない」という言葉は、現代社会において、いつの間にかかなりの凶器となっているのではないかということである。「腰を抜かすほど」という言葉がついていると、さすがにドキッとしてしまう。この言葉の受容のされ方が変化している現象の方に興味がある。昔って、もっと、つまんないって言っても良くなかったかということである。

 これは、おそらく、世に出ているコンテンツがあまりに面白過ぎること、クリエイターはみんな頑張っているんだからというそんなことは言っちゃダメだよとか、本当のことを言ったらハラスメントとかいじめになってしまうよという乳母日傘みたいなことなのだろうか。

 蓮見翔がいうように「自分が書いたクレヨンしんちゃんの脚本がお笑いの文脈に沿っていなかったがために笑いが生じていなかったかもしれないけれども、それで一発アウトになるようなことではない」という旨の主張はまさにそうであると同時に、伊集院光の「腰が抜けるほどつまんない」という発言を持って一発アウトになるわけではない。

 端的に言って、つまらないという感想も言えない世の中は、腰が抜けるほどにつまらないと思う。

 

 

テキストサイトやってます。

 このnoteは、世代の異なる社会人ふたりが、お笑い、カルチャー、生活といった様々な事象についておしゃべりしながら、取り上げたものの「ポスト」、つまりは、次なるもの、後に代わるものを、時には脱線し、稀に芯を喰ったりして、誤配を恐れずに探っていく、哲学的雑談実践プログラムです。

note.com

【上映館数拡大祈願】阿部幸大「ナラティヴの被害学」を副読本にした「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」感想

 たまげるくらいに面白かった阿部幸大「ナラティヴの被害学」(以下、「ナラ」とする。)読了後、「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」(以下、ネルソンさんとする。ネルソンとする場合は、登場人物のこと)を観てきたが、これがびっくりするほどに完璧に副読本となっていたので、色々と共有したい。その前にナラより前提を抜粋する。

 

(p10)

「ナラティヴ」とは日本語に訳せば「物語」という意味になるが、本書では「ナラティヴ」に、もうすこし限定的な意味を与えようとしている。まず、ナラティヴとは、ある事象に与えられる、「このような原因や動機や順序にしたがって、このような一連の出来事が起こりました」という説明である。それは、なんらかの対象について知るための回路であり、「なるほどそういう原因と動機と順序で、そういう出来事が起こったのか」と人が理解するための装置である。ナラティヴとは解釈であり、われわれは、このナラティヴという「窓」を介して対象にアクセスすることによってのみ、その対象から意味を受け取ることができる。つまりナラティヴとは、知識の形式である。

 

(16p)

ナラティヴという用語は人文学の基本概念だが、被害学(victimology)は私が本書によって人文学の対話に新たに導入しようとしている方法論である。たとえばフェミニズムがあらゆる現象からジェンダーという論点を抽出するように、ナラティヴの被害学は、あらゆるナラティヴから被害/加害という論点を抽出しようとするものである。

 

(17p)

あるナラティヴが、誰が被害者で誰が加害者であったという理解を受け手に与えるか、さらにはその理解に基づいて、人々がどのように物事を考え、感じ、そして発言し行動するようになるか、誰に同情し、誰を嫌悪するようになるか、そういった諸効果についてクリティカルに検討すること

 

 「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」のネルソンは、アフリカ系アメリカ人のベトナム帰還兵であり、戦争の体験に関する講演会を重ねてきた=ナラティヴを紡いできた実在の人物である。そして、ナラは主に近代のアメリカ史と、アメリカの小説や映画のナラティヴを分析する論文集である。つまり、「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」は「ナラティブの被害学」の射程圏内ど真ん中にある作品となる。特に、本書を、映画の鑑賞にあたり、読んでみるのであれば、「第6章 デブラ・グラニク『足跡はかき消して』におけるベトナム戦争と9・11以降のホームランド」「第8章 『トップガン』シリーズにおけるアメリカの軍事史と例外主義」「第10章 ティム・オブライエンとヴィエト・タン・ウェンにおけるベトナム帰還兵と癒しの旅」が良い。ちなみにこの本を読んでいると、沖縄のことは書いていないのに、沖縄のことを書いていると思わずにはいられないという意味でも必読である。

 さて、以下は、覚書と所管となる。一回しか見てないので、記憶違いがあればすみません。

 

⚪︎アメリカはベトナム戦争において、敗北者であり加害者であるが、ナラティブによって歴史を修正してきた

 世界史におけるベトナム戦争ではなく、アメリカにおけるベトナム戦争の受容については以下のとおりとして学んだ。 

「保守にとってベトナムとはアメリカを苦しめるトラウマであり、それを忘却するないしは修正することでアメリカ人は回復し、前にーーつまり、新たな戦争にーー進む必要がある。リベラルにとってそれはベトナム、ラオス、カンボジアの人びとにとたいしてアメリカがふるった暴力にほかならず、ベトナム戦争はアメリカ例外主義というものが建国以来常に武力行使を正当化するために動員されてきたナラティヴであることを暴いた戦争として記録されるものである」(156p)

 以下、ナラまとめ。アメリカはベトナム戦争において、敗北者であり加害者であることは、歴史的な事実である。そのため、アメリカの保守政治家からはベトナム戦争はアメリカのグレートネストを棄損したものとなる。レーガンらにより、「ベトナム戦争における被害者はベトナム人ではなくアメリカ人兵士であったというこの修正主義的な歴史」(302p)は再配布され、新たにナショナリズムの形成に使用された。

「かくしてベトナム戦争はアメリカの「文化的トラウマ」として再構築された。保守かリベラルかを問わず、アメリカはベトナム戦争における被害性と加害性の物語をアメリカ国内の問題として完結させ、ベトナム、ラオス、カンボジアの真の被害者の存在を忘却し、消去してゆくことになった」(303p)

 これは、日本の様々な南京大虐殺、慰安婦、沖縄戦における日本軍からの自殺強要などにも当てはめられるだろう。ちなみに、スパイディの新作にも出てくる、ハルクはまさに、ベトナム戦争における帰還兵とPTSDの関係性が表出されたものとして受容されてきた歴史があるとのこと。

