石をつかんで潜め(Nip the Buds)

ex俺だって日藝中退したかった

重要な夢の競演のお知らせ。

どうも、こんばんは。
それはともかく、アイドルファンは重要なお知らせという言葉を、お笑いファンは夢の共演という言葉に苦い思い出を持つといいますが、当ブログより重要な夢の競演のお知らせがあります。
「俺だって日藝中退したかった」というブログをしばらく書いていたのですが、特に、コラムの執筆依頼が来ることもなく、売れる気配がないので、本にして売ることにしました。いわゆる、同人誌ですね。

ラインナップは


(1)君は『Qさま!!』での吉木りさを目撃したか。
(2)「2013年のラジオたち、これからすごいことになるぜ」
(3)中国人の罠にひっかかった話と、お金の話。
(4)『泣くな、はらちゃん』は一話が100点
(5)深夜に届いたラブレター
(6)ここは忙しいけど、迎えに行くぜ。
(7)妻の名は希望
(8)『超落語!立川談笑落語全集』は悪書である。
(9)頭をデザインする番組『考えるカラス
(10)伊集院光の「同窓会に行った話」
(11)コサキンが『ウチくる!?』DEワァオ!
(12)3本の漫才
(13)アルピーだって決勝行きたかった。
(14)『ダイノジ大谷のANNR』〜ぼくがブロガーになった理由〜
(15)お笑い界のPerfumeを見に行ったら、ももクロに会えた。
(16)種市死ね
(17)いつも心に加藤浩次を。
(18)ボクらの想像力の時代
(19)テレビを体感する番組『リアル脱出ゲームTV』
(20)政見放送かと思ったら、長井秀和の漫談でした。
(21)僕達は「恋するフォーチュンクッキー」が名曲だということと、指原莉乃のアイドルとしての正しさを混同すべきではない。
(22)くりぃむしちゅー上田の天下取り宣言
(23)『安堂ロイド』は電波豚ブーブくんの夢を見るか
(24)古美門研介の捲土重来を期せよ。
(25)グランジ遠山の、見る前に跳べの精神
(26)深夜ラジオ流行語大賞13&ベストラジオ13
(27)死にたい死にたいって言いながら生きていくからな、ずっと。
(28)異形のコント師日本エレキテル連合
(29)それぞれの「実存のゼロ地点」
(30)小説を応用するために、筒井康隆『創作の極意と掟』を読もう。
(31)JAPANESE PARTYバスツアー日誌『愛の渦』
(32)三四郎の、オルタナ漫才絶対頑張ります!
(33)スポットライトの中に立っていてね。
(34)「愛は愛でいつかどこかにたどり着くさ」


以上の34本です。
全部で10万字くらいあります。元記事は、ブログの中にありますが、かなりの加筆修正を加えました。自分でいうのもなんですが、かなり読み応えはあると思います。ほとんどが、上記のタイトルで、このブログに散らばっているので、気になる方は、読んでみてください。もし面白いと感じてもらえれば、今回の本は満足してもらえると思います。2011年から2014年上半期までのテレビラジオの感想と、年齢分の業を詰め込みました。
よろしくお願いします。


☆『俺だって日藝中退したかった』通信販売の流れ

①直接購入
※個人的な事情により、沖縄県にお住まいの方は、②をご利用ください。

(1)以下の必要事項を記入しmugen.channel.boxアットgmail.comまで送信して下さい。

名前:
住所:(クロネコヤマトの各事業所止というサービスもあるので、そちらを利用されたい方は、最寄の事業所の住所をご記載ください)
購入冊数:(1冊:820円)


(2)注文メールを確認後、不備がない方には、お支払い合計金額と支払い口座番号をご返信します。遅くても翌日には案内のメールをお送りしますので、届かない場合は、こちら側のメールが上手く送信出来ていないか、Gmailが弾かれている可能性もあります。
お手数ですが、再度の注文のメールをお送りするか、PCからのメールも受信できるように設定をしなおしてください。
1週間以内に入金して頂けると助かります。過ぎてしまう場合は、その旨を添えててもらうか、再度のメールを送信してもらえるとまたまた助かります。

