石をつかんで潜め(Nip the Buds)

ex俺だって日藝中退したかった

重要な夢の競演のお知らせ。

どうも、こんばんは。
それはともかく、アイドルファンは重要なお知らせという言葉を、お笑いファンは夢の共演という言葉に苦い思い出を持つといいますが、当ブログより重要な夢の競演のお知らせがあります。
「俺だって日藝中退したかった」というブログをしばらく書いていたのですが、特に、コラムの執筆依頼が来ることもなく、売れる気配がないので、本にして売ることにしました。いわゆる、同人誌ですね。

ラインナップは


(1)君は『Qさま!!』での吉木りさを目撃したか。
(2)「2013年のラジオたち、これからすごいことになるぜ」
(3)中国人の罠にひっかかった話と、お金の話。
(4)『泣くな、はらちゃん』は一話が100点
(5)深夜に届いたラブレター
(6)ここは忙しいけど、迎えに行くぜ。
(7)妻の名は希望
(8)『超落語!立川談笑落語全集』は悪書である。
(9)頭をデザインする番組『考えるカラス
(10)伊集院光の「同窓会に行った話」
(11)コサキンが『ウチくる!?』DEワァオ!
(12)3本の漫才
(13)アルピーだって決勝行きたかった。
(14)『ダイノジ大谷のANNR』〜ぼくがブロガーになった理由〜
(15)お笑い界のPerfumeを見に行ったら、ももクロに会えた。
(16)種市死ね
(17)いつも心に加藤浩次を。
(18)ボクらの想像力の時代
(19)テレビを体感する番組『リアル脱出ゲームTV』
(20)政見放送かと思ったら、長井秀和の漫談でした。
(21)僕達は「恋するフォーチュンクッキー」が名曲だということと、指原莉乃のアイドルとしての正しさを混同すべきではない。
(22)くりぃむしちゅー上田の天下取り宣言
(23)『安堂ロイド』は電波豚ブーブくんの夢を見るか
(24)古美門研介の捲土重来を期せよ。
(25)グランジ遠山の、見る前に跳べの精神
(26)深夜ラジオ流行語大賞13&ベストラジオ13
(27)死にたい死にたいって言いながら生きていくからな、ずっと。
(28)異形のコント師日本エレキテル連合
(29)それぞれの「実存のゼロ地点」
(30)小説を応用するために、筒井康隆『創作の極意と掟』を読もう。
(31)JAPANESE PARTYバスツアー日誌『愛の渦』
(32)三四郎の、オルタナ漫才絶対頑張ります!
(33)スポットライトの中に立っていてね。
(34)「愛は愛でいつかどこかにたどり着くさ」


以上の34本です。
全部で10万字くらいあります。元記事は、ブログの中にありますが、かなりの加筆修正を加えました。自分でいうのもなんですが、かなり読み応えはあると思います。ほとんどが、上記のタイトルで、このブログに散らばっているので、気になる方は、読んでみてください。もし面白いと感じてもらえれば、今回の本は満足してもらえると思います。2011年から2014年上半期までのテレビラジオの感想と、年齢分の業を詰め込みました。
よろしくお願いします。


☆『俺だって日藝中退したかった』通信販売の流れ

①BOOTHでの購入

(1)下記サイトをご確認ください。送料の分、直接購入より高くなっています。また、送り主にも住所が分からないようになっております。

memushiri.booth.pm



ツイッターやっています。
https://twitter.com/memushiri

サンプルです。

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改めて前提を共有しなければならないという話

 仕事で業務を引き継ぐ時や説明する時に心がけているのが、何故これをしているのかという前提を話すことからするということである。だから、そうされないとめちゃくちゃイラついてしまうという点もあるが、間違ってはいないと思う。そうしなければ、業務が、穴を掘ってその穴を埋めさせるということを繰り返す拷問と一緒で、前提を理解することで、業務の効率も上がるし、仕事を終えた時に出る脳汁が、パズルを解いた時のものに近いものが出るようになるんじゃないかと信じている。