 

⚪︎ポストメモリー世代

 マリアン・ハーシュによる言葉。ざっくりまとめると、親たちが経験したものの悲惨な記憶を、自分では経験はしていないもののナラティヴや、平和学習などで受け継いだ世代のこと。

 ネルソンの息子ショーンは、まさにベトナム戦争におけるポストメモリー世代ということになる。ショーンは、父であるネルソンのPTSDのことを把握しているにも関わらず、軍人という職業に就くことへの忌避感を持っていない。このズレは、ポストメモリー世代への記憶の継承の困難さを表しており、その表象が、ショーンは妻の連れ子であり、ネルソンとは血が繋がっていないという設定になっていると推測できる。

 リリー・フランキー演じる黒井という、ネルソンの戦争体験を取りまとめている人が、自分の親もまた、戦争経験者であり、家庭内において暴力を振るっていたということ、つまり自らはポストメモリー世代であることをネルソンに告白するシーンがあるが、その時の二人の構図はというと、ネルソンはトイレに、黒井はトイレの外にいる。二人の間には、分厚いコンクリートの壁が屹立していることもまた、ポストメモリー世代への継承の困難さの表れである。排泄する場所であるトイレという記号において、個室トイレの室内にいるネルソンは排泄を堪え、黒井は個室トイレの前で漏らしてしまうという反転している。ここで、ネルソンが漏らさなようにしているものは、トラウマの発露たる暴力や、ベトナムでの発話として聞くに耐えない言葉なのだろう。日本やアメリカでの公演とは異なる語り口が必要であるため、改めて表象の困難さと、2回のターンとフォークロアを歌うという、心の中の汚穢をナラティブに変えるというスイッチングを個室トイレの中で実践する必要があった。

 ちなみに、僕は40代であり、沖縄戦における、ポストメモリー世代の子ども、つまりはポストポストメモリー世代となる。要は、沖縄戦においてその被害者となることが出来ない世代と言ってもよく、このことと、古謝玄太を支持していた割合が最も多いのが30代、40代男性であるということは、無関係ではないと思われる。また、「ワンピース」におけるホーディーたちもまた、ポストメモリー世代と言える。

 

⚪︎ベトコンを見つけることが出来なかった場合もあることについて

 映画において、ベトコンがいる村と目星をつけて、実際には手当たり次第歩いて見かけた村を襲っているだけなのでそこに作戦などはないわけだが、村を焼き討ち、村人を虐殺するも、結局はベトコンを見つけることができなかったシーンがあった。この空振りとなった捜索は、イラク戦争において、大量破壊兵器を発見されなかったことを想起させる重要なシーンだ。つまり、イラク戦争で大量破壊兵器を発見することができなかったという敗北の歴史は、アメリカにおける初めての軍事作戦における失敗ではなく、敵を措定する命題を組織において定着させ、駆逐のためであれば、さしたる根拠がなく、疑わしきだけで罰して、失敗を咎められないというアメリカの手口は、ベトナム戦争の頃からあったナラティヴであるとされ、アメリカ史への再接続が試みられる。これは、塚本監督における歴史修正を認めず、解除する作業であり、そのアティチュードに痺れる。

 そしてこの手口のゲートウェイとなるのが、アジア人は差別していいということを内面化させて行われた沖縄での女性を買った代金やタクシー料金の踏み倒しとなる。

 

⚪︎裏「宝島」として

 全編の割合からすれば、1割にも満たないと思うが、ネルソンを初めとした兵隊たちが、ベトナムへの派兵前に、軍人としてのスキルの習得と、心得を内面化する作業が沖縄県でなされるシーンは、裏「宝島」となっていた。やはり、印象的なのは、「沖縄はテーマパークだった」という旨の術懐である。とはいえ、これは「今もってなお」と言わざるをえないという現実がある。彼らは、休暇中に、コザの街に繰り出し、女性に、買春をすると見せかけてお金を踏み倒すという性加害を加え、タクシーにただ乗りをして運賃を要求した運転手に暴行を加える。ここで、アベノミクスが主張した経済とは異なり、暴力と差別はいともたやすくトリクルダウンされるということが提示される。そのことを「宝島」で描かれたコザ暴動に接続されると、より泣き笑いしてしまう最高なシーンとなる。

 現在、沖縄ではホテルがガンガン立っている。僕は、これを憂うべき状況だとは全然思わないけれども、かといって素晴らしい状況だとも思わないことに加えて、避けられるべき状況だったとも決して思わない。沖縄は、まだまだテーマパーク化し、ことあるごとに主張しているけれどもハワイのようになっていくと思っている。ここでいうハワイとは概念のことになるが、観光客ファーストとなり、地価が上がり、地元民が元々の居住区に住めなくなってしまったり、歴史がウォッシュされたり、観光産業に依存してしまうため大して所得は上がらず、一部の県外企業や元々の地元の強い企業だけに富が一極集中するような状態にいつの間にか鳴ってしまっているということである。日本初のカジノができるのは沖縄県かもしれない。それは新しい知事が辺野古基地への移設を容認したことで、北部にまでその「経済効果」は広がっていくだろう。割を食うのは、搾取される誰か、何か、ということを考え続けていかなければならない。そう危惧している。その途中に、歴史が反復され、もう一度、沖縄県内において暴動が起きた時に、カタルシスを感じずにいられるかは分からない。

 

⚪︎カウンセリングのシーンについて

 PTSDを治療するためにネルソンは、精神科医ニールのカウンセリングを受ける。ここは作中でも反復されつつ、少しずつ前に進むことが示される、重要なシーンだが、二つの違和感があった。まず、一つ目は、フロイトの精神分析に基づいたカウンセリングは、患者はカウチソファに座って、医者と顔を合わせずに、治療に関係のあることやないことを話しながら行われるはずだが、本作では、向き合って話し合っている。ここについては、最後に、精神科医もPTSDの治療も始まったばかりであったため、手探りだったことを伝えるシーンで回収される。では、カウンセリングそのものは不十分だったのかというと、そうではない。この欠落は、こちらも終盤において、カウチソファに座るネルソンに対して、息子ショーンが背後に立って、顔を見ずに手だけをネルソンの手に添えるシーンにおいて、埋められる。不完全な治療法は、家族のケアによって補完されていた。これらは斎藤環「イルカの否定進学」「生きのびるためのラカン」を読んでいた知識による。ちなみに、精神科医ニールが白人であることはやはり、白色人種と有色人種の階級における非対称性を感じずにいられないが、最後に友好関係を結んでいることがわかり安堵した。

