石をつかんで潜め(Nip the Buds)

ex俺だって日藝中退したかった

THE W2023感想(アファーマティブアクションから練兵場へ)

 『THEW 2023』観ました。気になったネタの感想です。

 まいあんつのネタについて、全く笑わなかったのだけれど、それは、もともと、猿ぐつわという意味であったギャグは、ストーリーにメリハリを付与するためのものであるため、ギャグの羅列は、そもそも無理がある。とある芸人が、とある作家にFUJIWARAの原西の「背骨を引っこ抜いたら立ってられへん」を引き合いに「君のギャグはフリがないから伝わらない」と指摘されて、ぐうの音も出なくなっているところを見たが、まさに、ギャグの羅列には、その問題に直面する。加えて、ギャグをしているということが、意味のないものになってしまう。意味のある流れに意味のないものが配置されるからギャグなのだ。だから、俯瞰すると、あんなに動いているのに平坦に見えてくるし、ちょっと油断するとテンションについていけなくなって一気に冷めてしまう。

 また、ギャグの動きについて、舞台衣装であった、魔法にかかる前の家事をするための洋服のフォルムのせいで、その身体性が損なわれ、なんかどういう動きをしているのか分かりづら苦なってしまう。敵がゆったりした服を着ていたら、武器を隠していると思わなければならないし、ジュディ・オングがギャグをやったら、ビラビラを邪魔に感じてしまうだろう。あと、呼吸が荒れていたのは平場では面白くなるが、ネタの場でのあれは悲壮感が出てしまう。

 ただし、設定において、シンデレラが魔女に間違えた魔法をかけられて、無理にギャグが出てしまうという設定は、自発的にやっているよりも、やらされているという体の方が面白いと思うので、そこは考えれられていたりするので、あとは、見せ方やストーリー、緩急の問題などの話になってくる。

 ここまで書いて、自分が、まいあんつをシンプルにギャガーとして見ていることに気がついた。というのも、数年前なら、割と手放しで評価していた可能性があるからである。女性がギャグを

しているだけで、話題になったんじゃないか。もう、女性がひょうきんなことをするだけで評価される時代は、死んだとして良いのでしょうか。

 ただ、国民投票というシステムがある以上、ネタを終わった後に、さらにギャグを披露するのはマジで卑怯です。こんなことは絶対に許されない。

 ついで、はるかぜに告ぐは、1年目のコンビなのでこういうことを言ってもいいと思うけれども、おばあちゃんの形見が傘ということから岸和田いじりなど、ネタの題材やワードの使い方などから明確な金属バットフォロワーのコンビに見えるが、それだけでなく、ルックは尼神インターのようにキャラの対比が明確、フォーマットは、どこかミルクボーイやブラックマヨネーズを思わせる、会話の要所要所で、予想の斜め上の情報が小出しにされてそこを起点に会話が転がっていくスタイルで、知らんやっつらの知らん会話を盗み聞きしているという愉悦がある。これだけ見たら、鵺の赤ちゃんのような存在しないシルバニアファミリーの新作みたいな、今のところ足りないのは技術だけというコンビだった。

 今大会でのめっけもんは、エルフだった。一本目のコント「居場所」が素晴らしかった。

 久々に実家に帰省したギャルの姉が、引きこもっている妹を心配し、部屋をこっそりと覗いていると、実は配信者として活動し、それなりの評価を得ているということがわかるという展開から、配信に乱入し、。「家族が寄り添ってやらな」や「実質外出てるー」といった、ギャルのポジティブシンキングを、コントに落とし込んでいることに、新しいコントのスタイルを見たように感動した。そのアイコンの活用は、漫才の方が自由なはずなのに、その意義が十二分に発揮しているのはコントの方だったことはとても興味深い。

 ラストに、実は父親も配信を見ていたという「パパー」ってオチ、それ自体も奥行きがあってお見事だし、今週のワンピースでドラゴンがルフィのことを思っていたことがわかってコンビニで震えたくらいには、親の愛を感じる良いものだし、例えば、このコントを男性がやっても成立はするとは思うけれども、この「パパー」のトーンのなんとも言えない、ウェルメイドな良さは出せないんじゃないだろうか。

 「お茶って一個1万円するの」という姉のセリフが、設定として姉が実は妹がライバル視している1位の配信者であったということがバラされた時にウソになってしまうし、「パパも怒らんで良いって」というセリフも、本当は知っていたのかその場で知って順応したのか不明になるというノイズとなってしまったりと、脚本に穴があることは否めないが、それでもやはり良いコントだと思う。あと、配信にコメントしていた矢部くんが「やんす」を使うという無駄なパワプロくん設定はなんだったんだ。

 これらのネタだけでなく、梵天はもっとぐちゃぐちゃな漫才をしてそこから削ぎ落とし、ニンが乗ったら一気に化けそうだし、あぁ~しらきの「角刈りは蛇に懐かれる」で腹爆発したし、ぼる塾の四人体制は、なるほど、と思うくらいにはフォーメーションが完璧だったし叩きがいがあるネタだったし、本当に、大会としての価値は高まっている。

