石をつかんで潜め(Nip the Buds)

ex俺だって日藝中退したかった

THE SECONDのノックアウトステージでのかもめんたるの漫才と、ハンジロウと三日月マンハッタンの沖縄漫才に衝撃をウケた話。

 日曜日にエクスを見ていたら、あまりにも、タイムラインで、THE SECONDのかもめんたるの漫才が凄いという事で、割とガチめのかもめんたるウォッチャーとしてこれは見ずにはいられないと思っていたが、何せ年度末であり、ほぼ毎日残業しているような状態で、気持ち的には諦めていたが、いやいや、これは絶対に見ないとダメだろうと、最悪、かもめんたるだけ見ればいいやと、良いところだけをスキップしつつ見るという、普段のセクシービデオの見方と同じように飛ばし飛ばし見ればギリいけるかーと算段し、腹を決めた。ジェットカット手淫をしている人間にファスト映画を弾劾する資格はない。などと考えることで、午後の次年度の業務分担を割り当てるためのグループ会議をやり過ごしたりした。
 結果、残業を2時間で切り上げ、なんとか配信を購入し、無事、全漫才を見ることができた。
 かもめんたるの漫才は、見れた日だけのノックアウトステージで言えば、の贔屓目に見て一番良かった。内容に触れることは避けるが、きちんとした漫才だった。これまでの、演説を打つう大と、それにたじろぐ槙尾という構図はこれまでと同じだったが、全てがレベルアップした状態で噛み合っていた。
 かもめんたるのコントのようでもありつつ、劇団かもめんたるでの一幕のようにも見えるが、れっきとした漫才。
 チクリと差し込まれた漫才の持つ欺瞞性への批評を、かもめんたるとしてやっていたことにも、お、となったが、これは、う大にしかできないなと感動したのは、ルッキズムトーンポリシングといった言葉が入っていたにも関わらず、それを揶揄するような文脈や、誤用ではなく、きちんと消化された言葉として漫才に落とし込められていた使い方だったことだ。ルッキズムの時代ですよと言っていた、みなみかわとは大違いだ。
 あとは所作である。これまで見たかもめんたるの漫才は、その会話が、指一本に至るまで演出されているような印象があった。演技と演出が卓越しているコンビであるからこそ、管理された会話になってしまっていた。他の漫才師の漫才と比べると、カクカク動いている感じがしていたが、今回のネタでは全くそれがなく、今までの漫才で一番ウケたとう大も言っていたが、そうなるのも頷けるネタだった。
 劇団かもめんたるはほぼほぼ見ているが、一番好きなシーンは、ピンクスカイで、う大と槙尾が二人だけになるシーンだ。劇団かもめんたるは面白いけど、かもめんたるを見たいなあって思っていた自分にとって、ねじれているが、やっぱ、この二人が並ぶとめちゃくちゃ良いんだよとなったところであり、ピンクスカイと同じくらい面白い公演があっても、このシーンは忘れられない。
 大袈裟に言えば、今回の漫才は、このピンクスカイの時とは別の方向で、ああ、やっぱかもめんたるはこの二人が並んでこそだよとなった。
 う大は、いつかの時代のどこかの国に産まれていたらノーベル文学賞を受賞していたような人間だが、そんな天才が、コントや漫才をやり、一年や二年そこらで、大衆にコミットしていく様に何か勇気をもらえるし、それでも溢れるヤバさに笑わずにはいられない。
 ただ、配信を見て良かったなーとなった、特筆したいのは、ハンジロウと三日月マンハッタンの沖縄漫才だった。沖縄の言葉のフロウとイントネーションを維持しつつ、テンポを早めて漫才をしてい他ことだった。ちょっとここに感動を覚えた。ゆったりとしているというパブリックイメージを解体するかのようなオルタナさがあった。これは、賞レースの対策と言ってしまえば終わりだが、沖縄の言葉で披露される漫才においていえば、その歴史的な背景から、革新さを帯びる。二階堂ふみへの方言札の逆です。
 二組の漫才において、標準語にしていた部分すら、むしろナイチャーに合わせてることでリズムが崩れてるとすら思った。嘘つくな!よりは、ゆくさんけ!としたほうが、間伸びしないですむ。これはつまり、標準語の漫才の中に沖縄の言葉があるのではなく、沖縄の言葉でなされる漫才の中に標準語があり、標準語の方が異物、漫才の足を引っ張っているノイズとなっているということだ。沖縄の言葉を維持したまま、テンポを速くして漫才ができるということの発見は、大袈裟にいうと、日本語でロックって出来るんだって思った人たちってこういうことだったのかと気づいてしまったほどのちょっとした衝撃があった。
 THE SECOND、激アツい興業だ。