 二つ目の違和感は、カウンセリングにおいて、精神科医ニールの「なぜ、人を殺したのか」という質問の反復である。これは、戦場における隊長などからの「なぜ、人を殺さない」という投げかけれる続ける問いかけを反転させたものである。であるがゆえに、ニールの質問もまた、同様に誘導しているとも取ることができる。これはおそらく、ネルソンは自分が被害者であること、また、戦争だから殺さないと殺されるから殺したという一元的な視点に閉じこもっているところから、ネルソン自身で抜け出させるためのもの、つまり自らの手で脱構築させることが目的のはずだが、カウンセリングとしては危ういものだろうと思いながら見ていた。一つ目と同じく、その不完全さは、作中でその理由を明かされることになるため、なるほどね、となった次第である。

 

⚪︎ベトナムでの講演について

 ベトナムで、ネルソンは戦争体験について講演を行うことになる。ここについて、ベトナムの風景やベトナム料理がほぼスクリーンに投影されていなかったことからも、これは観光ではないと観客に突きつけてくる。そして、ベトナムシーンでの風景といえば、ネルソンの講演を見にきている、満席の聴衆の視線である。もちろん、本来の視線はネルソンに向けられているわけだが、その「なんて言う?」という眼差しは、もちろん、観客である我々に向けられている。ネルソンは、ナラティヴを構築している。さて、あなたたちはどう構築するのか、と。それはまるで、口ロロの新曲「We See The Light」のように我々に問いかける。

 ただし、白色人種は、前線に黒人を送り続けていただけでなく、贖罪まで黒人にやらせるのかとイラつきは忘れないでおきたい。

 ナラで知ったことで驚いのだが、ベトナム帰還兵が、傷を癒すために、ベトナムに改めて観光に行くということは、アメリカとベトナムの国交正常化の流れで、アメリカが推進していたこともあって、一部では実際に行われていという。そしてそれは心の傷の治癒に一定程度、有効だったという。

 

⚪︎残飯の上で立ちすくむネズミについて

 繰り返しカットインされる、残飯を漁るネズミのシーンがある。この気持ち悪い映像は、ベトナムでは野ネズミのように森の中を這いずり回り、アメリカでは戦争に行かなかった者のおこぼれをもらって都市を逃げ回るドブネズミとなってしまったネルソンの心象風景として受け取ることができる。カウンセリングのシーンにおいて、フロイトの話をしたが、そのフロイトを再解釈したジャック・ラカンの精神分析に倣えば、残飯の上にいるネズミは、ネルソンの現実界ということになる。現実界については、斎藤環「生き延びるためのラカン」より抜粋する。

 「認識したりコントロールしたりできる領域が想像界。精神分析の力を借りるなど、限られた状況下でなら認識・コントロールもある程度可能なのが象徴界。いかなる方法論をもってしても、認識もコントロールも不可能な領域が現実界、ということになる。」

 ベトナムでの従軍とアメリカでのホームレス体験を経て、アンコントローラブルであるネルソンの現実界は、残飯のなかで立ち尽くすネズミという状態になってしまった。それはナラティヴを構築し続けている間も、ずっと変わらなくなってしまったものとなる。そして、半ば脈絡もなく、残飯の上にいるネズミという吐き出したくなるシーンの投影が反復されることは、いつ出るかわからないPTSDの症状を演出したことが分かってくる。

 飛躍した話をすると、映画を見てしばらくは、ネズミからタートルズのスプリンター先生しか連想することが出来なかった。タートルズは、ニューヨークの黒人が居住する地帯のメタファーだとされているため、接続することは可能だけどなあと思っていたが、スプリンター先生からタートルズへの「街に行くな」という警告もまた、スプリンター先生からタートルズたちへのメモリーの継承の困難さであることに気づいた。傑作「ミュータント・タートルズ:ミュータント・パニック!」を見ると、シェーンとその友達の気持ちが分かるかもしれない。ちなみにスパイダーバースシリーズのモラレスは、タートルズより恵まれた階級なんだなということも見えてくる。

 

⚪︎小学生からの質問が歌っているようだったことについて

 「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」という小学生からの質問について、メロディアスで歌われるように、問いが投げられていた。まるで反戦歌としても受容されている「グリーングリーン」のようなフォークロアを想起させる。

 そしてまたネルソンが現実界を、象徴界である言語活動へと変換するスイッチにも、音楽は用いられる。

 

 

 以上です。

 上映館数が増加してほしいですね。

極めて凡庸な沖縄県知事選挙の結果を踏まえたクワス算化する民主主義への対策としてのオルタナティブな跳躍

 人間ドックを今年も受けてきて、安定して、ほぼオールAを叩きだしてやりました。リパーゼがCという初めての結果も出たけれど、特に触れられなかったため、今回はスルーとします。また、少し前から筋トレではなく、ランニングに切り替えたことで、ここ数年と比して、1.5㎏、体脂肪率にして1.8%の減量にも成功。また、最近は本ばっかり読んでいるので、懸念していた視力の低下も、両目1.2をキープしていたので問題なしといっていいでしょう。40代前半の男性としては、かなり優秀なほうであると評価が可能であり、とにかく、僕は若くても90歳以上は生きたい。とにかく長生きしたい理由に、僕をバカにしてきた人たちが、死んだ後に、めちゃくちゃ悪口を言いたいというのがあるのだけれど、それとは別に、長生きして見てみたい物の一つに、路面電車好きとして、沖縄本島を走るLRTがある。そんなLRTの導入にも大きく影響する、令和8年9月13日の沖縄県知事選挙において、挑戦者である古謝玄太氏が、現職の玉城デニー氏を破った。