 差別を受けている人たちの現状を是正するための改善措置を積極的に取ることをアファーマティブアクションと呼び、『THEW』はその基に生まれた賞レースであり、その観点から、見た場合、その良い点として、恋愛ネタ、女芸人が「女性」をやらされているネタがほぼ淘汰されていたことは、とても良いことだと思う。スパイクの1本目や、紅しょうがの2本目、ハイツ友の会、変ホ長調など、女性の生活から見えてきたものであったり、女性が気付きやすい視点からくる発想を膨らませたものであったり、ジェンダーによる縛りからの解放された結果が、当初に望んでいた通り、ほぼ芽吹いてきたと言って良いのじゃないでしょうか。

 まだまだ他の賞レースと比べてネタが弱いことが、審査員コメントの刺さらなさ、どこか無理している感じからも伝わってくるが、大会としての次なる目標は、ここで結果を残した芸人が、他の賞レースの決勝に進出するに設定しても良いくらいに、今年は、そのネタの幅が広く、ネタの見えせ場として豊潤な土壌といってもいいくらいには、楽しい大会だった。ここを練兵場とした女芸人が他の賞レースや別のメディアで跳ねていく、それこそがアファーマティブアクションでしょう。

 もちろん、大会として問題があるわけでなく、ただ、番組側が、それをどこまで意識しているのか、ネットフリックスのリスペクト講習みたいなやつを全員が受けているのか、カウンターとしての賞レースでもあるという自覚を持っているのか怪しいところがある。

 ニューヨークの屋敷が、小綺麗な格好をしている吉住を見て、「フェミニストみたい」という発言をして批判を受けているが、これも、犯罪者を作らないような体制作りに務める義務もあるという理屈に基づけば、無駄にニューヨークを呼び込んだ番組側にも責任はあり、歴代のチャンピオンを多数連れてくるということで安っぽくなっているところに、とりあえずな売れっ子の、さらば青春の光の森田や、鬼越トマホークらを入れとこうみたいな保険をかけている方も悪く、安易な視聴率主義が透けており、基準スレスレのふるさと納税で儲けた自治体のビカビカの祭りみたいに、理念もへったくれもねえなとか思ってしまう。

 他には、元自衛官のやすこへのキャッチコピーに「アーミー(軍隊)」を使ったら憲法の解釈的に問題があるだろうとか、リークが本当なら、M-1に女性審査員2枠を先にやられてるんじゃねえよとか、なんかキングオブコントのスタッフって、THEWの観客も女性が多いことについて、なんで俺たちだけ叩かれてるんだと反省してなさそうという偏見など色々あるけど、とか言わないの~って感じになってきたので、姫ちゃんTHEW待望論という逆逆指名で締めさせていただきます。

 出たらひっくり返って笑うと思う。

 ニュートン!リンゴが落ちたところでお時間です!(松尾アトム前派出所)

ベストエンタメ2023

 今年はエンタメの当たり年だったのと、本来だったら、適宜感想を書けばいいのですけど、そんな余力がないので、年末にドバッと言いたかったことを言ってきます。

 

第10位 藤井健太郎チーム「大脱出」

 番組開始10年目に突入した2023年において、第二次の黄金期を迎えている「水曜日のダウンタウン」のプロデューサーである藤井健太郎が企画、演出を務めたDMMTV限定のバラエティ番組「大脱出」。続編の希望を込めて、あえてこう呼ぶ1stシーズンにおいては、首から下が埋まっている安田大サーカスの黒川の強烈なビジュアルが印象的だが、他の脱出しなければならない、トム・ブラウン、おみおくり芸人しんいち&みなみかわ、岡野陽一&きしたかの高野の3チームのパートも良かった。それだけでなく、さまざまな仕掛けが施されていて、たまんなかった。

 読んでいる人には分かるはずですけど、これはほとんど大江健三郎の「芽むしり仔撃ち」です。

 取りこぼしているものは多いものの、ここ数年でいえば今年は、振り返ってみてもエンタメが豊作だったわけだけれど、そこにきて年始にドロップされた「大脱出」の結末が、押し付けられていたバネが飛び跳ねるかの如くのエンタメ業界の溜めの放出を予期させるようなものだったのは偶然だろうか。

 

第9位 とよ田みのる「これ描いて死ね」

 とよ田みのるの、マンガについて書いた漫画「これ書いて死ね」。離島に住む女子高生たちが、漫画を書き、部活や同人誌の作成や販売などを通して、進んでいく物語。もともと、ストーリーが面白いだけじゃなく、絵がめちゃくちゃ可愛い、とよ田先生の作品だが、年齢を重ねていくと、こういう王道的というか、ストレートなくらいが刺さってしまう。でも、衝動的に動くことのエモーショナルさとかはピカイチで、今年の漫画で印象的なのは、この作品でした。

