石をつかんで潜め(Nip the Buds)

ex俺だって日藝中退したかった

ニシダ更正プログラムの感想

 ラランドニシダ更正プログラムを見ました。ラランドのYouTubeチャンネルに突如としてドロップされた動画、ラランドの動向を全く追っていないにも関わらず、何か強烈な匂いを感じて、視聴しました。一時間程度のこの動画は「ニシダの怠慢に対して、我慢の限界を迎えたサーヤとマネージャーが、身内ではなく、他の仕事で関わった人たちがニシダに対してどう思っているかをニシダに見せたい」ということで、ラジオやテレビのスタッフや、構成作家にニシダに言っていないことを聞いていき、それをニシダに見せるというもので、見る人にとってはなかなかヘビーなものになっただろうことは想像に難くない。

 しかし個人的にはあんまり刺さらなかった。それは社会人として十年以上働いてきているので、そこらへんの悩みなどは既に超えてきているものだし、多かれ少なかれニシダ的な人を切ってきたし、自分の心の中にニシダがいたとしてもどんどん葬ってきたので、明らかに自分は証言者側の立場になっているということに一抹の寂しさを感じつつも、どうにも他人事にしか映らなかった。厳密に言えば、自分の実生活での仕事場での立ち位置や、すべきこと、気をつけることなどから見ると、提示されたものが距離感が半端であり、どうしても自分のこととは思えない。もう少し歳を重ねれば、そういう時期もあったけど、それはこういうことをすればさあ、という感じで向き合えるけれども、まだそこにはいないので、その方向から見ることは出来なかった。

 加えて誤用のほうの穿った見方をすれば、登場人物誰一人、損をしていない。サーヤとマネージャーは自分達の窮状を訴えることが出来、ニシダは改心する場を与えられ、南海キャンディーズの山里は優しい先輩であることを見せることが出来たうえに貸しを作っている。

 そんな中で、やっぱり特筆すべきは、見たことないノブロックの証言パートだけは、ガチだった。一部の視聴者やラジオリスナーは、ノブロックのことを、エンタメ紹介ガッハッハおじさんとして軽く舐めているということがあると思うが、ここに登場してコメントしていたのは、完全に、業界でやり手であり、敏腕辣腕のビジネスマンの元テレビ東京のプロデューサーの佐久間宣行氏であった。

 今まで見たことない、ノブロックにちょっと痺れてしまった。あまりにも見抜きすぎていて、それを引き摺り出しただけでもこの動画を見る価値があったと思っている。

 セックスすることをファックするというでお馴染みの売れっ子構成作家の白武ときおの「失敗してもいい場でしか会わない」「みんなで沈んで行こうよっていう面白がり方をする現場だったら良いですよ。そうじゃない現場がほとんどだと思うので、そういう場所には一切名前を出さない」と共通していた「youtubeとかには出てもらったりしている。勝負の番組というか、『あちこちオードリー』の最初の方の、まだ番組をしっかりさせる時とか、『トークサバイバー』とか自分的に勝負だなと思っているものには、基本サーヤだけ」を初めとして、「気持ちの持っていき方がすごい下手で、すぐいっぱいいっぱいになっちゃうんだよね。いっぱいいっぱいになると、安いボケとか、あとは自分が怪我しないようにするとか逆張りとか、冷静な判断がすごい出来なくなって、ちゃんとした趣旨を守れない」「アウェーの場所に圧倒的に弱い」「局面が不利になるとアップアップしちゃうというのがあって、メンタルが弱いんだよね」というリアルな指摘をバシバシ出してくる。ひいては、「五年後くらい、三十の半ばとかになった時に、もう一段ロケットがあったほうが芸人っていけるから。コンビって両方から作れると色んな企画が降ってくる」「ワントップでメインボケがしっかりしたままでいけないといけなくなると、いつか何かあるよ」とラランドの未来についても見据えた話をする。ただのエンタメ紹介ガッハッハ娘のお弁当作りおじさんではない姿がそこにはあった。