 投票所が閉まる20時前からテレビをつけ、待機する。お風呂から出た子どもの体拭きを保留し、NHKのニュースで、いわゆるゼロうちの報せを見たときに、『クロノトリガー』における恐竜人のリーダー・アザーラのように「やはり来たか……。これが、最後の勝負になりそうだな。おそかれ早かれ、決めなければならぬのだ……。」というシーンや、『ONEPIECE』における「これらは止めることの出来ないものだ。"受け継がれる意志" "人の夢" "時代のうねり"人が自由の答えを求める限り それらは決して止まらない」を良くも悪くも想起させられる。僕自身は、リーダーでも恐竜人でも、カナヅチでもないが、つまり、沖縄県知事選挙において、政権与党の唾がべっとりとついた結果になることは、4年早いなと思って、カート・ヴォネガットよろしく、そういうものだ、という気持ちでしかなく、驚きや落胆は特にない。

 演説を見にいくこともしない冷めた地元民が、生活圏内を観測した実感としても、体感的にあまりに資本力、印象を誘導するエネルギーみたいなものが、古謝サイドにあった。奥間りょうが参議院選挙に出たときは、金使っとんなーという印象だったけれども、今回は、金使っとるし、うねっとるなーという印象だった。特にダイレクトにうねりを生み出し、うねりに引っ掛かり、それぞれが考える自由への欲求を表出することを触発されたのは、同番組のなかで、特に、30代、40代の男性の7割近くが、古謝候補に票を投じたことを示すグラフが映されていた。働き盛りの男性が、沖縄尚学を応援する沖縄県民同様に古謝玄太候補に何かを仮託したということであり、例え、デマゴギーが流布されていなくても、このような結果になったのではないか。単純に、僕の知人も、古謝玄太候補に票を投じた可能性は自ずと高くなることを考えると、醜悪な選挙況や、民主主義の崩壊だとは言えない/言わせないわけである。

 反面、同じグラフにおいては、女性はまだまだ現職の支持率が高かったため、特に、まだまだ育児を男性が頑張っているとはいえ、頑張っているレベルであるため、育児に関する政策に助けられたという実感と評価は、現職への信頼は篤く、まだまだ続けてほしかったのだろう。であるならば、この差異については、ジェンダー研究の観点から、精査されるべきである。煽情にあてられたとはいえ、シェルショックでもヒステリックでもなく、純然たる沖縄県の民意だろう。よかったことと言えば、沖縄県に居住していて、車を保有していないほどの、ガクヅケ船引には及ばずとも、PIXARの『CARS』も観ていないほどの車並びに車社会のアンチなので、交通渋滞が政策に上がったことなど喜ぶべきことはあるはずなのである。ペストのアンチでもあるので『レミーのおいしいレストラン』も観ていないことはさておき、俺たちが前に進めるのであれば、支援していた政党が、期待外れだった映画『スーサイドスクワッド』のようだと揶揄されるようなメンツであったとしても、自らへの実害が及ぶことはないものとできるため、そこを指摘しても、転回させることは困難なのである。ここを、マスキュリンの発露であるという指摘は可能ではあるものの、そもそもそれ自体は、ちょうど、本国における高度経済成長期以降、日本人異性愛者健康男性に内面化されたテーゼ、または宿痾とよべるもの、つまりは、取り残されない男たちの稼働する欲望それ自体は、こと沖縄県内だけに見られるものではない。むしろ、この数年における東京五輪や万国博覧会のように、沖縄県において、沖縄県が本土復帰を果たした1973年に終了した高度経済成長期、バブルの反復が希求されていると措定できる。戦争の禍根を忘れるには、戦後80年、復帰54年と、世代が2つから3つも入れ替わる月日であれば、妥当な年月なんだろう。豊永浩平ではないが、月ぬ走いや、馬ぬ走いである。

 令和8年度沖縄県知事選挙は、世界的な潮流から逸脱することのなかった極めて凡庸なものだったと総括できる。

 短期的なスパンでの振り返りは「デマはよくない」ということしか出来ないのではないか。デマゴギストの動きに対して現行法が抑止力を持たない以上、生じるものとして考えなければならない。そして、続く自省は「対話を続けよう」という、こちらも「オーセンティック」さで締められることだろう。オルタナティブなアプローチを探らなければならないがいかがだろうか。デマゴギーへの対策としては、その構造上、後手に回らざるをえない/言われた側の訂正にかかる労力が甚大となるという課題もあるものの、それよりも、発話者にとって、デマはデマではないということがあげられる。いかなる主張も、発話者においては真実真正な警告であるということのほうが厄介なのであり、デマゴギストは存在しないとなってしまうのである。補足すると、我々がデマゴギストと見做す者たちは、自らのルールに従っているだけで、嘘すらもついていないため、仮に、彼ら/彼女ら/またはいずれでもない者たちにたいして、それはデマゴギーであると指摘し、ファクトチェックの結果を突き付けたとしても、そのやり取りは、 ヴィトゲンシュタインのクワス算のごとく成立不可能なゲームとなるため、論理上は「そのゲームにおいてデマゴギーというトラップカードは誰にも配られない」ということになってしまわないか。彼ら/彼女ら/またはいずれでもない者たちの発話もまた、ナラティブとして受け取らざるをえない。重ねて言うが、それが嫌なのであれば、先手を打ってハックするしかない。そもそも民主主義が、女性や貧乏な男性、18歳と19歳が参加できなかったことから始まって、訂正を重ねていったように、民主主義も、明らかにデマゴギーであったとしてもそれすらも判断材料として投票するものに変容しているとする。これは、ここから、それぞれのナラティブを全て引き受ける新たな対話を始めようという提言であり、オルタナティブへの跳躍に向けた設計図である。

 さて、冨樫義博の「オレ立候補するやつって信用できないんですよ」に倣って、現職すらも支持しているわけではない僕が、投票を棄権した可能性すらも放棄していないことを踏まえて、現職が三選できなかった点で懸念すべきことが二つある。一つ目は、我々が古謝玄太を知事に選出したことで、沖縄県民は辺野古での先の事故に対して、責任を放棄したというロジックが成り立たないかということである。もちろん、あの事故だけでなく、ダンプカーの事故などを含めて、ただの設定だけで押し切ろうとして結局駄作だった『関心領域』と同じく、それらはこれまでも/これからも、日本に住む全ての者に余すことなく責任の所在=加害性は配分されなければいけないにも関わらず、学校の管理という法的な側面だけが争点となり、その倫理的な議題は置き去りにされるだけならよくて、水に溶けたPFASのように彷徨い漂い、微量ながらも体に蓄積し内臓を蝕み続ける。