 新型コロナの感染拡大防止対策についても、同じなんじゃないかと最近考えているのは、いまだにウレタンマスクや布マスクをしていたりする人を見かけるのって、単純に、これらが感染拡大防止対策に効果的ではないという前提が抜けているからなんじゃないか。

 SNSをやっていれば、そんなバカなと思う人もいるかもしれないが、これらの情報を知ったのは、SNS以外で、この情報を見た記憶があまりない。そうなると、SNSをしていないと、最低でも不織布マスク以上であるほうが、大変望ましいというその前提を共有できていないということになり、感染拡大防止対策の足並みが揃わないわけである。そう思うと、職場や周りにいるウレタンマスク及び布マスクをしている人は単純に、その知識にリーチしていないというだけに過ぎないのであって、決してバカにしたりすべき対象ではないということが見えてくる。

 ワクチンの接種についても同様に、ワクチンというものがどういうものか、副反応というのは原則として避けられないものであるという前提がないから、陰謀論などが跋扈するのではないか。

 マスクに関してだけ言うと、日本は最初に布マスクを2枚配ったことはそういう意味でも失策だったと思う。結果として、マスクをしていれば良いというアリバイのための金科玉条を作ってしまった。もちろん、変なマスクに留まらず、そもそもマスクをしていない姿をこの二年間放送し続けていたメディアの存在も大きいと思うし、ウレタンマスクが花粉症対策として普及されたものであるならば、そういう意味では、ほぼ日本特有の事象であるが、きっぱりとウレタンマスクは不織布マスクと比べて新型コロナの感染拡大防止対策には効果が薄くなるということを徹底して広めなければいけないはずである。

 そういった前提に立つと、やはり政府等がすべきことは、いったん、「マスクは不織布以上」ということを盛大に言い続けるべきだと思う。東日本大震災の時のぽぽぽぽーんくらい、周知し続ける。正直、現金の給付よりも不織布マスクを一世帯に二ヶ月分配るということが、実は効果的なんじゃないのかとも少し思っている。国民レベルでは国が、生活圏レベルでは課長などの上司を通すことでしか、これは変わらない。本当に、しつこいくらいに周知すべきだと思うけれどどうだろうか。どれだけTwitterでRTされても、届かない人には届かない。全員がTwitterをしているという前提に立ってはいけないものだ。

 ワクチンについても、ここには、他者の合理性というものが大きく横たわっているうえに、そもそもが自由意志である以上、強制すべきものではないことはわかるが、ちょっと本当にワクチンという存在の前提ってきちんと共有されているとは思えない。

 政府は、ワクチンを打っても休めないから打てないという相談に乗るべきであり、そういう会社を公表すべきだったり、Twitterで政治批評をしている弁護士は、そういうのは全然余裕で裁判で勝てますよみたいなことを言うべきではないのか。

 正しい知識を持っておらず過剰にワクチンに対して恐怖し忌避していたこと、ウレタンマスクや布マスクをしていたこと自体は、別に恥ずかしいことではないということのケアも合わせてやるということが本当に必要なのではないのかということを思ったりしている。

 これ、どうすりゃ良いんだ?

