石をつかんで潜め(Nip the Buds)

ex俺だって日藝中退したかった

「僕の小規模な生活」5巻読んだよ。

無事に子供も産まれて子育てマンガも板に付いてきた感のある「僕の小規模な生活」の5巻がでた。いつも通りのテンションで購入したのだけれど泣きそうになりながら読み、そのあとは放心、しばらくしてから「先生が妻と出会えて幸せな家庭を築いていて本当に良かった・・・。」という気持ちになった。今までと何が違うかというと、この巻には「回想編(上)」というサブタイトルが付いていて福満先生の過去の恋の話が書かれているんです。昔、深夜の馬鹿力に「ミスチョイ・我が人生に悔いあり」という「過去にチョイスをミスった話」を投稿するというコーナーがあって、もちろん深夜ラジオのコーナーなので投稿者はおもしろをまぶしてくるわけなのだけれど、聞いていて胸がきゅーっとなるものばっかりだった。他人の過去なのに苦しく、そして僕もまた選択を間違ってばかりきたということを痛感させる名コーナーだった!
回想編を読んでいる間、そんなミスチョイのコーナーをMDで登校途中に聞いていた時のような感覚になった。
この話を書きだすきっかけは、福満しげゆき先生のイラストが書かれたヴィレッジヴァンガードの買い物袋が店頭で配布されていたことがあって、それを見た同級生から福満しげゆき先生に直接メールが来たことで、そのメールをみた時の気持ちを福満先生は

中学のときの同級生の女性からメールが来て・・・・・・立ち上がって上の方を向き天井が広角レンズで撮ったような映像に見えるような視野の広がりを感じながら・・・・・・泣きましたもの。いや涙出てないし「泣く」は語弊がありますが・・・・・・とにかく感動したのです。
うれしかったんです・・・・・・僕今までマンガを描いてきたなかで一番うれしかった出来事でした。今までマンガを描くことにおいてどこか五里霧中というか糸の切れた凧のような心境でやってきたようなとこがありましてマンガにおいて何が起こってもどんなにいいことがあっても過去の自分と何かが分断された自分の出来事のように感じてしまっているようなところがありまして・・・・・・それがやっと今までのことがすべてが繋がった一連の出来事であると感じることができたのです。

と書いている。長いことファンとして作品も揃えている身としてはこの文章だけでも泣けますよ。いや、実際僕も泣いてはいないんですけど、胸にかなりくるものがあります。
回想編はそのメールをくれた女の子との思い出を軸に始まっていくのですが、思いだしながら描かれているので、時系列がバラバラになったり、記憶が曖昧で…ということをきちんと書いている。そこがとてもリアルで、伊集院光の「のはなし」シリーズに描かれている過去の話のように、一つのエピソードにひっぱられて、もっと古いエピソードをずるずるっと思い出してしまうようなあの感覚。
何よりも切なくて痛いのは、最初に好意を持ちだしたのは福満先生じゃなくてその女の子からってところで、このカッコ悪さはもうモテキなんか目じゃないくらいの「自分の物語」ですよ。
作中でも先生が「タタリ神が猪だったときのような話」と書いているけど、自分がタタリ神になる前の記憶が、福満先生の記憶によってどんどん引っ張られてくる。この女の子とは「美月ありさに似ている」という会話(というか指摘)から交流が始まるのだけれど、今で言うと早見あかりかなって思ってしまったもんだから、もうダメ。あかりんで脳内実写化をしてしまって胸が痛いんです。
時代が進むにつれてその女の子との距離がどんどん遠ざかっていくのが読んでいてとても辛いです。これが、僕が福満先生のファンでほかの作品も読んでいてバックボーンを知っているからこんなに苦しいのか、それともこの「僕の小規模な生活」の五巻だけを読んだ僕と似たようなタイプの人なら結構な確率で苦しくなるのか知りたいので漫画喫茶でもなんでもいいので読んでほしいです。

この日を境に「僕」のキャラには「隈」の漫符が入ることになったのです。

福満先生の「僕の小規模な生活」(「うちの妻ってどうでしょう」も)はエッセイ漫画なので、キャラとしての「自分」をよく書いてるのだけれど、その顔には基本的に目の下に隈(くま)がある。これはストーリー漫画でも冴えない主人公には隈が書かれていることが多く、この注釈を見たとき、ドラえもんが青くて声がかすれている理由を知ったとき以来の衝撃を受けました。
僕は中学時代に爆笑問題の太田に憧れて猫背で歩いていたら猫背になっちゃったんですけど、福満先生に隈の漫符がついたように、僕の心が猫背になったのは高校落ちて一浪してからだと思う。第三のバナナマンことオークラと同じだって思えたら少しは楽になったし、そのことで工業高校で全く友達ができずなおかつ留年までした福満しげゆき先生へのシンパシーが他の人より一個のっかっているっていうのはあるけど、良いことなんてそのくらいのもん。
作中で、高校時代の福満先生が男と自転車の二人乗りをしているその女の子を見かけるんだけど「あれはヤってないな」って思い込むシーンがある。自分にも同じようなことがあったのを今思い出した。中学生のとき、部活終わりに友達と帰る事になって校門を出たんだけど、こっち行こうぜと言われて付いていった方向が、学区内だけど家とは真逆の方向だったので理由を聞いたら、同級生の女子と会う約束があるからって答えたんです。そうなのね、みたいに特に気にしない感じで、その女子の家の近くに着いたら友人と別れたんです。でもどう考えたってその後にセックスしているじゃないですか。中学二年生なのに!そのときの「最近、買ったTシャツがレディース寄りなので、袖が少し短い」みたいな、読者モデルが昔いじめられていたっていうい告白くらいどうでもいい話は覚えているのに、友人がこれからセックスをするという現実から目を逸らしていたってことに今気づきました。
過去を美化するってことは、過去と現在を切り離していることで、最初に引用した福満先生の言葉とは真逆になってしまうんだけど、それとこれは表裏一体なんですよ、きっと。冷静に考えたら、美化できる過去なんてほとんどなくないですか?たまに過去のえぐみにぶちあたった夜って眠れないじゃないですか。死ねば良かったって思う夜ばっかだよ。

でも5巻のラストで「妻」と出会うんです。希望ですよ、希望。
「妻」と結婚した経緯は「僕の小規模な失敗」で書いているのですが、回想編(下)ではまた違った描き方がされるとは思うので、それまでは死にたくなっても布団を噛んでこらえて生きようと思います。