石をつかんで潜め(Nip the Buds)

ex俺だって日藝中退したかった

ただの最近の吐き出し。

 細心の注意を払って東京に行き、コロナの潜伏期間であるといわれている最大値の2週間が経過した。これまで分断を進めてきた政府は、もちろん今になっても分断をすることによってのみ成立する判断を続けてくる。詳しいことは分からないが、嫌悪感のみがある。
 よって、自粛はしない。
 しかし、志村けんが死んでしまったので、喪に服しておこうと思う。
 新しい同人誌『俗物ウィキペディア』が、現時点で50冊ほど売れています。『俺だって日藝中退したかった』よりもペースは早くて、ブログを書いてきてよかったなあと思っています。予想外だったのが、『俺だって日藝中退したかった』とセットで買ってもらえているところで、『俺だって~』が、なんと、残り20冊ほどとなった。おおよそ80冊ほど買ってもらえたということになり、とりあえず、当初の目標だった、入稿の料金をペイするというのを5年ごしに達成することができた。今読めば、文章も下手で、『俗物ウィキペディア』よりも掘り下げが甘かったりするのだが、その分、取り上げるものの幅は広かったりと、これはこれで頑張ったなあと思えている。よっぽどのことが無い限り、再度作ることはないので、駆け込み購入していただけると嬉しいです。
 仕事はテレワークが出来ないことや県内での発症が少ないことなどから、ほぼ話題に出るだけで、大きな変化はない。これから、ウシーミーというお盆のようなイベントが始まるので、先の三連休で感染した人が症状を訴え報じられているように、特にこちらではGW前に大きな波が来るのではないだろうか。
 twitterのアプリを削除した。サイトにつないでたりするからあんまり意味が無いのだけれど。

永野の自由は撃てんよね。『ロフトプラスワン時代のネタをロフトナイン渋谷でやるライブ』感想

 コロナウィルスに細心の注意を払って、永野の単独ライブ『ロフトプラスワン時代のネタをロフトナイン渋谷でやるライブ』を見てきました。端的に言って、最高でした。

 「喉に餅がつまった新沼憲治」から始まり、ディルドを使ったコントで世界一笑える「ボロンしてることに気づかずに祭りに参加してる人」、「隣の家の二階から自分の畑に射精される人」、「横浜たそがれトランスバージョンを歌って石を投げられる五木ひろし」、MAXの『TORA TORA TORA』を流しながら永野が小さなピンクのカバンを持った女が咳をしたり股間をかきむしる「性病検査をしてない女がこっちに来る」では、ウーハーが効いた笑いが体内を駆け巡った。その他に、「崖の上でゲームの対戦のシミュレーションをするゲーマー」、「宇宙基地からB’Zの二人に指令を送る人」、「指名したキャバ嬢が休みで焦る人」、「失礼な新人女優を叱るか葛藤する萬田久子」、「LAが最高なことを国際電話で伝える女」、「箱根駅伝のゴール直前に、白バイの警官にレイプされる人」、「待ち合わせの相手が来たことに気付いた人」、「巫女さんがつけたペニバンを口に咥えさせられている人」、「レイプの天才佐藤さんを紹介する女性」などの15本のネタを淡々と続けて披露し、15分の休憩に入って第一幕は終了した。この休憩は、ライブの中で計三回挟まれたのだが、そうでもしないと、笑い疲れをしてしまい、永野が白バイに乗っている警官にレイプされて以降は、ネタが頭に入ってこなくなっていただろう。

 一回目の休憩を終えたあとの一本目は、「おみそ汁の達人」。「おみそ汁の達人」は、2019年に最初見た時、何だこのネタは何でこんなに面白いんだとしばらく笑いが止まらず、次の日まで余韻を引きずってしまったほどのコントだ。それから、「オノヨーコ天気予報」、「フェラチオされているように見えるベルトをもらってから自信を持つようになった人」、「リベンジポルノを撮るためのカメラの説明を店員に聞いている人」、「松山千春の『長い夜』と永野が同化する」。『長い夜』と永野が同化するコントに関しては、今回のライブで最も意味が分からなかった。

