石をつかんで潜め(Nip the Buds)

ex俺だって日藝中退したかった

最近思っていること

 おおよそ普段と変わらない日々を過ごしている。おおよそというのは、嫌な空気が蔓延しているな、というくらいで、それは、twitterをしているからで、もし、それを見ずに、メディアからの情報だけしか得ていないのであれば、インフルエンザが流行っているという程度の認識でしかないだろう。地方在住で、テレワークが不可能な仕事に就き、原付バイクで出勤し、妻が専業主婦で、子供は保育園に通っておらず、ライブの予定も無く、土日も外出を滅多にせず、趣味が読書とラジオで、ジムもしばらく行っていない、もともと現政権に懐疑的な僕にとっては、日本を覆っている騒動に対してどこか当事者意識を持てずにいる。たまたま、ぼんやりと出来る環境にいるだけなので、不謹慎であることは重々理解しているが、コロナウィルスによって浮かび上がっている様々なことは、どこか、問題提議をしてくる批評さを帯びているように見えてしょうがない。
 「マスクって意味ないらしいよ」「不要不急の外出って、どこからどこまで」「満員電車って狂ってるだろ」「賞レースにおける観客の存在」「ダブルワークしていることを隠していたかった」「自粛を要請したらそれはもう強制だろ」「トイレットペーパーを買い占めるってオイルショックのときから何も学んでないのかよ」「まじで政治家って、一丸となってっていうんだな。戦時中かよ」「桜を見る会みたいな小さなイベントでの野党に指摘されていたこと、またやってるじゃん」「政治と生活は直結する」
 ウィルスは忖度しない、という秀逸なことを誰かが言っていたが、一斉休校の要請は、これまで政府はこうやって忖度をさせようとしてきたんだな、と可視化されているようだった。
 特に、このこと自体、そう言っている人がいるという批判が目立って、もともとそう言っている人を見つけることが出来ないというような都市伝説みたいなものだが、「音楽に政治を持ち込むな」と言っていた人たちは、この、政治が音楽の場をいとも容易く奪えるという事実を見てどう思っているのか。仮にライブが中止にならなかったとしても、ライブをしたこと、もしくは、ライブ楽しかった、とツイートすること自体が、もはや政治的な発言に捉えられ、是か非かの俎上にあげられる。
 かくいう僕も、来週東京にライブを見に行く予定である。幸いにも三つのチケットのうち、細心の注意を払ったうえで上演するということなので、行くのだが、感想はツイート出来ないだろう。少し前なら、関係ねえよとなっていたが、今は、SNS上での友人が楽しみにしていたライブが中止になったり、行けなくなったり、ライブが開催されたことで叩かれているのを見たことで、そんな気にはならないなということである。
 やはり、どこかナイーブになっているのだろう。通常の生活をしようと意固地になるあまり、牛乳を普段より消費しないように気にしすぎて、逆に普段より飲んでいないという状況になっている。そもそも補償は国がすべきことであるのに、なんで一市民が政府の無策のケツを拭かないといけないんだ。てめえのケツを拭くトイレットペーパーも無いのに。
 無料で配信が決定されているのを見る気にもならない。なぜならそれは普段にあるものではないから。ましてや、暇な方ブログ読んでください、とツイートする気にはとてもなれない。
 先日、多くはない貯金で、資産運用をするために、銀行に色々と聞きに行ってきた。その後、やっぱり面倒くさいなあとなって、貰った資料に目を通すことすらしていなかったのだが、昨日、銀行より電話がかかってきた。その時に窓口で対応した行員からで、今は相場が低くなっているので始めるなら今ですよ、という内容だったのだが、それを聞いて余計にやる気を削がれてしまった。
 要は世間的に混乱していて株価などが下がっているから、儲けは出やすいですよということであり、それは資本主義の価値観から言えば、そして行員の仕事からして言えば、正しいことなのだが、どこか火事場泥棒のような気になってしまったのである。話はずれるが、キャッシュレスによる国の還元事業も、ようは、キャッシュレスに対応できない老人たちが割を食っている、国主導の緩いオレオレ詐欺じゃないのかとずっと思っている。しかし、そう思いながらもキャッシュレスでの買い物をメインとしているので、還元のお金を受け取っているし、何だったら、職場のお茶等の買い出しを担当しているので、その分もちょろまかしている。
 全ての選択や生活へのが政治的な意味合いをもってしまう日々に、どうしたらいいのか分からずにいる。

 

 (ここまでをマクラとして、太田さんの「何て従順なんだ」と言っていた「太田はこう思うシリーズ」の話から、どうにか『100分de名著』のハヴェルの『力無きものたちの力』をまとめるということを、今年中にはしたいと思います)

 

 同人誌第二弾「俗物ウィキペディア」を入稿しました。今月中にはBOOTHにおけると思いますので、詳細をお待ちください。

 

 

 

ヒライの大江戸カツ丼とミニうどんセット

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 『せっかくグルメ(2020.3.2)』で、日村さんが熊本に行っていて、そこでヒライを紹介されていた。ヒライとは、熊本のそこかしこにある弁当屋でありそこには、食券制のイートインスペースもあり、大学生時代に熊本に住んでいたころは週に2~3回ほど行っていた。店舗は違えども、そんな見なれた景色に日村さんがいて、何百杯と食べたうどんをすすっている姿や、同じく何百杯と食べた大江戸カツ丼をテレビ越しで見た時にとてつもなく不思議な感情になって、泣きそうになってしまった。
 朝までバナナマンの『WANTED』を聞いたりテレビの録画を見たりした後や、スピリッツで「ボーイズオンザラン」の青山戦を立ち読みして興奮したあとに食べた夜食のようなうどん、友達なんて誰もいないから、騒いでいるだけでただ詰まらない奴らと見下していた人たちを避けるように食べに行った昼食としての大江戸カツ丼、バイト終りツタヤでミリオンガールズを中心にAVを借りた後に食べた大江戸カツ丼とミニうどんセット。ヒライのイートインスペースという風景は、自堕落な大学生活そのものだ。
別にそこに日村さんがロケで現れたからといって、そのころの自分は何も成仏することはない。
 当時の自分は、才能がないと思い込んでいた。今は、才能という言葉すら、幻想であると思っている。実際、僕には才能がある。それはラジオに継続してメールを投稿出来たという才能や、ブログにでも文章をアップし続けるという、続けるという才能。才能というのは、好きなことを続けられるかどうか程度であるということまでに、その言葉のハードルを下げることが出来ていたら、今はライターか構成作家にでもなれていたのかもしれない。
 しかし、大竹まことが「俺たちはどう生きるか」で、「栄光をつかんでいたら、この場所にはいない」という旨を書いていたように、そうしていたら、僕もまたここにいない。
 M-1の感想を書いたあと、他の人たちの感想も読んで、その面白さに悔しがったりしたのだが、どの文章にも、ぺこぱの漫才の「正面が変わったのか」というくだりを発明と評した人はいたが、「漫才の断面図を始めてみた」ということを言っていたのは、僕しかおらず、それこそが、自分の文章における強みなのだなと、自信が持てた。おそらくこれは、2ちゃんねるの実況板のノリのように書いたことであり、ずっと2ちゃんねるの実況板を見ていたからこそ書けたと思っている。
 先日、一年もかけてしまった同人誌のデータを出版社に送り、今月末には出来あがった本が届く予定だ。一年もかけるなよ、と思っていたが、一年もかけなければ、後半の空気階段単独、大江健三郎アンタッチャブル復活のことを入れることが出来なかった。結果論だが、やっぱり「今、少なくともここには、いない」ということになる。特に狙ったわけではないのだが、気付く人がいれば良いというレベルだが、上手く円環構造になっていた。
 なるべく安くするためにとまた100冊も刷ってしまった。そもそも前のものも半分以上まだ残っている。一冊1000円と送料で1400円になると思いますので、正式な報告を待っていただけたらと思います。100円貯金して待っていてください。一冊買ってもらったら100円ほど、僕が黒字になります。

 表紙もめちゃくちゃ最高なやつを書いてもらいました。それはまた後日。

 目次は以下の通りです。

【目次】
・人生で、東京60WATSの「外は寒いから」を聞きながら引っ越しをした回 
・ベストラジオ14 
・伊集院さん、センキューです!
バナナマン設楽統の「伝えなくちゃ伝わんないんだよな。」
の系譜
・ペポカボチャの呪い
・『TITAN LIVE 20YEARS anniversary』
・全力TVウォッチャー 福永雄一
・「それは愛であり、病気だよ」
バナナマン単独ライブ『Life is RESEARCH』
・ベストラジオ15
・当たり前を迂回したその先にある当たり前
・生駒ちゃんなりの「笑顔でさらば!」
・ベストラジオ16
バナナマン単独ライブ2017『Super heart head market』
・ひと目惚れさせる男、神田松之丞
・『We Love Television?』=『大日本人』論
・ベストラジオ17
・世に万葉のでたらめが舞うなり『爆笑問題30周年記念単独ライブ「O2‐T1」』
・『M‐1グランプリ2018』での立川志らくは、漫才をどのように審査したのか。
空気階段爆売れ前夜譚その壱~ドキュメンタリーラジオ『空気階段の踊り場』はクズと泣き虫のドンフライ高山戦~ 
・悪意ある良問のパレード『オールスター後夜祭‘18秋』
・オードリーとリトルトゥースたちのあくまで普通な祝祭
・1000年使える笑いの教科書『今夜、笑いの数をかぞえましょう』
空気階段爆売れ前夜譚その弐~鈴木もぐらの恋は永遠、愛はひとつ~
岩崎う大の偉大な才能が花開く劇団かもめんたる
・令和元年のタイタンライブ
・壁を殴るしかない夜に僕たちはどう生きるか
ガゼッタ・デロ・オワライーノ 上田晋也特集
空気階段爆売れ前夜譚その参~空気階段第三回単独ライブ
『baby』~
・魂をサンプリングするということ
・おかえり、アンタッチャブル
・産まれてきただけでステッカー

 

 計32本で約15万字で、前回と比べると、1.5~6倍の量となっていて、基本的な文章は、このブログにアップしているのですが、そこに加筆修正をしているので、完成形を10とすると、ブログにあるのは7から8ですので、まあまあ直しております。ブログは、クイック&ダーティーでやっていることがほとんどで誤字脱字もありますし、しかもオチていなかったりすることもあるので、そこら辺を綺麗にしました。
前回の「俺だって日藝中退したかった」と合わせると、このテン年代に何を見てきたのか、何を考えていたのかが少なからずまとまっているかなと思います。
 ただ、文章について、明確な意識の変化があって、「邪悪な人間、濱田祐太郎」を書いた時、このヒラギノ遊ゴの悪口メインだったので除外しましたが、あの文章がいつもよりも反響があったことで、自分が出来ることが見えたような気がしたからです。
例えば、お笑いに関する文章を書いているブログで有名どころがあると思いますが、そこを読んでいて、そこで取られている手法を取捨選択しながら、やっと型を見つけることが出来たなあと思います。
 何かお笑いの事件があると、是非論になってしまうのがとてつもなく居心地悪くて、他者と他者を接続するお笑い評論というのは、これからもっと必要になってくる。女性にとってフェミニズムが武器たりえるように、戦うための武器としてのお笑い評論。
それをするために演芸史に限らず、様々な世間のことを勉強しないといけなくて、それが足りないのは重々承知なのだろうけど、それをやるのと出来るのは、僕しかいないんじゃないだろうか。
 ああ、すいません、うぬぼれの才能があったの忘れてました。