例えば、一冊ご購入の方は、820円と送料180円の計1,000円のお支払となります。

(3)入金確認後、『俺だって日藝中退したかった』をスマートレター(郵便)にて発送します。


②BOOTHでの購入

(1)下記サイトをご確認ください。送料の分、直接購入より高くなっています。また、送り主にも住所が分からないようになっております。

memushiri.booth.pm



ツイッターやっています。
https://twitter.com/memushiri

サンプルです。

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空気階段第三回単独ライブ「baby」感想

 とあるライブで、空気階段の水川かたまりが好きなコントのひとつに、かもめんたるの「敬虔な経験」をあげ、衝撃を受けすぎて見返せていないほどだと言っていたという情報を目にした。
 「敬虔な経験」とは、かもめんたるが『キングオブコント2013』で優勝する直前の夏に開かれた単独ライブ『メマトイとユスリカ』のラストを飾るネタで、そのオチは、コントではなかなか味わえないような壮大なものとなっているのだが、これを単体で見ても、かたまりが何故そこまで衝撃を受けたのかということは分からない。というのも、『メマトイとユスリカ』で披露されたネタは、ひとつひとつがつながっており、帰結する先がこのコントであるため、単独ライブ全体を通してからでないとその凄さが分からない仕組みとなっているからだ。
 「最後につながる」という甘美な響きを持つその言葉は芸人の単独ライブを評する言葉として稀に出てくるが、それらの多くは、実は、最後のネタでそれまでに出てきた事柄を出してくるだけというような、小ネタや余技的な側面が強く、本質的な意味でつながっているとは言い難いところがある。かといって、あまりに緻密なパズルのように組み立てられてしまうと、それもまた技術のひけらかしとなっていやらしくなるばかりか、登場人物がそのストーリーのために動いているように見えてしまうためにリアリティが損なわれてしまうから、その塩梅はとても難しい。
 しかし、『メマトイとユスリカ』は、連作小説のように、一つのコントで登場人物の自然な言動が原因となって、また別のコントで結果として登場するというような因果関係を成立させていることで、ネタのそれぞれが有機的に接続し、文学性を帯びる域にまで到達している。
 もちろん、その年に実際に優勝する『キングオブコント』でかけられた「言葉売り」がネタのひとつにあるように、笑いの質の高さを保ったままにこのことを成し遂げているから凄いのである。
 オープニングコントから、ラストコントの『敬虔な経験』までを突き進むことによって得られる物語としての強度は、『スローターハウス5』や『タイタンの妖女』といったカート・ヴォネガットSF小説を想起せずにはいられない*1ほどのものとなっている。
 この単独ライブが、それほどまでの高みに到達しているのは、岩崎う大と槙尾ユウスケ二人のコント師としての力量が、岩崎の作家性*2を担保し、日本のコントでは珍しいほどに陰湿な空気をまとわせる*3ことに成功させているからこそであって、『メマトイとユスリカ』の完成度に比肩することは容易ではない。
 そう、思っていた。
 先日見てきた空気階段の第3回単独ライブ『baby』は、もともとは2019年の5月6日に一回だけの公演として開催されたものであったが、内容が好評だったことで同年10月14日に再演されることが決定、その再演のほうを見てきました。単独ライブを再演するということ自体がほとんど聞いたことのないほどに珍しいことなのでそれほどに完成度が高いのだろうということは予想出来たが、まさしく最高な単独ライブ*4だった。
 オープニングコントの舞台は分娩室。上手に立っている水川かたまり演じる男が出産に立ち会っているシーンから始まる。そして、下手に照明が当たって表れたのは、薄いピンク色の全身タイツに身を包んで胎児に扮した鈴木もぐら。
 出産に立ち会っている男のあたふたとした様子と、子宮からの出方が分からないけれどもどこか緊張感のない胎児との対照的な様子を描いたコントは、真ん中に置かれた子宮をモチーフにしたスリットから胎児が出てきて、男が女の子のお父さんになることで終わる。そこで一度暗転し、舞台上のスクリーンに映し出されたオープニング映像は、赤ちゃんの両手が画面の下側にあるそのカメラの視点は、赤ちゃんが部屋の中をハイハイしているよう様子を思わせるように移動する。その家の中で、かたまりは植物に水をやり、もぐらはベッドで寝ているというそれぞれの生活をしているところで、名前が画面にクレジットされるというそれは『夢で逢えたら』のOP映像を彷彿とさせる「日常」っぽいとても最高なもので、本格的に、「単独が始まったぞ!」とより高ぶる。
 単独ライブといえば、ネタとネタをつなぐ幕間映像もお楽しみの一つだが、それらは、コントに関係するものでも、関係ない独立したコーナーや企画の映像でも、それ自体がきちんと面白いものになっていれば嬉しいものだ。しかし、空気階段の単独ライブ『baby』には、そんな幕間映像がなかった。
 では空気階段の二人が舞台上からはけて着替えている間や、セットチェンジの時間はどうやって間を持たせていたのかと、もぐらの仮面を着けた人たちが黒子となって、終わったコントの小道具で遊ぶというくすくすと笑える寸劇をしながら、舞台を片付けていたのである。
 初単独ライブ『mosaique』からやっているこの演出は、世界観を全く壊すことのないままに、観客を楽しませるもので、爆笑問題が所属する事務所であるタイタンの事務所ライブ「タイタンライブ」での、ネタの前にこれから出てくる芸人のイメージにそった小説の一節をスクリーンに映すエピグラフに匹敵するほどの発明ともいえる。
 二本目のコント「みどり屋」は、駄菓子屋のベンチに座り、駄菓子を買いに来た子供と駄菓子屋のおじさんの「代金は30万円ね」「はい、おつりの70万円」といった昔なつかしいやり取りを見ている男。遠藤というその男は、西武ライオンズに入団するも一軍のマウンドに立つことがないまま、肘を壊して引退してしまった元プロ野球選手であり、何もすることのない今、地元に帰ってきているのであった。遠藤が子供の頃から通っていたこのみどり屋もそろそろ店じまいをするという。遠藤は、駄菓子屋のおじさんに、店をつがせてくれよとお願いし、おじさんは了承する。
 夢に破れた若者の新たなスタートを描いたいい話かと思いきや、店主は契約書を出してサインをさせたり、遠藤がこれまでのように気軽に話しかけると、「口のきき方に気をつけろよ」と低いトーンで返したりと、明らかにさっきまでとは様子が変わっている。そんな店主から、驚きの駄菓子屋にまつわる真実が明かされる。
 全国にある駄菓子屋は、1962年に開催されることが決まった東京オリンピックで日本の選手を活躍させるために、子供の頃から運動能力を飛躍させるための薬を駄菓子に塗って摂取させるための国の機関であったという、ブラックな展開になっていく。
 戸惑いを隠せない遠藤に淡々と引き継ぎをしているおじさんのところに、たまたま厚生労働省から電話がかかってくる。ぺこぺことした対応で厚生省の役人と話しているおじさんの受話器を奪い、遠藤は、こんな子供達にドーピングをさせていることは許せない、このことを世間にばらしてやると受話器に向かって叫び、電話を切る。おじさんは驚き焦りながらも、子供の頃から見てきた遠藤のことを思ってか、今すぐにでも逃げるようにうながす。結局遠藤は、駄菓子屋を飛びだしていく。そして遠藤が遠くに言ったのを見計らって、厚生省に電話をかけたおじさんは、遠藤の行く先を伝えるという、ぞわっとするオチになっていた。
 「特急うみかぜ 東京行19:55発」は、ミュージシャンになるために高校卒業と同時に上京するアキラという男と、そのことを知らされていなかったので怒っている同級生の女性の今井さんとの駅のホームで繰り広げられる淡い恋物語を、今井さんに一目ぼれしてしまった駅員が、執拗にかつリズミカルに二人の恋の始まる瞬間を邪魔するという軽快なコントだ。このコントでの、男が今井さんに告白するシーンは、『空気階段の踊り場』リスナーなら、かたまり演じる男が女性に向かって告白する姿からは「かたまり号泣プロポーズ事件」を連想しただろう。
 常識の埒外にいる存在を演じることに説得力があり巧みなのがもぐらなら、かたまりは常軌を逸する存在を演らせたら上手くて味があってたまらないのだが、その良さを存分に味わえるのが続く「14才」だ。
 いつもテストで満点を取るような優等生のかたまり演じる中学生男子が、怒った様子で、職員室に入ってきて、なんでこの解答がバツなのかと教師を問い詰める。教師がとあるコンクールで見かけた詩に感銘を受けて作った問題で、中学生男子は不正回となってしまったのだが、実はこの詩の作者は自分であり、表現者になれていないから国語教師になった凡人が勝手に解釈してあまつさえ作者の自分の答えを不正解にすることは、この詩に対しての愚弄であるということで怒っているわけである。
 国語教師が感動するほどに綺麗な詩が、実は勃起を表現していたというような純然たる下ネタを連発するコントだった。かたまりは相変わらず、下ネタのブレーキがぶっ壊れている。
 「みえーる君・改β」は、宅急便の配達員が荷物の届け先のチャイム音を何度鳴らしても家主が出てこない。おそるおそるドアを開けて中を確かめてみると、家主らしき男が鉄球を回転させている機械の前で、家主が叫んでは気絶を繰り返している。そして舞台上のスクリーンには、誰かが万馬券を当てた瞬間の映像が映し出される。
 家主に話を聞くと、この機械は、自分が開発したもので、回転している機械に頭を近付けたら、一歩間違えると死んでしまうのでどうしても死を意識してしまう、そんな恐怖から、走馬灯を見ることができるものだという。「なんでそんなものを作ったのか」「生きてても楽しくねえからだよ」というやり取りは地味だがたまらない。
 コントのシステムが明かされてからは、大喜利的に笑いを積み重ねていく。最初は万馬券を当てたときのような当たりの走馬灯を見ることが出来ていたものの、一輪車に乗った男が転んだ姿や、万馬券を当てた時の走馬灯とスタートは同じでもうんこを漏らしてしまった時のものだったなどの外れの走馬灯ばかり見てしまう。当たりを引こうと何度も機械の前に頭を近付けるも、やたらと一輪車のおじさんのあらゆる場面を見てしまう始末。オチは、機械を使った配達員の走馬灯にも、一輪車のおじさんが出てきたというもの。
 「関健〜夏祭乱舞編〜」は、『mosaique』から登場しているキャラクター関健(せき けん)のコントだ。かたまり演じる夏祭りで友達とはぐれてしまった男の子が、現代社会のことをあまり知らないソルジャーの関と出会ってから育まれた友情と騒動を描いたハートフルなコントだ。
 「ハッピー」は、もぐらのモノマネのレパートリーのひとつである渡辺篤史が出てくるコント。もぐらが演じる渡辺篤史は『建もの探訪』で立派な建物を見続ける中で感覚が麻痺してきてしまったので、フラットな気持ちに戻すために、夜な夜なカメラを回さず完全プライベートでボロい家に忍び込んでは『建もの探訪』をしているという設定だ。
 空気階段は、もぐらが渡辺篤史のモノマネが出来ることを良いことに、渡辺篤史をひどいキャラクターに仕立て上げるコントを作り続けているので、いつか裁判になった時は、面白いので許してくださいということで情状酌量を訴えるために証人台に立とうと思います。その時は、みーちゃんステッカーをください。
 ラストのコント「baby」は、海でタバコを吸いながらぼーっとしている青年が、落ちている貝殻を拾って耳に当てては、「クズか」とがっかりして投げ捨てたり、喜んでは拾っているおじさんに出会うところから始まる。
 おじさんと目が合い、タバコをせがまれるも、青年は、「きらしてて」と断る。そんな話の流れから、青年は、おじさんに、さっきから何をしているのかと尋ねると、ここの浜辺に打ち上がる貝殻の中には、声を録音する性質のものがあり、それを集めているという。そう言われて、青年が貝殻を耳に当てると確かに、様々な音声が聞こえてくる。じゃあ、何で集めているのかとまた尋ねてみると、これは厚労省管轄の公務で、クズだと捨てていた貝は会話が中途半端に途切れているもの、最後まで会話が収まっているものだけが厚労省に引き取ってもらうんだ、厚労省の仕事をしているから、俺は公務員だな、と話す。
 そんなやり取りや、本当は持っていたタバコを渡したりしたことで、青年はおじさんに気を許したのか、自分が浜辺に来ている理由を打ち明ける。これから妻が出産を控えていて、人の親になる予定なのだけれど、両親ともに子供の頃に亡くなっているので、親から受けた愛情というものがわからない、そんな自分がこれから先産まれてくる子供の親をやれるのか、愛を与えることが出来るのか自信がないので、昔からよく来ていたここで色々と考えていたのだ、とそう話す。そんな青年を励ますために、おじさんは、笑えるやりとりが録音されているというお気に入りの貝を貸す。
 青年が渡された貝を耳に当ててみると、そこから流れてきた音声は、夫婦が浜辺で赤ちゃんに話しかけているところに、一輪車を持ったおじさんがやってきて、その秋田犬の赤ちゃんだと間違われるというものだった。それは、青年が配達員の仕事をしている時に、走馬灯が見える機械で見た、記憶に残っていなかった体験としてみた走馬灯の映像と同じものだった。
「今日のお昼はステーキ食べようか」
「まだ歯が生えてないから食べられないよ」
 青年は、そんな他愛もないやりとりだけではなく、「どんな子になるんだろうね」といった自分の未来に希望を抱いてくれていることが分かる両親からのいくつかの言葉を、20年以上の時を経て自分も親になるというその前に、貝殻を通して初めて耳にすることで、親にまつわる記憶が全く無い自分も、赤ちゃんのころに親からの愛を一身に受けていたことを知る。
 おじさんは青年が遠くに投げたタバコを取りに行ったので、舞台上には体育座りをして貝殻を耳にあてている青年だけ。青年が貝殻を耳にあてたところから照明は暗くなり、舞台の真ん中でひとり貝に耳を当てている青年を演じるかたまり。 