 「本当はサーヤはふざけた方がいいから。ニシダが回し出来るようになれば、サーヤがもっとふざけられて、ラランドとして受けられる仕事がどんどん増える」「本当はサーヤがちゃんとしない方がラランドは良いんだよね。サーヤを自由にボケて良い立場に、ニシダがしてあげられると、ラランドはもっと上にいける」という評価については、ラランドの、漫才と平場での役割が乖離しているという問題点の指摘にもなっている。

 ラランドの漫才は、サーヤの軽さが楽しく、お手軽な漫才ではあるものの、このボケの人、めっちゃふざけているけれど、普段はちゃんとした人なんでしょ、しっかりした人なんでしょということが付きまとい、サーヤとニシダそれぞれの、漫才と平場での役割やパブリックなイメージに乖離が生じている、いわゆる、藝柄(ニン)に合っていないという状態に陥っている。この捩れが故に、お手軽な漫才で止まってしまっていると個人的には思う。この乖離を埋めるためには、個々の人間性とコンビの関係性を見直し、ネタに落とし込むという、漫才のフォーマットをガラッと変えなければいけないのだけれど、この再構築の作業はあまりに労力を要するので、今のままではそれは難しいだろう。ただし、ニシダがちゃんとしてサーヤに仕事的な余裕ができることで取り組める可能性は出てくる。

 ニシダの一番の不幸は、早く世に出てしまったところにあるのかもしれない。

 そもそも、芸人なんて笑って楽して過ごしていきたいという怠惰な人間の集まりだと思っているので、そういう連中が10年程度かけて、一般的な人間であれば新卒から数年で取得するような社会的な信用を取得していくはずなのに、早く知られて仕事を振られるようになってしまったがために、そのプロセスを本来であればライブなどで経るはずが、大人数が関わるようなメディア仕事で経なければならないという、すっ飛ばしが生じている。仕事の場にいる人たちが、少なくとも敵ではないということは、ライブなどで知っていくしかない。

 「幽☆遊☆白書」でいうところの、ゲームマスター天沼みたいに「なんだ、みんな一緒なんだ」と気づくしかないし、「が故に、自分は自分のやり方で頑張り生きていくしかないので、自らの弱点を洗い出して潰していくしか、自らの立ち位置を構築していくしかない」と続けていくしかない。少なくとも、自分はそうマインドセットしてきた。マインドセットって初めて聞いたけど、マインドをセットしてきた訳だから、マインドセットしてきたんでしょう。マインドセッターですよ。昨年度末に、上長から事前の調べが甘いので、それをする癖が出来るようになったら伸びると言われたので、それを強く意識していますし、本当にそんなことの積み重ねでしかない。どうも、レモンジャムの面々はそのステップを飛ばそうとしていないかと思ってしまう。

 そもそもが芸人というのが、生来の怠け者であるという認識にあるので、ニシダを急いで更正させる必要なんてあるのだろうか。

 例えば、オードリーの若林は、20代のことを振り返るときに二度と戻りたくないとし、そのエピソードの一つとして、当時の恋人の誕生日にお金がなくて恥ずかしい思いをしたことを話すが、冷静に考えて正論を押し付けるのであれば、恋人の誕生日なんて、言ってみれば何ヶ月も日程が決まっているのであり、少し前からそこに目掛けて、バイトを増やせばいいだけの話である。それをしなかったのは単にめんどくさいの方が勝ったからだろう。これは良い悪いの話ではな く、芸人、というか、そういった性質の人は少なくないという話である。

 ニシダがちゃんとしていて、それって芸人のコンビとして面白いかって話で、これで二人ともちゃんとそれぞれの仕事をこなしてたら、あまりに洒落臭くなんねえか、与太郎が出る落語やんないですみたいな話じゃねえか、ということにもなるので、そういう意味でこのプログラムは失敗した方が絶対に面白い。レモンジャムにとっては切実な問題なのかもしれないが、そもそも、インタビューを見る限りでは、ニシダに、ちゃんとしてほしい以外の芸人像を描いている以上のことが伝わってこないがまあそれは別の話だろう。