コミュニケーション論としての「パラサイト 半地下の家族」

 『映画 ひつじのショーン UFOフィーバー!』を観てきました。ショーンが地球に迷い込んでしまった宇宙人の女の子のルーラと出会い、ルーラを捕まえようとする組織の手を逃れながら星に返すために奔走するという、よくあるプロットではあるものの、楽しかったです。
 ショーンは羊で、ルーラは宇宙人なので、共通の言語を持っていないのだが、すぐに仲良くなる。ルーラを自分の星に返すために、ショーンはルーラとともに宇宙船に戻るおんだが、その途中、街のスーパーマーケットに立ちよる。もの珍しさからルーラがはしゃぐことで、普段は憎たらしいくらいに賢いショーンも、振り回されるのだが、ふと、ここで、娘のことを思い出した。休日には、一歳にもならない娘を抱いて20分ほど近所を歩くようにしているのだが、先日、スーパーで娘が突然泣き出してしまった。理由が分からないまま、声をかけたり、揺すったりして、あやしてみるも全然泣きやもうとしない。すでにレジに並んでいたので、急いで買い物をすませて、走って帰宅したのだが、ショーンがスーパーマーケットでルーラに翻弄させられるシーンは、あれと同じじゃないかと思い、今までに他の映画でも観てきたようなよくあるくだりでも、自身の環境の変化によって、受け取り方が変わるということに改めて気付かされた。
 先日、チラシを捨てる前に、娘に丸めて渡してみたら、しばらくその状態で遊んでいたのだけれども、口に入れ出した。紙を食べさせないようにするために、セロハンテープでぐるぐる巻きにしようと、いったん取り上げ、「ボールにするから待っててね」と言いながら、チラシにセロハンテープを巻きつけながら、ふと娘を見たら、こちらを見上げて、じっと待っていた。それを見た瞬間、ぶわっと胸の奥から、娘とはじめてコミュニケーションが取れたという喜びと実感が、湧き出てきた。
 話は変わって、韓国映画の『パラサイト 半地下の家族』を観てきました。
面白いという前評判を聞いたので、情報を仕入れずに観てきたのですが、凄い映画でした。ブラックコメディということくらいは知っていたので、冒頭の展開で、アンジャッシュかなと思っていたら、千原兄弟の「ダンボ君」になって、ラーメンズの「採集」になるみたいな、二段階もブーストがかかる、変身を二回も残しているフリーザみたいな映画でした。
 展開が全くよめなかったというだけでなく、何より、妹のギジョンが、トイレに座って汚水が噴出するのを止めながらタバコを吸っている画は素晴らしいという、映画としての気持ちよさにも満ちていた。何より主だった舞台となっている社長の家の造りが、そのまま映画の構造となり、さらには韓国の縮図となっているところも美しくてうっとりしてしまう。
 この映画のテーマは経済格差だと一般的には受け止められているはずである。見ている途中に同じく、経済的に恵まれていない人々が出てくる『万引き家族』や『ジョーカー』を連想した人も多いだろう。特に、『ジョーカー』は、階段の使い方ひとつをとっても、『パラサイト 半地下の家族』では、無言で立ちはだかるものや、ふとした瞬間に転げ落ちてしまうもの、災害によって断絶されてしまうものとして効果的に多用されているが、『ジョーカー』では、ジョーカーが踊りながら降るものとして描いているのは、作品の違いとしてとても分かりやすい。
 しかし、この映画は、経済格差そのものではなく、コミュニケーション論だとして受け取った。この映画には、経済格差や知識の格差による、コミュニケーションの断絶や不全が、これでもかというくらいに描かれている。
 そして、同じテーマを持っているであろう『万引き家族』では、最終的には擬似的な家族のコミュニティーであることが発覚する。奇しくも、『パラサイト 半地下の家族』はその真逆の、家族が他人のふりをするというものだが、『万引き家族』での柴田家をつなぎとめていたものの一つは、言語ではない、万引きのためのハンドサインだった。そうした、非言語によるコミュニケーションが要にあるということを考えると、池松壮亮が演じる、松岡茉優が演じる柴田亜紀が勤める風俗店に通う客の青年が、吃音症もしくは発話障害を持っているということ、さらに、柴田亜紀が勤める風俗店が、ヘルスでもピンサロでも、ソープでも、手コキヘルスでも、グレーなマッサージでもなく、マジックミラー越しに向かいあって筆談でコミュニケーションをとるシステムである一連のシーンが、この映画に配置されている意味が掴めてくる。
 日常生活におけるコミュニケーションというのは、言語をもってのみなされるわけではなく、表情や声のトーン、その場の空気など全てが稼働するものではあるが、SNSのなかでも特にtwitterはかなり言語に依存しきっているが、その依存は、同じ言語を使えば、全てが分かりあえる、もしくは他人の悪い部分を矯正出来るとい間違った前提に基づかれている。その前提が正しく機能するのは、相応の読解力、文脈の共有、何より他者が異なる主張をしていても、尊厳を持って受け入れるという度量が必要となる。
しかし現実は、そこかしこで、分断を促す言葉の投げ合いではないだろうか。
単語ひとつをとってもそうで、例えば、擁護などの意味合いが変わっているような気がしてならない。本来、かばうという意味合いの言葉であるはずだが、今は下手をすると、擁護している人も批判の対象に組み込まれてしまい、敵か味方かの単純な構造に落としこまれてしまう。言葉の意味は変わるものだとはいえ、こういう変質は看過できない。芸能人が薬物を使用して逮捕されたとき、作品の罪の有無論争が繰り広げられるが、そこに居心地の悪さを感じてしまうのは、音楽に罪はないと思うけど、あれから電気グルーヴを聞いていないという現状は排斥されてしまうような気になってしまうからだ。
 他にも、少し前に、とある記事の中に、「妻を論破した」という言葉を入れたところ批判されたことがある。普通に読めば、長々と早口で主張を話したあとの軽いオチであり、その後の記事の展開の布石になっているという、いわばフリだっただが、そういう文章としての技法が無視され、「妻」「論破」という言葉のみに引っかかったのだろうか、いつもよりも多くの人に読んでもらった記事だとはいえ、論破という言葉が強くなりすぎた事で、マンスプレイニングだと受け取られたことを反省した。そう考えると、自殺しようとしている人を止めようとするけれども、自殺志願者に論破されてしまうので、自殺を止められないというゾフィーのコントの着眼点と時代の切り取り方は凄まじいものがある。
 映画評論家の町山智宏がたまむすびで解説したように、この映画自体は、あまりに韓国におけるドメスティックな数々の問題の産物ではあるものの、後半に出てくる、豪雨により水没する街並みと、避難所で雑魚寝を過ごしている姿、包丁を持った人物による凶行の瞬間などは、ここ数年以内に日本国内で報道された災害や事件をフラッシュバックさせるには十分な映像になっているように、日本に住んでいる人にとっても切実な映画になっている。特に、自分でも驚くほどに、刃物が振りかざされるシーンは苦しくなった。
 『ジョーカー』をはじめとして銃を使った殺人シーンは多いが、日本は銃社会ではないということで、幾分かフィクションとして受容出来るのだが、駄目だった。この二つだけでも、安易にこの映画を面白いとだけで片づけられない理由である。何より、『ジョーカー』を見た後は、津山三十人殺しの件もあるし、他人をジョーカーにしないように優しくしようと気をつけることが出来るが、『パラサイト 半地下の家族』は断絶を決定づけたのが、匂いという生理的反応であって気をつけようがないというのもリアルである。
 『泣くな、はらちゃん』という傑作ドラマがあるが、そのなかで、漫画から飛び出して来たキャラクターとドラマの視聴者が、唐突に「現実」を突き付けられるというややメタな構造になるシーンがあるのだが、それを観た時の感情に近い。
思い浮かんだ凶行のひとつに、相模原障害者施設殺傷事件があるのだが、このことについて、爆笑問題太田光と霊長類学・人類学者の山極寿一との共著『「言葉」が暴走する時代の処世術』でもこの話題が出てきた。
 この本は、チンパンジー、ゴリラの第一人者という山極と、漫才師の太田という、いわば非言語を研究してきた人と、言語を使ってう言葉のプロが、コミュニケーションについて語り合っている本だが、この本で、「伝える」ということといえば、この事件を思い出すという太田は、「障が執れてとれていた。い者には生きている価値がない」という勝手なことを言っていたあの犯人のことを理解していた人は周りにどれだけいたのか、ほとんどいなかったんじゃないかと指摘し、続けて「一方で、あの施設に入所していた人々は、言葉はうまく話せなかったかもしれない。でも、家族や施設の人たちと、ちゃんとコミュニケーションは取れていた。少なくとも、入所者の気持ちを、みんなでわかろうとしていた。周りとコミュニケーションが取れていたのは、一体どっちなんだという話です。それは言うまでもなく、あの施設の入所者たちのほうです。わかりたい、寄り添いたい、そう思う人たちが周りにいた。「伝える」ための小手先のテクニックを磨くより、周囲にそういう人たちがどれだけいるのか。そのことのほうが重要なんじゃないかと思うんです。」と話す。
 実はこの言葉と伝えるという関係性がもつ矛盾性について、太田は、『爆笑問題カーボーイ(2016.9.28)』ですでに語っていた。
 「(仏様が)悟りを開いたときに、あ、この境地を弟子に伝えないといけないってときに、どうしても言葉っていうものが必要になってくる。仏像であったり。でもそれって、どんどん真実から、真理から離れていくんだけど、でも人間ってのは不器用なもんで、言葉ってものを使わないと、それを伝えることができない。それって自己矛盾じゃないですか、言ってみれば。」と太田は言い、それはアインシュタイン相対性理論を思い付いた時のような学問も一緒だと話す。
 そしてそれは、人間は一生かけて赤ん坊にもどるようなもんだと続ける。
「赤ん坊の時にあー!!って泣いて、出てきたときに、あー!!って泣いて、あれ、苦しくて泣いてるんですか。全部ですよ。あれが全部なんです。苦しみも悲しみも恐ろしさも喜びも、何もかも人間が誕生する生命が生まれたってことを表現しているのが赤ん坊なんです。おぎゃあって泣くのが、あれが全てなんです。でも、あれをそのまま伝えることができないから、人間は言葉を学ぶ。実は俺達がこうやって喋っているのはあの赤ん坊の泣き声なんです。泣き声を分割して、悲しみです、喜びです、苦しみです、ちびです、かたたまです!あらゆるところを遠回りして、おぎゃあに戻ろうとしてるんです。」
 そして、小林秀雄柳田國男の快晴の空に満点の星空が見えたという体験を受けて講演で話した「学問をする人は、こういう感受性がないとやれないんです。民俗学なんてものはこういう感受性を持っている人じゃないと、学問なんてもんは出来ないんです」という言葉を引用してこう続ける。
 そこから、相模原の事件の話題となり、太田は、「28:30 よく勘違いしがちなのは、表現っていうのは、表現の豊かさ、表現のみが大切って思うけど、そうじゃないんです。本当に大切なのは、受け取る側の感受性なんです。受け取る側の感受性を持つ人がどれだけその人の周りにいるかっていうことなんです。だから、どんだけ自分の話を面白いと思って聞いてくれるぐらいに、魅力的な人間であるかっていうことが、コミュニケーションが達者な人なんです。つまり、受け取ろうとする人が多い人、赤ん坊なんです。」
 この放送からさらに、3年あとの、タイタンライブで、シソンヌが一本のコントを披露した。三組目のシソンヌのコントは、『同居人の』というネタで、これは凄いコントだった。ネタ自体の面白さもさることながら、見ている途中で、先日起きてしまった、悲惨な事件とリンクしていることに気付いたからである。このネタ自体は、2017年に行われた単独ライブでかけられたネタなので、それはこちらの勝手な思い込みとなるのだが、どうしても連想せずにはいられなかった。
 じろうが帰宅すると、ソファに座っている忍を見つけると舌打ちをし、「まだいたのかよ」「朝言ったよな、俺帰ってきてまだいたら、もう、ぶん殴るぞ」と強く当たる。そこから数分、じろうが忍を責めていく。その中で、じろうと忍は親友でルームシェアをしていたのだが、忍はじろうに何も言わずに仕事を辞めて、そしてしばらくして全く喋れなくなったという状態にあることが分かってくる。その時のクッションで忍を叩き続けるじろうの「俺たち、こんな関係じゃなかったろ」というセリフは胸にくるものがあった。
 「今日は泊まっていって良いよ。でも明日の朝、俺が起きてきて、お前がまだいたら、もう弁護士に相談するわ」と言って、じろうは自分の部屋へと戻っていく。そして、も度てきたじろうが一言「俺の部屋に、うんこあるんだけど」と言い、怒りだすかと思いきや、「俺が今どういう気持か分かるか。嬉しいんだよ。」と喜びをあらわにする。
 このコントのスイッチに至るまでのじろうの演技が、本当に凄く、だからこそ、このコントのくだらなさが光ってくるわけだ。あとは、ひたすら、手を変え品を変えて、うんこなのだけれども、よくよく考えてみると、このネタは、コントの中の「この一年二カ月、何聞いても返さない、何の感情表現もしない。そんなお前がやっと自分から俺に何か伝えようとしたんだぞ。その手段がたまたまうんこだったってだけだろ。」というセリフの通り、コミュニケーションは言語を解さないでも可能である、という救いに溢れている。
 『爆笑問題カーボーイ』でのトークが無ければ、ただの面白いコントとしてしか受け取れなかったであろう。そして、この経験があったから、『パラサイト 半地下の家族』をコミュニケーション論としてよみ説くことが出来たわけである。
 『パラサイト 半地下の家族』の結末は、断絶された場所に閉じ込められ言語というコミュニケーション方法を取り上げられた父が、受け取ってもらえるという補償が無いまま、非言語であるモールス信号を放ち続け、そしてそれを息子が受け取り、解読し、未来へ希望を持つというものである。これこそが、コミュニケーションの本質ではないのか。
 言語が用いられない『ひつじのショーン』がなぜあんなに面白いのか。それは、理解しようというこちらが、ショーン達を受けいれるために集中するからではないのか。ツイッターで、リプライのやりとりをするよりも、どうでもいいツイートをお気に入りをしたりされたりしているときのほうが交流が出来ているような気になるときがある。
あらためて、ゆっくりコミュニケーションについて考えなければならない時代ではあると思う。

魂をサンプリングするということ(エラボレイト版)

※この記事は、もともとのものを、同人誌「俗物ウィキペディア」用に推敲したテクストになります。

 

 伊集院光とNHKアナウンサーの安倍みちこが司会を務める『100分de名著』という番組で、大江健三郎の『燃え上がる緑の木(1993-1995)』が取り上げられた。大江健三郎にハマり始め時に読んではみたものの理解できなかった作品であったが、せっかくだからと、この放送に合わせて、番組の解説を聞きながら、一カ月かけてゆっくりと再読してみたら、とてつもなく面白い小説だったということに気付かされる良い読書体験を得ることが出来た。

 大江健三郎の小説は、デビューした頃などの初期に分類される作品はソリッドで濃密な文体で、今読んでもとてもカッコいいのだが、後期は特に、伊集院が「大江先生の本は何かとこう話題になるたびに手には取るんですけど、難しいって挫折してきて、唯一ね『「自分の木の下」で』っていう本だけは割と分かりやすく書いてて、40歳手前くらいのときに多分読んでこれ俺にも読めたと思ったら、先生が小学生向けに書いた本だって言って」と笑いを誘っていたように、例えば、登場人物の名前や紹介が不十分であったり、大江の長男の光が頭部に障碍を持って生まれたということを知識として持っているということを前提としているなど、大江作品全体の背景を抑えていないと分からないところがあって、ハイコンテクストとまではいかないが、親切な小説ではないことは確かである。

 なかでも作中に点在する、大江が読んできたのであろう世界文学の引用について、その意味を理解できずにいたのだが、「第二回 世界文学の水脈とつながる」ではまさにそのことについての解説がなされていた。

 番組にも指南役として登場した作家の小野正嗣によって書かれたNHKテキストには、「大江文学の特徴は、つねに他の文学作品や芸術作品との関係において小説が書かれていることです。別の言い方をすれば、大江健三郎の小説には、他の文学作品という対話者がいて初めて成り立つようなところがあるのです。対話するためには、相手の言葉が必要ですから、どうしてもそうした作品の一節や言葉が、作中に引用されることになります。」とある。加えて、大江自身が書いた、または書いたが完成しなかった小説までが出てくるが、これは『燃え上がる緑の木』に限らないので、手に取る順番を間違えると、難しい小説と感じてしまうだろう。