 観客は、このラストコントの途中から、コントの中に散りばめられた情報で、貝を拾っているおじさんが西武ライオンズに入団するも二軍のまま肘を壊して引退してしまった遠藤であり、浜辺でタバコを吸っていた青年がアキラであるということに気付き始める。そして見終わることで、これまでに見てきた全てのコントがひとつの物語となる。
 海辺で妻の出産を控えて物思いにふけっていたアキラという名の青年は、赤ちゃんのころに両親と一緒に来ていた海で関健と初めて出会う。その後に両親を事故で亡くしてしまったために児童養護施設で生活をするようになった小学生のときに友達と行った夏祭りで、関健と再会を果たす。高校を卒業すると同時にミュージシャンになるために上京するその日に、駅のホームで告白した同級生の今井さんと付き合うこととなって、一緒に東京に出る。東京で夢を追いながら配達員のバイトをするも夢に破れて地元に戻ってくる。そして、今井さんに浜辺でプロポーズをして結婚。そして、女の子の父親になる。
 かもめんたるの『メマトイとユスリカ』は、最終的には、一匹の犬が、宇宙人に翻弄される数奇な運命を辿る物語であることが分かる。
飼い主と楽しく平和に暮らしていた一匹の犬が、散歩の途中で宇宙人にさらわれ、人間の形に改造され、タイムトラベラーにさらわれて三十年前に飛ばされ、飼い犬だったころの記憶にもとづく癖を残しながらも、一人の男の子を小説家に、一人の女性を億万長者にさせながら、最終的には一本の木になる。
そして、喋ることが出来なくなってしまう最後の最後に、「誰のことも恨んでいないのか」と尋ねられるも「俺は誰にも経験できないことを経験したんだ」と、自らの運命に起きた全てを受け入れる。
 水川かたまりが、『キングオブコント2019』でかけた「タクシー」のように緻密な構造を持つコントを書けることは知らないわけではなかったが、自身の「ラジオでの号泣プロポーズ事件」と、もぐらが結婚し子供が産まれたという、空気階段における二大事件をコントというフォーマットにきちんと落とし込み、ひとりの男性の人生を組み立てたその作家としての手腕は見事というほかない。
 好きなコントの条件の一つに、ある人たちの人生の一瞬を切り取ったらコントになったと言うものがある。フィクションの中の登場人物たちにもそれぞれの人生があり、必ずしも作者のために彼ら彼女らの生活があるわけではないという、やや潔癖症めいたコント感であるということを自覚はしているものの、それでもそんなコントを贔屓せずにはいられない。
 「baby」で演じられた8本のコントは、まさに、アキラと遠藤の人生の一部を切り取ったらコントになったという、一番好きなやつでした。

*1:一度、ライブの後にう大さんと話せる機会があり、勇気を出してこのことについて聞いてみたところ、『タイタンの妖女』を読んだくらいでそこまでの影響下にはないような話をしてくれた。う大さんの書くものについては、運命のメタファーのような人知を超えたものの存在がよく出てくるがそれは壮大な感じが出るからということらしい。

*2:う大さんが面白いネタを書けるというだけでなく、90分から120分という演劇を何本も書いて成立させているという長距離の筋肉もあることからもそれは分かる。それはアルコ&ピースの平子にコントカルト教の長と言われるゆえんでもある。ちなみに、コントカルト教の他のメンバーには日本エレキテル連合などがいると思われる。

*3:日本人はいじめなどが大好きで陰湿なはずなのに、陰湿な笑いのまま天下を取ったのコント55号まで遡るんじゃないかという仮説。そのフォロワーが初期の爆笑問題の「進路指導」などのコントで、そこから完全に途絶えていたところに、かもめんたるが登場したのではないか。かもめんたるの「冗談どんぶり」や「蛇」などは陰湿そのものである。

*4:演目は、オープニングコント、みどり屋、特急うみかぜ 東京行19:55発、14歳、みえーる君・改β、関健~夏祭乱舞編~、ハッピー、baby。初演とはやや順番の変更があったようだ。

「差別をネタにする」で思ったこと

ラリー遠田が書いた記事が削除された。東京ポッド許可局で放送されたサンキュータツオが漫才を書き起こしてボケの数を数えて、ボケの数(手数)はどんどん増えているという手数論を、サイゾーのコラムで剽窃かましラリー遠田の記事が削除された*1。初回のキングオブコントを見終わった後に、「イッテQを見れば良かった」とツイートしていたラリー遠田の書いた記事が削除された。

最近の彼はといえば、他人から考えをぱくりすぎて、逆に無個性な文になって、その文章の情報量といえば、まとめサイト以上ウィキペディア未満にまでなっていたので、削除された文章は読む意味のないものだったので、もともと無くていいものがなくなったという意味においては取り立てて騒ぐことではないのだけれど、今回の騒動では、東大出身の彼にはお笑いを論じる能力はデビュー当時からないことは広まっていたが、一般教養も論理力ということが知れ渡ってしまった。