電柱理論よりベランダプール理論、論破思考より擁護思考

 ふと思い立ち、コロナ禍になって全く行けなくなった好きなステーキ屋で、テイクアウト等をしているのかを調べてみたら、通販を始めて、今月末まで送料無料キャンペーンをやっていることを知って、注文した。
 先日、職場でシークヮーサーを貰った。シークヮーサーは、それ単体ではすっぱすぎるので、どうしたもんかなと思ったが、そういえば、とレモンサワーで有名な居酒屋の店長が、家で作るレモンサワーの作り方について紹介したサイトをブックマークしていたのを思い出し、やってみることにした。
 その土曜日の夕方、サラダや、フライドポテトなどを準備したうえで、ステーキを付属の紙に書かれていた焼き方通りに焼いて食べた。口に入れた瞬間に溶けるなどといった和牛信仰というのはなかなか根強いし好きなのだが、このオージービーフ特有の肉々しい赤身のほうがどっちかといえば好きで、かつ、こんなご時世、食べているとどんどん生きていくパワーがみなぎっていくような気持ちになった。
 それから、子供をお風呂に入れて寝かせつけた。この日は、早く寝るように、昼間に、いつもより長めにベランダでプール遊びをした。子供用のプールとしては大きく、自分も入れるようなサイズなので、一緒に入るのだが、これがバカにできないくらいに気持ちよかったりする。それが功を奏したのか、いつもより早めに寝てくれた。
 そこから、急いでテレビをつけて『99人の壁』を見る。この日は、【芸人99人が集結!秘蔵映像公開!お笑いSP】で、お笑いだけでなく、ラジオのクイズもするということだった。
 ラジオのクイズパートが始まるのを確認しながら、冷凍庫に入れいてたグラスを取り出し、サイトに書いていたとおり、氷をたっぷり入れ、それに当てて溶かさないように、焼酎と炭酸を入れる。それからシークヮーサーを絞って果汁を入れる。出来た色からしてグラデーションになっていて、良い感じで、間違いないやんけと思いながら飲み、間違いないことを確認する。
 「99人の壁」のラジオに関するクイズのパートは、恥ずかしさを感じつつ、ツイッターを見ながら見ていて、それがもうめちゃくちゃ楽しかった。ウエストランド井口がきちんと発言してて、アルピーもいて、永野もいて、ザコシもいて、アンタッチャブル柴田もいて、伊集院さんもいて、最高だったんだよ。
 日常に新しい何かを取り入れ、制限のなかでもハレを作りだし、全力で楽しむことを、バナナマンの日村がベランダにプールを買って、自宅で色々と楽しんでいるという出来事から、勝手にベランダプール理論と名付けている。それが炸裂した一日だった。なんかもう、久々に幸せな土曜の夜だった。

 最近、論破という行為や言葉が論破されている。
 それ自体は自然の流れだなと思っていたけれど、いや、これちょっとあまりに無意識に、論破的な思考になりすぎていないかという気持ちになってきた。
例えば、ワクチンの接種券が届いているけれども、ワクチンを打たない人に対して、直接言わないまでも、これこれこうだから打った方が良いに決まっていますよねと、説得したくなるように、SNSを長く続けることでその思考の道筋がめちゃくちゃ補強されてんじゃなさないかと。話せば分かるじゃなくて、論破すれば分かるみたいなのは染み付いているようなことに気がついて、これちょっとまずいんじゃないかと思っている。
今現在、ウレタンマスクをしている人は、ちょっと情報を取らなすぎじゃないかとは思うけれども、それは自分がネットにべったり貼りついているから当たり前に分かることで、そういった情報は探そうと思っていなかったりする人にリーチするところにないのじゃないのか。もちろん、それは政府の仕事であり、そういうことを言ってこなかったというのもある。
 具体的には、総括して、緊急事態宣言だなんだに合わせて、いやもう、これこれこういった理由だから不織布マスク以上のマスクをしてくれとか、自粛というのは自衛のためのものであるという前提の話をすべきなんじゃないか。
 それは表現の問題で、これまで論破思考でやってきたって側面が政府だけに限らず、少しは、国民全てに責任はあるんじゃないかと反省している。もちろん、そういったことをせずに、国民に伝えるということから完全に逃げている、全く対話しない前に出ない首相を筆頭とした政府の、皆さんが自粛してコロナが収まるまで何年かかりましたみたいな校長の朝礼スタイルが一番悪いのだけれども。
 ワクチンを接種しない人、ウレタンマスクをしている人を論破するのは多分、めちゃくちゃ簡単だろうけれども、という疑念は残る。
 先日仕事で対応した人が、濃厚接触者だったことが分かったのだけれど、ワクチンを打っていたことで、ものすごく心が楽だった。全裸と機動隊の装備しているくらい違う。
 市民が出来ることというのは、ネガティブなものではなく、もっとポジティブな発信をすべきじゃないかとも思っている。家でも楽しめるんだから無理して外出る必要ないよというベランダプール理論的な感じで発信することなんじゃないかなと思っている。
 今は電柱理論よりベランダプール理論、論破思考より擁護思考を意識することが大事なんじゃないかと。もちろん、次の選挙が楽しみで仕方ありませんし、オリンピックが第五波の要因である可能性はかなり高いという事実を忘れずに、表現を反転させるべきなんじゃないかとか考えています。
 とりあえず次のベランダプールは、コウケンテツのルーロー飯を作ること。あのチャンネル、自分にも作れるのでは、と思わせるのが本当凄いすよね。

