石をつかんで潜め(Nip the Buds)

ex俺だって日藝中退したかった

バナナマン設楽統の「伝えなくちゃ伝わんないんだよな。」の系譜

 NHKで放送されている『ファミリーヒストリー』という番組は、有名人をゲストに迎え、ゲストの父母、祖父母といった家族をさかのぼるという番組で、市井の人にも当たり前にあるダイナミズムさ溢れる「生」を浮き彫りにする。
 2016年12月21日に放送された『ファミリーヒストリー』は、ビートたけしをゲストに迎えていた。
 ビートたけしの幼少期、たけしの実家には両親と兄弟の他に、父方の祖母である北野うしも同居していた。うしは当時、義太夫の師匠をしていたのだが、家が狭かったこともあり、たけしや兄弟はうしが義太夫を教えている同じ部屋で勉強をせざるをえなかったため、それはそれはとてもうるさかったという。そして、実は、うしは、父の叔母にあたり、養母であったということが明かされる。
 たけしのルーツをさかのぼるために、番組で牛についての調査をすすめていくなかで、うしについての資料が東京大学の明治新聞雑誌倉庫で見つかる。花柳界などについての雑誌『別世界』の明治29年1月号には、当時の人気娘義太夫の武元八重子を特集している記事が載っている。その八重子こそが、北野うしの芸名であった。その記事によると、北野うしは阿波、現在の徳島県の、うどん粉を扱う問屋の娘として産まれ、幼少のころから義太夫にのめり込んでいき、頭角をあらわしていたという。うしの父であり、武の父方の曽祖父にあたる北野鶴蔵がやっていた商売は上々だったのだが、明治23年恐慌により、商売が傾きだしてしまう。そんな実家を助けるためにうしは上京し、義太夫として売れて、寄席に積極的に出演していたという。北野うしこそが、グレート義太夫だったのだ。
 このことを証明する資料として、明治26年9月6日の都新聞の「寄席の案内」という記事が番組で紹介されていた。それは木原店にあった木原亭という寄席にその日に出演する芸人が羅列されたもので、主役である八重子の文字とは別に、談志の文字を見つけ、思わず一時再生ボタンを押してしまった。
 談志といえば、立川談志のはずなのだが、もちろんあの立川談志ではない。ここに書かれてある談志は、おそらく、あの立川談志から二代遡る、のちに柳家太夫となる立川談志のことであろう。『古今東西 落語家事典』によると、この談志は、明治23年頃に師匠である先代の立川談志の名を継いだものの、その後、ほとんど高座にあがらなかったばかりか、何度か引退もしていたような人物で、あまり目立った活躍はしていなかったようだ。
 他の立川談志、例えば、「鎌堀りの談志」と呼ばれた談志などは、その二つ名の由来となった「郭巨の釜堀り」という所作事(マイム)を考案したことから、珍芸四天王として有名になるなどして、名跡たることをなしている。そのため、この資料に載っている談志は、立川談志という名跡のなかでは、格が落ちるような存在なのだが、例えそうだとしても、芸人ビートたけしとして関係性が深いあの立川談志に繋がっていく歴史の一つであり、そんな談志が、ビートたけしの戸籍上のルーツが百年以上も前の資料の上で重なり合ったことには、運命めいたものを感じずにはいられない。落語家が襲名というシステムを導入しているから感じることができた、いわゆる、歴史のロマンというやつだ。
 何より、当時の談志が高座にほとんど上がっていなかったという事実が確かならば、この八重子と談志が寄席で同じ日に出るということは滅多になかったことであったはずなので、そんな貴重な一日が番組の資料として現代にて紹介されたということを踏まえると、より味わい深い。
 名跡としての立川談志を調べていて笑ってしまったのが、三代目の「花咲爺の立川談志」に関してのことで、『古今東西 落語家事典』には「俳諧狂歌をよく詠み、洒落がうまく、そのおかしさは無理がなく、また談志特有のものがあったから、これを皆が談志流といった。」と書かれている反面、同じ時代を生きた柳亭小燕枝の『燕枝日記』には「このとき、談志、真打となりて、市中を打ちまわす。その権威、甚だしく、人を使うこと奴隷のごとし」という記録されているくらいに、仲間内から嫌われていたようで、この二つのエピソードいずれもが、まさに、あの立川談志を彷彿とさせるものだったことだ。