その記事は、Aマッソと金属バットというお笑いコンビのネタが、差別発言をしたという騒動を受けて、それは芸人差別にもなりうる的な内容であった。一読しただけなので詳細はもう覚えていないが、やばり大した文章ではなかった。

Aマッソはフリーライブイベントで、金属バットはライブで披露したネタの中に、黒人差別と捉えられるくだりがあったということがそもそもの発端でそこはもう散々出てきているので省略するが、個人的な感情として、Aマッソと金属バットについては、今回のネタどうこうよりもともと、好きなタイプの漫才ではなくむしろほとんど笑ったことがなかったりする。それは、ネタで面白いことを言おうとしすぎていることだったり、語尾を飲んだしゃべりなのでキレが悪く間もだるだるで漫才が下手なので聞いていられないとなってしまうからで、特に金属バットに関しては、Mー1グランプリの準決勝でみちょぱかましていたり、生放送でちんちんと言っているのを見て、なんかそこまで芸人ズ芸人としての役割を果たそうとしているのを見ると、やってるなあーと思って、恥ずかしくなってしまう。小さいことは気にするなのゆってぃがマンブルゴッチ時代に「笑わせるか笑うかそれはお前たちじゃない、俺たちが決めるんだ!」と言っていた映像をみせられたときの恥ずかしさに近い。

金属バットは、ゆってぃである。

Aマッソに関してはネタを見ていないので、くだりしか分からないため、俎上に上げられないが、金属バットのネタへの評も差別ということを切り口にした場合、そこまで純度やクオリティ、目指しているものが高いとはいえず、「差別反対と言う人が実は差別していた」という構図を取っているそのネタは、むしろ差別をネタにするときに一番最初に思いつくオチではないのだろうか。そもそもすでに、「私は差別と黒人が嫌いだ」という有名なジョークが古典としてある以上、やはりあの漫才がレベルが高いものであるという評価もつけ難いというのが率直な感想である。

彼ら彼女らが、意識的にせよ無意識的にせよ、日本にもタブーとされる被差別の歴史がある以上、黒人だけを差別の代表格としてネタにするということは、日本人として白人のように人権を剥奪したという歴史を持たないというだけの安全な位置から、差別を扱っている風を装っているとしか思えない。これまでの数多の繰り返される論争でそうなってしまった。

日本人がやる、差別をネタにしていますというネタは基本的にその対象は黒人であり、その題材がユダヤ人をはじめとした他の被差別者となっているのは見たことがない。後者は伝わらないからいう意見も出てきそうだけれど、だったら黒人差別は伝わりすぎて批判されるのであれば同じようにコスパは悪く、ネタにするべきではない。

それは差別をネタにしてる自分たちは危険であるという演出程度のものでしかない。

きっと、すべての差別ネタはどんどんコスパが悪くなっていく。そのことに意識的でなければ一生売れないのだろう。

とはいえ、芸人がやるネタに貴賎も何もない、どんなことも藝柄(にん)に合致していればこっちが勝手に笑うというスタンスである以上、そのようなネタがあること自体は否定も肯定もしない。むしろ、もともとのその記事を書いた人の無思想な正義のほうが怖く、そっちのほうを否定したいというのもまた事実である。

記事を書いてる人のプロフィールを見てみると、BuzzFeed JAPAN internと書いていて、internってもしかしてインターン生のことなのかとなった。バイトじゃねえか。インターンをinternっていうやつは、デリヘルでのチェンジをchangeと言うに決まっているんだけれども、彼は、この差別を拡声させている側にも片足を突っ込んでいるという意識は微塵もないのだろうかと思うと、ぞっとしまう。

宇野維正もそんな漫才をガワだけ見て、「日本のお笑い死ぬよ」的なことを言っていた宇野維正は、そういえば、タクシーの運転手に「小沢健二分かんないと思いますけど」と露骨な差別意識を持っていたでおなじみで、そんな宇野維正も、外タレの歌手のライブに女性が少なかったことで「東京の女子どうした?」と言って、それが叩かれたときには謝りはしたものの、タクシーの運転手には謝罪していないのは、その違いってタクシーの運転手とはセックスしないかじゃないかと思いつつ、そもそも日本のお笑いなんて、コウメ太夫を面白がってる時点で、50回くらい死んでるということを何も分かっていない。

『笑ってはいけない』でダウンタウンの浜田がエディーマーフィーに扮したことに、批判が出た際には、さすがに、それはやりすぎだろうと思ったのだけれども、繰り返すが、最近は考えを改めるようになった。その件に関してはいやそれは許してよとは思ってはいるものの、やはりダメなんだろう。

よくよく考えると、日本人は黒人が受けた差別を知っているというけれども、その実の大半はアパルトヘイトのことを教科書で読んだ程度でそれ以上のことは知らない。

かくいう自分も別に黒人差別に対して詳しいわけではないのだがそれでも考えが変わっていったのは、町山智浩の『最も危険なアメリカ映画』を読んだからだ。

町山はツイッターに魂吸われて終わっている人ではあるのだけれど、この本はまさに映画評論家町山智浩でしか書けない氏の作品の中でも一番面白いと言っても過言ではない。そこには黒人の差別の歴史が端的にかつ悲惨なほどに紹介されている。

クエンティン・タランティーノ監督作品に『ジャンゴ〜繋がれざる者〜』という黒人と差別をテーマにした映画がある

その中で、ディカプリオが演じている黒人を奴隷として所有している白人は、たしか、「ハリウッド史上、最大の悪役」というようなキャッチコピーがついていたと記憶している。確かに、この役は、黒人が白人に劣るということを科学的にかつ論理的に語るシーンがあり、現代の尺度でいえば、とても悪いキャラである。しかし、公開当時にそのキャッチコピーを見た当初は、現在も残っている差別を無視してかつ当時の判断基準を言っているこの男をハリウッド史上最大の悪役と断じるには、加害者側からの偽善でありとても傲慢なものであると思っていた。

しかし彼は、Aマッソや金属バットのようなネタに対して、様々な角度から擁護をしようとしている人たちだったのだ。いい加減、嫌な人がいるのであればやめるに越したことはないと日本人も学ぶべき、察するべき時が来たのだろう。

差別の話題が出ると、じゃああれは良いのか!ということを言いだす人がいるのだが、それは勉強しない理由でしかない。そんなのは、あれがダメだ、じゃあそっちのそれもダメだと言い合う、うちの夫婦喧嘩みたいに泥沼になってしまう。だから、差別の話題が出た時に、そういうロジックを持ち出して言ってくる人は、頭良いのではないということをマッチングアプリのレビューに日々書いては削除されている。やはり、白人がしてきたことはしていないという留保はきちんと主張しつつも、ほぼあらゆる文脈で黒人が受けてきた差別や、嫌がるとされていることをすべきではないな、と思うようになっている。

何より、スカートの澤部さんが京都のαステーションというラジオ局でやっていて、その番組はとてもいい音楽ばっかりを澤部さんがかけてくれて、深夜ラジオ聞くの疲れたときに聞くラジオとして、本当に音楽が好きなんだと思わせてくれる。しかもまれに、お笑いの話をして、マセキの赤もみじという漫才師が素晴らしいというようなお笑いの話もてくれたりするとても良い番組で、藤岡みなみのおささらナイトと合わせて、日常を彩る音楽を楽しめる番組なのだけれど、そんなラジオに思い出野郎Aチームがきてて、彼らが主催のフリーライブにAマッソがくることを話しててハナコを差し置いて、澤部さんが羨ましがっていたんだけど、それを考えると切なくなる。