 

 

 

 

 

第42回ABCお笑いグランプリでカベポスターが披露した二本目のコントが凄まじかった件について覚書

 設定は、ワールドカップの決勝を見ている男の家に友人が訪ねてくる。男は今日が誕生日で、友人はその誕生日をお祝いしたい様子だが、男は試合が気になるので、対応はおざなりだ。友人は友人でそんなことを気にせず、男を誕生日へのサプライズの手品を続けて、男を驚かせようとする。
 カベポスターの漫才は、友人を演じるのが永見がボケで、男を演じる浜田がツッコミで、基本的には、永見が独特のロジックを延々と展開させて、浜田が何とかついていこうとするという構図がメインだと認識している。
 漫才では、ボケが話しを展開させつづけ、ツッコミとコミュニケーションをとらずにネタを終えるというつくりのネタはままある。カベポスターの漫才では、永見の目線は観客に向けられ続け、浜田の目線は永見に向けられ続ける。目線がクロスすることなく、垂直であり続ける。今回のコントで衝撃を受けたところは、視線が垂直のままキープされ、基本的にはクロスしないまま終わるところだ。全く関係のないボケの傍観者としてツッコミ続けるのはあるが、このコントはそれらとは何か一線を画している。
 それは、きっと、この二人の関係性があるからだろう。友人同士なのに、視線がクロスしないということがこのコントの凄さを際立たせているのかもしれない。
 明確に仲が良い友人であるということは、ワールドカップの決勝の日に家に来ることを許可している、誕生日のプレゼントを用意するコントの設定で掴める。コントの前日に「明日お前の家に行っていい?」「来ても良いけど、ワールドカップ見るから、かまえないぞ」というやり取りがあったことが容易に想像できるわけだ。
 また、ワールドカップと友人の手品という対比もまた絶妙だ。友人が来ても視線がテレビにくぎ付けになるということに違和感がなく、全くの観客から当事者になってしまうというその悲劇の舞台としても突飛過ぎないし、コントを見ている人間も男に起きていることの壮大さを想像しやすい。その対極にある、友人からの誕生日プレゼントとしての手品というのも、絶妙に聞き流す、興味が無いものとしてリアルで最適解だ。
 手品の規模の大きくなり具合も気持ち良かった。

 一回しか見ていないので、間違えているところあるかもしれませんが、覚書として記録しなければいけないコントだと思いました。

新型コロナ 第一部 完

 住んでいる県の新型コロナの感染者数は増える一方だが、実のところを言うと、慣れてしまったという面も多分にあるかもしれないが、数字だけが上滑りして、あまり実感が無い。というのも、周りではもう長いこと陽性はおろか濃厚接触者判定すらも出ていないからで、みんなちゃんと気をつけているんだなーとぼんやりと思っている。
 先日ワクチンを接種し、一定の期間が経過した。
 ワクチンを接種することに対しての恐怖はもちろんあった。ワクチンに対して知識がないため判断が出来ないということもあるが、もし仮に、ワクチンの接種が原因で死んでしまった場合、現政権が因果関係を認めることはしないだろうという恐怖は思った以上に、ざらついていて、かつ大きくそびえたっていた。
 副反応はそれなりに出たものの、今のところ問題なく生活をしている。
 極私的な新型コロナの第一部完ということで良いのだろうか。
 許されるのであれば、空気階段の単独ライブが中止になったときから始まり、三遊亭圓楽伊集院光二人会を見に行って、ワクチンを打って、一定の期間を経過した今日を持って完結です。
 前首相がただ乗りし、踏みにじり、翻弄してきた文化をすすって潜んで来たが、まだまだそれは続きそうで、いよいよ「生きてまた会おう」が切実な祈りになっている。ラジオと本が無ければ気が狂っていただろう。ここ最近の『100分de名著』と、馬鹿力への投稿がどれだけ心の拠り所になっているか。
 こんな記事を書いても怒られるだけだが、あくまで個人の記録として留めておく。弱さゆえに連帯しようとしてしまうが、そうしてしまうと、考えることを放棄してしまいそうだからだ。
 同人誌3冊目は『まん延元年のギャグボール』というタイトルに決めました。