 今年は、新しい漫画は全て電子書籍で購入するという縛りを設けてみて、なるべく今も買っている漫画以外の新しい漫画を買うことを心がけた結果、例年と比べて、結構読んだ。双龍「こういうのがいい」、福島鉄平「放課後ひみつクラブ」、たかたけし「住みにごり」、三好智樹、戸義明、萩原天晴「上京生活録イチジョウ」あたりが面白かった。特に、イチジョウなんて、スピンオフで一番面白いんじゃないかっていうくらいに面白くて、一条のラストを知っているだけに最終回がとてつもなく切なかった。モラトリアム漫画の最高傑作なんじゃないか。新宿の喫茶店で、カイジでの一条しか知らない僕と、イチジョウしか読んでいない友達と、一条について、話していたら、絶妙に認識がずれ続けてて、最高に楽しかった。

 

 

第8位 「スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーユニバース」

 ピーターパーカーではなく、マイルズ・モラレスがスパイダーマンとなった「スパイダーマン:スパイダーバース」の続編。一作目もかなり面白かったのだけれど、アクロスはもう凄かった。  

 Black Lives Matter(ブラック・ライブス・マター)や、LGBTなどの社会的な問題も入れ込んでくる。これまでは、白人がスパイダーマンになることは、思春期特有のナーバスな悩みのみのメタファー程度だったものが、黒人や、女性がニューヨークでスパイダーマンをするということがどのような意味を持つのかという問いの設定が出てくる。当初のメタファーが、時代を経て古びてしまったために、新たに、そのメタファーを再設定し直すことで、当初のような批評性を帯びて、新たな社会性を得る。

 さらにそこに、スパイダーマンの身近な存在の死などの運命は絶対的なものなのかなどの、スパイダーマンという存在への自己言及的な眼差しも乗っかってくる。スパイダーマンアメリカ人にとっての芝浜論を提唱しているけれども、「スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーユニバース」は、芝の浜でお金を拾わなくても、旦那がお酒が全く飲めない下戸であっても、「芝浜」は成立するのかというくらい難しいテーマに挑んでいる。

 そんな難しいことをやる上で、エンタメであるという矜持を示すために、我らが親愛なる隣人のスパイディがニューヨークの宙を舞うかの如く、どこまでも軽やかに描く。その態度にも、じんとくるものがあった。

 後編の結末次第では、とんでもない作品になると思います。

 ところで、全く関係ないタイミングで今年、上野千鶴子の「女ぎらい ニッポンのミソジニー」を読んでいたら、次の一節にぶつかった。

<「女」という矯正されたカテゴリーを、選択に変えるーそのなかに、「解放」の鍵はあるだろう>

 なるほど、アクスパは、ミソジニーが孕む問題も持っている構造としても読み解けるのだなという見立てを思いついてしまった。スパイダーマンになるという運命は背負うけれども、そこに紐付けされた不幸まで享受しなければならないのかという意味では、少なくともジェンダー平等がまだまだなされていない、現代社会において、女性になるという運命は背負うけれども、そこに紐付けされた不幸まで享受しなければならないのかへと、実は読み替えうる作品なのではないかという気になってくる。であるからこそ、今作が、女性スパイダーマンである、グウェンに焦点が当たったことも、当然のことだと言える。あー、あの本もあの本もあの本も読まないと!となった。

 アメコミのアニメ映画でいうと「ミュータントタートルズ:ミュータントパニック」も良かった。ニューヨークという大都市が放つ光によって生み出された影、つまりは資本主義などから排除された者たちを下水で生活するカメやネズミ、イエバエといった汚いモノに置き換えた、メタファーとしてのタートルズという、こちらも原点に回帰しつつ、最新のアニメ技術をガンガンに使っていて、ハライチの澤部でなくても興奮の作品だった。何より、一点、とてつもなく感動したくだりがあって、こちらもアクスパと同様に、これまでのことをフリとした上で、斜め上をいく大決断のように思え、グッときたのであった。

 ところで今年は、映画を例年に比べてよく観た。意図的に観ていたのは、妻と調整し、育児のパスタイムを数時間もらう時に、一番お金がかからず、満足度が高いから。「怪物」「福田村事件」「鬼太郎誕生ゲゲゲの謎」「ゴジラ-1.0」「首」「イノセンツ」「THEFIRSTSLAMDUK」「すずめの戸締まり」「シン・仮面ライダー」「ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー」「アステロイド・シティ」「リバー、流れないでよ」「バービー」「君たちはどう生きるか」「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」あたりを見ました。

 なんか腑に落ちなかったのは「バービー」くらいで、それでも観て何かを感じられるので観た方がいいと思いますし、この中でオススメなのは、「怪物」は外せないですし、「福田村」「ゲ謎」「ゴジマイ」は合わせて見てほしい。

 余談ではあるが、予告編を狂ったように観ていたら、子が、なんで亀が忍者なのと聞いてきた。子からの質問があったら、あまり子供が使わないような言葉だったり、初めて聞くような言葉を使ってでも丁寧に答えようとするのだけれど、この質問に関しては、「忍者になりたかったんだよ」とだけ答えて逃げてしまいました。大人になればなるほど、亀が忍者でティーンであるということの理由は分からなくなるので。

 来年はもっと本を読みたい!