 もう一つは、「国際平和機構」の創設が立ち消えになってしまうということである。これは、「政治家らから相次ぐ歴史修正の動きに懸念をにじませ、沖縄戦の歴史的事実に資する研究や国際平和の構築につながる研究の場」となるものであったが、とても惜しい。この感情は、現在、たまたま小森真樹『歴史修正ミュージアム』と、阿部幸大『ナラティブの被害学』を読んでいる中で、現職の構想を知ったことに由来する。歴史修正という言葉を捉え直すという前者と、まさに、語り部が消えていく沖縄において、改めて戦争が誰が/誰に/どのように/どのような言葉で沖縄の歴史がナラティブとして再構築されていくのかは、鉄軌道の数倍、見たかったがそれが叶うのはかなり難しくなったことだろう。反面、では、その意思は潰えるのかというと、古謝玄太候補が、どのような語りをするかということを注視していくという形で、実現していきたい。

 

 

告知です。

稟議ディンドンドンというnoteやってます。

このnoteは、世代の異なる社会人ふたりが、お笑い、カルチャー、生活といった様々な事象についておしゃべりしながら、取り上げたものの「ポスト」、つまりは、次なるもの、後に代わるものを、時には脱線し、稀に芯を喰ったりして、誤配を恐れずに探っていく、哲学的雑談実践プログラムです。

 

note.com

そもそも論と脱構築思考でインスタントラーメンの作り方を考える

 『バキ童チャンネル【ぐんぴぃ】』にアップされた「人はなぜ冷笑するのか【冷笑の文化史】」を観た。大久保八億が冷笑について、春とヒコーキの二人に解説する動画なのだが、これがとても面白かった。大久保は春とヒコーキの二人に向けて 講義をするにあたり、冷笑主義=Cynicismについて、「冷笑とは人類の武器である」とし、紀元前のギリシャにいた犬儒学派のディオゲネスにまで遡り、ディオゲネスのシニカルな言動にまで遡る。そこから、東洋における冷笑として、竹林の七賢の阮籍や、一休宗純、宮武外骨などの個人をフィーチャーしつつ、戦争や震災、テロリズムなどを題材にして、その時々の冷笑の機能、発露のされ方などを論じていくという、本当に文化史として進めていく。その上で、ようやく現代に辿りつく。そこで論じられる材料となったのが、まさかの「初カキコ…ども…」。ここからここ20年の冷笑についてネットミームを軸に掘り下げ、いつからか、ネットにおける冷笑が、不条理さを帯びていくものになっていったと語る。その起点が、「めっちゃ早口で言ってそう」であり、大久保はこの語尾である「言ってそう」に焦点を当て、次のように語る。「これ、『世界の固定』って呼んだんですけど、相手に対してネット上で何も分からない状態なのに「言ってそう」って言うだけで、相手が言ったことになるんです。相手の世界を固定する。冷笑における最強ワード」。ここはなるほど、と膝を打つほどに、慧眼な指摘であった。特に、「めっちゃ早口で言ってそう」の初出時には、質問して答えを教えてもらった人が、答えを教えてくれた人に対して、このように返しているという経緯からも、冷笑がノーリスクハイリターン時代に突入したとも見ることが出来る。そのほか、これまでは男性目線の冷笑が多かったことに対して、女性目線で放たれる冷笑が生まれてきたのではないかと思わせる事例の紹介や、ビートたけしやさくらももこなど笑いの観点からも冷笑を論じており、総じて興味深かったので、ぜひ、動画をご覧いただきたい。

 大久保八億の知的誠実さは、冷笑を論じるにあたり、ギリシャ哲学まで遡ったことにある。これにより、冷笑というムーブが、SNSなどに跋扈する一時的なものではなく、古来より存在する、誰かにとっては必要なものであり、もう一方にとっては疎ましいものであったという、思想を問わず、学問として精査し、論じるべき題材であるものとして輝きだす。だからこそ、大久保の「冷笑は世界の固定である」という定義に対して、「大久保さん、それはちょっと違うと思います。そもそも、世界と指定するのは、あまりにも対象が広すぎる。大久保さんの、定義化に至るまでのロジックに基づくのであれば、「冷笑は他者の固定である」まで対象を絞らなければならないと思います」と早口で話しかけることで、古代ギリシャにおけるタレスやヘラクレイトス、ピタゴラス、デモクリトスらによってなされた「万物の根源が何なのか」のような定義の論じ合いが可能な健全な状態へと移行することが可能となる。

 併せて、冷笑を論じるにあたり、ギリシャ哲学まで遡ったことが、大久保に最も共感したところでもある。冷笑について直近の話題から考えるんだろうな、と思いながら動画を見始めた矢先、「これどこまで遡るかっていうと、紀元前」と発言したところで、ひっくり返るくらい嬉しくなってしまった。「わかるっ。突き詰めようとすると、そっ、そう、そうなるよなっ」という気持ちになった。それは、ここ最近いろいろと調べているなかで、僕自身が、そもそも論と、脱構築思考で物事を見ているからであるということが分かったからである。ざっくり説明すると、何か課題や議題が提示されたときに、そもそも論は「そもそも、この作業は必要なのだろうか/その考え方は正しいのだろうか」と、短距離走でスタート地点に案内された時点で、そもそもなぜ走らないといけなのだろうかと考え込んでしまう。実例でいえば、職場にウォーターサーバーが設置されている。そこには「ウォーターサーバーのお湯の容量に限りがあり、インスタントラーメン2杯分である。そのため、インスタントラーメンは、給湯室のお湯を使用すること」という旨の注意書きが張られている。その文言を見て、こう考える。