 『燃え上がる緑の木』も、タイトルからしアイルランドの詩人のウィリアム・バトラー・イェイツの詩から着想を得られたものであるように、ルーマニア出身の宗教学者ミルチャ・エリアーデ、ドイツの作曲家のワーグナー、フランスの哲学者のシモーヌ・ヴェイユ、ロシアの文豪のドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、谷内原忠雄『アウグスチヌス「告白」講義』などが全体を通して登場し、物語に大なり小なり作用する。

 番組では特に『カラマーゾフの兄弟』とヴェィユに焦点が当てられた。

 小野は、大江が大好きな作品であるということはもとより、虐げられた子供の物語とも読み説くことが出来る『カラマーゾフの兄弟』での、病気のイリューシャを主人公であるアリョーシャが慰めるシーンは、『燃え上がる緑の木』の病気のカジ少年をギー兄さんが慰めるシーンと重なるものであると指摘する。また、大江が子供という存在にひきつけられる理由について「大江さんには頭部に障害を持って生まれた光さんっていう息子さんとの共生、共に生きるってことが、大江さんのその文学のほんとうの、ほんとうのその柱なんですね。だから大江さんのお子さんが産まれてから、あらゆる作品に子供の問題ってのは描き込まれていると。」と話す。

 大江の息子の光という名前は、ヴェイユが「闇夜の世界でカラスが、光がほしいと願ったことで光が生まれた」というエスキモーの話を論じた事に因んでいる。その時の裏話として、母親に由来となる詩の話をしてから、カラスと名付けようかなと言ったら怒られたというユーモラスなエピソードもある。

 安倍は、叱られそうですけど、と前置きしたうえで「ゼロから産み出だすのと、引用してこう持ってくるのだと、引用して持ってくるほうが楽なのかと思ったんですよ。」と話すと、伊集院も「思うよね。最初はね。でもこの使い方はちょっと異質ですよね。」と頷きながらも、小野に尋ねる。小野はそれに「これだけ膨大な世界文学があるんですよ。その中からどれをどのように引用するかということ自体が、もうそれこそがクリエーションですよね。しかもね、引用ってのは、他者を受け入れる作法なんです。それはね、ほんとに、他の詩人たちの言葉も大江さんの作品の中に受け入れられて、そこで出会い、そこである種、対話していって、新しい言葉の世界が生み出されていく。」と答え、大江作品における世界文学の引用という行為の意味と効果について解説する。 

 その解説に対して、「いやなんか、自分の魂について考える。そのよすがになってくれた文学作品の自分を助けてくれたところをまとめたら福音書になるんだっていうことですもんね。自分のその息子さんとの関係、関係の中で生じた魂への疑問みたいなものを、ありとあらゆるものを読んで、それがどんどん解決に向かわせてくれたんでしょうね。」と伊集院が続けたのを聞いた小野は、「いや、伊集院さんの方が、僕なんかよりはるかに深く読まれてると思います。つまりやっぱ、自分の魂の問題っていうか、疑問を、世界中の詩人や文学者に投げかけているんだと思いますね。」と感嘆する。

 そして小野は、この回の最後に、大江文学における本という存在について、「読書って何かっていうと、人は苦しい時やつらい時に必要としているところにジャストミートするんだ、出会うんだっていう話を大江さんはされていて、なにか僕は大江さんにとっては、読書自体がね、祈りをささげることに似てるんじゃないかっていつも思うんですよ。注意力を傾けて、自分の持てる注意力を傾けて、他者の文章っていうものに触れていくと。まさにね、注意力っていうのは、その祈りの純粋な形だっていうヴェイユは、そういうことも言っているんですけれども、なにか自分の目の前にある、あるいはこう自分の考えている対象に向かって意を注ぐ。で、そう言われてみれば『燃え上がる緑の木』の教会の祈りって何ですか。集中です。集中するってなにかって言うと、注意を、注意力を何かに注ぐっていうことじゃないですか。で、これってまさに、ヴェイユの言っている、その集中力っていうものが、その祈りであるっていうことと響きあっていると僕は、思うんですけど。」とまとめる。

 伊集院の解釈を聞いた小野が終始、「その通りだと思います。」などと絶賛するようなリアクションを取っているのもよかったが、それは、やっぱりという気持ちもあった。というのも、大江と伊集院といえば、伊集院がパーソナリティーを務めていた『日曜日の秘密基地(2008.3.2)』という番組のゲストに大江健三郎が出演して、伊集院とトークをしていたのだが、ジャンルも年齢も異なる二人にも関わらずそれがとても噛み合っていて、素晴らしいものだったからであり、どこか深いところで繋がっているのではないか、とずっと思っていたからだった。

 強くそう思わされたのは、伊集院が、大江の本について、タイムマシーンだと評した一幕による。伊集院は、大江が小学生の頃などを思い出していると、その時に気付かなかったことに改めて気付き、そして、そのことについて文章にしているところが特に好きで、それにつられて、自分もなにか過去のことを思い出して、視点を変えてみるということをやってみると、調子のいい時には、今までとは違うことに気がつくことが出来る、その時の感情として、「面白いも怖いもゾクゾクも全部入った、うわ、俺、なんか、もっかいここに行けてるっていう感じすんですね。なんか、あれすごいですよね。喜怒哀楽の単純な笑いでも、単純な怖いでもない、あっ、なんだろこの感じ、大江健三郎の本によって、俺連れてかれてるっていう感じ。」と話していた。それは、伊集院とリスナーとの関係にも入れ替えることが出来る。『深夜の馬鹿力』でのフリートークの内容と、リスナーとしての自分のバイオリズムがバチっとハマったときに感じることが、まさに、「連れてかれてる」でもあり、そして喜怒哀楽のどれにも明確に属しない混沌としたものを面白く感じるというのは、まさに伊集院光から教わった価値観だったからだった。

 大江の手法は、現代的にいえばサンプリングだが、『100分de名著』が放送されている一カ月の間に、同じようにサンプリングを用いた作風ともいえるクエンティン・タランティーノ監督作品の『Once Upon a Time in…Hollywood』を観てきた。

 1969年のハリウッドを舞台に、レオナルド・ディカプリオ演じる俳優のリック・ダルトンと、ブラッド・ピット演じるその専属スタントマンのクリフ・ブースらを描いた『Once Upon a Time in…Hollywood』は、タランティーノ作品のなかでは、『ユリイカ2019年9月号 特集=クエンティン・タランティーノ』にはタイトルの「…」がinの前か後かという文章が載るほどに情報量が多い映画であることは間違いないのだが、やはりこれまでのタランティーノ作品と比べると、構造が凝られているわけでもなく、途中に緊迫感があったりするものの、全体の印象としては、だらっとしたチルな空気が流れている。 

 ただそれは、とても心地良いもので、特にそれが集約されたような、クリフのトレーラーハウスでの生活を描いた場面などはたまらなく素晴らしい。タランティーノは、少なくとも映画を取ることは10作でやめると公言していて、今作が9本目にナンバリングされるわけだけれども、そんな作品で、いつも以上にサンプリングとパロディを盛り込み、それが本当に楽しんで映画を撮っていることが伝わってきて、そのことだけでもいくらでも語りたくなるほどだ。

 『アルコ&ピース D.C.GAREGE(2019.9.4)』では、アルコ&ピースの平子が「CG無いらしいですけども、ロスのあの頃の埃っぽさすら伝わってくるような光景だったんですが、こだわりってどうなんですかって聞いたら、たぶん、いっちばん聞いてくれたってとこなんだろうね。俺のことでっけぇ手で指差して、ユゥーッてまず言ってきて、びくぅってして、めちゃくちゃがなってきて、あ、殺されるぅと思ったら、よくぞ聞いてくれたの質問だったんだね。そっからばーって喋ってさぁ」と、タランティーノにインタビューした時の裏話を話していたように、再現された当時のハリウッドの街並みも見応えがあるものだった。

 何よりこの映画に心を震わされたのは、タランティーノが、この作品の中で偽史を作り上げたということだった。そのこと自体は『イングロリアス・バスターズ』でもなされていたのだが、『Once Upon a Time in…Hollywood』は、もっとタランティーノの個人的なことに踏み込んで、しかもそれは軽やかさをもって成し遂げられていた。映画の結末の意味に少し遅れて気がついた瞬間に、得も言われぬ感情が心に広がり、理屈を飛び越えた感動が押し寄せてきた。見終わった帰り道、「これは・・・・・・。これは・・・・・・。」とぶつぶつつぶやきながら、少し肌寒くなってきていた夜空の下、原付バイクを走らせていた。

 また、サンプリングということからは、いとうせいこうのダブポエトリーも連想した。

 いとうは、TBSラジオの『アフター6ジャンクション(2019.8.5)』の「LIVE&DIRECT」というコーナーに出演し、ダブポエトリーについて解説する。「80年代くらいか、70年代くらいか、ジャマイカで産まれました。自分達が録音したトラックを、ダブエンジニア、まあ、つまりエンジニアの人が最終的にレコードにする際に、えー、まあ、ボーカルをオンにしたり、まぁ、あるいは、ベースを抜いてしまったり、時には、というように色んな事をやるように、つまり技術者が音楽に関わるっていう革命を起こした。だいたいは、低音と高温をものすごく強調するような音楽で、まあそれが各地にダンスミュージックにものすごく影響を与えて、みんながダブサウンドっていうのをやるようになりました。で、ヒップホップもそれに僕は近いと思っていて、要するにDJっていう非音楽家が音楽をやるという意味ではダブと、ダブも、実はヒップホップもジャマイカ系移民が、あのまあ、やったと言われているんですけども。えー、何故かジャマイカから20世紀後半にふたつの非音楽的な音楽が産まれた。で、これをやっぱり僕は、ずっとやりたくて89年にヒップホップをずっとやってたけど、なんか音楽とまぐわえないと思っちゃって。フリースタイルも無かったからまだ。その頃は。で、僕は一回辞めちゃうんですけど。ラップを。それでその90年代ずっと何やってたかっていうと、いろんなDJ達と、この自分の詩を次々読んで、アドリブで読んで、それにダブをかけてもらうっていう。それがやっぱり、意味と、意味でこっちはセッションする。音楽をやっている人達は意味じゃない音を出してるんだけど、それが意味に聞こえる時がある。で、これがやっぱり音楽の醍醐味なんじゃないかっていう風に思って。意味で踊ってもらう。」

 それから、スタジオで披露されたライブパフォーマンスは、いとうせいこうが、バンドが演奏するレゲェ風の音楽に乗せて、田中正造の言葉を読み上げるというものから始まった。

 「真の文明は山を荒さず。川を荒さず。村を破らず。人を殺さざるべし。人は万物中に生育せるものなり。人類のみと思うは、誤りなり。いわんや、我ひとりと思うは誤りの大いなるものなり。人は万事、万物の中にいるものにて、人の尊きは万事万物に背き損なわず。元気正しく、孤立せざるにあり。明治44年5月14日。田中正造is the poet」

 さらに、九鬼周造、ナナオサカキ、与謝蕪村が読みあげられていく。

 田中正造が百年以上前に書いた文章を、現代人のいとうせいこうが令和元年に、日本の真裏で産まれた音楽に乗せて読みあげることで、過去と現代、さらには国までもがぐちゃぐちゃになって混ざり合い、そのことで、様々なテキストが、ランダムさも含めてクリティカルで再解釈できる瑞々しいものとして息を吹き返して、現代に接続し、新たな文脈となり未来へと繋がっていく。((令和5年、『万延元年のフットボール』を再読し、これがそれと同じ構造を持っていることに気が付きました。((ここに脚注を書きます))))

 タランティーノはインタビューで、「一年半前にシャロン・テートの名前が話題に出たら、20世紀に起きたなかでも、もっともひどい殺人事件の犠牲者として彼女のことを思い浮かべるだろう。俺は彼女が生きていた姿を見せたかったし、彼女をひとりの人間として描きたかった。」と話していて、こういうことか!と、映画を見て心が震えた理由を、追って理解することが出来た。映画が好きな人は、シャロン・テートの名前が出たら、『Once Upon a Time in…Hollywood』を思い浮かべるであろうから、その意味だけでも、タランティーノの手によってシャロン・テートは現代に接続することができたわけである。そしてそれは『燃え上がる緑の木』のカジ少年のエピソードや、大江健三郎が描いてきた、死んだら森の中に生えている自分の木の根っこに戻って再び生まれ変わるという話をはじめとした死と再生の物語と共鳴する。

 『100分de名著』の第4回の最後に、大江健三郎が今まさに『燃え上がる緑の木』の最後の文章であり、「喜びを抱け!」という意味を持つ英単語の「Rejoice!」を書いて執筆を終える瞬間という貴重な映像が流された。

 そこで大江は、「障害のある子供に父親が死ぬということを教えることをどうするかということは、まあ、僕にとっては非常に大きな問題です。子供に自分が死ぬということを君は恐れることはない。自分が新しく生まれ直してくることがあるかもしれない。その時には君と一緒にあるということをね、言いたいという気持ちは持っているわけですよ。」と語るが、もう泣けて泣けてしょうがなかった。

 大江健三郎が『燃え上がる緑の木』を当時、自らの集大成として執筆し、最後の小説と位置付けていたとのことだが、そんな作品が、こんなにも希望に満ちた言葉で締められるわけである。

 ここまできて、ようやく、サンプリングという手法が持つ効果や役割をつかめたような気がした。

 そもそも、ここまでの文章、および、これまでにブログ「石をつかんで潜め」にアップしてきた記事は、お笑い批評という性質によるものが多いが、基本的には引用である。選んだわけではなくて、辿りついたという表現がしっくり来る手法だが、気付けば、「石をつかんで潜め」という名前も、大江の『芽むしり仔撃ち』の最後の「僕は自分の嗚咽の声を弱めるために、犬のように口を開いてあえいだ。僕は暗い夜の空気をとおして、村人たちの襲撃を見はり、そして凍えたこぶしには石のかたまりをつかんで闘いにそなえていた。」という一節を受けたもので、意図せずして、大江健三郎の模倣になっていたわけである。