正しく擁護するための試論。 

 以前、ブログにて、妻を論破したというくだりを書いたら、たまたまその記事自体が普段より多くに人に読まれたこともあって、軽く批判を受けた。その前後を読めば、その後の展開に行く前に、そもそもどうなのというツッコミを潰すための、いわゆる一つのフリとして書いていたのであり、一般的な読解力をもってすれば、それが分かるはずだと思ったから、あえてバカにしている言葉及び風潮である「論破」という言葉を用いた。
 記事の全体を読まず、なぜそのくだりが敢えて配置されているのかも考えず、「妻を論破した」という文字列のみに反応したのだと思う。そのこと自体は、僕の迂闊さと、もともとブログを更新した直後に読んでくれる人への信頼という名の共犯関係への甘えが引き起こしたミスだ。
 先日、爆笑問題太田光が炎上した。ことの発端は省略するが、ひどいことをした人間を少しでも庇うようなことを言って、彼はあんなひどいことをした人を擁護したと、太田は非難を受けた。もはや同罪であるといわんばかりの反応だ。
 そもそも太田が言ったことは擁護なのだろうか。
 というか、太田はSNSの類をしていないので炎上ではない。ネット野焼きが多発したというのが正しい。
 よしんば、擁護だとして、それの何が悪いのだろうか。
 少しだけ足を止めてみよう、整理しようと主張することは擁護なのだろうか。
 どうしても厳密には擁護だとは思えないのだが、他の人には擁護に見えたのだろう。仮に擁護だとして、庇い守るという擁護の意味を行うことが悪いとは絶対に思えない。
 擁護をするという行為を持ってして、非難が出来る人たちは、おそらくだが、「彼は文化的に素晴らしい才能を持っている」「昔の話だ」などという雑な主張と同じカテゴリーに、太田の言葉を入れているのではないか。これらは目を逸らさせようとしたり、無罪にしようとしたりするものであって、スタートが異なる全くの別物だ。太田の言葉をきちんと聞くと、無罪にしようという意図は感じられない。少なからず、太田の言動を20年以上追ってきたので、補完が出来てしまうということもあるにはあるのだが。
 そして、別の話だが、僕のブログの記事を読んだ人が、とある番組のとある最悪な企画を擁護した記事を見て、最悪だと言っていた。
 厳密には、あの記事は擁護ではなく、笑いの構造の話をしていたのであり、そんな単純な図式で笑わないよ舐めないでくれという主張であったが、どうやら、その人にとって、最悪な企画を擁護する最悪な人間になってしまったようだ。
 僕はこれらの事柄は、同じ枠内に収まる類のものだと思う。
 言葉は、あくまで行為の器でしかない。しかし、安易に言葉を使用する人ほど、大きな器のため、あらゆる行為を同じ器に入れてしまう。言葉に向き合っている人は、その反対に、器は小さくなる。言葉の定義がより厳密になっていくわけだ。
 言葉を聞いて、どの器に入れるか、それを持って敵か味方か判断するのではなく、まずは、何故そう言うことをいっているのかということを考えることこそが、擁護を始め、あらゆるネットミームとして奪われた言葉を取り戻す方法でしかない。