 また、同じく資料にはブラックという文字も載っている。これは快楽亭ブラックというオーストラリア生まれの外国人の落語家のことであり、初代にあたるのだが、その二代目はあの立川談志の弟子となった後、破門されたが、現在も落語家として活動している。
 そして、この木原亭というのは、時代はまた少しずれるが夏目漱石の『三四郎』で、三四郎が与次郎に連れて行ってもらった寄席であり、あの有名な「小さんは天才である。あんな芸術家は滅多に出るものじゃない。何時でも聞けると思うから安っぽい感じがして、甚だ気の毒だ。実は彼と時を同じうして生きている我々は大変な仕合せである。今から少し前に生まれても小さんは聞けない。少し後れても同様だ。」という文章はこの帰りに、与二郎が三四郎に向けたセリフである。しかし、改めて読んでみても、小さんという名前を入れ替えればいつの時代でもパロディで活用できるほどの名文であり、むしろ、僕が今こうして文章を書いているのは、この仕合せを分解するような作業でしかないという気持ちにさせられる。
 『ファミリーヒストリー』は、ときたま、ビートたけしの祖母が、たけしと同じく芸能で名を成していたというような、出演者とその先祖の人生やパブリックイメージが重なるようなエピソードが出てくることが多い。その時に、「血は争えない」という感想が思い浮かんだりするのだが、特に、2015年9月18日に放送された、バナナマン設楽統をゲストに迎えた同番組はそう感じさせられた。その中で出てきたひとつのエピソードが、まさに設楽統過ぎたのだ。
 「秩父・織物の絆 100年前の出会い」というサブタイトルがついたその回は、設楽統の祖父の代まで遡る。設楽は、自身の祖父が、織物か何かで成功した人物だということまでは家族から聞いたことはあったものの、詳しいことは知らないと話す。
設楽の出身地である埼玉県秩父市は、明治から昭和初期にかけて織物で栄えた街であった。そんな秩父の伝統工芸品のひとつである秩父銘仙という絹織物は、大正から昭和初期にかけてブームを起こし、日本全国の女性に手軽な普段着として愛されたという。その秩父銘仙に革新をもたらせたのが、設楽の祖父にあたる設楽逸三郎だったのだということが番組の調査によって発覚した。
 小さな織物屋に産まれた逸三郎は、小学校を卒業後、埼玉県入間郡にあった染織講習所に一期生として入所する。当時は、産業界に西洋化の波が押し寄せていて、日本にも化学染料が大量に輸入されるようになっていたが、業者自体がそれらの使い方を把握していないという問題が生じていたという。逸三郎が入所した染織講習所は、新技術を使いこなすために必要な、最低限の科学的、専門的知識を学ぶために建てられた学校であった。
 化学染料の導入によって、秩父銘仙はより鮮やかな色を表現することが可能となる。逸三郎は販路拡大を目指して、それらを携え全国行脚を始める。目算のとおり、逸三郎の秩父銘仙は全国へと広がっていくことになるのだが、そんな折、第一次世界大戦が勃発したことで、事態は一変してしまう。化学染料の大半の輸入元であるドイツが、日本の敵国となってしまったがために、化学染料の入手が困難となってしまったのだ。特に不足したのは、黒い染料であったという。
 そんな時、逸三郎の脳裏に、奄美大島の伝統工芸品である大島紬のことがよぎる。逸三郎は、秩父銘仙を持って全国を周っている間、各地の織物の勉強をしていたのだが、その時に知った大島紬がこのピンチを打破できるのではないかと閃き、黒の染料を求めて、奄美大島へと渡る。
 大島紬特有の光沢のある黒は、奄美大島に自生するシャリンバイという木から煮出した染料で糸を染め、その糸と奄美大島の泥に合わせることで産まれる。シャリンバイという木の幹に多く含まれるタンニンと呼ばれる成分が、泥に含まれる鉄分と反応するからだという。それは奄美大島に伝わる伝統的な方法であり、その土地に訪ねてきたばかりの逸三郎が、島の人たちにとって大事な木を簡単に譲ってもらえるわけはない。