 『燃え上がる緑の木』は、主人公のサッチャンが、K伯父さんから「この物語を書くよう勧めてくれた」から書いたというていが取られている小説で、その時に、サッチャンはK伯父さんからアドバイスを受ける。

 「あったことをそのまま正確に復元しようと、神経質になることはない。それよりもね、こういうことがあったと、サッチャンの言いはりたいことを中心に書いてゆくのがいい。ありふれた本当らしさの物語ではないんだし、とにかくこのような物語を生きたと、きみが言いはり続けるのが書き方のコツだ。」

 言いはる、という言葉からは、正しくないかもしれないけれども、間違っているかもしれないけれどもという揺らぎのニュアンスが読み取れるが、だからこそ、読まれるか読まれないに関わらず、文章を書いている人間にとってなんと勇気が湧き出る言葉だろうか。

 そして、さらに、『日曜日の秘密基地』での大江の「自分自身が、あの普通の人間として生きていて、普通の現実生活を生きていて、その地続きで辿りつくことのできるものからね、毎日文章を書き直すことによって、一歩、あの、ジャンプすることが出来るっていうことがあると信じているわけなんです。それを頼りにして、あの、五十年間、小説を書いてきたわけです。ですからね、それは本当によく受け止めてもらえるかどうかってことはね、あんまり考えない。」という言葉にもつながっていく。

 『燃え上がる緑の木』にて繰り返される主題は、「魂のことをする」だが、自分にとってのそれは何なのか。

 数学で習ったベン図という、複数の円が重なり合う図式があるが、あのように、全く関係ないように思えるものが重なる瞬間に、異様に魅力を感じる。落語家が近況や世相をマクラとして話して、そこからシームレスに古典落語に入るのを見て快感を得るようなものだ。サンプリングによって産み出されたものから、新たな文脈を提示することが出来るのであれば、こんな楽しいことはない。

 お笑いそのものに限らず、お笑い批評を取り巻く環境もどんどん変化している。お笑いが大衆芸能の一波である以上、気安く語られること自体はむしろ歓迎すべきことでもあるのだが、その語りやすさに付け込んで政争の具にしたり、自身の思想の補強や、正しさの証明に安易に使われているという状況にはプチ反吐が出たりもする。それは何故か。現代において最大の敵である分断を進めるからである。意図的にせよ、無意識にせよ、そういうことをする人間の声が通りやすい時代であることは間違いないが、それに抗うための武器として、サンプリングを始めとしたあらゆる手法を用いて、好きなものと好きなもの、好きなものと嫌いなもの、嫌いなものと嫌いなものを接続させるために、誠実さをもって文章を書くということがお笑い批評となっているのであれば、それこそが自らの魂のことである、と言い張っていこうと思っている。

空気階段を見に行ったら、土俗的なコントを見てしまった話。

 よしもと沖縄花月空気階段が来るということで、見てきました。

 よしもと沖縄花月の通常の公演は、1時間で終焉するのが三本あって、その合間に1時間空いているというもので、せっかく空気階段が来るのだから、2ステは見ておこうと思ってチケットを買っていましたが、結局3ステ見て、しかも全部違うネタだったので大満足でした。

 地元で聞く、空気階段の出囃子のじゃがたらの「タンゴ」は格別でした。

一本目はショートコント三本と「隣人」、二本目は「ねずみ」、三本目は「聖クワガタの集い」で、空気階段らしいコントでした。「ねずみ」には「借金が五百万を超えている奴は、消費者金融から出てくるときに胸を張っている」という踊り場で聞いたようなフレーズが入っていたりして、ニヤリとさせられる一瞬もありました。

 よしもと沖縄花月は、港にあるビルの一角にあってロビーが狭いので、外で開演を待つことが多いのですが、その入り口はひとつしかないようで、その構造上、頻繁に出演者も通って、結果的に出待ち入り待ちになってしまうので、空気階段の2人に会えれば良いな、写真撮れたら良いなと少し、下心が湧きでていたりしたのですが、まさにたまたま、かたまりが外に出てきて、その時に、かたまりさん!とだけ声をかけることが出来ました。そこでは、それだけだったのですが、まあ良いかとなっていたら、少し離れた喫煙スペースでかたまりがいるのが見えて、勇気を出して声をかけようかなと思って近づいたら、そこでもぐらもタバコを吸っていた。

 吸い殻入れがそれぞれのベンチの横に置かれていて、そこで別々のベンチに座って、港をぼんやりと眺めている二人。かたまりは白いシャツで、もぐらは黒いパーカーで、なんともいえない絶妙な距離をとった二人の対照的な姿はまさに、峯田が空気階段を評した聖者と愚者のようだったし、あの「baby」の導入部分のようでもあった。この構図自体が単独ライブのポスターのようで、思わず隠し撮りしたくなってしまいました。

 邪魔をしていることは承知のうえで、声をかけ、「anna」を見に行くことを伝えることが出来、写真を撮ってもらいました。

 空気階段に満足したことはもちろんのこと、お笑いファンとして、すごい発見をしました。それは、ありんくりんと大屋あゆみという2人の芸人のコントです。

 ちなみに僕は、基本的に沖縄で活動しているお笑い芸人が大嫌いで、どのくらい嫌いかというと、落語家が二つ目にならないと落語家を名乗れないというほぼ同じ意味合いで、沖縄で活動している芸人はいない、と思っているくらいに嫌いです。それにはいくつか理由があって、今も活動している沖縄芸人の1人に5000円を貸したら8年くらい返さず、返すときには全く利子もつけなかったということがあるということが一番大きいのですが、基本的に彼らのネタは、テレビで見る漫才のパターンを模倣して擦られまくったくだりをつなぎあげただけで何のオリジナリティも無く、あるとすれば、方言を多用すればウケると思っているようなもので、本当に見なくても良いネタしかないというのがあります。

 加えて、地元への鬱屈した感情もあるので、基本的に、沖縄花月に、好きな芸人を目当てに通常公演を観に行くと、砂かぶりに座っているくせに、沖縄芸人を見ても全く笑わないし、ネタを見ながらフリから先の展開を予想して、当てて、だろうなと思ったり、何がダメなのかとか考えたりしてほぼ無表情というバチバチ尖り最低客でMー1でのジャルジャル に対して「顔で笑ってはいないけど心で爆笑している」と評した立川志らくの最悪バージョンになってしまうのですが、この日に見た、ありんくりんと大屋めぐみは、ちょっと違いました。

 まず、ピン芸人の大屋あゆみは、3公演とも同じネタで(こう書くと大屋あゆみが悪いみたいに取られる可能性ありますが、基本的には3公演見ている僕が悪いですし、なんだったら、てにをはの違いのような言い回しなどの細かい違いを総合して見た結果、二本目が頭抜けて良かったと言っている僕がおかしいということは分かっています。)、気象台のコールセンターの電話担当を、掃除のおばちゃんが対応するという1人コントで、そのおばちゃんが、沖縄のおばちゃんなので、原稿をただ読み上げれば良い仕事なのに、それが出来ないというネタでした。

 そのなかで、「前の職場でも言われたわけよ、下地さんが来たら忙しくなるねぇって。招き猫みたいだねぇって。それが今ではこんな太って豚になって。ええ、誰が豚よ、叩かれるよ」というくだりは、まさに、アルバイト先にいる沖縄の陽気なおばちゃんで、特に、ただ読み上げるだけで良いと言われている明日の天気予報の「降水確率は10%です」を一旦読み上げたあと、「あしたの降水確率ねぇ、60%くらいよ。だから傘持っていきなさいね。なんでかって言ったらね、私偏頭痛してるわけさ。今日頭が痛くてよ。だから、明日は雨降るよ。よく言われよったよ、下地さんは占い師より当たるねぇって。はい、仕事頑張ってね。」と予報を否定する。

 ところどころ、よくある、やりたいボケが先行してしまっているがゆえに脚本に穴が生じているみたいな現象も起きてはいたものの、こういったフックのあるセリフが入れ込まれてて、笑った、とまではいかないんですけど、ああ、よく出来てるしきちんと演じられているなあとニヤッとしました。

 ちなみにここでいう脚本の穴というのは、休憩に入った人が担当する電話が鳴るというところで、休憩に入るなら電話は切るだろとなってしまうようなもので、基本的にこういうことばっかりネタを見ながらチェックしている。お笑い見るの辞めろ、もう。

次はありんくりんアメリカと日本のミックスのクリスと、ひがりゅうた(各学年に二人いる、沖縄での無課金ネーム)で、テレビでも見るような売れている人達です。

 今回の3公演のうちで2本のネタを見ました。

 一本目は、三線の名人のところに、アメリカ人が弟子入りに来るというコントで、二本目はたんちゃめーのコンテストに2人で出ようとしていたら、その相棒の1人が急遽出られなくなったので、その人が用意した代わりに出てくれる人がアメリカ人だったというコント。

 たんちゃめーとはWikipediaによると(文献に当たることもしない怠惰な人間がよく使う言葉で、唾棄すべき最も嫌いな言葉の一つだけど、忙しいので許してください。でもWikipediaに寄付はしません。)、『「谷茶前節」(タンチャメーブシ)は、沖縄本島の代表的な民謡と踊りである。踊りは男女で対になって打組みで踊るもので、雑踊り(ぞうおどり)の一種であるが、その代表的なものとなっている。衣装は男女とも芭蕉布の着物で男役は櫂(エーク)を、女役はざる(バーキ)を手に持ち踊る。谷茶(たんちゃ)は沖縄県本島の恩納村の地名で、谷茶の海岸を舞台にしている。』とのことです。ちなみにヤリマンのことを方言でバーキーと言うのですが、これはザルのことをばーきと呼ぶことから来ているのでしょうか。ちなみに、この方言は僕の友人しか言っていなかったので、この方言が本当にあるかどうかの信憑性は、ヤリマンの貞操観念くらい薄いです。そしてこの友人は安室奈美恵と同じ校区だったので、安室ちゃんに確認してください。

 一本目は、完全なアメリカ人が弟子入りを望むも、名人は人見知りだから、その頼みを断って、練習を続ける。その練習しているサンシンの音色に合わせて、アメリカ人が勝手にセッションしてくるというネタで、三板カスタネットみたいな三枚の板)で返事をするところや、台車に乗せた太鼓を舞台に運んできて叩きだす展開は予想できなくて笑ってしまいました。

 サンシンや太鼓、踊りなど、素人目に見ても上手すぎて笑ってしまうという領域に到達するわけではないものの、少なくともコントの邪魔をしない程度の技術はあって、そこも良かったです。

 二本目も、助っ人出来たアメリカ人は練習の段階では全く踊れず、いらいらしている沖縄県民だったけれど、大会本番にアメリカ人が、実はちゃんと踊れて結果優勝するのですが、その失敗が、ギャグ漫画的なつなげ方でテンポが良くて、面白かった。

 最後に「辺野古をくれ」って言って終わるオチなのですが、その最後のツッコミが「べー!(沖縄県民の子供がやる、あっかんべーのような否定のニュアンスをもったアクション)」で終わるのって、ちょっと吹っ切れていて気持ちよさすらありました。

 どことなく、二つとも、どこか島袋光年の世界観のようで楽しかったです。

 ありんくりんのネタは、沖縄県民とほぼアメリカ人のコンビという見た目の性質上、沖縄県民の日常にアメリカ人が介入するというネタのため、これは沖縄の現代を強く反映していて、茂木健一郎も思わずストレートパーマになって確定申告で経費の控除をし忘れてしまうほどに批評性を帯びている、というのは考えすぎかもしれないが、少なくともタイタンライブで固まっていないネタをやってややウケのパックンマックンよりはきちんとしていました。東京や大阪にいる、日本人と外国人コンビのどのネタと比べても、ちょっとちゃんとそのことが機能している。

 以前、同じように沖縄芸人のコントで目を引いたボケが、どこの地域にも似たような風習はあると思うんですけど、赤ちゃんの前にそろばんや本を置いて、どれを選ぶかでその子の将来を見通すもので、そこに、電球とバットを置いて、「沖縄電力の野球部になってほしいから」というネタがあって、この面白さは、絶対に他県には伝わらないですよね。

 電力会社というインフラ産業に入ってほしいというのはともかく、このバットの野球部というのがミソで、沖縄県民の異常な高校野球好きが反映されていて、それが二つ合わさるから笑えたという、ある意味ハイコンテクストな笑いで、そのことで琉球の風が吹くまでにいたっている。

 空気階段が描く都会の片隅の風の匂いがするコントとの対比でこんなことを考えてしまったというのは否定できないものの、沖縄県民にのみ特化した笑いを客が大体10人前後の劇場で作り続けられた結果、沖縄芸人の何人かのネタがじゃりン子チエくらい土俗性を持ちつつあるというガラパゴス的な進化の状況を見て少し興奮してしまったのと同時に、少し襟を正そうと思った次第です。

芽むしり的ベストラジオ2019その2(10位~1位&キラーフレーズ)

memushiri.hatenablog.com

 

続きです。

10位 「令和一発目の生放送」『爆笑問題カーボーイ(2019.5.1)』
 新元号の令和になって初めのTBSラジオで放送された番組は、通常通り『アルコ&ピース D.C.GAREGE』だった。番組は、生放送反対派というカルト集団が生まれたりしていて、まるで年越しのようなノリだった。続く『爆笑問題カーボーイ』も生放送だったが、爆笑問題だけではなく、ゲストにウエストランド、24時台三兄弟のハライチ、アルコ&ピース、うしろシティの金子、まんじゅう大帝国がぞくぞくと登場し、まるで新年会のようにただただ楽しい放送になっていた。爆笑問題が楽しければそれでいいので、ランクイン。