「そもそも、ウォーターサーバーは互助会費用で設置している以上、インスタントラーメンだけ排除されるいわれはなくないか。うーん。このルールって、そもそも、ウォーターサーバーのお湯でお茶とか紅茶、コーヒーを淹れる人が、自分が使用するときに、お湯が無くなっている状態が嫌ってだけだよな。そもそも、数分待てばお湯のタンクはまた満たされるわけだから、もっと実態に即したデザイン設計が可能だろう。そもそも、この規制は、お茶とか飲む勢に偏った論理に基づくものでしかないから、インスタントラーメン作る勢排除の根拠としてはあまりに非民主的だよな」

 次いで、ジャック・デリダが提唱した概念である脱構築については、人間は何かを言われたときに、無意識に二つに分けるいわゆる二元論にして、さらにどちらかを上下に位置付ける。脱構築は、その二つの対立を疑い、解体していく。本音と建前というものがあり、社会的には本音のほうが大事であり、ちゃんとしているから上だよね、反して、建前には嘘が入っていることが多いから下だよねと考えるのが一般的となる。これを脱構築という眼鏡を通してみると、「建前は口に出す表現なのだし、揉め事を回避したり、関係を円滑にしたりするのだから、建前のほうが社会にとっては有用なのではないか」として、固定観念を崩しにいく、これが脱構築思考となる。

  漫画における事例を挙げれば、『正反対な君と僕』でいえば、恋愛漫画でありながら、一話で主人公がカップルとなることで、最終話で二人の結末が提示されるというお約束を解体する。そしてそれからどうなるかというと、「恋愛もまた数多あるコミュニケーションの延長線上に位置するものであり、付き合うことはゴールではなく、コミュニケーションにおける課題は都度発生するし、カップルが発生することは二人だけの話ではなく、周囲の他者にも強い影響をもたらすものである」ということを積み重ねていった大名作となった。ちなみに推しコンビはタイラズマである。また、初期の『HUNTER×HUNTER』が脱構築思考の実例は顕著で、例えば、ドキドキ2択クイズである。「お前の母親と恋人が悪党につかまり一人しか助けられない。①母親、②恋人。どちらを助ける?」という答えのないクイズである。作中で提示されたパスする答えは、母親でも恋人でもなく、「沈黙」となる。解答は選択肢を答えなければならないルールとなっているため、正解がないクイズに対しては、沈黙することが答えとなる。これは当時、読んで、とても衝撃を受けたことを覚えている。解答しないことが解答たり得るということは実生活において少なくないし、また、批評においては、「何を語っていないのか」を探ることが必要であり、重要な指摘を生み出す。また、ハンター試験の第3次試験における「最後の別れ道」において「5人で行けるが長く困難な道」か「3人しか行けないが短く簡単な道」の選択に対して、その答えは「長く困難な道の方から入って、壁を壊して短く簡単な道の方へ出る」というものだった。これらの例からも、脱構築思考は必ずしも、他者をイラつかせるものではなく、クラピカの言うように「極限の精神状態で2択を迫られてなおそれをぶち壊す発想」にもなり得る武器となる。  

 若林正恭の『青天』を読み、その流れで「もう一度読む山川倫理」を読んでみたとろ、高校自体以来の倫理ブームが訪れた。その上で、体形づけた知識の習得に向けて、乱読ではなく、ある程度のロードマップを作成して、色々と読み漁り、思想の歴史を辿る中で、特に脱構築について把握するうちに、自分の思考のフローや枠組みを理解したことで、頭に刺さっていた針が抜けたキルアのように視界が良好になった気持ちとなったが、道理で生きづらいわけだし、職場の会議や家族間の話し合いで、配偶者から発言が煙たがれるわけだとも、腑に落ちた。そもそも嫌われる素質があったのか、でも、嫌われたとしても自分の意志やロジックは伝えるべきだし、そもそも、そもそも論と脱構築思考の権化ともいえるような伊集院光や太田光、冨樫義博などに影響を受けてきたことによる、脳みそのクセや、パソコンでいうOSみたいなものなので、やめようと思ってもやめられないのである。

 だからこそ、そもそも論と脱構築思考によって「冷笑」を分解し、ウケをいただいている大久保の姿をみて、そこに強いシンパシーを抱いたと同時に、そもそも論って会議や話し合いを混ぜっ返すだけで嫌われるし、いいことないじゃないかという葛藤が消し飛んだ。今後も、職場のウォーターサーバーでインスタントラーメンを作ろう、水道水だと米軍が垂れ流している可能性が高いPFAS、PFOSなどが怖いし、と決意したのであった。

 

告知です。

稟議ディンドンドンというnoteやってます。

このnoteは、世代の異なる社会人ふたりが、お笑い、カルチャー、生活といった様々な事象についておしゃべりしながら、取り上げたものの「ポスト」、つまりは、次なるもの、後に代わるものを、時には脱線し、稀に芯を喰ったりして、誤配を恐れずに探っていく、哲学的雑談実践プログラムです。

