ももクロとぼくの非日常に隠されたメタとネタと萌え

QJで、さやわかというライターがももいろクローバーについての文章を寄稿していて、それがすごく良かった。
名前を調べると、アイドルについて書いていたり批評的な文章を主にしているライターさんで一気に気になった。
twitterもしているみたいで、早速フォローしてみたんだけど、その後、フォロワーさんから「吉田豪と論争した」という情報をもらって、それをまとめたtogetterのことも教えてもらい、読んでみた。




そこでつぶやかれていた「上っ面にのってる物語が涙だろうがいったん脇に置くというか、その物語を全力でやることで初めて始まるモノがすごいんだよなぁ」という感覚はとても理解できる。



お笑いの文脈で語るとするなら、「M-1」で出た、笑い飯の「思ってたんのとちがーう!」や、麒麟田村の「麒麟はお前が頑張らなあかんねんぞ」とネタの途中にカんだ川島に対して発したセリフや、オードリー春日の「自信ですか?なきゃここにたっていませんよ」といった数々の名言たちが生まれた瞬間から受け取った感情やドラマ性というのが、「物語を全力でやることで初めて始まるモノ」であった。事実これらのシーンたちは、今も語り草になっている。
これらの言葉は、「漫才の1番を決める」という枠組みの中で、漫才師の心情やキャラといったものがうまくバッティングした瞬間であり、全力でやりきったからこそのエネルギーと、別の意味を発生させ、「虚」と「実」が入り混じったことにより、感情は揺さぶられ、ぐじゅぐじゅになる。



ももいろクローバーといえば、リーダーのかなこが、これから脱退するあかりんに対しての「なんで今なんだよ!今が一番大事な時期じゃん!」というのがまさに虚実が反転されたようなそれであり、個人的には前述した麒麟田村の叫びとほぼ同じものだと思っている。

とにかく、QJにおけるさやわかさんの文章は一読の価値は十分にある。
全力でパフォーマンスするという面は、ももいろクローバーとしても一番の魅力ではあるのだけれど、さやわかさんは、もう一つの魅力「歌詞」についても言及していた。


歌詞を一見する限りではたしかにラブソングと呼んでもいい内容をもったものが多いものの、よく読めば「逆境こそがチャンスだ」とか「伝説のリズムで歴史変えよう」とか書かれていて、ファンとの間に疑似恋愛を仕込むような凡百のアイドルソングとは違ったものになっている。


つんくの歌詞を思い浮かべると、疑似恋愛という感覚は分かりやすい。
またAKB48の「会いたかった」や「ポニーテールとシュシュ」等は、AKB48のメンバーとファンが、同じ学校にいて、その恋愛模様をファン(男)目線で歌うという少し特殊な構図となっていたりする。



さやわかさんも語るように「凡百のアイドルソングとは違ったものになっている」とはどういう意味なのか。
行くぜっ!怪盗少女」は、主語が「怪盗」になっているが、実際は週末ヒロインとして活動する「ももいろクローバー」のことを簡単に想起できる内容となっている。
「ピカピカのダイアモンドには興味がないの」「オトナが仕掛けた罠をくぐりぬけ」と歌っているところが、まさに凡百のアイドルとは違うのだ。
身も蓋もないことを言ってしまえば、アイドルは「ピカピカのダイアモンドを身にまとい、オトナがしかけた罠にのっかっていく」という二つの意味でカワイイ存在だろう。
それが偶像としてのアイドルであり、全力で「虚」をやるということだ。

けれども、ももいろクローバーは最初からその価値観を拒否する。「かっこ悪いことがカッコイイ」というスタンスで突き進むということになる。
その美学は、まさにカウンターカルチャーだ。サブカル好き、アイドル好き、漫画好き、お笑い好き。
無数に漂う島宇宙と化したカルチャーを自由に駆け巡る彼女たちは、世間の潮流に逆らう。
その生き方にはポップと、キュートと、ファイティングポーズが同居する。


ももクロは、人気が出てきて「今会える」とは言い難いが、確実に「今応援しなきゃいけないアイドル」だ。










■おまけ


つい先日、仙台で行ったライブをユーストリームで流したのを見た。その際に新曲を披露したのだけど、それがもう本当にサイコーだった。
この歌を見てたら、感情がぐちゃぐちゃになった。
そして、西島大介凹村戦争」の帯に東浩紀が書いた帯がある「きみとぼくの非日常に隠されたメタとネタと萌え SFはここから変わる」という言葉がある。




初めて手にしたときはメタもよく分からなかったのだが、まさに数年の時を経て、この意味を理解した。
この歌は、ももクロの魅力が「メタでネタで萌え」ということを証明してくれた。
つまり、「きみとぼくの非日常に隠されたメタとネタと萌え ももクロはここから変わる」なのだ。