 さて、個人的な話に移るが、先日、「子供やないねんから」案件があった。職場の後輩に子供が生まれ、職場以外でも遊び、コロナ禍においても飲みに行くくらいには関係性が良好な友人とも言える人なので、同じくらいの関係性の人たち3人に、些少ながらのお祝儀を集めることを提案した。人の五倍、パワーハラスメントにならないように気をつけることを心がけているので、「そのメンバーには、後輩というあなたより弱い立場はいるんじゃないですか、些少っていくらですか、一万円とかだったら、それはもうパワハラですよね、断れない立場にいるんですから。そもそも、子供が生まれたときに渡すお金をお祝儀ということから見直さないといけないのではないんじゃないでしょうか。反出生主義者の皆さんに配慮しないといけませんよね」とか正論言う僕への配慮が欠けたアップデーターの顔が脳内でチラついたので、金額を3000円を一口とし、僕に直接渡さなくてもいいように「ご自身で渡したい方はその旨、一報ください」と付け加えることで、僕に渡さなくても、「こいつあんなに関係性あるのにお金をケチってるな」と思われないで済む予防線まで貼って、さらに締切を設定し、メールを送った。それでも、お祝儀をあげるメンバーに後輩を入れたことのみを持ってパワハラとか言われたら、もう普通に俺はペットボトルを投げるよ。

 それから、次の日に、一人からはお祝儀を預かったものの、後輩二人からは特にメールへの返信もなかった。一週間後に、リマインドのメールを送信。すると、もう一人からは返信が届き、その日で受け取ることができた。問題はもう一人で、リマインドのメールには「来週持っていきます」と返事が来たので、一週間待っていたのだけれど、特に連絡がなかった。そこでもう一週間だけ待って、その週にも連絡が無かったので、三人でのお祝儀として渡してきた。

 その渡した二日後に、お祝儀をもらえていなかった後輩から、もう渡しましたか、という連絡が来たので、もう渡したことだけを伝えて、話は終わった。

 これ、僕は、もう一回、渡す前に連絡すべきだったのかずっと悩んでいる。遠くはない少し別の場所で働いているとはいえ、ちょっとこっちを待たせすぎだなと思ったので、連絡をしなかったのだけれど、音頭を取ったのであれば、その責任を果たすべきなのが軽やかな上手いやり方だったなと思う。さらに言語化すれば、それをすることで、この後輩に、期待するし、期待をすれば裏切られたときに根に持つことになるしというそれを考えることが面倒くさくなったと言うのもある。おそらく、少し前ならもう一度メールを送ったりしていたけれど、その代わりに、何かしらの嫌味や説教のようなことも言ってような気もする。

 今は個人的に、他者に甘えないということを意識して心がけているので、そういう選択をしたのだけれど、それが当たっていたのか間違っていたのかは分からずにいる。僕は先生でもないし、相手は子供でもないので、そこまでする必要はない、と判断した。南海キャンディースの山里のように、視聴者の視線を意識して負け顔を見せつつ、自分の弱さを曝け出していて、うまく宥めて、みたいなことが出来る先輩にはなれない。

  がしかし、うっすらと、ああこうやって、関係性を希薄にする努力をすることで、縁が切れていくんだろうなと考えてもいた。

 ここで、ニシダ更正プログラムに話を戻すと、「勝負の場に呼ばない」と言うのは、悪い考えではないな、とも受け取れると言うことに気がついた。ある種、芸人や番組プロデューサー、構成作家といった、実力でのみ生きていく世界においてでも切り捨てることはせず、泥舟が沈でもよし、という縁を切ることをしないというのは、ほんと、お笑いの世界というのは、どこまでも歪な優しさを持った世界だなと噛み締めたと同時に、自らの考えを恥ずかしく思えた。

 佐久間の「やっぱリスクを取らないといけない場所は、今のところあんまり向いていないから、俺は出来れば伸び伸やらせようって。リスクがない場所で。競走馬じゃあない。放牧、みたいなスタイルだったら上手くいく。」という言葉はなるほどなあという感じだ。

   ニシダが更正しないほうが、お笑いファンとしては十年後に楽しめる可能性が高いのでどっちでも良いのだけれど、ノブロックガチ仕様については、かなり良いものを見れた感があった。