差別というのはそういう感情から切り崩していくしかない。

*1:ラリー遠田が東京ポッド許可局の「手数論」を剽窃したという事実を、疑問視するツイートを見たので補足。たしか、キングコングの西野かどちらかも同じようなことを言っていて、頭悪いなあと思って絶句したのだけれど、「手数論」は、ただ漫才のボケ数が多くなっているという話をしたこと、そしてそれがオリジナルだから凄いということではないということをわかっていない。あの当時、ボケ数が増えているというお笑いを見ている人であればうすうす感じ始めていたことを、サンキュータツオがきちんと漫才を書き起こして、データ化し、それを元に、インタレスティングという意味のおもしろとして番組内で語ったことで、ボケの数を「手数」という芸人の符丁のような用語で表現したことで真似して言いたくなる感じを出しつつ、その概念の紹介と説明をすることで、新たなお笑い批評の道を切り拓いたことこそが、すごいのであって、ボケ数が増えているということを指摘したことだけがすごいと言っているのではない。そこまで到達していたのは少なくとも東京ポッド許可局が初であり、「みんな何となく言っていたのだから、彼らがオリジナルを主張するのに違和感がある」というのは、コロンブスの卵の話を知らない、エンタメに敬意を持っていない人の詭弁でしかない。ラリー遠田の最低なところは、そういった労力を割かずに、サンキュータツオが数えたボケ数を盗み、全体的に自分で発見したかのように発表したことである。ちなみに、キングコングyoutubeで、同じく東京ポッド許可局発の10分どん兵衛が話題になったころ、10秒どん兵衞という動画をアップするというやり方で普通にパクっていて、あんなことを言っておいて、ようけそんなことできるなと思ったものである。

キングオブコント2019感想

台風で停電になってしまって、どうしたものかと思っていたのですが、実家で見てきました。父親はことあるごとに「好きずきだな」と言っていて、そらせやろとなりました。
キングオブコント2019』の感想と総評です。


うるとらブギーズ「催眠」
台風で停電になってしまって、実家に帰って親と見るという最悪な環境もあったと思うのですが、コントの初動で乗りきれなかったということもあり、実はそんなに高得点にピンとこないネタでした。最初、マイクトラブルかと思わせるハテナマークを観客に浮かべさせつつの、樫本の「喋っている人と一緒に喋ってしまう」というネタばらしが出てくるのだけれど、それが超能力なのか何なのかがひっかかってしまって、そこにもいまいち乗りきれなかった。もし超能力だとしたら、一回多く言うっていうことの整合性が取れないので、やっぱり何でそういう人なのかが分からないのが気になってしまった。数回見て良く感じてきたんですがやっぱりそれは拭いきれなかった。
ただ、「樫本」というチョイスされた苗字の絶妙さ、「樫本」を演じる八木の表情の演じ分け方など、絶妙に上手い。コントにおける役名ってあんまり意味がないような気もするんですけど、だからこそ、それがビタっとハマるとめちゃくちゃ気持ちいいんだと思いました。
好きなくだりは「樫本さんで遊ぶのやめてくださーい」

ネルソンズ「野球部」
きちんと笑いをとりたいところで取っていたという印象で、伝わりやすいところから変化球のようなボケまで散りばめられて積み重ねてはいるし、和田まんじゅうは面白いんだけど、やはりハナコと比べて和田ひとりの仕事が多すぎて、ユニゾンしている感じが弱いからか、いまいち爆発しきれませんでした。 
親友を売るのが「部室掃除させるぞ」「グランド整備させるぞ」という軽いものであるというのが面白い。ところも好きです。
好きなくだりは、「ちなみに俺は許してもらえたから」と、和田がキャパオーバーになって「ほんとはバスケがしたいんです」。

空気階段「タクシー」
もう、空気階段へは冷静な判断が不可能なので、決勝が決まった瞬間にもぐらとかたまりがお互いの体を叩きあうという映像を見ることが出来ただけで、感動してしまっていた。
噂には聞いていた「タクシー」のネタは、やっぱり面白くて、空気階段だった。
前半でコント的なことをして、点数を稼ぎ、中盤で本当にやりたいことのフリ、後半に展開させるという構成で、よくよく考えれば前半はそんなにいらないし、もぐらもキャラを作らずにただ変な人ってだけのほうがいいのだけれども、これがないと決勝にいけなかったと思うともどかしくもあるのだけれども、「3人いる」という怖がらせオチでもいいのに、さらにもうひと展開を加えて、「これからもコントは続く」という感じのものでとても良い。
写真を貰うさいに、一旦駄目だったけれど、日付をまたいでいたから、写真をもらえたというくだりも、いったんそこをかますところなんて好きなんですけど、評価が分かれるところなんかなーと思います。
とはいえ、点数は伸びず、そんな点数を見た後のかたまりの表情が切なくて、そんな顔すんなよかたまり~と思っていたのですが、決勝後はそんなに落ち込んでいないみたいでほんとうに良かったです。
かたまり、「お笑いのある世界に産まれてよかったです」って俺もそう思うよ。
好きなくだりは「トランペットトランペットへちまへちまへちま」。

ビスケットブラザーズ「知らない街にて」
「ずっと上ばかり見て歩いていたら全く知らない街についてしまった」男と、「ずっと下ばかり見て歩いていたら全く知らない街についてしまった」女が出会うという、意味不明系のボケが流れるように続いたと思うと、そこから、一気にその理由が解明される。それが『君の名は』を思わせるとても悲しいものであるという面白さ。そこから、昔よくあった小劇団テイストのネタの進化版というようなパートに入るという三段階の面白さがある。一人が男ではなく、女だと分かった瞬間から、きちんと女に見えるのが不思議。
オチも綺麗ですし、その前の「前を向いて歩かないと」というのも冒頭にかかっていて素敵。
好きなくだりは「あほかおまえ、当たり前や!」と、「サン」「デー」「マン」「デー」「チューズ」「デイ」「ウェンズ」「デイ」「サーズ」「デイ」「フライ」「デイ」「サタ」「デイ」

ジャルジャル「野球部」
一定の距離があると喋っている言葉が周波数の関係で、日本語から英語に聞こえてしまうというネタ。設楽さんも「思いついて作ってみても意外とちいさくまとまってしまう感じになりそうだけれど、ジャルジャルのテクニックで成立させている」と言っていたように、様々な角度のボケが詰め込まれていてとても満足感のあるコント。
途中、後藤が、逆に英語で話したら遠くでは日本語に聞こえるという逆転現象が起きるんじゃないかと提案し、その通り、日本語に聞こえるんだけど、それはむちゃくちゃな日本語だったという時の、全くリアリティの無い設定なのにそりゃそうなるよな感は凄かった。好きなくだりは「ワサビがツーン」と「ふざけてるよな」

・どぶろっく「農夫と神」
どぶろっくだから下ネタが来るんだろうとは思っていたけれど、まさにそれを上回るものが来ました。そら笑うて。
好きなくだりは「ついでに大きなイチモツをください」