 

7位 香山哲「プロジェクト発酵記」

 ベルリンシリーズのスマッシュヒットも記憶に新しい筆者の「プロジェクト発酵記」が発売されたのは2022年ではあるものの、少し遅れて読んだことで、今年の仕事をする上で、めちゃくちゃ指針となった。香山哲が漫画連載に向けての行動を、プロジェクトの発酵と見立てて、それを記録していくという、メイキングのような、有田哲平が監督した「特典映像」のような作品。

 昨年の段階から、今年度の仕事はとんでもないことになるぞと不安でしょうがなく、とてつもなく憂鬱だったところに、たまたま読んだこの本で、プロジェクトの立て方、進め方のイメージを掴むことが出来たことはまさに僥倖だった。自分の業務の性質的に、元々、中長期的なプランを組み立てるとかはそこまで要するものではなかったので、この本を読んでいなかったら、行き当たりばったりで進めることになり、潰れていた可能性もあるということを考えると、本当にこの本に出会ったタイミングは最高だった。

 表紙をめくって1ページ目にある、プロジェクトを発酵させるためのフローはこうある。

「①実行したいプロジェクトを考える。→②動機や目的を自覚する。→③全体のアイデアを作る。→④アイデアを広げたり削ったりする。→⑤他者の視点を取り込む。→⑥自分の状況や姿勢を見つめ直す。→⑦プロジェクトの発酵具合を見極める。」

 読了した後に、このフローを眺めていると、ふと、このやり方で、次年度の業務を管理出来るんじゃないか、ゴールまでの道のりを俯瞰できるのではないかと、思いつき、試しに図を書いてみることにした。まず、業務を箇条書きにして数を洗い出して、それぞれにタイトルをつけて個別のロードにし、11月3週目というように業務完了となる締切を大まかに設定する。そのロードを、要所となるいくつかのタスクで分割してピンを打ち、ゴールから逆算して設定していくということを、業務の数だけ実行してみたら、ぼんやりとしか把握していなかった次年度の業務が、すごくクリアになっていた。その上で、全部を合わせてみてみると、これよく考えたら、この締切はもうちょっと後ろにずらしても問題なさそうだなという微調整が、きちんとした根拠を持って出来るようにもなっている。

 その結果、並走する業務4つあるけれども、AとBとCの業務のタスクがどこでかち合っているから、何月のいつがめちゃくちゃ忙しい、といったように、夏が忙しそうとかではなく、8月の2週目から末までが忙しいだろうというような形でクリアに視覚化することに成功したそのお陰で、しんどそうっちゃしんどそうだけど、きちんと管理しながらやったらいけるんじゃないかという気が湧いてきた。

 それでもズレは生じるので、9月から11月あたりはめちゃくちゃ忙しかったけれども、適宜、スケジュールを見ながら、諸々を進めていたので、潰れるほどに焦るということはなく、乗り切ることが出来た。

 この夏、ダウ90000の蓮見翔が、4つ5つくらい、賞レースを抱えていて、偉いなあとか思っていたのだけれど、このように、ふと、自分も同じ状態にあることに気づいて、いや、俺偉いんかい!となったのもいい思い出となった。

 僕の場合は、たまたま仕事に応用出来ただけであって、イラストが可愛いこともあって自己啓発本自己啓発本していることはなく、ベルリンシリーズはもちろん、インディペンデントな作家の一つの記録であるので、漫画家をはじめとした、他者がアウトプットをどのようにしていくかに興味があれば、楽しく興味深く読めると思う。そして、自分も何かしら動いてみたいと思っているが分からない人にとっては、まずは一読し、先述したフローに沿って行動してみるだけで道筋が見えてくるような本となっている。

 

 

 

6位 NISA

 ideoは3年前ほど前から初めており、しばらくは損益がマイナスだったのだけれど、今年に入ったあたりから、銀行に預けるよりは全然マシなレベルのプラスに転じたことで欲目が出ていた頃に、ちょうど高校の友人から、ほだら積立NISAもやったらええやんと言われたことで、重い腰を上げたことがスタートになる。idecoは割と簡単に始められたのだけれど、積立NISAは、ちょうど仕事が大変な時期で帰宅時には頭がくったくたになっている時期に、スタートできるようになったこともあるだろうが、間違えて投信信託のほうを購入してしまうという愚かなミスをしてしまったくらいには、結構めんどくさかった。実際、サイトの個人ページも文字が多いのと、専門用語がたくさんあるのでいまだに調べつつ、慣れるために色々といじっているというのが現状なのだけれど、投信信託も積立NISAも、どちらも銀行に預けるよりはちょっとマシなレベルで損益を出しているので、良かったです。懸念していた、株価の推移に一喜一憂して、生活に支障が出るのではないのかということもなく、毎日、チェックするみたいなこともしないでもいいのが良い。合わせて始めたジュニアNISAにおいても、子が2,000円くらい儲けていて、損益まで可愛い~と妻と騒いでいたりしていた。