9位 「名跡 神田伯山を襲名するための挨拶(2019.05.03)」『神田松之丞 問わず語りの松之丞』
神田松鯉に入門してから、現在の高座名である松之丞をもらった時の思い出話しから始まった名跡の襲名にまつわる裏話という、なかなかラジオ番組でも聞けない興味深いものでもあった。名跡「神田伯山」の歴史と功績については、『絶滅危惧職、講談師を生きる』の文庫版に収録されている、長井好広が書いた「伯山に「外れ」なし___講釈師・神田伯山の系譜」に詳しいが、その文章によると、先代の伯山に遡るだけでも、40年以上前の話となる。「神田伯山」という時計が再び動き出したという寄席演芸史的にも大きな意味が出てくる放送でもあった。
 師匠である神田松鯉から、神田松之丞という名前をもらった時の話から振り返りながら、真打昇進の納会での師匠とのやりとりを話し始める。
「俺の方から、で、師匠ぉ、あのぉ、名前なんですけどって言ったら、で師匠も察しがいいからさ、んんぅって、変えるのかって、あ、まぁ自分から言うことじゃないんですけどちょっと継ぎたい名前がありましてつったら、したら、俺の言うこと全部察して、伯山かっつって、まあ、はいつって、よし、分かった、じゃあ掛け合ってやるって言って。」
 それから、松之丞は、今現在、神田伯山の名前を預かっている、先代の神田伯山の弟子で過去に講釈師だった杉山という男性と直接会って話をしたという。
 落語家の事情についてある程度の知識を持っていれば、襲名したい名跡を守っている人に譲り受けに行くということはあるのだろう、ということは知識として持っていたものの、それがどういう風なやりとりが交わされるのかまでは分からなかったが、このトークで、詳細なやり取りまでは松之丞は再現こそしなかったものの、講談業界の未来についての話をかなり熱く話したようで、 そして、松之丞が神田伯山を譲り受けることになった。
 松之丞のトークから聞いている限りだが、名前を守るということは、墓守もしなければならないということにもなるようだが、それを40年以上にわたって担っていた、しかも講釈師になるという夢を破れた人間がやるということの、伝統芸能ならではのこの出来事の重みを思うと、『クロノトリガー』での、ひとりで砂漠を森に変えたロボを思い出さずにはいられない。しかも、松鯉自身が一度、伯山の名前を譲り受けることを断られているというのであるから、まるで大河ドラマのように物語が巡っている。
伝統芸能をやる者の藝の頂点というのは、基本的に60歳から70歳と言われており、それを考えると、神田松之丞改め神田伯山を30年、いや40年以上、同じ時代に生きて、その藝を楽しむことが出来るのである。 
 ところで、この話のオチは、「伯山って名前は宗家ですから、神田派のトップの名前なんで、あの、伯山を渡すということになると色んな名前が付いてきますって言うの。したらさ、見たらびっくりしたんだけどさ、俺も、桃川 如燕っていうのは多分付いてくるんじゃねえかなって思ったんだけど、その他にもなんか凄いんだよ。えぇ、神田五山、桃川三燕、桃川燕玉、桃川桂玉、柴田南玉、桃川燕国、神田松山、神田伯鯉ってもう、色んなのついてくるの。だから、伯山をもらうとハッピーセットみたいになってくんのよ。」と、これまた寄席演芸好きには刺さるけど、あんま伝わらないような素敵なものでした。

 

8位 「武道館ライブ当日」『オードリーのANN(2019.3.3)』
 犬が飼いたいけど、どんな犬を飼えばいいか悩んでいるという通常の放送の様な入りで始まった、『オードリーのオールナイトニッポン 10周年ツアー in 日本武道館』の当日に放送されたこの回がランクイン。
ライブを振り返りつつ、ルシファー吉岡や、ギース高佐、ラブレターズ溜口らが楽屋挨拶を止められたという事件について直接彼らに電話で出演しその真相を探る。
 地方公演に出演したにも関わらず楽屋挨拶にも行けなかったこのメンバーは「怒ってはいない」とはいうものの不満げな空気が完全に出ている。特に溜口がオードリーの二人に向けて放った「そっちは、かかってるかもしれないけれど、こっちは冷静です」とオードリーに冷や水をぶっかけるところはめちゃくちゃ笑いました。
 他にも、恒例の岡田マネージャーのミス話、サプライズゲストだった梅沢登美男との裏話、後半にはどきどきキャンプの佐藤光春がブースに入ってきて、話が盛り上がった。  
 まるで後夜祭のようなとても楽しい放送だった。

 

7位 「メメント金子サーガ」『アルコ&ピース D.C.GAREGE(2019.5.1)』『うしろシティ 星のギガボディ(2019.5.2)』『ハライチのターン!(2019.5.3)』

 

 『うしろシティ 星のギガボディ』で、「ヘビメタ編み物選手権」ではなく、「メメント金子サーガ」がランクイン。「メメント金子サーガ」は24時台三兄弟の番組と、収録日と放送日がバラバラなことで起きた一大時系列シャッフル物語だった。
爆笑問題カーボーイ(2019.5.1)』の令和一発目の放送で、金子は元気がなく「お笑いをやめそうになりました。アルコ&ピースとハライチに、お笑いでぼこられました」とへこんでいたが、それには理由があり、平成31年4月30日に収録された『うしろシティ 星のギガボディ(2019.5.2)』にまで遡る。
 その放送にて、「わたし、金子。令和一発目のアルコ&ピースのD.C.GAREGEに乱入してやろうと思っております。はい、この収録終って、これまあ、三時位に終わるか。で、十時間後くらいにアルコ&ピースの生放送なんです。やるじゃない。そのまんま俺出る振りして隠れてTBSに。な、いろんなトイレとか。十時間。潜伏して、で、行ってやりますよ。何すんのとかじゃねぇよ。乱入っつってんだろ。ぶっこわしてやんだよ、全て。」と高らかに宣言し、阿諏訪に「阿諏訪ぁ、十年間ありがとな」と感謝の意を伝えるその姿はまさに革命前夜だが、この決意こそが金子学の受難の始まりだった。
 続くトークゾーンでは、金子がパクさんという子に恋をしているが、その共通の知人である女性と三人で食事をしていたら、そのお店に、はんにゃ金田、ハライチ岩井、パンサー向井が来て、密会だと思われてそうでだるかったという話をしていた。
『ハライチのターン!(2019.5.3)』の岩井のトークゾーンでは、岩井サイドのストーリーが話されたが、そこからは、金子自身がトークしていたよりも、岩井の目にはすかしている感じの金子のようだった。岩井の恐ろしいところは、「今朝多分収録、今朝だから。してると思うんだよね。うしろシティさん。だから、恥ずかしくないように言い訳とかそのラジオで気がしてるんだよね。すごい外堀埋めてってっから。これ当たってたらやばいよ。外堀埋めてってっから。あの人ね。いじらせないようにいじらせないように。え、何が。別にそんなんじゃないけど、みたいな。いじられても良いような感じに、いじられてもダメージないですよみたいな感じにしてるとは思うんだけど。星のギガボディのリスナーさんね、金子さんが言ってること全部ウソですから。」と看破し、「でも例えば、この後おれらがD.C.GAREGE出るとしたら、その話するわ。金子さん来るんでしょうから。ああ、だったら俺らのほうが先手になるから、これもう将棋だから。指し合いですよ。」とさらに先を考えていたところである。
 『アルコ&ピース D.C.GAREGE(2019.5.1)』でひとしきり令和になったことを楽しんだ後に、平子がブースの外にずっといたうしろシティの金子を呼び込む。
しかし、明らかに無策の金子とアルコ&ピースはスイングせず、無茶振りをされても全く爆発しない時間がしばらく続き、ついには、ハライチもさらに飛び込んでくる。
岩井はそこで「金子が女性二人と食事していた話」をし始める。
 『ハライチのターン!』で語った岩井の策略をまだ知らないリスナーからすれば、岩井の話は突然ぶっこまれたただの暴露トークだが、この全ての放送を聞いたリスナーとここまで読んだ方には、これがもっと深い意味を持った攻撃であることが分かる。 
CMが明けても「俺らって面白くないからとか、俺なんもないからとか、自分で言って、ちゃんとしたいじりさせないような感じのところ、金子さんってあります。」「それで致死量のダメージを受けないようにしてい」と、刺し続ける。
 『爆笑問題カーボーイ』に、すでに満身創痍の金子が登場し、最終的には太田に前田ビバリーヒルズに改名させられる。
 時系列的には『星のギガボディ』、『ハライチのターン!』、『D.C.GAREGE』、『爆笑問題カーボーイ』だが、放送日の関係上、『D.C.GAREGE』、『爆笑問題カーボーイ』、『星のギガボディ』、『ハライチのターン!』と時系列のシャッフルがなされ、そのことで、うしろシティ金子が女性と飲んでいるのを芸人仲間に見つかって、ラジオに乱入して爪痕を残そうとするも、無策すぎたのでぼろぼろになった話が、一人の革命を起こそうとした男が、ぼこぼこにされて、前田ビバリへと改名させられるまでの、まるで時空をさまようカート・ヴォネガット作品のようなサーガへと変貌した放送だった。

 

 

6位 「アンガールズ田中ゲスト」『オードリーのANN(2019.7.28)』
 お笑い芸人のラジオに、一線級で活躍している同世代の芸人がゲストに来る時は、普通は、熱い話になるものだし、いやが応にも期待してしまうのだが、この回の若林と田中は一切そんな話をせず、ずっと若林が自分にタメ口を使うのはおかしいというタメ口問題や、NONSTYLE井上は「この世の最低品質の男だと思ってる」と言い放ったり、南海キャンディーズ山里は「合コンでの振る舞いが卑怯だ」と方々に悪口を田中が言いまくったりするのを、若林が上から殴りつけるようなツッコミをして、ただただ笑えるだけの話をして盛り上がっていた。そんな田中と若林のフルコンタクトで60分以上行われた殴り合いは、間違いなく2019年深夜ラジオでのベストバウトだった。
 この週は、オードリーの春日が、大会のためにお休みということで、若林の一人喋りから始まった。その話の一つに、合コンに行った話をしていたが、改めて聞けば、若林が結婚相手と出会った話であり、コンパそのものは負け戦だったように話しているが、実は電撃結婚の伏線となっていた。
 話は独身男性の悲哀についても移るが、そこでの田中が話した二つのエピソードが秀逸だった。
 「(なか卯で食事していたら)一回、夜中に停電なったの。なか卯でおっちゃんと二人で。ばーっと消えて。外見たら、外の電気は点いていんの。だから、なか卯だけブレーカー落ちてんの。俺、食べてた和風牛丼が見えなくなって。うって。したらおっちゃんが、『すいません、ちょっと今電気つけますんで』つってうろちょろしはじめたの。ブレーカーを探し始めたんだけど、どこ探してもなくて最終的に俺んとこ来て、すいません、スイッチどこかわかりますかって。いや、俺もわかんないけどつって、いちおうそっちバックヤード入らせてもらって良いですかつって。バックヤード入って、多分そのなんか更衣室みたいなとこにありますかなつって言って、入って、したら鉄の扉みたいなのガチャってあけて、俺ブレーカーあげてあげたの。」
 「俺はね、もう、ほか弁とかさぁ、なか卯とかでさぁ、テイクアウト、よし、今日これ食べようって嬉しく、嬉しく持って帰って、玄関とかでその夫婦(ロバート山本)に会ったらさぁ、急にその弁当持っていることが悲しくなってくんの。さっきまですげー良いモノだと思っていたものが、すごい価値低いモノに感じて、俺、太ももの裏にそれ隠したんだよね・・・・・・。」
 まだまだ、田中無双は続きそうだと震える放送でした。 

 あ、田中さん、テレビ越しではありますが、お年玉ありがとうございました。

 

5位 「くりぃむしちゅー上田晋也ゲスト」『オードリーのANN』

 あまりにも、この回が良すぎたので、すでに「『ガゼッタ・デロ・オワライーノ』~『オードリーのANN ゲスト:くりぃむしちゅー上田晋也』感想~」にて、『くりぃむしちゅーのANN』のいちコーナーの「ガゼッタ・デロ・オワライーノ」をパロディにして感想を書きなぐってしまったので、そちらも読んでほしいですが、どうしたって、くりぃむしちゅー上田晋也とオードリーのがっぷり四つという出来事は、豊島公会堂での「ギャグコレクション」をはじめ、初回の放送に話題が出てきたことなどを含めてどうしたって、文脈やエモを感じずにはいられないが、そこに振りきることなく、ずっと笑っていた最高の回でした。

 

4位 「鬼越トマホークゲスト」『爆笑問題カーボーイ(2019.11.12)』
 この年の『27時間テレビ』で因縁が出来た鬼越トマホークがゲスト出演した回がランクイン。だが、まずその前に、OPトークも絶品だった。太田が『ファミリーヒストリー』に出演した話をしていたのだが、その中でひとつのエピソードを披露していた。
それは、太田の母が勤めていた会社の社報に、社員の紹介が載っているが、他の社員の良いところが書かれているが、太田の母だけはあまりよく書かれていなかったが、実はそれを書いていたのは太田の母だったというエピソードが話された。
そんなシニカルを眩しすぎた愛を振りまく様子はまさに太田光の源泉であった。
 それから登場した鬼越トマホークの二人は全てがひどくて最高だった。
全員の悪口をいう鬼越の二人とそれに乗る爆笑問題の二人というそのグルーヴたるや、凄まじかった。道路に飛び出して愛を告白する武田鉄矢も跳ね飛ばすほどのブレーキの壊れたトラックに煽り運転をされる爆笑問題。まさに、煽り煽られラジオ。
あまりにも面白かったのだけれど、鬼越トマホークの未来のために、デジタルタトゥーとしてインターネット上に残ることは避けたいので、書き起こすことは避けます。
書き起こしサイトもradikoのタイムフリーもエリアフリーもないような時代に逆走するような何も書き起こせない放送がこんなに面白かったのに、なんで、こんな順位かというと、このベストラジオの判断基準のひとつに、どれだけ感想を書けるかというものがあるので、文字数の面から減点となった次第です。
 言えるとしたら、ジョニ男をちょっと嫌いになりました、くらいです。
 それからすぐに、「タイタンライブ」に鬼越トマホークのゲスト出演が決まった。その前に、ぜんじろうが出演するということが決まって、本当に落ち込んでいたのだけれども、これは、もうビートたけしのいうところの振りこの理論というところで、俄然、やる気が出てきた。タイタンライブ当日、ぜんじろうは、前回人情話をやっていたことを受けて爆笑問題に禁止と言われたようで、笑いで勝負するしかなくなって、結局最悪だったのだけれど、その後の鬼越の喧嘩を止めるくだりでギリありということにしました。
 鬼越トマホークの喧嘩を止めたぜんじろうに向かって「お前今のお笑い界に必要ねえんだよ」「そんなこと思っていないと思うんですけど社長との癒着だけでライブ出てるんで、もうちょっとウケてもらわないと困る」
 エピグラフは、<「それ喧嘩だ」「浪人組同志だ」「あぶないあぶない、逃げろ逃げろ」‥‥『二人町奴』国枝史郎>。鳥肌が立つほどにぴったりである。
 観客全員が鬼越の喧嘩をぜんじろうが止めるのを期待しているなか、EDもいつもよりタイトで、あわや無しか!?という空気の中で巻き気味で鬼越の喧嘩が始まって、よし!となったら、ぜんじろうが止める前に太田さんが鬼越の喧嘩に入ってったのは、この僕でもさすがに、太田さん違うだろ!となりました。
 悪口の数々は、ライブを見た人だけのお楽しみなので、詳しいことはお教えすることはできないが、聞くことが出来なかった人のなかには「ライブだから、ラジオよりも過激だったのだろう」と思っている人達がいるかもしれない。そんな方々に言えることは、悪口を言う相手の範囲が広まっただけで、ほぼラジオと同じ威力だったということです。