 第二幕でのハイライトは、スマッシュヒットした「客席にクワバタオハラを見つけた歌手」を終えた後、テレビで受けたネタに対して斜に構えたようなリアクションとそこそこの笑いをしていた観客に永野が苦言を呈してから、続いた「顔面に傷を負って再起不能になった五木ひろしの東京ドームでの復帰コンサート」では異常に盛り上がって大ウケして、永野も「これこれって感じしたのが分かった」と言っていたという流れで、会場の一体感がとんでもなかった。

 第三幕は、一番ひどかったコントの「大相撲をエンジョイする女性」、「日本人にハワイの正月のルールを教える人」、「Fatboy Slimの『Because we can』を沢尻エリカみたいに踊る」、「浜辺で九州を一人で守る人」、「クマさん応援会」だった。

 もしかしたら見られるかなと期待していた「浜辺で九州を一人で守る人」を見られて、「クマさん応援会」ではクマさんを応援出来た最後の流れは幸せだった。

 永野を最初に見たのは、今から九年ほど前に初めて行った東京のお笑いライブで、遅れて会場に入ってきた永野が、客席にいる常連の観客を見つけて、「また、お前いるのか」とからんでいた時であり、そこで恐怖を覚えたのだ、調べてみたらその前に、テレビで「見たこと無いけど『スパイダーマン』のモノマネをやる」というネタをしていたのが本当の最初だったということがある。永野は若手芸人としてテレビ出演しているにも関わらず、ずっとマスクをしていて顔を出していなかったことも思い出して、その尖りに思い出し興奮をしてしまった。

 永野とファンの関係性が時たま心底羨ましくて仕方がない。ここでいうファンというのは、ロフトプラスワンでライブをやっていたころからの十年来、永野を好きでいた人たちのことだ。この両者の間には、どうしたってテレビで見ていて好きだというだけでは太刀打ちできない、共犯関係のようなものが存在する。例えば、ネタの合間のトークでの、永野のネタの感想として「元気をもらいました」と言ってくる人を小馬鹿にしたり、セルアウトしたことを自嘲的に話してネタにしたり、それこそが永野の美学であるのだが、そういったやりとりが本当の意味で成立するのはこの両者だけのもので、テレビで要所を抑えているだけの自分は、笑いはするものの、部外者であるという寂寥感が残ってしまう。

 けれども、やはり、大好きなネタを生で見られたことは嬉しかったし、だいぶマイルドになったであろうが、当時のロフトプラスワンの空気を味わえたような気になった。

 「浜辺で九州を一人で守る人」のネタのなかに、千葉県民を容赦なく銃殺する男が空を飛んでいるカモメを見て「自由は撃てんよね」と独り言ちるシーンがある。こういう文脈で語られることこそが最も永野に嫌われるかもしれないが、このセリフを永野自身の自由さに重ねてしまい、それを聞いた瞬間、ほんの少しだけ真面目に受け取ってしまい、元気のような何かが胸の内に湧いてきたのである。

 地元に帰宅して、コントの中の、チャックからディルドを出しながら盆踊りをしている男性や、白バイ警官にレイプされる大学生や、大相撲を見ながら女性器をこねくり回している女性を反芻しながら食べた、水少なめ、ゆで時間多め、卵と焼きウインナー乗せというカスタムうまかっちゃんはとても美味しく、あらためて、色々あるけどライブに行って良かったなあと思ったのだった。 

 

 

 

各位!!同人誌第二弾「俗物ウィキペディア」発売のお知らせ!!!!

 偶然にもちょうど二百記事目のようですが、この一年近く作業していた同人誌の二冊目が出来ました。そのお知らせと販売先のリンクです。これに合わせて、前作とのセット販売も行います。イベントに出るつもりはあんまりないので、こちらでお求めいただけたらと思います。

 このブログを面白いと思ったことがある方には、本当に面白いと思いますので、よろしくお願いします!!!

