石をつかんで潜め(Nip the Buds)

ex俺だって日藝中退したかった

「櫻井・有吉のTHE夜会」の方言札の再来で即座にキレられなかったことへの省察

CMを見た瞬間に、方言札じゃねえかとツッコんだは良いものの、ギリギリ、スルーされるかと思っていたけど、反して各所から指摘をされていますね。正直なことをいうと、まあ止むを得ないミスかなと、ことを荒立てることをせずに、インスタの親しい友人ストーリーに放流しただけなんだけれど、しばらく経つうちに、これはきちんとキレるべきだったなと反省している。バラエティが好きで、沖縄出身の自分が思考の一端を残さないと誰がやるんだっていう、龍拳爆発!悟空がやらねば誰がやるって感じですし、昨年見た「福田村事件」を思い返しても、まさに言語の違いから来る惨殺の話なので、その映画がを観た以上、即座にキレるべきだった。ただ、このことで、誰かを批判しようとする意図は特にはないです。そもそもなんで、これが差別だと指摘されているのかというと、琉球王国が日本になった時とかに、ウチナーグチを使ったら、方言札を首から下げさせて晒し者にするという負の歴史があったということがまず、前提となる。同じルーツを持つ人たちに対して、差別と被差別の構図を作り出し、分断を生むという邪悪な制度だ。この歴史を持つルーツの人に、方言札を想起させる企画をするということは、そこに悪意の有無は、実は問われずに、差別の反復となるので、すべき企画ではなかったということになる。このような理屈なので、他の方言を禁止しても問題ないことになるが、どこかの県とどこかの県という組み合わせ次第では、今回同様に差別となる可能性がある。ちなみに、あまりに考えずに使用しているから忘れられがちだが、言語というのは思考の根幹であるので、その言語を奪うということについては、思考を鈍らせるだけでなく、思考からなる精神への抑圧の一つと言える。言語について不見識だが、健常者であるが故に全く想像しなかったが、手話についてもいろいろな論争が生じているくらい、コミュニティにおいての言語というのは、実はデリケートなテーマとなっている。なので、台湾や韓国に日本語を勉強させたからといって、それが必ずしも良いはなシーサーではないという指摘もできる。ちなみに、番組を実はきちんと見ていたが、二階堂ふみは、どこまで演技なのかは分からないが、きちんと辿々しく話していて、方言札の時はこれよりもっとひどくなっていたのかという気づきを得た。また、こういう理由だから差別にはならないという、自分は加害なんてしないという思い込みと、自分が加害をしてしまうことへの恐怖からくるであろう反論を潰していくと、過去のバラエティの企画でも今はダメになる可能性はあるし、方言札なんて知らないというのであれば、だったらナチズムを知らんかったらいいんかということになるし、なんでもかんでも差別っていうのは良くないっていうなら何も改善されず世の中は悪くなっていく一方だし、そもそも差別かどうかを判断するのはあなたたちではない。史上最もシビアな差別判定の時代にはどんどんなっていくわけです。ただし、僕自身も反省しているように、即座にキレなかったこと、問題提起できなかったくらいには、方言札事態が、風化している歴史でもあるので、そういう意味では、やむをないミスではあるものの、だからこそやっぱりキレないといけないなと思った。あと、最近、辺野古の看板が盗まれた事件があって、それに対して、座り込みしているのになんで盗まれたんですかねという、天才チンパンジーの脳みそに刺した電極を経由したコメントが散見されて、記事の引用リツイートが黒の章の初級版みたいになっていたが、あの看板には、連続何日と書いてあって、連続何時間とは書いていないので、そりゃあ誰か不在の瞬間があるだろう。それって、皆勤賞を取った同級生がいて、なんか気に食わないから靴を盗んで、皆勤賞なのになんで靴盗まれてるんだーっていっているような幼さ稚拙さを感じる。Whataboutism的に、「じゃあ、英語禁止もダメなのか」などと言っている人がいるが、方言札という差別を受けた歴史があるルーツの人にさせることがダメなのであるがそういうことを言う人に限って、それは差別だわという例えを出してこないことに気がつく。「じゃあ、英語禁止もダメなのか」とは言うけれど、「特定の人種を集めて罰ゲームをさせて失敗した人に炭酸ガスを吹きかけるのはダメなのか」、「あそこの県とあそこの県の出身者を集めて、チクタクバンバンをやらせたらダメなのか」、「地雷で足を失った人達にマインスイーパーをやらせたらダメなのか」みたいなことは避けてくる。なぜなら、それは差別だわ、と自らの主張の分が悪くなることを理解しているから。だから、そこには絶対的に、沖縄への差別意識はあるわけである。そういえば黙るだろう、という、狡猾な抑圧。この理屈で言えば、ちなみに英語禁止も、一定の条件を満たせば、差別にはなります。ここ最近、熊本博之「辺野古入門」、デボラカメロン「はじめてのフェミニズム」を読んだのだけれど、そうすることで見えてくるのは、差別というのは基本的に同じ構造を持っているということだ。抑圧をして分断。この繰り返し。王ロバの「友好生物党の罠だー!!」は真理だったわけだが、この構図を持っていた方言札を想起させる、問題の企画はやっぱり、ダメだろうなと思います。