  そう思っちゃったんだからしょうがない。

「三遊亭圓楽・伊集院光 二人会(夜の部) ゲスト 爆笑問題」感想

 さて、何から話せば良いだろうか。高校浪人という名の穀潰しをしていた2000年に『爆笑問題カーボーイ』を聞き始めた。ある回で「今週の宝船」という、爆笑問題の二人が、与えられたテーマでトークをし、最後にキーワードを決めるというコーナーで、伊集院光がそのお題となったことがあった。その時に、太田は、伊集院の引き出しの多さを語り、そこからキーワードは「薬局にある棚」になったと記憶している。伊集院光の存在こそ知ってはいたものの、ラジオが面白いという情報は持っていなかったので、それがきっかけで『深夜の馬鹿力』を聞き始めたと思う。恐らくその少し後に、伊集院光が「オールスター感謝祭」で太田光デヴィ夫人のゼッケンをつけて走ってて最高だったというトークをしたと思う。そこらへんは、友人から音源を録音したMDを借りて見ないと分からないが、まだまだこの時は、伊集院光爆笑問題には、それなりの距離があったはずだ。「だめにんげんだもの」が全盛のころで、最初はコーナーのほうが楽しみで、徐々に一人喋りの魅力に気付いていった。「JUNK枠」というブランドが確立する前の話だ。
 それから高校生となり、どっぷりと伊集院光爆笑問題に浸かることになる。多感な時期だ。単純な笑いだけでは無く、落語や小説、映画などの文化だけでなく、世事への見方、茶化し方や、本を読むという習慣が根付いたことなど、この二つの番組から様々なことを教わった。了見の二輪になっている。どちらかが欠けていたら、今この文章を書いている自分は存在しない。もっと上手く自分に向き合って生きて、ライターとかになっている自分は、もっと読みやすくて面白い文章を書いていただろう。
 大学生活が始まり地元を離れるという時に父親から貰った、古今亭志ん生の落語のCDもすんなり入ることが出来たのも、二つの番組で落語に興味を持っていたからだろう。その少し後に、『タイガー&ドラゴン』が始まるという絶妙なタイミングだったのもラッキーだった。どこに載ったのかも分からないが、大学卒業時に、「へっつい幽霊」から見る人間のダメさみたいな小文を買いて提出したのも覚えている。どうにかして今読むことが出来たとしても、ほとんど伊集院光爆笑問題による落語論の流用でしかないが、書きあげた時は、自分はこんな文章を書けるのかと嬉しくなった。それから折に触れて落語を聞いてはいるので、立川談志古今亭志ん生三遊亭圓生などの名人だけでなく、若手の落語家にも好きな人はいるくらいには嗜んでいる。落語を知っているからこそ、サンキュータツオに興味を持って『東京ポッド許可局』を聞くようになったし、神田松之丞改メ六代目・神田伯山への導線はバッチリだったし、全く知らないよりは漫才を始めとしたネタへの理解度も深くはなっているはずと信じたい。
 「三遊亭圓楽伊集院光 二人会」に爆笑問題がゲストとして出演するということそのものが、自分にとっては奇跡のようなものであり、全てが揃った空間だった。ここから始まったことに支えられながら生活し、日銭を稼いで、コスパ悪く生きている。
 チケットを取ってからライブ当日までの約一か月は、生きた心地がしない日々だったが、生きている実感を持てる期間でもあった。まさに電柱理論だ。ライブの前の日には、どんな結果でも受け入れられるような境地になっていた。『深夜の馬鹿力』で、伊集院光が、演者は演者に徹するだけと言っていたが、観客は開演を待つだけである。ただただ楽しむだけだ。全てはオリバーカーンそっくりの落語神次第だ。
 とはいえ、グッズを買うために並んでいるとさすがにまた緊張し始める。つまらなかったらどうしよう、分からなかったらどうしようという負の感情が胸の奥で煮立ってくるのが分かる。  