 とりあえず、銀行に預けるよりはマシだったな、で留める範囲で、続けたいと思う。

 こういうことを書くと、家計に余力があるからであるという指摘を受ける可能性もあるが、もちろんそんなことはなく、どこに支出を割くか、制度のことを勉強する時間があるかにかかっている部分が多く、ふるさと納税を所得の限界ギリギリまでやるくらいなら、その分ををidecoや積立NISAに振って後でもっと美味しい肉を食べられる可能性にベットするか、制度のことをまとめたYouTubeの動画を少しでも見てみて理解をしてみる努力をすることはできるはずであるので、あまりに、やしが、そんなことゆーのは、やーが資本家だからやっしという指摘はあまり当てはまらないのである。

 まずは身近な人に聞いてみてやってください。

 

5位 「呪術廻戦」

 アニメの2期が、原作の補完だけでなく、アニメならではの表現で、別ベクトルの高得点を叩き出してきたところに、原作も渋谷事変に続く山場を迎えて、今年の後半はずっと、色々と考えていて、かなり持っていかれた。「ONE PIECE」もめちゃくちゃ面白かったんですけど、ワイガヤ感ブーストで、呪術に軍配が上がりました。

 「壊玉・玉折」では、夏油の正義感がガラッと変わるまでの経緯が丁寧に描かれていたし、「渋谷事変」は連載当時はまだ原作に追いついていなかったので週刊連載のように楽しめているし、本誌は本誌で、こないだまでやっていた闘いなんて、ジャンプ漫画史的にめちゃくちゃ凄いことをやっちゃってた。バトル漫画におけるバトルとは何なのかっていう問いであり、答えでもありますよね。

 今から読んでみる人は、5巻くらいまで割と普通なんですが、渋谷事変入ったあたりから覚醒してみるので是非。

 

4位「キッチン戦隊クックルン

 「キッチン戦隊クックルン」は、月曜日から水曜日の朝7時から10分間に放送している、子供向け料理番組だ。毎週月曜日は、たなくじを撮って、インスタのストーリーズに垂れ流すということを続けているのだけれど、直後に放送されるクックルンについては、その流れでなんとなく観ていたので、月曜日は大体見ていたものの、火曜日と水曜日はたまに見ていたという感じできちんと全ての回を見ているわけではなかった。

 今年の3月末、なんかラスボスっぽいのと戦っているなー年度末だなーという感じで眺めていた。4月になり、新しい子供たちが出て、新シーズンが始まるかと思いきや、急に、タイゾーたちが出てきて、びっくりしていたところに、さらに「卒業したと思った?」的に第四の壁を超えて話しかけてきたのを見かけて、ちょっと待て、なんか面白いことやってたぞ今、と気になり、今年の4月から熱心に見始めたのがきっかけとなる。元々、タイゾーの父親が車椅子ユーザーなのに、そこに全く触れなかったりと、重要なことを軽やかにやってんなーという印象があったのだけれど、こういうこともしてくるのかと驚いた。

 何より、7時からの10分というのが、朝のルーティーン的に、なんとなくテレビを見てていい時間のリミットになっているのもとてもいい。緩い展開を見て、頭をじんわりと起こす感じ。

 4月からはしばらく再放送が続いてたいのだけれど最近はルーナとソレイユという新しいクックルンが出てきて、先代も出続けるという、おそらく異例なことをやっているのも面白い。

 残念なのは、タイゾーたちをサポートする大人のキャラのムール姫が卒業してしまったことだった。何とかロスという言葉を、心の底から馬鹿にしているほどには子供向け番組に適さない泥目線の持ち主ではあるものの、流石に、ムール姫ロスを地味に引きずっている。

 少し前に、この2年を振り返る総集編をやっていて、それで確認したのは、ムールは、元々シェルフィッシュ星の姫の影武者ではあるものの、自らが影武者であることを知らずに、つまりは自分が姫であるものとして暮らしていたが、本当のお姫様の無事が確保されると、影武者であることを明かされたという経緯がある。その後、クックルンの舞台となっているワッサン島でクックルンたちと暮らして新たな居場所を見つけることが出来ていたが、本当のお姫様から、自分は結婚するので、代わりにシェルフィッシュ星の姫になってくれとお願いされ、結局、そうなることを受け入れて、星に帰ってしまった。こんな、本物の姫の身勝手さに憤りすら覚えたり、アイデンティティの崩壊の後に、再設計に成功するも、またそれを奪われることになったムールの心境を思うと、悲しかった。