かが屋「喫茶店
少し暗めの照明、真っ赤な花束を持って茫然とした顔で席に座っている客の男(賀屋)とそれを気まずそうな顔で見つめている店員(加賀)という一枚の画で、コントが始まった!と興奮した。そして「蛍の光」が流れる。そこで一瞬にして、プロポーズが失敗したということを理解させられる。ここまで一言のセリフもなし。そして、そこから回想シーンに入り、客が来店した時間まで遡り、何故、店員すらも気まずくなっているのかという今こういう状況が生まれているのかと言うことが判明する。
もちろん、「ごめんね」と彼女の言葉をサウンドで使うことなく、想像させるところとかのかが屋の手練手管は綺麗としか言いようがなく、オチまで含めて、誰ひとり悪くない、かが屋らしい良いコントでした。
店員がなぜ、あそこまで一人の客に肩入れをしてしまったのかと考えると、あのマスターはきっと、やっと開くことが出来た自分の喫茶店で一組のカップルが結婚しようとしているというドラマが起きようとしているということに舞い上がってしまったんだなと思うんですよね、で、嬉しくなっちゃって善意からケーキをあげたり応援したり、帰るのを止めようとしたりしたけれど、結局閉店まで女性は来なかったので責任を感じているとか、想像が膨らむ余地もある。
このコントで、時系列シャッフルという物語をつくるうえでのテクニックがあるということを知った若い子がいたとして、同じく、僕たちが『木更津キャッツアイ』を、『レザボアドッグス』を、『ドラえもんがいっぱい』を初めて見た時のように混乱しながらも眠れなくなるくらい興奮しているということを考えると、かが屋の未来だけでなく、もっと先の創作物のタネが巻かれたと考えるととても嬉しい。
かが屋のコントはデザインされ尽くされているものだと思っていて、そういえば、デザインって省略することだって何かで見たようなと検索していたら、MAZDAのサイトに<日本の美意識とは、これ見よがしに主張するものではなく、繊細なバランスの上に成り立っているものです。そのため、次世代デザインでは「引き算の美学」、すなわち引くこと、省略することによって生まれる「余白の豊潤」を大切にし、要素を削ぎ落としたシンプルなフォルム、そして研ぎ澄まされた繊細な光の表現でクルマに命を吹き込むことに挑戦していきます。>という文言を見つけ、これまさに、かが屋じゃん!となりました。
好きなくだりは、「賀屋が持っていた花束の絶妙なサイズ」

・GAG「彼女とその相方」
お笑いの養成所に通っている彼女(宮戸)が、その相方(坂本)と、彼氏(福井)の家に挨拶に行く。最高でした。「誰も傷つけない笑い」ということがテーマの一つにもなっているようなこのご時世に、そんなことを無視するかのように、女性をブスいじりする、わざとクオリティ低いネタを作って、それを彼氏に直接見せるというネタで、それに対して完全に彼氏が拒否することで、ブスでもないのに、ブスだと言わざるを得ないというお笑いのある種の異常性が描かれている、お笑いが好きなら誰にでも刺さるような展開もあった。かつ、坂本が元力士で、体重が150キロから45キロになっているという異色の経歴をもっているのにそれを売り出さないという
坂本が、やや大きめのジャージを着ていること、髪が長いことの理由にもなっているところとか芸が細かい。

好きなくだりは「全部このパターンなのかー」「いかついオウム返しやな」「お笑いって異常な世界やな」

ゾフィー「不倫謝罪会見」
一番笑ったコントです。不倫謝罪会見で、謝罪していた人が本音を言って暴れだすという設定までは思い付きそうなものではあるのだけれど、そこに謝罪をする人が腹話術師とすることで一気に、コントとしての広がりが出てくる。
腹話術師の不倫謝罪会見という設定でも素晴らしいのに、それに甘んじず、最大限に活かせるように、お笑いについて全盛期の古谷実漫画のようなカット割り、何より上田の顔が面白すぎる。ゾフィーのコントのいいところは、練られた台本だけじゃなくて、上田の表情や動きというムーブの笑いもピカイチな、そして今年は底に加えてカメラワークも活用して完璧な五分間だったと思います。だからこそ、腹話術という明らかに、ふくちゃん(人形)が話していることが、感動的になる。
かつ、時事漫才ならぬ時事コントとして見ることが出来て、やっぱりこういうトゲのあるコントがしれっとファイナリストに入っているということはとても良いことです。
何より、腹話術師という、たまにある「誰が誰と不倫したんだよ」という 明らかにテレビ的に売れていないであろう人まで不倫会見という処刑の場が用意されているということまで背景を考えると、あまりにも風刺がどぎつくて素晴らしい。
好きなくだりは「座れ座れ座れ。興奮して立っちゃう奴は馬鹿だ」

わらふぢなるおバンジージャンプ
面白いコントなんですけど、やっぱりわらふぢなるおが好きすぎて、見ている側としてのハードルを高くしてしまったというのはあります。
藤原の狂気が、もう自分の生き死にに向いているという意味では今までで一番クレイジーなんですけど。
何より、ネタ後のパートで、ちょっと感動したのがあんなに尖っていた藤原が、丸くなって、なるおの「やっちゃった!」をフォローしていたことでした。
好きなくだりは「投げて投げて投げて!」

ここから決勝戦です。

うるとらブギーズ「サッカーの実況」
サッカーの試合の解説中に、おしゃべりをしてしまって大事なところを見逃すというシンプルなコントなんですが、サッカーの試合の長さ分見てもいい、良い意味で5分という尺ではないという上質なコントでした。このおしゃべりも、「外国人の日本代表監督がうなぎを好きな話」「雨の日に乳首が透けていた話」「相手チームの選手の頭文字を上から読んだらオハヨウになる」といったものでとても良い。
こういった、会話として意味のない、当人たちしか面白がっていない話をつくるということは、タランティーノしかり、バナナマンしかり、実はとてもセンスがいるものなのだけれど、上手ければ上手いほど自然にその話が成立しているということになってしまうので、その技術の高さがわからなくなるという矛盾がある。しかも、そこに、二人が本当に楽しそうにきゃっきゃとやっているということを見せる演技力も必要なので、なまなかのスキルでは表現できない。
外国人の日本代表監督がうなぎを好きで、一日二回同じ店に連れていかれたんだけど、好きな食べ物を聞かれたらパスタと答えたって話、まじでどうでも良すぎて最高。
加えて、解説席という、演者のムーブとしての動きが制限される設定のなかでも、サッカーの試合を想像させたりすることで、それをカバーさせ、コントとして動きが少ないと感じさせないことで、飽きさせないようなつくりになっている。
また、サッカー選手の名前もまた、「与野」「加藤」「神林」といういかにも日本代表のサッカー選手にいそうな名前になっていて、細部への妥協の無さがうかがえる両方とも、八木が表情が切り替わる瞬間があるのですが、それが抜群に上手い。
うるとらブギーズのコントは、上手すぎれば上手すぎるほど自然すぎて褒められないというハリネズミのジレンマみたいなところはあるものの、準優勝も納得でした。
好きなくだりは「ゴール」「ゴール」「嘘でーす」

ジャルジャル「空き巣」
 後藤が空き巣に入ったら、家主の福徳とはち合わせてしまったというコント。最初は知り合いと称してやり過ごそうとする後藤はしばらく偶然が重なる形で、誤魔化せそうになるも、どんどんそれがずれていき、最後には・・・・・・という。
怪我をしてしまったので急遽二本とも変更されたネタということで、どんなネタで勝負しようとしていたのか、とても気になります。
好きなくだりは「オチ」

 

※追記

やはり、ギリありえる偶然(江口先生の名前を当てる)から、絶対にありえない偶然(ギャグを当てる)へのグラデーションはジャルジャル すぎるので、普通のオチにしてしまうと、手癖で作ったネタになってしまう。だからこそ、あんなオチに着地したのかな。

 