 来週には、メルカリのアカウントを作成してそっちにも起きますので、ピクシブのアカウント(BOOTHで買うには必要)を持っていないけれどメルカリは持っているという方は、もう少々お待ちください。

 

【目次】
・人生で、東京60WATSの「外は寒いから」を聞きながら引っ越しをした回 
・ベストラジオ14 
・伊集院さん、センキューです!
バナナマン設楽統の「伝えなくちゃ伝わんないんだよな。」
の系譜
・ペポカボチャの呪い
・『TITAN LIVE 20YEARS anniversary』
・全力TVウォッチャー 福永雄一
・「それは愛であり、病気だよ」
バナナマン単独ライブ『Life is RESEARCH』
・ベストラジオ15
・当たり前を迂回したその先にある当たり前
・生駒ちゃんなりの「笑顔でさらば!」
・ベストラジオ16
バナナマン単独ライブ2017『Super heart head market』
・ひと目惚れさせる男、神田松之丞
・『We Love Television?』=『大日本人』論
・ベストラジオ17
・世に万葉のでたらめが舞うなり『爆笑問題30周年記念単独ライブ「O2‐T1」』
・『M‐1グランプリ2018』での立川志らくは、漫才をどのように審査したのか。
空気階段爆売れ前夜譚その壱~ドキュメンタリーラジオ『空気階段の踊り場』はクズと泣き虫のドンフライ高山戦~ 
・悪意ある良問のパレード『オールスター後夜祭‘18秋』
・オードリーとリトルトゥースたちのあくまで普通な祝祭
・1000年使える笑いの教科書『今夜、笑いの数をかぞえましょう』
空気階段爆売れ前夜譚その弐~鈴木もぐらの恋は永遠、愛はひとつ~
岩崎う大の偉大な才能が花開く劇団かもめんたる
・令和元年のタイタンライブ
・壁を殴るしかない夜に僕たちはどう生きるか
ガゼッタ・デロ・オワライーノ 上田晋也特集
空気階段爆売れ前夜譚その参~空気階段第三回単独ライブ
『baby』~
・魂をサンプリングするということ
・おかえり、アンタッチャブル
・産まれてきただけでステッカー

 

memushiri.booth.pm

 

こちらは、二冊セットです。この機会に前回分もお求めいただけると幸いです。

二冊買うと、ゼロ年代のお笑いが見えてくる!!

memushiri.booth.pm

生涯ベストとなった『ジョジョ・ラビット』レコメンド

 まあそうなるだろうなとは思っていたが、空気階段の単独ライブが延期になったということが正式に発表された。同じく遠征で見に来る予定で会った友人も、行くのが難しくなったということもあって中止でも良いかなと覚悟はしていたのだが、実際そうなると、思いのほか、ダメージを受けてしまい、あ、もう無理だ、と口走ってしまった。
 もう、限界が近い。全員のコンディションが悪くなってきている。
 SNSを手放して粛々と、日々の生活をつつましく過ごすべきであり、例えば、日記を書くとか、ブログを始めるとか、絵を描くとかしないと、自分を保てなくなってくる。なんとか、同人誌の告知であるということを言い訳に毎日ブログを書いているのだが、これはコロナの関係で、ということでは出来なかった。日常とは違うことをしているからということになるからであるのだが、しかし確かに、気の支えとなっている。読んでくれている人は、何も考えなくウケてくれていればそれで幸いです。

 

 

 