 なんか、めちゃくちゃすげーことやってるなあと震えてしまって以降、真面目に見るようになった。クックルンの敵のふざけた怪人たちは、皆川猿時演じるクヨッペン率いる派遣会社から派遣されているが、なぜかクックルンを許さないなどと強烈な恨みも持っていて、そこら辺の謎は、多分今後明かされるのではないだろうか。新キャラのルーナとソレイユたちのパートも、父親たちがクックルンだったけれども、なぜかクックルンミュージアムから抹消されているなどの今後の展開への布石も貼られていて、まだまだ目が離せない。 ちなみに、クヨッペン達しか出ない週や、ロケに出る週もあったりする。

 お笑いファンに向けた情報で言えば、脚本を書いているのが、有吉弘行の脱法TV」にも構成で入っている竹村武司。このことを知ってもらえたら、少しはクックルンに興味を持ってもらえるだろうか。

 

3位「ブラッシュアップライフ」

 バカリズム脚本のドラマ。今年の頭に観た時に、これを越えるのは無理だろとなるくらいには衝撃があり、結局、逃げ切りました。ちょうど、冬感のあるドラマなので、年末年始の開いた時間での一気見をおすすめします。

 詳しくは下記のブログ記事にて。

絶対的フリオチ主義者バカリズムの最高傑作『ブラッシュアップライフ』がブラッシュアップした二つのフォーマットと、描いた4つの人生の真理

https://memushiri.hatenablog.com/entry/2023/03/19/223000

 

 二人から、ドラマを見てブログの感想記事を読むまでをセットにしてくれていることを聞いてめちゃくちゃ嬉しかったし、筆がのっているのが分かったって言われるくらいには、久々に書いている間、基本ベースの苦痛ではなく久々に楽しいと思いながら書けて、これはめちゃくちゃ読まれちゃうなと思っていたんですけど、8RT20FAVというしょっぱすぎる結果で、ドン引きしてしまいました。僕はこれを桑田佳祐が、こんな曲を作っちゃうなんて、自分はなんて天才なんだと思ったけど、リリースしてみたら、全然売れず、その後、20年近く封印されることになった「イエローマン~星の王子様~」になぞらえて、イエローマン現象と呼んでます。

 

2位 ピクミン

 この夏は、ずっとピクミンのことを考えていた。帰宅してから、子が寝るまでは遅いと10時を回るんだけれどもそれでも1時間でもプレイする。そんな生活をしていたら3週間くらいで、プレイ時間は30時間を超えていた。毎日、エンタメの時間がないということを嘆いていたのだけれど、なんのことはない、やってやるという気概が足りなかっただけだし、阪神くんがちっちゃかっただけだったのである。ピクミンはそういう人生において重要なことを教えてくれる。

 肝心の作品の出来はというと、ピクミンの一作目原理主義なところはあるけれども、4は、2や3での新しいシステムや遊び方を圧縮してさらに旨味を抽出してポップに仕上げた傑作だった。

 苦戦したところはあまりなく、噛みごたえに欠ける部分もないことはないのだけれど、待たされた年月をすっ飛ばすほどには大満足です。

 オッチンに乗って、湖を進む時の、水のエフェクトがとてつもなく最高で、荒んだ心が癒されれたが、何より葉っぱ人の存在である。段取りという行為に囚われているというキャラクターの存在は、あまりに制作チーム、ピクミンの新作を待ち続けていたファンへの批評が過ぎて、痺れました。

 あまりにピクミンのプレイのことを考えすぎて、日常生活でも段取りを重視しすぎてしまうようになり、コピーを取りに席を立ってから、機械に紙をセットしてスタートボタンを押してからトイレに行って、戻ってきてから紙をとるみたいなことをする脳が焼き切れる生活のスイッチが入ってしまい、せっかちに拍車がかかってきて大変なことになってしまっていた瞬間すらあった。

 

 

1位 友達

 今年は、友達とたくさん遊びました。秩父に連れて行ってもらって小旅行みたいなことをしたり、軽い忘年会をしたりしたけれども、印象的なのは、高校の同級生との距離が復活したことだった。最初は『FIRST SLAMDUNK』を観た後、あまりに面白かったので、『SLAMDUNK』が好きな同級生と、数年前に保険のことで電話した以来の久しぶりに電話をしたことがきっかけになる。それからしばらくして、ゴールデンウィークに、妻が仕事に出る日が多いためにワンオペ育児が重なったことで、自由な日をもらうことになったので、職場の同期でも呑むかという無難な選択肢を取ろうとしたとき、ふと、このタイミングで、あいつに連絡しなかったら、さらに会う機会が無くなりそうだなと思い、勢いつけて誘ってみた。どのくらい連絡してなかったかというとLINEを知っていないと思い込んでいたくらいには月日を重ねていた。それでも、高校の同級生というのは不思議なもので、そういった期間を一瞬で吹き飛ばす、「間が合う」というものがある。サプライズで連れてこられた人、家族にウソをついて、しかもめちゃくちゃ遅くから来てくれた人も参加したとてもいい夜だった。高校の同級生だなーって一番感じたのが、次に行く飲み屋の区画まで歩いて20分くらいかかるところを、僕の、ウエストバッグを斜めにかけて、軽くびっこを引くような歩き方が、お前を思い出すと言われながらも、だらだら喋りながら歩いていったところだった。タクシーがあまり通らないようなところということもあるのだが、職場の同期だとすぐに歩かないでいい方法を探すが、なんの照らし合わせもなく、歩いて向かうことが当たり前というその感覚が、高校からの同級生だなーっとなっていた。