 そんな窮地から脱出できたのは、染織講習所で得た化学知識のお陰であった。逸三郎は調査の結果、シャリンバイと同じように奄美大島に自生し、かつ、タンニンを多く含んでいながらも、雑木のような扱いであったチンギという木を見つけ、それらを貰い受けることに成功する。チンギからどのようにして黒の染料を産みだしたのかの詳細は残っていないとのことだが、逸三郎が黒の染料を探したということが記載された資料は、奄美市奄美博物館に保管されている。
 それから逸三郎は、奄美大島で黒の染料を作る工場を建て、それによって莫大な利益を得る。その後は、秩父に戻って織物工場を建て、そこでもまた成功を収める。しかし、その後、太平洋戦争が起きたことで、工場は軍需工場にされてしまう。その後、織物工場を再開することは叶わなかったという。
 ここまで、設楽家の男性は、全員、面長で唇がぼってりしているんだな、設楽のオシャレ好きは、こういった血から来ているのかなどと、暢気に思いながら番組を見ていたのだが、番組の最後で紹介された設楽の両親に関するエピソードと、設楽統のことが繋がったことで一気に感情がひっくり返った。
 設楽の父もまた、秩父の出身だったのだが、母親は福岡県久留米市だという。そんな遠く離れた地の二人がどのようにして出会い、結婚まで至ったのかということは、設楽も詳しくは知らなかったという。そして番組の調査で、この結婚もまた、織物がつないだ縁だったということが発覚する。
 設楽の母方の曽祖父の江頭良蔵は、佐賀県長崎街道沿いで染物屋を営んでいた。長崎街道とは、福岡県の小倉と、長崎県を結ぶ街道であり、明治時代はとても賑わっていたという。そのため、この道沿いは当時の一等地であり、そこに店舗をかまえているということは一種のステータスであり、商売が成功している証しでもあった。そんな江頭家の三男として産まれた江頭金一郎は、旧制中学校を卒業後に上京し、職工を指導する人材を排出する役割をもった蔵前工業学園とよばれた、東京工業大学の前身である学校へと入学する。そこで最先端の染織技術を身につけ、卒業後はその普及に努めることになる。  
 技術の指導者として最初に赴任されたのは、埼玉県の入間郡立染織講習所の初代所長兼講師となる。なんと、設楽の母方の祖父と、父方の祖父がここで繋がることになる。設楽の母方の曽祖父と父方の祖父は、染織講習所の所長と講師の教師と生徒という間柄だったのだ。
 そして、逸三郎が成功するためのヒントとなった大島紬を見つけたのは、全国を行商していたからだということは先述したが、その全国行脚をやってみるように勧めたのは、誰あろう金一郎だった。
 時は進み、金一郎は亡くなるのだが、逸三郎は遠方で行われたその葬儀に参加できなかったことを悔やんでいたという。それを気にかけて、金一郎の自宅があった福岡県久留米市までの旅行に誘ったのは、設楽の父であった。そこで出会った、金一郎の孫である一人の女の子が、設楽の母となる。その後も家族同士の付き合いは続き、そこから二人は結婚し、設楽統が誕生する。
 番組の最後に、設楽の兄が、設楽の父から母に宛てられた結婚までの二年間に送った50通以上の手紙を持ってくる。それは、今回番組で特集されることが決まって初めて、設楽の母親が大事に持っていたことが分かったもので、設楽の兄もこのような手紙があることを知らなかったという。
 その手紙には「ああ、一日も早く逢いたい。そしてまた手をつないで色々と話がしたいと思います。」「週末の夜や日曜日などデイトが出来ないのがちょっと淋しく思われますが、淋しいのは貴女も同じことと思い、我慢しています。」などと、ストレートに愛を伝える文章が綴られていた。
 結婚後も誕生日にはプレゼントと短い手紙を送り、それは病に倒れてから亡くなるまで続いたという。その頃に渡した手紙も「毎年この日を変わらぬ明るさと美しさと健康で迎えるあなたは素晴らしい女性だと思う。あなたに対する僕の気持は36年たった今も少しも変わらない。これからも仲良く倖せに過ごそうナ。」というもの。設楽の父親は、筆まめならぬラブレターまめだったのだ。
 設楽統とラブレターといえば、コアなファンは、設楽が奥さんと付き合っていた頃に、二人で交換日記をしていたというエピソードを思い出すだろう。そこには、父と同じように彼女へのストレートな愛と、当時設楽が付き人をしていたコント赤信号渡辺正行の悪口などが書かれていたのだが、さすがに、この程度の繋がりだけで驚いたわけではない。