 『ジョジョ・ラビット』を少し前に観てきました。見ようと思ったきっかけは『パラサイト 半地下の家族』の感想をサーチしているときに良く見かけたからであり、ヒトラーをイマジナリーフレンドにしている少年が主人公という程度の情報以外は遮断した状態で観てきたのだが、まさか、生涯ベストの映画を更新するとは思わなかったほどに、素晴らしい映画だった。
 登場人物をはじめ、見せ方、描き方、展開の仕方、逆説、笑わせかたなどがとにかく良く、冒頭を始め、変なとこで泣きまくった。映画のいろいろな場面で、これまでぼくが触れてきたカルチャーを想起させ、それは恐らく映画として新しいことはしていないと思うのだが、しかし、思い出す者がどれもぼくにとって重要なマスターピースだからこそ、ぼくという文脈に『ジョジョ・ラビット』はがっちりと噛み合い、そのために、生涯ベストだと思えたのかもしれない。映画を見終わった後は、これを生涯ベストだと思わせてくれるように、ぼくを作ってきてくれた全てのものに感謝を述べたいとさえ思った。鑑賞後しばらくたって改めて考えてみても、ぼくの心の映画ベストテンのうち、5本ほど入っている、タイムリープものをごぼう抜きにして、一位に鎮座している。
 まず、何より、この映画を好きな人のほぼ全員が口をそろえて言うであろう、スカーレット・ヨハンソンの良さだろう。デブの友達のヨーキーも最高なのだが、スカヨハの全てが最高なのである。なんと、ぼくと同い年。
スカヨハは、主人公の少年であるジョジョの母親を演じている。ジョジョヒトラーをイマジナリーフレンドにしていることからもわかるように、ヒトラーの思想に傾倒しているのだが、スカヨハは、それに困りこそすれ、見守るのみとする。現代の価値観から言えば、それが正しくないということを、ジョジョをいくらでも袋叩きに出来るのだが、そうせずに、10歳のこどもに、それは人として間違っているということを優しく諭す、そういう眼差しがこの映画には溢れていた。現代社会ですら、誰かから配給された正しさを武器に、それがまだ手に渡っていない人たちを袋叩きにするのだが、そういったことは、この映画にはしていない。それこそが、啓蒙というものではないのか。
 親子で自転車に乗っているシーンは、まるで友部正人の『愛について』のようであった。この歌がエンディングでもいいくらいだ。
全てのカルチャーと大仰に言わなくても、『ジョーカー』が上映されていた頃、『万引き家族』がセットで語られていたが、そこに特に奇妙な一致がいくつかあった『パラサイト 半地下の家族』も加わったのだが、この四つのゴールがぼくのなかでは『ジョジョ・ラビット』だった。『ジョジョ・ラビット』以外は、ハスって、構造が、格差が、などと講釈を垂れ、よく出来てはいるけどね、という感じを出していたが、『ジョジョ・ラビット』に関してはそんな気持ちを貫かれたのである。
ラストのラストが何より素晴らしかった。あそこからあのフリを、あんなに自然に、フェイントをかけつつオトすなんてと、気付いた瞬間に、ぶわーっと鳥肌が立って、泣き笑いをしていた。
 とても素晴らしい映画でした。

 

 

「宮下草薙、知れば知るほど、分かんねえよ!」

 毎週月曜日の深夜、赤坂で覇王がおしまいな歌を高らかに歌いあげている裏で、ひっそりと『宮下草薙の15分』が放送されている。2020年の1月7日から始まったこの番組は、タイトルの通り、宮下草薙の二人が15分ほど、しゃべるというラジオなのだが、これが実質10分程度でひとつのテーマでトークするという番組で、とてもさらりと聞けてしまい、早くも、短いながらも週に一回の楽しみとなっている。
 例えば、第2回の「洗濯機」では大家と洗濯機についての契約を巡る攻防が話されたが、半径3M以内で完結している、上質なシットコムのようであったし、第4回の「お菓子」はただただ幸せな放送であったのだが、衝撃だったのは、第7回の「こわい」は、汚部屋状態になった草薙の部屋から、ポケモンビブラーバみたいな虫が出て怖いという話をして、しょうがねえなあ、草薙は、と笑っていたのだが、最後の最後の短い時間で、草薙が「自分に来たファンレターの送り主の名前が、自分のアマゾンのパスワードと一緒だった」というめちゃくちゃぞっとする話をしてきて、鳥肌が立った。油断していたら、顎にカウンターをいれられてしまったようだった。
 テレビで見るたびに「跳ねてんなー」と思わされる宮下草薙だが、ラジオを聞けば聞くほどに、テレビでの振る舞いを見れば見るほど、彼らのことが分からなくなる。強いて言えば、ピッコロのワンオペ育児を受けている幼少期の孫悟飯の修行をリアルタイムで見ているようだ。甘ったれな悟飯のくせに、ぶちキレてその本領を発揮する。それを見守る、ニの線を気取ったピッコロさんという構図だろうか。
 番組が始まって一カ月後の2月8日に、「宮下草薙の60分」という生放送の特別番組も一度行ったが、そこで文化放送のパーソナリティーの先輩の大竹まことから二人にアドバイスが送られた。それは大竹が、上岡龍太郎から言われた「芸人は、蝿みたいにぶんぶん飛んどりゃあ、ええやん。物事には中心があるだろ、蝿は、中心がうんこだとしても、ぶんぶんぶんぶん飛んどらあ」というものである。良い言葉だなあと思っていたが、二人はピンと来ていなかった。十数年後にどっかで気付いてほしい。
 この時間とこの場所、この分数、この感じで、百回、ニ百回と続いてほしい番組である。