note.com

汚穢と服飾を貫く身体の把握と運用改定について

 少し前に、ひどい鼻炎状態に陥っていた。鼻の悪さとはずっと付き合っているものの、一週間ほど待っても回復するきざしもなく、微熱や耳の内部への違和感も生じさせているこの症状に、あきらかにこれまでとは異なるものだと危機感を覚えてから、病院の予約をとる。しかし、診察してもらえるのは、そこから三日後となるため、それまでの期間は、身体へのダメージが大きい鼻をかむという行為を極力避け、膀胱に到達したマダライトヒルが散乱した大量の卵を孵化させないために休まずビールを飲み続けるかの如く鼻洗浄や、家庭用の吸入器を使用しては、免疫細胞がウイルスや細菌と闘った証左である黄緑色で、粘土が高い鼻水を排出しつづけていた。ようやくのことで受診を終え、カルボシステインなどの薬を処方してもらってからも、数日はこの行為を続けざるを得なかった。そこで気づかされたのは、鼻腔や副鼻腔は一時間もたたないうちに、鼻水で満たされていくという事実である。鼻洗浄をするたびに、映画であれば、相応のアレゴリーをもって迎えられるほどに、呼吸の妨げになっていた体液の塊が、一つないし二つまたは多数、ぼとっと音を立てて、洗面台に落下する。映画と落下といえば、「映画ちいかわ 人魚の島のひみつ」は、冒頭から、なんか懐いている「鳥」の飛行から始まる。鳥が空を飛び、手紙を落下することで物語が始まる。この冒頭にやたらと感動してしまった。ナガノや監督は、漫画とは異なる表現を、初めて映画を観るちびっこたちに提示することで、映画の洗礼を浴びせる。ここに矜持を見出してしまった。また、過去にインフルエンザに罹患したさいに、同様に鼻洗浄をしたところ、脳みそが出てきたと思ってしまうほどの鼻水が出たことがあるが、あれは、人生における全ての体液の排出経験でも、三本の指に入り、精通に匹敵するほどの衝撃と快感があった。
 トータルで3週間ほどを要した治療期間は、セルフメディケーション中は、鼻をかまずに、1時間に一回ほどを目安に鼻洗浄や鼻水吸入器を用いて、鼻水を体内から排出をし続ける。市販の強力な鼻水を止めるための錠剤や点鼻薬であるナザールは、効果は見込めるが副作用もあるため、寝る前に服用し、点鼻し、睡眠の質を担保するためだけに使用した。医療機関にかかってからは、処方された漢方や経口薬や、点鼻薬などを、指示に従い、体内に取り込む。出勤時の鼻洗浄は、旅行用として保管している携帯できるサイナス・リンスで鼻腔内に塩水を流し込む。生活に支障は生じていたものの、つらさは少なかった。それは、これまでの鼻に対してのケアにかかる方法を総動員させた、まるで見事な伏線回収と言わんばかりの、完璧な対応だったからだろう。思いのほか、自分は自分の鼻に対して、把握していたことになる。
 身体の把握に努めることは生涯の実務である。例えば、自分は寒暖差アレルギーが気温14℃の日に発症、そして一度発症すれば、そのあとは特に頻発することがないということに気づいたのは、数年ほど前になる。そして昨年、今後は11月の後半には、翌日の気温が14℃を下回ることが分かれば、前日に、市販の強力な鼻炎薬を就寝前に服用することで、年に一度の寒暖差アレルギーを緩和できるのではないかという仮説を思いついたのは、昨年だった。ほかにも、慢性的な便秘症に対して、祖父が大腸癌で死去した恐れやメンタルの安定に直結するという学説、そもそも苦痛であることから、様々な解決策を講じてきたが、ほとんど解消されなかった。このことについて、最近やっと、一般的な野菜の摂取に加えて、ナッツやバナナ一本、ヨーグルトをとって始めて、自分の腸内環境が正常化するという結論を得ることができたのは、つい最近だ。また、仕事から帰宅後、水風呂の定義に近しい水温風呂に入ることで体の熱を抜くことが、異常に気持ち良いことを把握したのもつい最近だ。
 この夏は、懸垂や腕立て伏せ、腹筋、坂道ダッシュなどをしていたが、アミノバイタル クエン酸チャージと亜鉛などを飲んでいたため、疲労感はほぼなかった。それだけではなくGarminのスマートウォッチをつけて、睡眠スコアから、歩数、心拍数、ストレスレベル、HRVなどを把握している。特に、睡眠スコアが低かったら早く寝ることにしているなど、重要な指針としている。飲酒をした日の、睡眠スコア等の著しい低下や、ストレスレベルが真っ赤になり続けているグラフを見ているためか、最近では、飲酒欲が低下している。それでも身体の老化や、新たな病気の発症などから、これまでの対策では効果が薄くなったり、新たに何らかの方法を導入したりしなければならなくなるので、やはり、身体の把握に努めること並びに、随時の運用改定は生涯の実務であると言い切ることができる。
 少し前から、ファッションの勉強をしたくなり、石川俊介著『なぜこの服は時代を超える定番なのか 一生モノの服の見極め方』を読んだ。身体の把握という観点からいえば、汚穢も服飾もシームレスな話題となる。
 石川氏が、一生着られる洋服としてレコメンドする衣服を紹介していくのだけれども、写真だけでなく、各ブランドの文脈なども提示しており、ファッション偏差値38の人間が読んでもなお、面白いといえる本であった。著者である石川氏は、デザイナーであり、自身のブランドも経営しているのだが、デザイナーと聞くと、無知蒙昧な者としては洋服のルックだけをデザインしていると思っていたが、そうではなく、生地の選択もデザインに含まれるということも初めて知った。生地を選ぶということは、生産地、ひいてはフェアトレードというようなサステナビリティも考慮しないといけないなど、そのような視点でファッション業界を眺めたことはなかったこともあり、スペシャリティコーヒーなどと同じところはあるのだな、という新たな知見を得ることができた。
 加えて、ピスタチオパフェクラブの「古着回」や、Geminiに様々な質問することで、初春から初夏にかけて、めきめきとファッションへの理解が進み、この数か月で仕事着も含めて、15万円ほどを衣服に費やすという実践を行った結果、今のところ買わなくてもよかったというものは一着しかない。今後は特に気に入っている服の生地や、シルエットなどを改めて精査しなおすことで、自分の好みの傾向を把握し、エクリチュール化またはパロール化出来るようになるだろう。そのため、ファッション偏差値は、今では、3教科受験の地方公立大学に合格するくらいと言っていい。そして、現時点においては、「ファッションとは表象と文脈を纏う行為」という位置に立っており、そのことを意識すれば、おおむね失敗はしないだろう。
 表象については、例えば、洋服に気を使っていない人がいた場合、これまでは「洋服に気を使っていない人だな」と思われるだけだと思っていたが、そうではなくて、「自分は洋服に気を使っていない」というイメージをまとい、他者はそのイメージから「この人は洋服に気を使っていない人なのだな」と受け取る。さらに、そのメッセージは、「この人にとって、自分は、気を使った洋服で会うに値しないのだな」に変化する。『プラダを着た悪魔』で物語が推進力を増すのは、アンディがファッションディレクターに、服をコーディネートしてもらうくだりからであり、これは、アンディが、ファッション雑誌の制作現場に適したコードを纏うことで、衣服を含めたアンディから発せられるメッセージの送受信の流れが変化したためである。ほかにも、明確なルッキズムではあるが、上長のスーツ等がよれていたりすると、仕事の粗と直結させてしまうことはよくある話だ。また、過度に無難な装いにしてしまうと、普通で、つまらないという印象を与え、会議やマネジメントにおける発言もそのイメージに回収される恐れがある。無難すぎる洋服で格好よくなるのは、いしわたり淳司だけであり、ノームコアが許されるのは塩顔イケメン単館映画主演俳優だけである。ほかにも、過度にサブカルチャー然とした柄のハードコアチョコレーのTシャツや、MAGICAL MOSH MISFITSのパーカーなどを着て、子が通う学校の会合に出ると、幼稚に見えてしまうなどがある。
 逆を言えば、特に40代以上は仕事着を綺麗にし、いろいろと変えるだけで、表象を調整することが可能となる。実例でいえば、大量に購入した洋服の中には、かりゆしウェアも含まれているが、その柄に、花ブロックという、沖縄発祥の幾何学模様の抜き穴が施されたコンクリート製の透かしブロック、ヤンバルクイナ、県内に自生する植物などを選んだ。これはそれぞれ、風通しのよさ、自然への配慮、調和などを連想させるものを意図的に選ぶなどした、そのような記号論的なアプローチを取り入れている。
 話はずれるが、このような記号論的なアプローチが、見事に機能している実例がある。それは、THESECOND2026の金属バットの友保の衣装だ。友保は、沖縄県のアパレルブランドeanbeeのアロハシャツを着用していたが、そのデザインは、月桃の花だった。月桃は、沖縄に自生している百合のような色をした花を咲かせる。濃い緑の葉っぱは、ムーチーという餅を包むことに使用されるくらいに生活に根ざしたもので、甘く、いい匂いの花を咲かせる。くわえて、沖縄では、平和のシンボルとなっている。ここで、今大会で金属バットが披露した2本目のネタは、相方の小林が実は右派思想、国粋主義的な思想の人かどうかを楽しむというものだが、そんな小林に対して、平和のシンボルをまとった友保が、いかつい思想と言い放つ。このように衣装を読み解くと、ネタがさらに味わい深いものとなるのである。
 続く文脈について特に思ったのは、居住地の気候、生活のパターン、歴史などを把握していないといけないことに気づいたからだ。僕は沖縄県に住んでいる。そのため年間を通して、寒くても11℃を下回ることはほとんどない。そのため、東京などの都市部で支持されているTHE NORTH FACE、DANTON、CANADA GOOSEなどでは明らかに、機能過多となる。これらを沖縄県民が選ぶことは、ある意味で、ベンヤミンの「パサージュ論」にあるファンタスマゴリーに騙されているようなものとなる。
 個人的にあらゆるものにおいて、オーバースペックが一番ダサいと思っている節があることもあって、僕に購入された服は、正しい意味での役不足となる。このことに気が付いてからは、洋服を購入するにあたっての選択肢がかなりクリアになった。ほかにも、よくよく考えたらジーンズを履いても汗ばまない、適している時期が年間を通して4か月くらいしかないため、ジーンズはSASSAFRASの一着で良い、となる。その代わりに、リネンのような吸水性と速乾性を有する生地のパンツを増やしたほうが、生活的に好ましいということが分かってくる。