 百年も遡る織物が紡いだ縁が、バナナマンの、しかも一、二を争うほどに好きなコントにまで繋がったことに驚いたのだ。
 それはどういうことか。
 バナナマンが毎年行っている単独ライブにはひとつのお約束がある。それは、最後のコントは、30分ほどの長尺のものだということだ。その多くは恋心を題材に用いており、笑いを重ねながらも最後には少し良い話だったりしんみりとしたオチに向かったりするもので、まさに、単独ライブが開かれる夏の終りのあの感じを思わせるものとなっている。
 大学一年生のころ、初めてバナナマンの『pepokabocha』という単独ライブのDVDを見た時、散々笑わせられた後に、笑い以外の感情でライブを閉めるというこの構成に度肝を抜かれ、一撃で虜になった。大袈裟ではなく、これはお笑いを見た感情なのか、という余韻が凄まじかった。それはちょうど、バナナマンがテレビに進出する少し前で、だからこそ、それから始まる快進撃を、その前夜から見ることが出来たというのも今もなお、追いかけているほどに思い入れが深いコンビとなった理由だ。そして、異常に「リアルなコント」と「コントにおけるリアリティ」を気にしてしまうという呪いをかけられた。このいささか厄介な呪いを、こっそりと「ペポカボチャ」の呪いと呼んでいる。
 『pepokabocha』に収録されている「思い出の価値」はいわずもがな、二人で四役を演じる「恋人岬(『monkey time』所収)」、「Fraud in Phuket(『Elephant pure』所収)」も、初めて見た時、相当衝撃を受けた。
 2006年の単独ライブ『kurukuru bird』の最後のコント『LAZY』はバナナマン爆売れ前夜の時期にあたる初期のコント群の中で、一、二を争うくらいに好きなコントだ。
 コントのタイトルになっている「LAZY」は、「怠けている」「無精な」という意味で、コントの中では、ずるずるに引き延ばす「ずるっずる」という意味で使われている。
 段ボールが散乱している部屋に男が二人。会話をしばらく聞いていると、設楽と日村の二人は友達でありルームメイトなのだが、設楽は、日村の妹と結婚するので引っ越しをしなければならないという状況が分かってくる。その設定を分からせるまでにおよそ6分半という時間をかける丁寧さにも舌を巻いてしまうが、それからも、リアルな会話のやりとりで笑いを重ねて行く。そして、設楽は日村に日村の妹と結婚することも直前に報告したというくらい生活面でずるっずるで、前半はこのタイトルは設楽にかかっているのかとおもわせておいて、コントが進むにつれ、日村は恋愛に対してずるっずるだということが分かっていく構成になっている。
 日村は、二年前によく設楽と自分の妹と四人で一緒に遊んでいたひとりの女性のことが好きだったのだが、それと同時に、その女性は、設楽のことが好きだと勘違いをしていた。そのために気持ちをずっと押し殺していた。勘違いが解けてもなお、今さら連絡は出来ないとずるずるの日村に、設楽は「言いたいことは言うの。伝えたいことがあったら伝えるの。人間な。ちゃんと言葉で伝えなかったら、伝わんねえことなんて山ほどあんだよ。だからこうやって思ってることなんてくみ取ってくれねえことなんてあんだぜ。本当のことを知りたかったら、自分で電話して聞け。」と発破をかける。そこからまたコントは展開を見せ、ハッピーエンドへと向かう。
 日村は最後に、設楽に向かって「自分の気持ちってのはちゃんとこう伝えなくちゃ伝わんないんだよな。」と言う。
 この「伝えなくちゃ伝わんない」こそが、バナナマンの初期のコント群には確実に流れているテーマであることは知っていたのだが、それがまさか、設楽の両親の結婚と繋がるとは夢にも思わなかった。
 伝えることで話が転回し、大団円へと向かっていくこのコントと、両親の間で交わされていたラブレターを結び付けるのは、ファンの欲目であり、深読みなのかもしれないが、やはり、世代をまたいだテーマとして浮かび上がってきたという事実をどうしたって無視できず、感動してしまったのである。