 

 

評論とお笑い評論と積読の不思議

 構成作家の方の「お笑い評論って音楽や映画とかほかの評論に比べて、100歩くらい遅れてますよね。そもそも必要かって論議から一歩も前に進まないし、プレイヤーは語らないのが美学って価値観あるし、ネットで語ってる人に過去の演芸を参照する人が少なすぎる。」というツイートを見かけて、2割正しくて、8割間違えているなと思った。
 この「過去の演芸を参照する人が少なすぎる」というのは正しくて、かつ一番、全員の駄目なところであるけれども、お笑い評論が必要かっていえば必要なのである。それは、フェミニズムが抑圧されてきた女性にとっての武器たりえるように、これからやり玉にあげられ続けるお笑いを擁護するために。かつ、それは、お笑いを語るという性質上、合気道的な、渋川剛気的な戦い方を、軽やかさをもってなさなければならない。例えば、誰も傷つけない笑いということに対して、『ヨイナガメ』さんのように、「嘘」と一蹴すること自体には笑ってしまうし、そこに総合格闘技的な強さはあるものの、断絶された両者の間を埋めることは出来ないわけである。加えて、ぼくは、お笑いの知識がないので、お笑いについて何かを書くときはどうしても構造的な話になってしまうという弱さもあるので、過去の演芸と先達の演芸評論を勉強しないといけない。矢野誠一も読まないといけないし、シティボーイズのコントも見ないといけないし、別役実の戯曲も読まないといけない。しかし、全然憂鬱ではない。勉強したいことがあるということは人間にとって最大の幸せであるからだ。爆笑問題霜降り明星の『シンパイ賞』を見ていたら、高齢のマジシャンが出ていて、その人は定年前にマジシャンを始めて、今でも舞台に立っているということだったのだが、その芸歴は30年以上と、爆笑問題を超えていた。そこに思いもよらないほどに、勇気をもらってしまった。何かを始めることに遅すぎるということはないのである。
 そういうことに気がつくまでの過程を、やや偶然に近いかたちではあるものの、詰めることが出来た同人誌「俗物ウィキペディア」は作業に一年かかってしまいましたが、業者に入稿して納品待ちの今は、いわゆる積読状態にしている本をどんどん読んでいる。
 途中で止まっていたがつい先日読み終えたナイツ塙の『言い訳』なんかはまさにプレイヤーがお笑い評論をしていて、面白かったのだが、この本は、かなり寄席演芸に近い塙が書いていながらも、意図的になのか、そのようなことは触れられておらず、あくまで『M-1グランプリ』での戦い方等についての語りであり、そしてそれは、どこか結果論的なところがあるというところがある。これを瑕疵ととるか、塙の作戦と取るかは自由だが、このことによって、舞台に上がらない演芸評論家の存在というものは必要である、と逆説的に思わされた。
 次は何を読もうかなと思っていたら、コロナウィルスの件で、東浩紀さんがtwitterを復活していたことを目にしたので『ゆるく考える』を読み始めた。
 そのなかで、評論について書かれていた。厳密に言えば、文芸評論についてであるのだが、東浩紀が到達した結論だけを引用するが、評論というのは、「ある特定の作品なり事件なりが、文化や社会の全体にとって意味があるように見せかけること、言い換えれば、特殊性が全体性と関係があるかのような幻想を提供すること」とある。さらに「評論が評論として認知されるためには、対象の個別性から普遍的な問題を取り出し、そこに社会性なり時代性なりを読みこんで、一見作品や事件とは無関係な読者とのあいだにも共感の回路を作りださなければならない。ひらたく言えば、作品や事件そのものに興味がない読者にも、評論は届かなければならない。」と続く。例え、どんなに正確なテキストであっても、「無関係な読者との共感の回路」が造り出されていなければ、評論だとみなされないという。しかし、「全体」というものが無くなって久しい今において、「その状態を肯定しオタク的な分析に淫するならば、それこそタコ壺化は加速していく一方だ。したがって、無理だ知っていても、むしろだからこそ作品や事件に豪いんに時代性を見いだし、そこから全体性に接近できるかのようにする」とも述べている。大体88ページあたりなので立ち読みでも何でもして読んでほしい。
 まさに、お笑い評論も世間と接続する必要がある、出来るかぎり分断を止める必要があると思っていた矢先に、この文章に出会いとても感動し、あんなに頭が良い人と問題意識が共有出来ていた!とほくそ笑んでしまったのだが、その後に、これが2008年の文章だと知り、ずっこけてしまった。ぼくは11年遅れているわけである。しかしmこの11年というのは少ない方で、どちらかといえば喜ばしいことなのか、しかもこの文章を東さんが書いたのが今のぼくの三つくらいしか上でないということを考えると、そんなに離れていないことからもどちらかといえば、全てを計算させると喜ばしいことなのかとも思えてくる。そもそも、twitterを始めた頃から、東さんをフォローしていて、この十年近く著作も頑張って読んできたのだから、そこに到達するのはそんなに不思議な話ではないのである。しかし、この本を買ったのは、割と前であり、でも読んだのは先日で、このことを考えていたのはもう少し前から、という時間軸がバラバラになっている。本を買ってすぐに読んでいたら、東さんが言っていたようにお笑い評論も全体に接続するべきであるとなっていたはずなので、それとぼくが体験した一連の文章との出会いは意味が全く異なってくる。積読という行為には、こういった不思議な出来事を起こす力がある。
 ぼくが書いているネタの構造についての話なんて、まさにタコ壺の極地みたいな話であるし、ラリー遠田のAマッソと金属バットについての文章が駄目だったのは、彼ら彼女らを擁護しているようでいて、分断それ自体を擁護することであり、日本人は本格的に黒人差別をしていない、欧米人とは文脈が違うということを言っても、それは、少し前にあるあるネタとしてあった「そんなに仲良くないやつが俺をいじってきたから、おめえはちげぇだろとムカついた」みたいな話である。
 なので、未だにタコ壺に籠っているという意味では、お笑い評論は100歩遅れているわけであり、過去の演芸を参照にすることも必要だが、全体性に接続するということをもっと意識することが必要だなと思っている次第である。