 何年も会っていなかったのが嘘かのように、この夏は月1回くらいで、その連なりから派生した会合があった。積立NISAなどの現在のお金の話から、クラスで一人だけ卒業文集をもらっていないと6京回擦っている話、口周りがデデデ大王に似ている同級生女子から告白されたという初耳の話や、共通の同級生がハウスクリーニングを立ち上げたからお願いしたら最悪な仕事をされたので気まずくなって疎遠になった話などが出て、旨飯幽助な夜だった。

 他にも別の友達とは、首里にあるあやぐ食堂という、地元民だけでなく観光客にも人気の、40年以上続く食堂が閉店するということで、駆け込みで行くことに急遽行くことにしたりした。まだまだ日差しが強い中、結局1時間くらい待つことにはなったものの、その間、ずっと近況を喋っていたので、楽しい、いい時間を過ごすことが出来た。

 中学の同級生とは全て縁を切ってしまったので高校の同級生に限るが、油断すると疎遠になってしまうが、会うと、一瞬であのノリと間が復活するということに、年齢を重ねれば重ねるほど、感動すら覚えてしまう。

 ちゃんと、生活に根付いた交友関係をしていかないとダメですね。

 

 

 30FAVを超えたら来年もこの記事を書きますのでよろしくお願いします。

 リプライでもベストエンタメください。

 

キングオブコント2023感想と愚痴

キングオブコント2023」、今年も、快活CLUBで観てきました。生活が忙しすぎて、遅くなりましたが、昨年の感想が書けなかった反省もありますので、今年は頑張ります。昨年は、単なる一時的な抑鬱状態で書けなかっただけなのでご心配なく。そもそも今年もこんなに時間かかっているのもそうですし、というか、高校2年生の時に、好きなこと付き合うことになるも、三日で別れることになった時から、強い抑鬱状態にあるので、ご心配なく。あと、快活CLUBの、多分毎年、個室に行こうとして、フラットルームを選んでしまうというミスをしてしまっている気がしますが、受付の写真のUI悪すぎませんか。

 さて、正直な感想といえば、今年の大会は、かねてより危惧していたノイズが重なって、看過できないくらいの不協和音となったのか、自分が耐えられなくなったのか、ネタ自体は面白かったし、ラブレターズの7年ぶりの決勝進出など、個人的に上がるところはあっても、楽しみきれなかったところがあった。強い抑鬱状態のせいなのか、実際に声を出して笑ったのは、や団からだった。あんまり手放しで喜ぶような、魂と脳が涎を垂らして笑うことがなくなっている理由を解いていきたい。 

 

1・カゲヤマ「謝罪」

 取引先との仕事でミスが生じ、その謝罪のために、相手先が待っている料亭に赴き、ミスをした後輩の代わりに先輩が謝るネタ。

 どういった笑いになるのかとワクワクしていたら、襖の向こうで謝罪をしている先輩襖を開けると下半身を丸出しにして土下座しているというのが笑いどころになるわけだが、勿体無いのは、この笑いどころを生み出すシステムの肝が、その数時間前に放送されていた「お笑いの日」の特別企画での、襖を開けたらハナコの菊田と、ナイツの土屋が入れ替わっているというネタと突いていたことだ。このネタを先に見ていなかったら、自分の中で初動は変わっていたのかもしれない。そのこともあって「あ~、はいはい」となり、乗り切れないまま、終わってしまった。このインパクトある初速についていけないと、冷めた目で見てしまう。

 それでも、ワンシーンワンアイディアではあるものの、後半までだれることなく突っ切っていたのは流石だろう。劇場でかなりブラッシュアップしてきたのだろう。

 とはいえ、冷静に考えると、もう現代にそぐわないコントだなと強く思う。本来であれば大きな貸しになるはずなのに、牛丼を奢らせることでチャラにするという小粋でユーモアのある先輩、半裸土下座で許してもらおうとするところ、どこまでもホモソーシャルを前提とした笑いであり、設定ではなく、ベースとしている考えが古い。ホモソーシャルを茶化しているようにも見えなくもないけれど、茶化し切れてはいない。

 謝罪の場がセクハラパワハラなどが生じやすい場となっているという実際の社会における現状が

ある以上、素直に笑える題材ではないような気がする。

 そういうAVばっかり見ているからだと言われかねないので前もって否定しておくと、そういうAVは見ていない。ここ数年は、女性が丁重に扱われるファンものを中心に見ているので、そういうAVは見ていません。

 好きなくだりは「松屋は味噌汁ついてます」

 

