石をつかんで潜め(Nip the Buds)

ex俺だって日藝中退したかった

松本人志の休業が「松本人志幻想解体」の契機となるかもしれないとワクワクしてしまっていることへの省察

 「爆笑ヒットパレード」にて、爆笑問題太田光が、「松っちゃん元気ぃ~?松っちゃん!一緒にお笑いやろうよ!」と言っててひっくり返って笑ったのですが、爆笑問題を追い続けて、自らの史観を持つ者として、「これは美談などではなく、自らを『自分たちのお笑い』から締め出した人間への皮肉として痛烈すぎるな」と思った。そして、この窮地に対して、太田光を「すべらない話」に読んだりして、成田悠介やひろゆきみたいに、太田光の過剰な人間愛を漂白剤に活用されたら嫌だなとまで思っていたけれど、松本人志が休業を宣言したことで、その可能性が低なって安堵している。

 松本人志の休業は、当人にとっては限りなく悪手であることに加えて、会社との足並みの揃っていなさも漏れ出て、あれあれ、空気を掌握する天才という称号にどことなく翳りが出始めている。正直なことを言うと、幻想が解けていく瞬間に立ち会えているという興奮が止まらない。

 松本人志は天下を取ったと言うことについては誰も異論はないだろう。ここにおける、天下というのは、お笑い以外の文化においてもその影響を無視できない存在となること、巨大な資本や伝統が動くことと定義する。この出演者が思う個別の定義がなかったから、令和ロマンの「娯楽語り」での「誰が5年後に天下を取るか」がふわふわして、実際にはお笑いファンに好かれる、テレビで幅を効かせるくらいの話で止まっていたわけだが、それはさておき、そういう意味では、松本人志の天下は終わっているとも言えるし、紅白歌合戦の司会をして、アルコ&ピースの平子がずっとふざけて言っていた居合い切りをさせたという意味においても、現在は有吉弘行が天下を取っていると言っていいだろう。

 さて、他の文化が松本人志を無視できないという状態は終わっているわけだが、お笑い界においては権威として君臨していることもまた否定できない。それらの証明については割愛するが、権威というのは、幻想をもって補完されるものに他ならないが、僕が見たいのは、松本人志に対しての幻想は、休業によって耐えられるのかということ、ただただこの一点に尽きる。具体的に言えば、「松本人志のコメントはいまだに衰えがないどころか、切れ味は変わっていない」や、「新たなお笑いの真剣勝負の場を設けている」「賞レースに出場する若手は、松本人志に審査されたがっているか」というよく聞く言説は、本当なのかということだ。

 松本の近年の功績は、速射的に繰り出される誰も思いつかなそうなコメントと、「IPPON」や「FREEZE 」「ドキュメンタル」などのお笑いの力量が数値化、可視化されるようなコロッセウムのような場を作るということが主に挙げられるだろう。個人的には、コメントの飛距離は凄いものの、打率は相当低く「水曜日のダウンタウン」でいえば、1、2ヶ月に1回あればよく、提供する場についても、すでに存在しているものを権威でもって付加価値をつけているものでその笑いについてはむしろ原始的な睨めっこや、飲み会での下ネタありのボケ合戦であって、その実は新しいものではないと思っている。そして、賞レースの出場者が減るのか、変わらないのか、どうかなども含めて、人々は松っちゃんロスになるかという問いは、ある意味では壮絶な社会実験とも言える。特に「水曜日のダウンタウン」について、藤井健太郎が手をこまねいてこの現状を見ているわけはないし、その面白さを担保するために、コメンテーターも強めな布陣を組むかもしれない。そうなった時に、松っちゃんいなくなっても面白さが変わってなくないとなることだ。これが幻想の崩壊の一助となるのであれば皮肉なことだが、昨年の番組としての第二黄金期と、「大脱出」を見ていたら、その可能性は低くはない。

 きっと悪いことばかりだけではなく、あまりに松本人志の疑惑に直結するような構図がすでに避難されていたキングオブコントは、大きな刷新のチャンスを得たとも言える。これは悪いことではないはず。何かがきっと変わる様を、目に焼き付けたい!と騒ぎ立てたい気持ちを抑えられないのは視聴者の特権である。

 今は、荒れろ!荒れろ!というワクワクが大きいのは事実である。

 さて、女性を貨幣として扱うようなホモソーシャルについて、その構造が気になっている方のみにお伝えしますが、これらを勉強したい方は、まず上野千鶴子「女嫌い ニッポンのミソジニー」と、「呪術廻戦」での禪院家とその末路をチェックしてください。