「大日本人」「しんぼる」につづいて、松本人志監督作品第三弾「さや侍」が公開された。
今作は「刀のさやしか持っていない侍が、30日かけて若君を笑わせるという『三十日の業』に挑戦する」というあらすじが公開されており、そこに対して、期待値は上がっていた。三十日の業という語感の気持ちよさ!
「松本人志」という記号は、映画を楽しめることよりも、それについて語ることのほうが面白いという逆転現象を引き起こしていたのだけれど、今作はそういうこともなく、フラットな気持ちで楽しめた。
ぼくは「大日本人」は好きで「しんぼる」が嫌いという立ち位置なのだけれど、今作の感想をいろいろと調べてみると、前二作より賛の数も多く、まさに賛否両論という印象を受けた。泣ける押しはどうかと思うが。
当日、ももいろクローバーのライブを見るために福岡にいたのだけれど、高校時代の友人と待ち合わせをし、福岡の映画館で見た。
映画館の空気としては、きちんと要所要所で笑いは起きていたので、比較的暖かい空気だったとは思う。
ただ、映画館での楽しみの一つである予告の前に、福岡ローカルのテレビで流れるようなCMがいくつもはさまれていたので、「これ、映画見るギア全然入んねえな!」という気持ちになったのだったが、ちゃんと映画の予告もやってくれたので、すっと姿勢を正すことができた。
宇多丸「シネマハスラー」、東京ポッド許可局でも指摘されている通り、「映画」としては穴が多い作品であろう。
ただ、そんなことはどうでもいい!とちゃぶ台ぶちまけ精神で、ぼくはこの映画を肯定していきたいと思う。
■前二作との差異
まず三作目にして、映画の文体を確立してきたように思える。「大日本人」よりはシャープで、「しんぼる」より「わかりやすさ」がわざとらしくなくなっている。また、「刀をもたない侍など死んでいるのも同然です!」というセリフは、お笑い芸人への評ともとれるように、劇中のセリフがメタファーとしても機能している。前二作は「つっこみ」が不在だった。ここは笑うところであるという、ボケを翻訳してくれる存在がいなく、ストーリーは淡々と進む。「さや侍」では、娘がつっこみを担っていた。
最近松本は、
松本「浜田というかツッコミって『警察』だと思う。平和なら本当は、警察っていないほうがいいんです。みんなの笑いのレベルが高ければツッコミなんていらない。でもツッコミがないと『笑いどころ』が分からないという現実があって、そこのジレンマ、複雑な思いがすごくある。ダウンタウンは浜田がいないと売れなかったというのも事実で、難しいところ」
という発言をしているが、これは「娘の役割」とは無関係ではないだろう。劇場でも、娘のつっこみのあとで笑いが起こっていた。
発言の意図をくみ取るのであれば、伝えるための妥協案のように思えるのだが、警察の導入はうまく機能していたように思える。前二作では、ダウンタウンとの差異化=松本人志の純化として、「大日本人」ではつっこみを排除し、「しんぼる」では笑いどころを分かりやすくするために、コミカライズな演出とおおげさな演技を用いていた。この「つっこみ」の有無が、前二作と異なる点となっている。
こういった取捨選択を経た上での文体の確立や、結婚して子供ができるといった現状の変化を含めた「変化」の最中を体感できるということは、ダウンタウンを大阪時代から追ってきたようないわゆる「松本信者」とは異なった文脈で語れるということが、20代半ばのぼくにとっては、それだけで楽しく興味深いものではある。
■映像の独自性
北野武監督は「アウトレイジ」の公開当時、「見てて目を覆いたくなるような嫌な殺し方を考えてそれを軸に、脚本を書いた」という旨を発言し、まんまと全国の歯医者をトラウマスポットに仕立てあげた。お笑いの文脈で語るのであれば、「アウトレイジ」は「殺し方大喜利〜THE MOVIE〜」である。
ぼくが松本人志の映画でストーリーの矛盾を気にせずに楽しめるのには、他の映画を見たとしても見られないような、松本監督独自の映像が楽しめるからである。
「大日本人」でいえば、原付に乗って坂をのぼっていくところ、壊れたビルの上部が川に崩れ落ちていく瞬間、獣(じゅう)のデザイン、ぬめぬめとした質感等、別の映画監督では出せない妙がある。(「しんぼる」はそれが少なかったことが、好きになれない理由の一つ)
「さや侍」では、野見さんが挑戦する姿には単純に見ててぞわぞわしたし、人間大砲に入って発射を待っている野見さんのアップから視点が動き、バックに富士山が出るところは鳥肌がたった。野見さんがふすまを何枚も破っている姿で心を揺さぶろうとする映像は既視感のない映像だった。ラストの切腹のシーンで、手のひらを見せるところは、これまでの野見さんという緩んだ存在を緊張させたすばらしいものだった。
惜しむらくは、あそこの「血」をうまく使うには、ど頭での流血はないほうがよかったことか。
■大喜利としての松本映画
IPPONを見ていて思うのは、問題にも良し悪しがあるということ。「ケンタウルスを怒らせてください」でのバナナマン設楽の快進撃や、「太鼓持ちの後輩忍者がよくやること」でのバカリズムなどの、解答者のキャラとセンスが合致した、スターマリオ状態が生まれたときのカタルシスはたまらない。
松本人志は、「松本人志が映画監督を撮ります。さてどんな内容?」という問題にまず回答し、その次に「ではその映画の内容は?」と、連続した大喜利に解答していく「自分で大喜利の問題を設定して解答を重ねていく」という構図になっている。
それは今作に限らないし、今後もどういった映画をどのようにとっていくのか、というメタ視線は付きまとう。
結局は松本人志監督に何を求めているのかという問題に帰結してしまうところのような気がして、もったいない気もするが、これは作品を超えて「現象」でもあるので今後もリアルタイムで体感できることは幸せなことだと思うし、作家性に対して注目される監督も稀有な存在となっているであろう。
(第四弾は、原作ありの映像化だと睨んではいる。)
■気になった点
ずっと引っかかっていものは、松本映画における「大衆の描き方」。
「大日本人」でも「さや侍」にしても、「見せること」「見られること」を目的としていながら、大衆の反応は、一辺倒のリアクションしかしていない。これは少し、松本や脚本協力をしたテレビ番組の構成作家陣の「大衆への侮蔑」がすけて見えて不快に感じる。
野見さんは大衆の心をつかんだまま死んで、殿様の気持ちもつかんで切腹を免れることができそうになったのだけれど、最終的には切腹をし、後世まで墓が残るようになった。
ふと思ったのが、あそこで野見さんが生き残った場合、永遠に大衆から愛されることができただろうか。
ループするが、大佐藤のように、大衆から見放されていたのではないか。
大佐藤は、生き残った野見の姿なのではないか。
ぼくは「大日本人は、ごっつ復活SP失敗のトラウマから生まれた」説を唱えていて、どういうことかというと、大佐藤のセリフが「完成されたコントを出しても視聴率をとれない時代にたいする愚痴」としても受け取ることができるんですよね。
そういった、大衆への寄せ方がまだ監督としては未熟で、娯楽作品を取りたいのであれば、観客の気持ちを理解しようとする気持ちが必要だとは思います。
これらの点で、ぼくは「さや侍」を肯定しますし、松本監督の動向はすごく気になります。
今作の結末がとくに賛否両論別れる原因の一つではあるのだけれど、前二作と比べて、結末から逃げていないように思えましたし、あそこで死ぬということは「どこまでも空気が読めなかった」ということ、つまり、「笑いのセンスがなかった」とも受け取れるようで好きです。