・どぶろっく「きこりと神様」
そらもう優勝ですわ。
好きなくだりは「見積もり」

・総評
面白さやコントの未来という意味において、これまでの大会に引けを取らないのですが、あまりにも、多層的な構造のコントが全くもって通じなくなってきているというのを感じました。一般的には難しすぎるのかなあと思いつつも、一本調子ではないそういうコントじゃないと決勝まで行けないのに、決勝で点数が伸び悩むという捻じれ現象が生じていて、もっとその作家性を評価してほしいというのは正直言ってあります。これは審査員のお笑い感が何周もしていて結局シンプルで強い笑いに点が集まりやすくなっているということなどもあるのでしょうが、やっぱりコントというのは、笑いだけではないですし、何よりそれは審査員の全員から教えられたことであるはずなのに、そこが通らないのはつらい。爆発力にかけるのも、そこが気になってそのモヤモヤを引きずってしまっていることも無関係じゃないんじゃないでしょうか。
なにより、今回目立った、総合点数のかぶりが、もう五人制の審査員の限界を迎えている気がしました。そこを救い、掬うためにも、最低でも歴代の王者から二人くらいは出すべきだと思っています。
そうじゃないと、やっぱり準決勝を見て終わってもいいかな、となってしまう。

そういえば、バイきんぐ西村は一言もしゃべってなかったですね。

ペポカボチャの呪い。あるいは、なぜ「secretive person」が名作なのか。もっと言えば、かが屋論になりうるそんな文章。

 大学生になって初めて一人暮らしを始めることとなり、一枚のDVDをレンタルした。それはBS日テレで放送されていた『epoch TV square』というおぎやはぎバナナマンが出演しているシチュエーションコメディだった。その面白さ、と面白いだけでは説明できない感情に心を動かされ、その出演者であるバナナマンの2002年の夏に行われた単独ライブを収録した『pepokabocha』もレンタルしてきた。
 もう、とにかく一本目のコント「pumpkin」からぐいっと引き込まれた。
 照明が暗めの舞台の中央には、台の上に置かれているカボチャと、それを挟むようにして椅子に座っている二人の男がぼそぼそと話し始める。「何これ」「カボチャ」「うん、いやもう、それは分かってるけどさ。おい、そろそろ電車無くなる時間だぞ。大丈夫か。」「あー」「大丈夫か」「あー、ああ、今日さ、おまえん家に泊まってもいいかな。」「うん、それは別に良いよ」「悪いな」。ローテンションなまま始まったコントは、設楽が「俺の言うことに絶対服従する奴隷を手に入れること」と言いだすことでじんわりと展開していく。
 カボチャ一個で奴隷にしようとする設楽の論理とそれにまんまとはまっていく日村のやりとりに、混乱しないように必死でしがみつこうと前のめりになったまま、10分に及ぶ日常とも非日常ともつかない世界観の会話劇に見入ってしまう。
「pumpkin」が終わった瞬間、まず、めちゃくちゃ面白いけど、今感じている面白いは、コントとしての面白さなのか、だとしたらコントってこんなのもありなのか、と衝撃を受けた。
 その余韻を味わいきる前に、二本目の「オフィスのオバケ」がすぐに始まる。 「pumpkin」が作りだした不穏な空気をまとったままコントは進み、最後にぞくっとさせられるオチが待っている。そこから、設楽が好きなスネークマンショーの影響が色濃く反映された「ブルーフォーブラッフォーガングリフォン」と続き、今見てもなお圧倒的な完成度を誇る名作「secretive person」でライブ全体を通して笑いの量では一番の盛り上がりを迎えたあとは、無邪気さの中にあるペーソスが光る「mountain」、まだまだアングラ感が漂う「赤えんぴつ」、飲み会の帰りのテンションと酔いが醒めた時のテンションの落差と日村のドタバタが映える「puke」、雨の中で傘を差してバスを待っている二人の会話劇からのナンセンスなオチで不思議な感情にさせられる「rain」、最後に「思い出の価値」のいい話できゅっとしめる。
 『pepokabocha』で披露されたコントはどれもバラバラでも、それがどこか、ライブが開かれた夏という季節の負の側面の空気の様な、夏への恨み節のようなものが通底していることや、結成9年目にしてもまだ世に出られていないバナナマンの鬱屈した感情を吐露したような空気が蔓延しているような気にもさせられることで、9本のコントに統一感がもたらされており、それがこの単独ライブの唯一無二のウェルメイドさを生み出している。
 この単独ライブの満足度と完成度の高さは、一本目のコントと最後のコントに共通して登場するカボチャが、他人を奴隷にするためのものから、喧嘩をした恋人どうしを再び結びつけるものという役割が反転するという構成の妙だけからくるものではない。
それはきっと笑いの種類の豊富さによって成り立っているもので、台本の面白さというテキストによる笑いはもちろんのこと、台本からはみ出たアドリブで起ったような笑いや、コメディアンとしての力量を示す演技や身体能力などの動きによる笑いに留まらず、加えて、「secretive person」の爆笑だけではなく、「ブルーフォーブラッフォーガンブリフォン」のにやにや笑い、「puke」はとにかく下品な笑い、「赤えんぴつ」のブラックな笑い、「rain」でのニヒルでシニカルな笑いという様々な種類の笑いがあり、かつ、切なさやいい話まで詰まっていることによるもので、その多方向から攻めてくる「面白い」をベースとした強烈なウェルメイドさに、はじめて見終わったあと、映画じゃん、と打ちのめされてしまった。
 中でも「secretive person」は『pepokabocha』の中でも緻密な台本とバナナマンふたりの演技力、それにパズルがハマっていくような心地よさ、セミの鳴き声で始まりセミの鳴き声で終わるという演出が表現している夏の日のけだるさ、それら全てに裏打ちされた名作となっている。
 日村が友人の設楽と会話していると、設楽の「スウェーデン人軍曹の彼女と結婚するので、結婚式をあげるための教会を探しにハワイに行ってきた」という近況が、会話の中でそれらがひとつひとつ、しかもバラバラに発覚していくというもので、そんな言わない設楽に「言えよ」とつっこんでいくということがメインのコントだ。
今でこそ、ひとつのツッコミや設定で突き進んでいくフォーマットのネタは新しいものではなくなったが、十数年も前に高い位置で完成させていたという事実はあまりに大きい。その上、このネタ自体はこの単独ライブより前に出来ていたというのもまた恐ろしい。
 このコントの肝は「設楽がただ自分のことを言わない奴である」ということなので、そんな設楽の異常性を描きだすためには、いかにこの二人は普段も仲が良い、そこにはれっきとした友情が存在するという関係性が存在するということを観客に示さなければならない。
 その積み上げは、会話の端々に仕掛けられている。例えば、「あー、暇だな」「あー、暇だな」というやりとりがあることで、この二人は、特に予定も無く、とりあえず、無駄に日村の家に設楽が遊びに来たものの、結局することがないので時間をもてあましているということが分かる。また、海外旅行に出かける前の日と、帰ってきた日に遊んでいるという関係性も相当に仲が良くないと発生しないことなので、だからこそ、そんなに仲が良いのに、何も言わないということの面白さが輝きだすし、その関係性は、日村がどれだけ設楽を攻めたててもきつくなりすぎないという効果も生み出している。
 「彼女でもいりゃあなあ」という日村のセリフへの設楽の「彼女ねえ」というやり取りも設楽が嘘を吐いていないというところもポイントが高い。友情関係があるという前提やこれらのやりとりががないと設楽はただの秘密主義者になってしまう。
設楽はただ言わない奴であるという説明を、こうした、細やかなセリフを随所に配置することで対処しているので、説明的なセリフを排除され、それがリアリティを産んでいる。その他にも、興奮している日村を見ている設楽の表情は「何でこんなに怒っているんだ」と言いたそうなものになっているのも芸が細かい。
 『epoch TV square』もそうだが、この体験は、ネタというのは5分ほどの長さで、丁寧なフリにきちんとツッコミが入って、爆笑出来れば出来るほど素晴らしいという『爆笑オンエアバトル』という価値観からの強制的な脱却を意味し、以後の自分のコント感に多大な影響を与えることとなった。
 コントだからといって笑いが起きない時間が長くてもいい、設定を過剰に説明するようなセリフは不要なので極限まで削ることが出来る、そのことで、会話や登場人物の感情の動きにリアリティが付与される。会話に、そのコントには直接関係ないやりとりが挿入されることで、これまでの二人の関係性が見え、コントに時間軸の奥行きが産まれ立体的になる。
 何より、コントのために登場人物がいるのではなく、彼らの日常を切り取ったらそれがコントになったと思わせるというコント観はとてつもなく衝撃的であった。
 これらは今も、呪いにも似ているほどに強力なものとして残っている。