 上位の発表前に、2019年のラジオでも、キラーフレーズがいくつも産まれました。既に紹介したなかでいうと、匿名希望の「MONGOL嘘八百の小さなコアの歌」、アルコ&ピース平子の「デブのラジオにガリがやってきた」、爆笑問題太田が医者に出された三つの単語「猫、桜、電車」などがそうでした。
 その他の印象深いワードを紹介したいと思います。
 「ドリームエンタメラジオ」は、佐久間宣行が自身の番組『佐久間宣行のANN0』を、半ばギャグめかして称した言葉だけれども、テレビ東京のプロデューサーであることの利と人望を活かした、伊集院光やオードリー若林などの豪華なゲストと、そのカルチャー紹介っぷりに、あながち間違っていないことになってしまった言葉です。
 空気階段水川かたまりの「いったん、ジングルください」は、『空気階段の踊り場(2019.9.14)』にて出てきた発言。もぐらが、奥さんとの約束を破って携帯を没収された話から、そのことでライブで遅刻してかたまりだけでなくほかの出演者に迷惑をかけ、しかもライブ後にも自分に謝らなかったことなどでそのときもムカついたが、あらためてトークすることでブースでどんどん怒りが再燃してきたかたまりがクールダウンするために放送中に何度も言った言葉。改めて、もぐらがクズで、他人の心に石を積む人間であることを痛感させられた放送だった。
 オードリー若林正恭からは、『佐久間宣行のANN0』に出演した際にリスナーからinstagramに長文を投稿したことをいじるメールが来たさいの「有楽町で受け身取ると思うなよ」、「敵はこんな近くにいたか、こらあああああああ」、斜に構えていることを意味する「ハスってる」などが産まれた。
 同じく、『佐久間宣行のANN0』にゲスト出演したテレビ朝日のプロデューサー加地倫三の、『水曜日のダウンタウン』のお笑いコンビななまがりが新元号を当てるという企画の視聴率が9.4%だったことを受けての、「馬鹿でしょ。国民。」もありました。
そんななかで同率1位となった二つはこちら。
 爆笑問題の太田が、『サンデージャポン』で悲惨な事件を受けてピカソの話をしたが、そのことを神田松之丞が『問わず語りの松之丞』で、太田の評判があがったことをやっかんでか、散々いじったトークを受けて、「あいつはヤなやつだなぁー」「傷ついたわ、おれほんとに。俺ほんとに真面目に話してるのさ」と太田の返しのオチとして言った発言「人間として不良品だと思ったね。あ、これいうと炎上しちゃうんだよね」。みなまでは、い合わないが、太田の得意分野である時事ネタで全てを乗り越えた瞬間であり、ファンとして震えた一言でした。
 『深夜の馬鹿力』での長年、伊集院光の親友兼放送作家として、ブースで笑い声を響かせていた構成の渡辺くんが番組を卒業するとなかなか衝撃的なニュースがありました。その渡辺くんがブースにいる最後の放送の終りに、ナレーションとして流れた「というわけで、渡辺くんは機械の身体をもとめて、999で旅立って行きました。いつの日か渡辺くんが何処かの星で色々あってなめ茸の蓋にされるその日まで。渡辺くんFOREVER。銀河鉄道よ、永遠に。」は強く心に残りました。
 
3位 「覇王の帰還伊集院光ゲスト)」『佐久間宣行のANN0(2019.6.19)』
 伊集院光の『とらじおと(2019.05.14)』に、ゲストとして、テレビ東京のプロデューサー佐久間宣行がゲストとして登場したことをきっかけに、佐久間がパーソナリティを務める『佐久間宣行のANN0』に、伊集院光がゲスト出演した回。
 『とらじおと』と、その出演のあとに『とらじおと』にゲスト出演したことを振り返りいがら裏話をしつつ、伊集院光への思いと思い出を話していた回(2019.5.16)もとても熱くて良かったが、その流れで、伊集院光が『佐久間宣行のANN0』に出演したのだから、「昭和最後平成最初のANN水曜2部が伊集院光、平成最後令和最初の水曜2部が佐久間宣行」という文脈を抜きにしても、面白くならないはずがない。
 覇王なのに、伊集院はフルスロットルで、ニッポン放送への恨み節や悪口をぶちまけつつ、お笑いナタリーの記者と化した佐久間が伊集院光のラジオ観を引き出してくれる。
 「最近おんなじだろって思ったんだけど、朝と夜のラジオの決定的な違いってものい気付いて、まだTBSで発表してないだ、やってる当時のところだから、朝のラジオって取り組み方ね、性善説で取り組まないとなんか始まらなくて、いろんなことに違和感を感じても、この人良かれと思ってやってんだろってところからアプローチしないと、そのゲストの人とかに対せないって、夜のラジオって性悪説っていうか、なんつーの、ちょっとした違和感を、覇王って言われてることを、バカにしてるよね・・・・・・っていうトーンでいかないと、話広がんないでしょ。」など、『大竹まことのゴールデンラジオ!』にゲスト出演した回と合わせて、普段のラジオの答え合わせをしているような気にもさせられる言葉などを聞くことが出来た。
 また『深夜の馬鹿力』を立ち上げた永田守プロデューサーの話などは、ゲストに出た番組でしか聞けないものだったが、上柳昌彦の乱入などもお祭り感があって昔のしくじり話を言い合うのもあって、ラジオの過去と現在と未来が混濁した素晴らしい放送だった。

 

2位 「とんだ大バカ変態野郎がフライデー報道された」『オードリーのANN(2019.4.28)』

 『ニンゲン観察バラエティ モニタリング3時間SP(2019.4.18)』にて、オードリー春日の感動のプロポーズが放送された。日本全国で、リアルタイムで見られていたと思うと、この場で大正解だったと思っている。その番組を受けての『オードリーのANN(2019.4.21)』は、お祝いムードで、暢気にどこに家を建てるかなんて話をしている放送だった。なかでも、若林が話していた、南海キャンディーズの山里が若林に「また、ステージ上げやがったな」という連絡をしてきたという、蒼井優と付き合っているにも関わらず、やりにいっていたということは強く刻みつけたいと思います。
それからしばらくして、平成ももうすぐ終わるという時に、春日がフライデーされるという事件が起きた。お通夜モードで始まった、『オードリーのANN(2019.4.28)』だったが、10分を過ぎたあたりから、若林の怒りが沸点を迎える。
 「おれね、今までね、今までそのワイドショーのコメンテーターのオファー来たけど全部断ってんのよぉ。自分の善悪の判断に自信がないから。分からないからぁ。まともな人間じゃないと思ってるから、自分が。全部断ったんですぅ。ワイドショーのオファーはぁ。わかっ、自身が無いから。人のことを言うほどの人間じゃねえから。そぉれを、おまえ、このラジオだって、おまえ、ニュースとか時事ネタ喋んねぇでやってきて、敵はこんな近いとこいたか、こらああああああああああ。」と若林は咆哮したが、激昂しすぎた自分を反省し、キャップかけをする。
 それから、実はこれまでのやり取りを狙女のクミさんに聞いてもらっていたということが明かされ、クミさんと電話が繋がる。そのやり取りでの、クミさんの「諸悪の根源のパラダイスぅ」と若林の「時代に合わせろ、チャンネルをぉ」というキラーフレーズが出つつ、春日はクミさんにいくつかの約束をして謝罪し、とりあえずの解決を見せた。
 その後の若林のトークゾーンでは、『モニタリング』のロケで、春日の出身地である埼玉県所沢市に行って、皮肉なことにオードリーを振り返るような場所も寄るなかで、春日がずっと意気消沈していたトークをしていた。そんな状態だったが春日唯一テンションあがったのは、倉庫でキン骨マンとイワオのキン消しを見つけた時だったという。
 そのことを、クミさんに報告したときの、クミさんの返し「そんときは、キン骨マンとイワオだけの世界に入れたんでしょうね」は、若手芸人だったら、すぐに営業三つ入ってくるくらいの達者なものでした。
 『内村&さまぁ〜ずの初出しトークバラエティ 笑いダネ(2020.1.1)』にて、この放送で出ていた、春日がフライデー直後に若林の家を訪ねた話のさらにこの舞台裏の話をしていた。若林は「全部仕事無くなるだろうな」と思ったし、若林の家を訪ねた時に春日は「モニタリングの製作費を全部払って、芸人辞めます」と話していたほどにパニックになっていたという。
 それを聞いて、当時、あんまり真剣に受け止めていなかったけれども、一歩間違えたら、大変なことになっていたんだなと思いました。だから、一応言っておきますけど、フライデー、別にお前らのお陰じゃねえからな。

 

1位 「駆け抜けてもぐら」『空気階段の踊り場(2019.4.6)』

 詳しくは、すでにこのブログにて、エモいという二文字で済むことを、7000文字かけて「鈴木もぐらの恋は永遠、愛はひとつ。」という記事で紹介したので省略するが、空気階段の鈴木もぐらのその時間をかけた人生の伏線回収っぷりとクズキャラなのに口が固すぎるというその信念の重さに驚き、放送に感動したことなどから堂々の2019年のベストラジオといって間違いない。その後に、念願の『キングオブコント』にも出場、お笑い第七世代にくくられてネタ番組でも頻繁に見かけるようになる、水川かたまりが結婚するなど、昨年よりもまたもや空気階段を楽しむことが出来た一年だった。
 2019.12.14に放送した『空気階段の踊り場』では、番組イベント『空気階段の大踊り場』にてシークレットゲストである銀杏BOYZの峯田が出演したパートが放送されていたが、そこでの峯田ともぐらのやりとりがとても良かった。
 当時のもぐらの印象や思い出話をする峯田だったが、それにつられてもぐらから話そうとすると、峯田は「なんだよ、だから。いいんだよ、昔のことなんてもうわかんねえ、もう。もうこうなったら関係ないからね。おなじ、もう、あれだから。ジャンルは違うけど。もう、もうあれだよ。関係ないよ。昔どうだったとか、ね、憧れだったとか関係ない、同じ台、板の上に立ったらもう関係ない。俺はもう、こう(ファイティングポーズ)だからね。」と、同じプロとしてのバチバチ関係にあることを宣言する。だからもぐらとも普段会っていない峯田は、「連絡もしないしさ、くさいし」とべたべたした、なあなあな関係を拒否すしつつ、「だから、一千万超えたら、借金が、来ていいよ。首くくる直前。指ももう一本くらいしかなくて。いよいよ、全部やられて、もう一本しかないって時は来ていいよ。そんときはもう飯おごるよ」と話す。
 そして、もぐらのリクエストとして「夢で逢えたら」を弾き語りして歌い、万雷の拍手のなか「これからもほんと、すいません、僕が言うのもあれですけど、空気階段を末永くよろしくおねがいします」と言ってくれた。
 空気階段爆売れ前夜はもう少し続きそうだけれども、夜明け前には夜明け前の美しさがあるように来年もきっと楽しませてくれるはずだ。

 冒頭にも書きましたが、2019年のラジオはほんとうに面白い年でした。「ラジコフェス」もめちゃくちゃ楽しかったですし、まだまだ話足りないです。特に、上半期が濃密過ぎたのですが、単にドラマ性やハプニングだけじゃなく、純粋に笑える話なども多くて、リスナー冥利につきる一年でした。なかでも、総合優勝は、『オードリーのANN』です。バランスを考えて、若林がサプライズで結婚を報告した回を外したくらいです。こんなに、面白くて、グッとくる、ドラマチックな一年になるとは夢にも思いませんでした。明らかに、オードリーの第二章が始まっています。


 最後にワーストラジオですが、ネタに出来るもので言うとその期待値が高かったがゆえにスイングしなさを感じてしまった『トム・ブラウンのANNR』、まじのやつでいうと、全てを履き違えていた『弘中綾香のANNR』です。
 2020年には、『マイナビラフターナイト』の月間チャンピォンになったことでお試しでラジオをやって良かった宮下草薙のラジオや、『ANN0』枠をやったchelmicoのラジオも始まりますし、それだけではなく、『アンタッチャブルのシカゴマンゴ』の真の最終回も期待してしまいますし、まだ目をつけられていないラジオスターが出てくるかもしれないと思うと、まだまだラジオ聞いちゃいますね。
 2019年から2020年の年またぎは、令和と同じく、火曜日の深夜だったのですが、20時から24時をハライチメインで、24時から25時までアルコ&ピースが、25時からは爆笑問題が担当という、好きが繋がったものでしたが、そのなかで、ハライチ岩井の「普段言わないけど、爆笑問題が一番好きなんだよ」とアルコ&ピース平子の「爆笑問題、若手好きがち」でブースが笑いに包まれるということがあっての、『爆笑問題カーボーイ』のタイトルコールを、爆笑問題と24時台三兄弟でやるというのには、じーんと来てしまいました。そんなんで始まった2020年のラジオ、面白くならないわけがありません。
 それでは、今年も頑張っていきましょう!