 特に重要なのは、沖縄という土地柄、絶対に、軍や戦争由来のファッションは避けなければならないということである。80年近く、あらゆる犯罪行為を重ね続けている集団である米軍がいまだに駐留しているという地において、これらを纏うことは、あまりにも無自覚であり許されるものではないということが分かってくる。同じく、沖縄県のスポーツチームの多くが琉球を冠するのは、他チームが、沖縄県のスポーツチームと対戦するさいに、先の大戦における地上戦として存在する「沖縄戦」という言葉を使ってしまうことを避けるためということを聞いたことがある。ファッションにおいても、言葉においても選択肢を奪われている以上、まだ戦争の影響は色濃く残っていると指摘できる。そのため、ミリタリーパンツなどはもちろんのこと、悔しいけれど着ることは出来ないものに、スカジャンすら着用することは憚られるべき衣服となる。反面、同じくスーベニアジャケットである、ベトジャンについては、判断を迷っている。こちらは、アメリカ人にとっての苦い歴史であるベトナム戦争の産物であるわけだが、そのような衣服を、沖縄県民が那覇市内や沖縄市で着用することは、無自覚さを装いつつ、刃を突き付けるかの如き、アイロニカルなアイコンとなる可能性があるためである。このような文脈をハックする行為について、僕の性格的に、鼻腔または副鼻腔に溜まっている死滅し黄緑色の鼻水となったインフルエンザ菌を塩水で一気に洗い流す行為や、精通に匹敵するほどに耐えがたいほどの魅力を放つシニカルの実践となる。これらを総合すると、自分が着るべき洋服というのが、例えば、アロハシャツやガーデニングや、アウトドアグッズのブランドといった、平和や自然にコミットしたもので、寒さ対策としては東京で秋物として売られているもので充足するなど、明確になっていく。また、ここにはもちろん、身体の把握が不可欠だ。こう考えると、ファッションの面白さが分かってきた。
 つまり、那覇市街でお酒を飲むために、子どもとショッピングモールに出かけるために、家族でのドライブにおいて、keenのサンダルを履き、リネンをメインの生地としたSHIPSのパンツやSASSAFRASのジーンズを履き、Tシャツのカルチャー度合いは、場に応じて、バナナマンやRofj、そのほかお笑い、漫画などから、映画系などの濃度を調整し、寒くなってきたら、ベトジャンで街行く米軍に心の中でベロを出しつつ、Patagoniaのフリースを羽織って自然派をアピールすればいいということである。

 

 

告知

noteやってます。

このnoteは、世代の異なる社会人ふたりが、お笑い、カルチャー、生活といった様々な事象についておしゃべりしながら、取り上げたものの「ポスト」、つまりは、次なるもの、後に代わるものを、時には脱線し、稀に芯を喰ったりして、誤配を恐れずに探っていく、哲学的雑談実践プログラムです。

 

 

https://note.com/ringidingdong2note.com