石をつかんで潜め(Nip the Buds)

ex俺だって日藝中退したかった

又吉直樹著『火花』を読んだ。

東京60WATSが、新しいアルバム『サヨナラトーキョー』をリリースした。2010年に活動休止を宣言したので、5年の期間を空けての活動再開となる。タイトル曲の「さよなら東京」は、東京60WATSらしいメロディにのって、時の流れと、別れと、いつかの再開を歌う。
ホームページに、リリース前日には、フロントマンの大川たけしのコメントがあった。「それからひとまわり年を取って、金もコネも無くなり、締め切りには追われず、感受性は薄れ、生活は生活として成り立たせ、東京に一歩距離を置き、相変わらず斜に構えながらも前を見据えつつ生み出した音楽。」。
活動再開するというのに、「さよなら東京」と言ってしまう、世を拗ねた感じが、東京60WATSの魅力だったと思いだした。
お笑いコンビ・ピースの又吉直樹が書いた『火花』を読んだ。漫才コンビ・スパークスの徳永と、同じく漫才コンビ・あほんだらの神谷の関係を描いている。徳永は地方の祭りの営業で神谷と出会う。あほんだらの漫才を見て、神谷を師匠と仰ぐ。そして、徳永は神谷から、「俺の伝記を書いてほしい」と頼まれる。そこから、二人は、頻繁に連絡を取り、一緒の時間を過ごすようになる。
徳永が神谷と過ごした日々が描かれる中で、作中には東京のいろいろな地名が出てくる。高円寺や渋谷、吉祥寺、特に高校の頃の同級生が住んでいて、何度か旅行の拠点としていた永福町などは、その時の駅の近くや街の空気を思い出して、その記憶をなぞりながら読んだ。
そしてその友人が言うには、永福町にはAVの撮影スタジオがあったらしい。永福町の福はそういうことだったようです。
作中に、鹿谷というピン芸人のエピソードが登場する。スパークスと、あほんだらがそれぞれ観客投票の結果が四位と六位に終わった、ネタライブで、鹿谷は一位をとる。その時の鹿谷のネタは良く出来ていたとか、爆笑をさらったとかそういうものではなく、ネタを書いたフリップをめくろうとすると、糊がつきすぎていて上手くめくれず、それに本当にいらついてしまう鹿谷の事故と人間性がウけたというものだった。
その鹿谷という芸人は、そういう意味で芸人に向いていないが、そのために<大物MCに最高の玩具であることを瞬時に発見され>、テレビの世界へと飛び込み、活躍していく。
 そんな鹿谷は、<その場の全員に馬鹿にされる才能><一時も目を離せない強烈な愛嬌>を持っていると書かれている。
お笑いというのは、不思議なジャンルで、向いていないことも強力な武器となる。的を射ていない0点が、100点になることもあれば、普通のことを言っても100点となるように、全ての点数が100点になることがある。低い点数しか出せなくても、馬鹿にされる才能や強烈な愛嬌で、一気にひっくり返ることが多々ある。
この鹿谷のエピソードは印象深く、少し頁をめくるのを止めてしまった。そして、もしかしたら、才能のあるなしというものの多くは、誇大妄想か被害妄想のどちらかしかでなくて、本当はただ向いている向いていないを見極めるだけで解決する問題なのかもしれない、と思ってしまった。
徳永は、相方の結婚を機にコンビを解消し、芸人を辞めることになる。その結末自体は、現実に多くの芸人の引退や解散を見聞きしていたことなので、ともすれば凡庸で、見慣れたドラマだ。徳永はスパークスとしての最後の漫才を終えたライブのシーンのあとに、こう書かれる。
<必要がないことを長い時間をかけてやり続けることは怖いだろう?一度しかない人生において、結果が全くでないかもしれないことに挑戦するのは怖いだろう。無駄なことを排除するということは、危険を回避するということだ。臆病でも、勘違いでも、救いようのない馬鹿でもいい、リスクだらけの舞台に立ち、常識を覆すことに全力で挑める者だけが漫才師になれるのだ。それがわかっただけでもよかった。この長い月日をかけた無謀な挑戦によって、僕は自分の人生を得たのだと思う。>
又吉は、漫才師に限らず、芸人というのは職業ではなく、人生への向き合い方だとしている。だからこそ、続けている、辞めた、売れている、売れていない、そして、向いている、向いていないに関わらず、同士とする。そうした考えがあるからこそ、読者は、徳永の長く続けることができなかった、けれども、得難い様な強く輝く瞬間をいくつも、そして確かに経験したであろう漫才師としての人生は幸せだったであろうと思ったし、これからの人生も幸せであるようにと心で祈る。
逆を言えば、乱暴なことに無自覚な観客はそうすることしか出来ない。芸人が職業か生き様かというのは、一瞬でもそこに賭けた人にしか、答えられないし、答えてはいけないはずだ。
お笑いに救われたとかそういった大仰なことじゃなくていい。笑うことで、嫌なことを一瞬でも忘れることが出来たという経験を持った人全ての人に読んでほしい小説だった。