 ここまで読んだあなたは偉い!

 

 

 

 

 

 

2020年の目標です。
・投稿を再開する。
・お笑いについて以外は極力ツイートしない。
・同人誌2冊目の完成、noteの稼働
愛媛県に行く。
フェミニズムについて勉強する。
・「人を傷つけない笑い」などの粗い表現を憎みながら、人を傷つけないツイートを心がける。
twitterでしくじらない。
よろしくお願いします。

昨年は今回の記事も合わせると多分5万字くらい書いた気がします。もしかしたら、ブログの更新自体は少し減るかもしれませんが、今年もよろしくお願いします。
ハスらずに、かかってるくらいの感じで。

芽むしり的ベストラジオ2019その1(20位~11位)

 2019年は、テン年代の締めくくりとばかりに、ひいき目にみても、ラジオの面白さが異常な年でした。特に、今年10周年を迎えた『オードリーのANN』はさまざまな事件やイベントが起きましたし、『爆笑問題カーボーイ』も普段のトークもただただ面白い回や大事な話をしている回があったりして、いずれもリスナー冥利につきる一年でした。
 それとは別に何と言っても、『佐久間宣行のANN0』は、ゲストが豪華で、そこで聞けたお笑い話は垂涎ものだったことを始めとして、年始には想像できないことがたくさんありました。そんななかで、私的なベストラジオを選びましたので、改めて聞きなおすもよし、聞いていなかったものはなるべく合法的に聞いてみるもよしという感じで年始の暇つぶしになれば幸いです。

 

20位 「ウチらにまかせてやカルタあがり」『伊集院光 深夜の馬鹿力(2019.2.25)』
 『日曜JUNK クワバタオハラのウチらにまかせてや』は、『深夜の馬鹿力』のコーナーの、「新・勝ち抜きカルタ合戦 改」のお題の一つで、クワバタオハラがJUNKの日曜日を担当した場合、どういう放送が行われているのかを、あ行からわ行までの読み札をリスナーが考える。
 むちゃくちゃな偏見を言っていたり、健康食品をステマしてくるなど、リスナーから送られてきたクワバタオハラに関する完全な嘘、だけれどもリアルに想像できてしまい存在しないのにムカついてしまっていたクワオハカルタが、わ行に到達し、無事ゴールイン。
 テレビ東京のプロデューサーの佐久間宣行にも大きな影響を与えたという、伊集院光が生み出した架空のアイドル「芳賀ゆい」。その、存在しないものを、あたかも存在するものであるかのように構築していくという意味では、ラジオ番組『日曜JUNK クワバタオハラのウチらにまかせてや』は平成最後の芳賀ゆいだったのかもしれない。芳賀ゆいの活動期間が平成元年に産まれた事を考えると何とも味わい深い。
そのカルタが、わ行まで到達し無事ゴールインした時には、妙なカタルシスを覚えました。
 電柱理論というペンネームで採用された例でいうと「マシンガンズの滝沢くんに会った時に聞いたんやけど、うちの地区やと、ディルドは燃えないゴミで、ペニバンは、ベルト部分は燃えるごみで、ペニス部分は燃えないごみとして分別しないとあかんねんて。」や「夕飯何食べたいか聞かれて、何でもいいっていう男は、事務所が決めた雑なキャラに適当に乗っかって、さんま御殿で爪痕残そうとしてさんまさんにマジで叱られる、みちょぱの後釜狙ってる図々しい読モくずれみたいなんとお似合いや!」があります。
 昨年は、四月以降まったくメールを送れなくなってしまったので、今年は復活させていきたいなとひそかに決意しています。

 

19位 「空気階段ゲスト」『爆笑問題カーボーイ(2019.6.12)』
 タイタンライブにゲスト出演することが決まったものの、トリプルブッキングとなったことで、タイタンライブのエンディングに出られないため、急遽ゲスト出演が決まった空気階段が、『爆笑問題カーボーイ』と『空気階段の踊り場』のディレクターが越崎恭平だから実現したことであり、なんとも素晴らしい越崎マジックだ。
 空気階段の二人は、もぐらは太田光が書いた『カラス』を持ってきていて、神田松之丞にもいじられたピカソについて書かれた部分を朗読して蒸し返したり、かたまりがラジオブースに突然カレーを持ってきた話や、かたまりがタインタンシネマライブの上映館を暗誦したりと準備してきた鉄板ネタを披露し、爆笑問題に芸人としてぶつかる。それを爆笑問題が受け止める。最高のがっぷり四つだった。
 空気階段のかたまりは、大学になじめず、二カ月で中退し引きこもっていた時にずっと『爆笑問題カーボーイ』を聞きながら、『パワフルプロ野球』で選手を作る生活をしていたという。「パワプロで、ほんと太田光とか田中裕二とかつくってました。太田さんピッチャーで、田中さんキャッチャーで」という良い話の中にも笑いどころをつくったかたまりに対して、田中は「でも、俺本当はピッチャーだからね」と言いのけ、それに負けじと太田も「俺も本当はレフトだから」とかぶせて、大ファンだというかたまりに「あ、そうなんですね」と言わせるのが何とも爆笑問題だった。
 ハイライトは、太田が「賭け麻雀しているしな」に、コンマ一秒ずれなく、やっている奴らの間で「やってないよ」「やってないすよ」という田中ともぐらのユニゾン

 

18位 「伊集院光ゲスト」『大竹まこと ゴールデンラジオ!(2019.1.17)』
 文化放送大竹まこと ゴールデンラジオ!』の放送3000回記念の「大竹メインディッシュ」のゲストに、伊集院光が登場した。伊集院が『とらじおと』を引き受けた理由は幾つもあるがそのなかで一番大きな理由が、あの大竹まことが昼をやっていて、しかも続いているからだったと話す。
 大竹の「テレビのあのタイトさ、短い間でパンパンパンこれ俺一生続くのかと。年取ったらキレ悪くなるわけよ。おしっこと一緒でさぁ。どんどんキレ悪くなって。この番組はあたまコマーシャルも入れずに、だらだらだら、もう、どぉーっでもいい話をね、30分もしてるわけよ。」というラジオ観に伊集院は同意し、「(テレビを)否定はしないんだけど。よく、例えで言うのは、えぇ、知り合いのお葬式にきたお坊さんの頭が蚊に刺されてて乳首みたいだったって全部入りじゃないですか。ほんとに好きな人の葬式だから。そこ目行くたびに笑うとこじゃないしみたいな話ってラジオだけしかできないでしょ。ずっとしてる。どっちともつかないようなやつを。それはちょっとラジオだけだな。」と話す。
 そこから伊集院の「この先、どうありたくてもちょっとずつ壊れてはいきますでしょ。物忘れとかどんどん出るようになりますよ。今それが楽しい」という発言から、大竹が番組中に遠野なぎ子に「お前誰だ!」と叫んだ話になり、話題は「ポンコツになっていく」ということに移っていく。
 ポンコツになるということを、伊集院は「途中のステップのときのキツいときと、あ、これで良いんだという繰り返し」と定義するが、光浦靖子は「伊集院さんは、忘れることをずーっと恥じて、ずーっと悔しがっててほしいし、死ぬまで。そしたら、ハタから見たら伊集院さんの憧れの、やっぱり一番頭のおかしい人だって私達は思うの。ホンモンだって。」と、悔し涙を80歳くらいで流してほしいと話す。
 伊集院は、最近「いつかは深夜ラジオをたたむ」と話し、リスナーを切ながらせたりもしているが、せめて、「ラジオはちょっとそれ一緒にみんな付き合ってくれる。結果何にも起きませんでしたでも、ま、甘えかもしれないけれど、許してもらえる」と話す58歳の伊集院光が、「聞いてる人にほんとに頼るよね。聞いてる人にね、頼るというか寝そべるというか、添い寝みたいな感じだね」と話す70歳の大竹まことの境地に辿りつくまでの過程を追い続けさせてほしいと切に願ってしまう放送でもあった。

 

17位 「加地メタルジャケット」『アルコ&ピース D.C.GAREGE(2019.6.5)』

 きっかけは『佐久間宣行のANN0(2019.5.23)』にて、翌週にゲスト出演することが決まっているテレビ朝日のプロデューサーの加地倫三の話から、『アメトーーク』の収録に参加したアルコ&ピースの平子が、番組のふるまいがあまりにもひどかったがために、プロデューサーの加地に、20分ほどブチ切れられたという、通称加地メタルジャケット事件のエピソードを話したことだった。
そして、『佐久間宣行のANN0(2019.5.30)』に、加地がゲスト出演し、その真相を語った。
 「『アメトーーク』の「猫舌芸人」っていう回で、あのねぇ、平子るって言うんでしょ。普通の人が聞いても何のことを言っているのか、全く分かんない例えを、ずーと終始それを言うのよ。なんかねぇ、俺、見直したのよ、実は。しかもオンエアじゃなくて、素材を。苦痛だったよ。そしたらね、なんだっけな。カニクリームコロッケが熱いって話をね、地球のコアなんだっていうの。それが流されるじゃない。その後も何回も何回もコアコアコアコア言うのよ。それでまた違う例えをしたのんだよね。なんかね、イタリアのサッカーのトッティーだみたいな、また突然難しい例えを言ってきて、さすがに宮迫君がしびれを、限界が来て、もうコアとトッティーの例えはやめてくれって。そのツッコミも、コアが受けてないから、そのツッコミも正直滑ってんの。でも、その後もまたコア言うのよ。で、それでフロアずっとイライラして、平子が喋るたびに、お客さんだんだん引いてくのよ。それが分かるから、もぅ、ほんとにこれはダメだなと思って、終わってからまぁ、マネージャーが有吉と一緒のよく知ってるっていうのもあって、昔から、あれ、こんな感じだったっけ平子ってって。で、本人帰る前にエレベーターの前で、え、いや、え、何であんなこと言うんだい、普通に笑いを取ることは出来ないのかい。そうそれで四年くらい立つのかな。」
 これが、加地メタルジャケットの真相ということで、今回の放送に、平子をブースに呼ぼうという話に当然なって、佐久間が調整して全てオッケーになったが、平子はモンゴルにいるということで結局来ることは出来なかったという綺麗なオチがついた。
 そして迎えた、『アルコ&ピース D.C.GAREGE(2019.6.5)』。しかし、番組開始20分以上通常放送をして、リスナーが痺れをきらしそうになった頃に、平子が「気ぃ使ってんの」と酒井の笑い声で、トークが始まった。平子が概要として説明した「デブのラジオにガリが来たんですよ」はクリティカルだった。
 それから、酒井からの「チキって(怯えた)、モンゴルに行ったわけではないですよね」という確認もありつつ、平子サイドからの「少し仕事が減った時期で、爪痕を残そうともっとむちゃくちゃしていたので、加地の話は少しマイルドになっている」という真実が語られた。もちろん、リスナーからのメールもたくさん届いていたようだが、その中で震えたのは、匿名希望からの「平子さーん、MOGOL嘘800の小さなコアの歌、歌ってください」だった。
 最終的にA級戦犯は、佐久間だということになって、加地メタルジャケット真相編は幕を閉じました。
 アルコ&ピースの平子にとって2019年は、このことをきっかけに、「平子る」という言葉がテレビに輸出され、オードリーの若林には『しくじり先生』の「お笑い研究部」でその平子りのマスクを剥がされかけたり、『アメトーーク』に再び出演するようになったりと、また違った魅力が引き出された一年だった。

 

16位 「お好み焼き屋」『神田松之丞 問わず語りの松之丞(2019.4.26)』
 神田松之丞が、仕事帰りに妻とお好み焼き屋に行ったトークを始める。夜の9時過ぎに入ったお好み焼き屋には三人の先客がいて、最初は夫婦と子供の三人家族かなと思ったが、母親と思しき女性が子供に向かって言った「あたしが殴ったからって児相(児童相談所)言ったろ」という言葉が気になって、松之丞は盗み聞きしていくうちに、どこまで正確かは分からないが、母親は風俗嬢で男性は太い客だろうと推測する。
 母親は子供に「ほんとこいつ(子供)さぁ、あたしの金で食ってんだよぉ。児相につれてかれたって、世間はね、なんだかんだ偉そうなこと言って、綺麗事ばっかり言うけど、金なんか出してくんないんだから。あたしが育ててんだから。分かるか、え、分かるか。」と言う。男はタダで母親を抱きたいからなのか、子供にも媚びを売るように理解を示している振りをする。子供は母親にそんなことを言われてまでも甘える素振りを見せる。
 もちろん、フィクションではないので、この話にはオチもなく、彼女たちが店を出て話は終る。それがまたリアルだった。
 松之丞は『小幡小平次』を引き合いに出していたが、二元論で判断できないような人間のグロテスクな部分が芬芬と匂ってくるまさに講談のようなトークだった。

 

15位「チルアウト論」『東京ポッド許可局 (2019.3.19)』
 マキタ局員の「チルアウトって言葉知ってますか」という問いからはじまったこの回は、単純にまとめることが出来るような放送ではなかったが、かなり示唆に富んだトークになっていて、放送されてから何度も聞きなおしたりした。
 チルアウトというのは、身体を休めるときに聞くような音楽を表す言葉なのだが、そこは東京ポッド許可局、音楽についてではなく、現代を「情報多すぎる」「面白すぎる」「美味しすぎる」などの「すぎる時代」だとし、様々な情報の受け取り方について話していく。
 特に、サンキュータツオの「コンテストも手数多い、多めじゃないですか。で、えっとそれがひとまず落ち着くと、今度、情報削ってくっていう時代に入っていくと思うんですよね、人はね。受け皿となるような芸能というか、多分あるんだろうと。で、音楽におけるそのチルアウトっていうのは、そういう受け皿になってんじゃないですか。バラードとかね。」、「ゆるいっていうのは、ゆるいのは目が粗いの。そもそも作ったはいいものの、粗いの」、「チルっていうのはやっぱ情報の断捨離がそこにあるんだよね。もっといけるんじゃないかって思うんだけど、とりあえず抑えとみたいな。なんかそういう感じのねぇ、ギリギリでふんばってる感じっていうか。」という発言はかなり心に残ったが、なかでも、特に、「情報の断捨離」というワードを強く意識してみようと思った放送だった。