 

 

 

 

 

ギャルの軽さは江戸の風

 ぼくが嫌いなライターの吉田豪が「サブカル男子は40歳を超えると鬱になる」ということ言っていたが、二年ほど前に唐突に脳内に散逸している点と点が結びつき始めて、線となって、弾けて混ざり、最終的には「文系カルチャー青年は30過ぎたらギャル好きになる」という言葉となった。
 妻子のいる身でなければ、ギャルと濃厚接触をしてみたいほどに、ギャルに憧れを抱いている。
 神田松之丞が、神田伯山の襲名に合わせて、youtubeのチャンネル「伯山ティービー」を始めて、そのチャンネルは毎日動画がアップされ、襲名披露公演の様子などが見られるのだが、何より、寄席の楽屋での映像が何よりも面白い。落語家がカメラを回しているからか、緊張感はなく、ホームビデオのようなのだが、こんな映像を見たことがない。それをずっと見ていると、やっぱり、落語家というのは、軽い人たちだな、と思わずにはいられない。伝統芸能という重しがあるからここまで軽くなれるのかとおもうほどに、他愛無い会話の中でも、シャレを言い合ったりする軽妙洒脱な姿は、同じ言語を使っているけれども、やはり芸人というのは職業ではなく、別の世界にいる人種の事だと思わされてしまう。
 ギャルも同じである。
 ギャルは、マイノリティに所属しつつも悲壮感がなく、我を通していながらも確かにある軽やかさ、友達は少なかったとしてもしっかり繋がっている、けれどもベタついていない、本来あるべき慈愛に満ち距離感を保った多様性を担保し、そして、メディアに出てきた時に需要に合わせて踊れるところも素晴らしい。そして、爽やかでありながらも少しはやっぱり湿っているエロさを持っている。まさに別世界にいる人たちである。幻想かもしれないが、少なくとも、ギャルはそのように見えることが多い。
 そしてそれら全ては、文系カルチャー青年が持ちえていないもの、というか、持ち得ていないからこそ文系カルチャー青年になってしまうのだが、そんな僕たちがギャルに対して憧れの視線を隠しきれなくなるのが、ハスりの時代を過ぎた30歳ということではないだろうか。