 そんな瞬間、ふとロビーに飾られている花を見てみると、都立足立新田高校3年7組卒業生一同から届いた花を見つけた。その文字列が目に入った瞬間、ぶわっと込み上げるものがあり、泣きそうになって、しばらく涙を堪えるのに必死だった。30年という時間の重みが一気に脳内に流れ込んでくる。家にある自分が写っている全ての写真をヤギに食べさせていた暗黒の時代だとトークしている高校時代の同級生たちからの花だ。彼ら彼女らは同級生である伊集院光のことを人生の合間で気にかけ、テレビで活躍する同級生のことを誇りに思っていたのだろうかと勝手に考えてしまうと震えるものがあった。
 よくよく考えると伊集院は中退しているという事実も少しおもしろい。このままだと泣き崩れてしまうと思い、隣のブッチャーブラザーズぶっちゃあからの花を見て、「腕折れてもうたやないか」のエピソードを必死で思い出して涙を堪えていた。
 ここで泣きそうになって感情が振り切ったのが良かったのかもしれない。緞帳が上がりきるまでには冷静になることが出来た。
 夜の部は、三遊亭圓楽伊集院光のフリートークから始まった。 拍手を受けながら登場してきた、圓楽と伊集院。初めて見た伊集院光は、二階の奥の方の席から見ても大きい。
伊集院は出てくるなり、昼間大変なことが起こりまして、と話し始め、圓楽が今日が良かったら、秋ごろに第二回をやろうと言い出していると続ける。それに観客は色めきだち拍手を送る。圓楽は『深夜の馬鹿力』がネットしているから、福岡でも札幌でも出来ると言い出し、そんな圓楽に伊集院は、「こんな言い方なんだけど、あんた元気すぎ!」とツッコむ。
 和やかにフリートークが終わり、続いて出てきたのは、三遊亭落大。伊集院光が落語家時代に名乗っていた楽大を現在名乗っている、二代目だ。確かに、体格は昔の伊集院を思わせなくもない。
 落大は師匠である三遊亭圓楽に名前をつけてもらうことになって、三遊亭楽大は出世名だからと言われて貰ったので喜んでみたものの、冷静に考えたら、落語家辞めた後に出世していたという伊集院光にまつわるマクラをしてから、牛ほめに入っていく。
 続く圓楽は、「出たり入ったり」。全く知らない落語だったので、何だこれ!と思いながら前のめりになって聞いていた。その時は、めちゃくちゃ理屈っぽい落語だなぁと、圓楽の新作かと思っていたら、『深夜の馬鹿力』で話して、もともとある噺であり、さらに調べて驚いたのだが、桂枝雀創作落語だという。
 一回聞いただけでは、振り落とされてしまうほどにぐわんぐわん揺さぶられるこの噺は、そのことを知ったうえでもう一度聞いてみたくなった。
 中入りが終り、飛び出してきた爆笑問題は、もちろんワクチンの接種開始、党首討論星野源新垣結衣の結婚から、カトパンの結婚など硬軟織り交ぜた時事ネタ漫才だ。もちろん面白かったけれど、良かったのは圓楽と伊集院をいじりまくった冒頭だった。特に、圓楽が不倫を謎かけ一つで許されたことに対して、「あんなんで許していいんですか」と客席に向かって怒鳴るくだりは、まさに寄席演芸のシャレの世界で最高だった。
 コロナ禍においても、タイタンシネマライブだけは行けていたので、爆笑問題の漫才を見てきてはいたが、やっぱり、生はちょっと別格だった。この落語会に来る観客だけあって笑いどころの感はばっちりで、太田がボケ、田中がツッコむたびに、どっと笑いが起きる。その波が何度も何度も自分の体に収斂していくこの感じも一年三か月ぶりだったので、じんわりとしてしまう。人生において一年や二年は短いが、楽しみを奪われるのには長すぎて、観客が笑いに来ているという当たり前の事実すら遠ざけられてしまっていた。席が満席だったら、うねっていてもおかしくなかっただろう。残念なのは圓楽、伊集院らとのクロストークが無かったことだが、それはタイタンライブに取っておいておこう。そのくらいの期待なら、してもバチは当たらない。
 トリを勤める伊集院の演目は「死神」。
 たっぷりと1時間はやっていただろうか。素晴らしかったです。
 マクラは、落語をするにあたって30年前には無かったスマホで落語に出てくる一両が現代の価値でいくらなのかを調べてみた話から、走馬灯や死ぬ間際に見るお花畑の映像は、今は脳科学で少しずつその仕組みが解き明かされているという話をして、生き死にまつわる噺として「死神」に入っていく。