バナナマン単独ライブ2019「s」のライブビューイング感想

バナナマン単独ライブ2019「s」のライブビューイングを見てきました。客の入りはほぼ満員で、バ帽もちらほらと見かけました。普段どこにいるのよ。

毎年毎年、今年は面白くなかったらどうしようという気持ちがあるのですが、また今年もそんな気持ちは簡単に消し飛び、帰りには「いやあ、バナナマンの『今』というどろっと濃いシュガースポットを堪能することが出来たなあ」という気持ちに浸ることになりますが、今年もそうでした。

ライブビューイングの回が収録回ということもあり、今回が記録に残るということなのですが、今年は、この回がバチっと成功したみたいで、エンディングでは、2日目の1本目のコントで日村さんが完全に飛んだ話をしていました。このエンディングが見れるのもライビュならではで、エンディングが始まる瞬間までそのことを忘れていました。

コントは、6本で、⑴ボスがやられた⑵佐々木へのサプライズ⑶ジョニーの店にて⑷脱出ゲーム⑸赤えんぴつ⑹結婚式でした。タイトルは仮です。

一番好きなのは、3と4でした。

バナナマンの単独の満足度は、会話で笑わせるコントから、動きやノリを軸にしたコントまでと幅広いことで、さすがに昔よりキレッキレの笑いは少なくなっているものの、そのぶん、より「人生の一場面を切り取ったらコントになっていた」という自然な笑いになっていて、かと思えば、その中でも急に、日村さんがラジオでふいに見せるヤバさを出してくる感じのように、怖くなってしまうボケを挟むあたりは、まさに「今」のバナナマンの全てが入っているような気はします。今回のコントを、例えば10年前のバナナマンが演じたとして、このどっしりとしたコントがやれるかというと

もしかしたら全く別物になってしまうんじゃないかという意味でも、やっぱり、この重厚なコントこそがバナナマンの「今」なんだと思います。

でも、⑶ジョニーの店は一人三役を、しかも、それが目まぐるしく場面展開するというもので、今のバナナマンにこれをやられたら、かが屋を筆頭に若手のコント師たちは頭を抱えてしまうんじゃないかというものもありました。

⑷の脱出ゲームは、たまにラジオでもやるラジオコントに近く、無意味なギャグを繋げて本当に深夜のノリがずっと続くようなコントで、でも単純なギャグの連なりだけではなく、意味を捕まえることを放棄してもリズムや気持ち良さで笑ってしまうやつでした。

何より、一番、昔と変わったなあって思ったのは、ラストのコントのオチだった。

妹の結婚式でスピーチをする兄の日村が、同じく参席している小説家の友人の設楽に聞いてもらうというところから始まるこのコントだが、日村は、実は結婚に反対しているから、ぶっ潰したいと言い出す。そのためのスピーチでもあるのだが、日村は散々そうなるようなスピーチを練習するが、結局は、普通に兄として良いスピーチをしてしまい、結婚式は成功する。

最後の最後に、実は設楽は日村の妹と過去に付き合っていたが別れてしまった、でも、妹は設楽のことが忘れられないから、結婚に踏み切れていなかったということが分かる。

設楽統は、伝えることで運命が変わるということを描いてきたが、今回はその伝えたいことを飲み込んで受け入れるということを描いた。それはまるで、映画史上最も切ないエンディングというキャッチコピーがついた『バタフライエフェクト』のように、日村のスピーチのシーン含めてバナナマン史上最も切ないコントになっていた。

バナナマンのコントが大人になっている。そんな気がした。夏ももう終わりに近づいていく。

大竹まことの『俺たちはどう生きるか』感想

大竹まことの『俺たちはどう生きるか』を一気に読んだ。

最初の、風間杜夫の話から引き込まれた。大竹まこと風間杜夫は若い頃、一緒に暮らしていたという。風間杜夫との思い出話から始まり、再び交流が密になったという話が書かれている。

他には、一度、大竹まことツイッターが炎上していたことについても書かれていた。

その時に、ネット上に「大竹まこと老害だ」と書かれているのを見て笑ったことを思い出した。なぜ笑ったのかというと、少なくとも、知っている限りで大竹まことは30年近く老害をやっているのだから、何をいまさら、と笑ってしまったのだ。

大竹まことが書く文は、テレビでの印象と同様に饒舌ではない。むしろ、上手いほうでもないとも言えるかもしれない。しかし、テレビでの印象と同じように、ぼそぼそと溢れるようなその文は、そうであるからこそ、大竹まことというフィルターを、時間をかけて通ってきた一滴一滴が集まったような濃密な言葉たちに感じることが出来る。

そこには古稀を迎え、老いも若さも、すいも甘いも、豊潤も枯れも経てきた、大竹まことが存分に詰まっている。

15年ほど前に、同じようなエッセイ本『結論、思い出だけを抱いて死ぬのだ』を書いていたように、抱いてる思い出をひとつひとつ片付けるように文章にしている。

例えば、劇場で壁に寄りかかっている長身の男に亡くなった永六輔の影を見たり、売れない頃よりも前の何者でもなかったころに出会った女の話、シティーボーイズが『スター誕生』に出ていた頃、あと一周で勝ち抜けれるという9周目で敗退したことを振り返っていたりする。それにつづく、「もし、栄冠を勝ちとっていたら、多分、私はここにはいない。ここがいい場所かどうかはわからない。しかし、ここにはいない。」という言葉は、30代の自分でも、噛みしめるべきものだと感じた。

この本には結局、俺たちはどう生きるかという答えはないが、強いていうのであれば

この一文を意識して生きていくしかないのだろう。

『結論、思い出だけを抱いて死ぬのだ』との出会いは、とある人から譲ってもらったことだ。その時は、そんな大好きだという本をもらったことは、その人に認められたようでとても嬉しく、今回と同じように、一気に読んだ。

特に、大竹まことマルセ太郎という芸人の通夜に行ったことを書いた「家などいらんが」はその人からも強く勧められた名文で、特に、大竹まことが通夜で出されたゆで豚を食べるシーンの「ゆでで薄くスライスされた半透明のそれに、赤というよりはオレンジに近いコチュジャンをたっぷりつけて口に運ぶ。瞬間、甘さが口に広がるが、数秒ともしないうちにベロの付け根あたりからピシッと辛さが先ほどの甘く感じた部分部分に、まるで杭を打ち込むようにおさえ始める。酒を飲めば今度は逆に辛さが溶ける。本当においしい。」は、本当に美味しそうな描写で、何より通夜の席の話であるというコントラストも含めて、人生の切なさが感じられる文章になっている。

とはいえ、その本をくれた人とも疎遠になってしまった。

一時期は東京に遊びに行った際には毎回お酒を飲むなどしていて本当に楽しかった。だからこそ、調子に乗っていたし、どこか浮かれていたのだろう、疎遠になった理由になるようないくつかの「しくじっていたんだろうな」が頭をよぎる。それと同時に、しくじられていたというわけでもないけれども、それは違うなと思ったことなども思い出す。そうなると、まあ、もともと合わなかったんだろうな、と諦めるしかない。

人間が不出来なので、今後も同じような出会いと別れを繰り返していくのだろう。