 

14位 「尖った笑い論」『東京ポッド許可局(2019.10.14)』
 もともと、お笑いについて語って良いという場を与えてくれたのが、東京ポッド許可局での「M-1グランプリ論」だったりするわけだが、いつしか、彼らはお笑いを論じることは少なくなっていった。影響下にある自分にとってそうなることは寂しくもあったが、しょうがないことでもあるだろうと思っていた。
 しかし、ここにきて急にお笑い語りを振り返るような放送をしていたのはとても意外だった。
 『アメトーーク』や『ゴッドタン』で、お笑い語りが企画として成立していたり、ナイツの塙という現役漫才師が漫才について書いた『言い訳』が売れているという2019年の現状を振り返りつつ、J-POPでも同様なことがおきているということを話すマキタは、これを良いことなのか悪いことなのかは置いておいて、成熟なのかと、タツオに尋ねる。それに対して、タツオは「そういうものが表に出てくることで、一個ステージが進んだかなっていうことはあるんですよね。まあ、それ野暮ですけど、まあ、手品師が手品のタネを発表して、で、シェアしてもうじゃあ次どの手があるかつったら、タネは分かってんのに何度見ても見事な手品か、やっぱり見た事のない手品の二種類が残ると思うんですね。で、そう考えると、どぶろっくの優勝っていうのは、揺り戻しというよりはタネが分かってて、一個フィルターが入ってるんですよ。つまり視聴者が普通の下ネタとして受け止めて笑ったんじゃなくて、下ネタかよ(笑)が入ってんですよ。だから、つっこめるんですよ。下に見れるんですよ。安全で笑えてるんですよ。」と答える。
 プチ鹿島の「お笑いが特に好きじゃない文化人とかが、何で尖った笑いをやらないんだ」と言ってくる問題に対する「お前、お笑い好きじゃねえだろ」というもっともな、でも触れざるを得ない指摘などもあったが、タツオの「オシャレな言葉のやり取りや、構造主義的なそのネタの構成、あとは、単純にネタの良しあしってことも含めてですけど、シチュエーションものとか。そういうのは、演芸ってジャンルにどんどん組み込まれていくと思う」という予見が興味深かった。
構造主義という言葉について、くしくも、今年のこのブログでの『キングオブコント』の感想に、「面白さやコントの未来という意味において、これまでの大会に引けを取らないのですが、あまりにも、多層的な構造のコントが全くもって通じなくなってきているというのを感じました。一般的には難しすぎるのかなあと思いつつも、一本調子ではないそういうコントじゃないと決勝まで行けないのに、決勝で点数が伸び悩むという捻じれ現象が生じていて、もっとその作家性を評価してほしいというのは正直言ってあります。」という構造主義の敗北について指摘していたので、この言葉が出た事は嬉しく鳴らした。
 また『M-1グランプリ2019』で印象深かった審査員の言葉に、松本人志からニューヨーク屋敷への「ツッコミは怒っていてほしい」という旨の発言と、ナイツ塙から見取り図の盛山への「漫才中、顔を触り過ぎている」という、ネタではない部分についてのことであり、これはもう、構造主義が行きついてしまったがために、そういうところまで見られるようになっているような証拠であり、また、視聴者が新たな視点を取得した瞬間だったのではないだろうか。
 また、スピードワゴンの小沢は、ぺこぱのツッコミを、松陰寺がもともとボケだから、あの特殊なツッコミをボケとしての発声できているのが良いという技術的な話をしていることも印象に残っている。
 余談だが、『爆笑ヒットパレード』でのオール阪神巨人を見ていたら、二人が好き勝手に喋っているのだけれどもどっちも聞きやすくて、凄いなと笑っていたが、特に驚いたのは、オール阪神巨人の二人が腕時計をしているということだった。『M-1グランプリ』で漫才を見ていると、腕時計が視界に入ってきて、邪魔だなと少し思ったということがあって、やっぱ漫才をやる時には腕時計は外した方が良いのかな、などと考えていたりしたので、オール阪神巨人がふたりとも腕時計をしているにも関わらず全くストレスにならないことは、時計がシックな色合いだということよりも、手の動かし方によるものが大きいのだろうと考えることが出来たことは個人的にはタイムリーだった。
 お笑い評論を書いている以上、ネタの構造だけじゃなく、これらの技術論も言語化していけるように勉強していきたいし、例えば お笑い芸人が誤読で炎上したりした場合、守るための評論ということも手にしないといけない時代になっていくので、フェミニズムやポリティカルコレクトネスなど社会の流れにコミットできるようにそこも勉強していきたいと思っている所存です。
 
13位 「詰め!もぐら将棋部!!」『空気階段の踊り場(2019.7.12)』
 空気階段の鈴木もぐらの、高校時代に入っていた将棋部の思い出話をしたこの回は、初めて聞いた時はめちゃくちゃ笑いました。
 高校生活が始まり、どの部活に入ろうか迷っていたもぐらは、将棋部のポスターを見つける。もともと将棋が好きだった、もぐらは将棋部にしようと決め、ポスターに書いてあった部室へと向かう。部室の前で、王子というあだ名の同級生とばったり会ったもぐらは、二人で一緒に教室のトビラを開くも、そこには誰ひとりいない。おかしいなと思って教室を見まわしたら、すみっこに一人の生徒がいることに気がつく。
 そんなもぐらと王子を見た先輩は、「何だ。君たち来ちゃったのか。」とアンニュイな口調で話しかけてくる。入部したいんだけれどもここは将棋部であってますよね、ともぐらが答えると、先輩は「はぁ。そうか。実はねぇ、君たち二人が来なければ僕の手でこの将棋部を潰すつもりだったんだ……。見ての通り、将棋部は僕一人しか部員がいない。僕が一年のころ三年の先輩がいたんだが、その三年の先輩が引退したあと、僕はひとりきりになってしまった。こんな部活あっても別に何にもならないし。」と続ける。
 もぐらが先輩の手元に目をやると、そこには、一冊の本があったという。そこで、「今ではメジャーなんだけど、そのころはほんとに珍しかった、ライトノベルっていうの、なんかそのアニメ小説みたいな。そっから影響を、めちゃくちゃそっから影響を受けた。もう、もろバレ。もろバレなんですよ、キャラの出所が。」という先輩の喋り方の理由が分かったところは腹抱えて笑いました。
 「君たちに、もう一度だけ時間をあげよう。僕は、この部活に入らないことを強くお勧めする。」と言う先輩に、もぐらは食いさがり、結果、先輩と一局指すことになる。
 当時のもぐらは、詰め将棋などもしていて、かなり強かったと自負しているが、先輩も強く、もぐらは劣勢となるが、途中で先輩がポカをして、もぐらはからくも勝利を収める。
 もぐらは、先輩に、将棋部をつぶそうとしていた理由を尋ねると、「僕は、君と同じように将棋がものすごく好きで、将棋部に入って、その時の先輩が、三年生ひとりしかいなくて、二年生はだれ一人いないと。その先輩しかいなくて、ただ、その先輩と指してる日々がすごく楽しかったんだと。で、その先輩も強くてめきめき二人で上達していって、ただ先輩がいなくなった時、僕の目の前に誰もいなくなったときに、その僕は本を片手に、えぇ、指すことに決めたと。だから、定石書を左手で持って、右手で一人二役やる。ていうのをずーっと一人でやってたんだって。部員が一人しかいないから。で、毎日毎日、放課後終わったら、自分で一人で本を片手にやる。っていうのを繰り返した結果、将棋くそつまんねぇってなって。こんなにつまらないものだったのか将棋は、ってなった」と答えた。 
 もぐらと王子は入部を許され、かたまり曰く「伝説の始まり方」によって再び動き出した、新生将棋部は、二年間将棋に打ち込むが、その後新入部員も来ず、全く部室にも来ない顧問に「おまえらぁ、どうせすぐ負けるしぃ、時間の無駄だから、出ない」と言われて最後の大会にも出られずに終わるという最悪なバッドエンドを迎える。
ブースには終始、かたまりの「きゃーはっははは」という悪い笑い声が響き渡っていた。
 この鬱屈した日々が、もぐらが銀杏BOYZにのめり込む一因となり、伝説の「駆け抜けて、もぐら」へと繋がっていくという意味でも味わいがある回だった。
もぐらのトークは、カット割りというかコマ割が上手く、聞いていると、頭の中に映像が浮かんでくるほどに巧みなのだが、それが堪能できた。
ちなみに同じくらいに笑ったのが、もぐらが、歯のないなべくんと相席居酒屋に行った第105回「クスリ飲んでも眠れないんですよー!」の回(2019.4.19)でした。

 

12位 「ケーキ転倒復帰」『爆笑問題カーボーイ(2019.4.3)』
 2019年3月30日放送の『ENGEIグランドスラム』の放送終了間際に、爆笑問題の太田が、ケーキの生クリームで転倒するという事故が起きた。番組でも流れてしまったその映像はなかなかに衝撃的で、すぐにSNSで広がった。とても心配したが、翌日の『日曜サンデー』で出演こそしなかったものの、無事であることが告げられて安堵した。平成を駆け抜けた爆笑問題が、平成最後のネタ番組でトリを務めたあとに、はしゃいで、ケーキの生クリームで転倒、そのまま舞台上で死んだということになったら、全く笑えなくなってしまうので、その事態を回避することが出来た事は本当に良かった。
 大事をとって、『サンデージャポン』と『日曜サンデー』は休んだものの、『爆笑問題カーボーイ』から復帰、その回の転倒直後から病院に運ばれたまでのトークが、無事を確認出来、緊張が緩和したこともあって、めちゃくちゃ笑ったトークでした。
 太田は、病院の関係者に、脳が無事かどうかの確認のために、今日の日付や名前を尋ねられるが、もともと日付という概念が薄い太田は「1320年6月20日」と答えたり、「木村拓哉」とボケるべきかどうか悩んでしまい、勝手に混乱してしまう。
 さらに、記憶を確認するために、三つの言葉を覚えておいてくださいね、と太田は言われる。
 「猫、桜、電車、この三つ、この三つをね、覚えておいてくださいね。分かりましたって言うけど、ほんとに自身無いの。自身無くて、一時間後にもっかい聞きますからって言われるから。」
 猫という言葉が出て、田中が「お、いいね」と相づちを打ったのは、どこまでも田中だ。
 田中は転倒直後に太田に「立つな!」と制したところ、異変に気がついたという。
 「俺は立つなつったのよ。全然覚えてないでしょ。で、お前はそこで黙ぁーって従ったんだよ。そこが俺はあらら、ちょっと待って、おかしいなぁ~、みょーに変だなぁーって、大人しく従ったの。」
 ここでブース内は大爆笑したところは最高だった。
 なにはともあれ、笑い話になって本当に良かった。

 

11位「ハライチ二人のおもひでぽろぽろ(2019. 07.26)」『ハライチのターン』
 今年は、様々なゲスト回が炸裂した年でしたけれど、実はそういう回の面白いところを拾うのは簡単で、難しいのはこういう平場の回が、なんとなくめちゃくちゃ良かったということを伝えることだ。
 番組恒例の「ハライチのターン!」と叫ぶのを澤部が忘れてしまうというハプニングからどこかいつもと違っていた148回目の放送は、ずっと、ノスタルジーと成長が溢れていた。
 オープニングでは、夏休みがスタートしたという話題から、自分達の夏休みがどうだったかと話す二人。ずっとサッカーの練習漬けで夏休みなんて無かったという岩井に対して、澤部は「昼起きて、『少年アシベ』と『ダイの大冒険』。一ヶ月半余裕。」「土日なんて、もう別に『マーマレードボーイ』見て、おばあちゃんの作る焼きそば食って、おしまいだよ、そんなもん」と笑う。
 フリートークゾーンでは、澤部は、前の週に行われた、ハライチが出演したライブ『デルタホース』に澤部の妻と娘が、客として見に来ていた話を始める。娘が澤部のライブを見に来たのはほぼ初めてとのことで、そのきっかけは、幼稚園でふざけている男の子に向かって「お笑い芸人みたい」と別の子が言うやりとりを見た澤部の娘が、その子に「お笑い芸人って?」と尋ねたところ「子供を笑わす人だよ」と教えてもらったという。幼稚園から帰ってきた澤部の娘は、母親にあらためて同じ質問をしてみたところ、澤部の妻は「パパのお仕事だよ」と教えたからだという。このやりとりだけでも、何となくグッときてしまう。澤部の娘がライブに向けて、洋服を選んだりして、「ガチ恋お笑いオタ」と化してしまうほどに楽しみにしているなか、岩井だけがネタを作って本番当日まで台本を渡されないというハライチのネタの性質上、「変なネタもってくんな!」と祈ることしか出来ない澤部とのコントラストがたまらない。ライブ中も、下ネタをぶちこんでくる相席スタートにイライラしたり、コーナーで自分が出したものに低評価がつかないかひやひやしたりとしていたと話す。
 ライブを終えて、澤部の娘が書いた感想を澤部が見てみると最初に「楽しい一日になりそう」と書いていて「お笑いガチオタネタ寸評OL」みたいになっていたというオチだった。
 続く岩井のトークゾーンでは、岩井は実家に帰ったついでに原市団地の近くを通ったという話をしていた。昔、岩井も住んでいたという原市団地はすっかり様変わりしていて、少し寄ってみたということで、団地にまつわるいくつかの思い出をトークした。
 原市団地というのはとても大きな団地で、国道を挟んで、同じ規模の原市団地がもうひとつあり、ある日、友達のマサシと自分達が住んでいない方の団地に冒険をしに行ったら、同じ遊具があるけれども配置が違っていたりして、ちょっとした異世界のようで、「向こうの小石みたいのを拾って持って帰ってきた」という。
 他にもマサシとの思い出話をして終わったこの回、全体的にノスタルジックで、なーんか良かった放送だった。

 

 

 続きます。