 「死神」に入ってしばらくは、普段のラジオと比べるとやや丁寧な喋りであったが、男が死神に会ったあたりからギアが上がり始める。
 「死神」は男が死神と出会ったことから、寝込んでいる病人の側には死神がいる、その時、死神が枕元にいたら病人は助からずに死んでしまうが、足元にいた場合、呪文を唱えると死神はいなくなって病人は助かるということを教わる。男は医者となって、病人のところに行っては、足元にいたら呪文を唱えて、病人を助け、お金を稼いでいく。ある日、江戸一のお金持ちから、番頭を助けてくれたら、大金をあげるといわれ、そこに行ってみるが、番頭の枕元には死神の姿。がっかりし、助けられないことを伝えるも、さらに大金を提示され、悩んでいるところに、布団を回転させることで死神の位置を変えるということを思いつき、実行して無事成功する。
 その夜、男の家に最初の死神がやってくる。実は今日追い払った死神は自分で、お前はやってはいけないことをしたと言って、男を洞窟へと連れて行く。そこには、大量の火がついているロウソクがあり、死神が言うにはそれは、江戸中の人の命のロウソクで、今日お前が無理やり病人を助けたことで、その病人とお前の命のロウソクが入れ替わってしまったので、お前は死ぬと。男はどうにか助かる方法はないのか教えて欲しいと懇願すると死神はこの消えそうな火を長いロウソクに無事移すことができたら、お前は助かると教えてくれる。手を振るわせながら、火を移そうとする。男は無事に火を移すことが出来るのか。
 伊集院光の「死神」は、不勉強でただ知らないだけだったら恥ずかしいが、全く見たことのないものだった。
 男が死神に出会うまでの冒頭で、男がお調子者であるが、でも憎めない存在として描いてから、この男に観客の感情を移入させる。特筆すべきは、何故男にだけ死神が見えるのかなどの違和感を、縁をキーワードにして、ロジカルにかつ自然な形で潰す。死神がいなくなる呪文は「テケレッツのパァ」など意味の無いものが多いが伊集院が設定したものは、少し特殊なものだった。実はその特殊なものがフリとなっていて後々、効いてくるという構成の妙や、さらに縁とは何なのかというミステリー要素も入っている。もちろん、合間合間に、リスナーが持つ「伊集院さんっぽさ」も出過ぎていない程度にちょこちょこ挟まれ、ニヤリとしたり笑ったりさせられる。そうして突き進んでいく物語は、アクロバティックかつ伊集院光の根の優しさや「人生の肯定」が現れたラストを迎え、ラジオリスナーならさらに楽しいサゲの一言で着地する。
 それは紛うことなきリビルドされた「死神」だった。落語を知っていれば知っているほど、この噺をこう組み変えて、こう演出し、こういう結末にするということに驚くのではないだろうか。
 伊集院光が30年ぶりにした落語という付加価値を抜きにしても凄い「死神」になっていると思う。途中に出てくる与太郎めいたバカ丸出しの小僧もめちゃくちゃ上手くて面白かった。これだけで見たい、やってほしい話がいくつも出てくる。
 この「死神」の良さが分かるだけじゃなく、自分も年齢を重ね、この場にいていいほどにはそれなりに生活を頑張ってきたと言えなくもないことも嬉しかった。ライブを見た後は、急激に陰のゾーンに入ってしまったりするが、その日はずっと何とも形容しがたい気持ちだった。人生でこんなご褒美があっていいよなと素直に思えた。
リスナーとなって20年、漫然とラジオを聴いていただけの日々ではないと少しだけ胸を張っても良いのかもしれない。そうも思えた。
 何より嬉しかったのは、自分がこのチケットを取ったことを、自分のことのように嬉しいと喜んでくれた人たちが少なからずいたことだった。少しだけ運が良かったというわずかな違いだけで見られた今日のこの日のことを忘れないで、何か間違いそうになった時に思い出そうと心に決めた。