2・ニッポンの社長「空港に行け」

 夢を追うために、外国へ行ってしまう女性を、男性が連れ戻すために空港へ向かうというその設定自体は、使い古されたと言っても過言ではないのだけれども、そこから、辻が扮する男Aがケツが扮する男Bにナイフで切りつけるということで「仕返ししすぎだろ」という笑いから、徐々に男Bが不死身だという不条理な笑いに変質していくという、ニッポンの社長の世界が展開する。その中でも、ショットガンをぶっ放すくだりを活かすために、ナイフでもスローモーションのくだりを入れて、唐突なスローモーションへの違和感を最小にするという計算なども垣間見える。

 男Aが出す武器が、ナイフ、銃、ショットガン、手榴弾、地雷と殺傷能力が上がっていくという、日本で一番かっこいい小説であるところの村上龍の「昭和歌謡大全集」を彷彿とさせる展開は、スローモーションの展開が無駄に思えるほどに飽きさせず、面白かったし、まさに原点回帰を感じさせるものだった。キングオブコントアメリカ大会だったら、オチは原子爆弾だっただろう。 

 このコントの肝は、登場人物二人ともボケていないところで、東京03の飯塚の「めちゃくちゃなようでルールがちゃんとしっかりしているというか。ケツ君が不死身なんだということを飲み込んじゃったらあとはこの二人の日常なんだよ」という評は、いわゆるラーメンズ小林賢太郎が言うところの「非日常における日常」で、これについては、観客である自分達とは異なるルールで生活をしていることを描くときにおいての笑いどころの作り方は、小手先の笑いよりも生活やルールの細部を構築した方が、笑いにつながっていく。男Bの「中学」とかがまさにそういう役割を果たす。彼らにとっては日常なのだ。

 しかし、カゲヤマ以上に、昨今の世界情勢においては無邪気に笑えないコントだったことは否めない。

 さらにさらに重箱の隅を突くような意地悪な見方をすると、突き詰めて考えると、その根底にあるのは、うっすらと恋愛至上主義というか、女性は男性の元にいる方が幸せということになってしまう。だからそういう意味でも、古い設定なのかもしれない。

 好きなくだりは「(ショットガンで撃ってからの)やっと本気出したみたいだな」「これ中学ん時よく喰らったよな」

 

3・や団「演出家」

 昨年の2本と比較して、冒頭しばらく、これは面白いコントにならなそうというか、不発に終わりそうな感じで、初速は遅かったものの、灰皿を投げてくる演出家ということがわかってからの、本間キッド扮する劇団員AがマトのデザインのTシャツで推進力を得てからは、緩急織り交ぜたコントでとても良かった。

 令和の今になって蜷川幸雄をいじるという古い設定かと思いきや、蜷川自身にもこういう葛藤からくる喜劇があったのではないかと改めて解釈をし直して、逸脱しきれない人間の弱さというか、空気や役割に支配され縛られている人間の悲しさが存分に描かれていて、お見それ致しましたという感じである。何より、どこまでも理解できていないキャラを演じさせたら今一番面白い、劇団員Bに扮する中島が良すぎる。

 それに加えて、灰皿を回転させるというくだりは秀逸で、緊張と緩和という重要な要素を、不確定性に委ねるという、長い芸歴で培った遊びも入れてくる。殺すための灰皿ということで満足してしまいそうだが、下が丸くなっているものを見つけて回転させるというくだりを追加するのはお見事。

 好きなくだりは「俺めちゃくちゃ狙いやすいんだけど」、灰皿を何度も投げられることになることを想定した「俺の時にはめちゃくちゃ肩あったまってるって」、タウマゼインの説明、中島が灰皿を置いてからの回転と止まるまで

 

4・蛙亭「寿司」

 真っ先に思ったのは、蛙亭のネタがコンビとしてバランスが整っているということだ。今までの蛙亭のネタの多くは、イワクラが、中野の異常なまでの瞬発力と演技力を兼ね備えたその表現力に頼りきっていて、思い返せば、脚本の面白さではなく、中野の表現力のみで笑っていたな、となるところがあった。これは、中野のコントでの立ち振る舞いと絶叫が面白すぎるということの弊害なのだけれど、この「寿司」のコントは、中野でなくてもとりあえず成立する脚本となっていた。友人と、「イワクラが中野を信頼している感が出てきた」という話をして、それもあるだろう。とにかく、コンビとしての強度が増している。狂人のような立ち位置に収められそうになるたびに中野扮する男が正論を言い放ち、常識の範囲内にスッと戻る、でもまた常識の範囲外にいつの間にか立っているというこの反復運動がたまらなすぎる。今大会で一番、展開にワクワクしたコントだった。

 公園のベンチに座っているイワクラ扮する女が、彼氏と電話をしているが振られてしまう。今後の展開的に、このコントにおいて「女が彼氏に一方的に別れを告げられた」という情報だけがあればいいので、この冒頭をサラッと流すように処理しているのも、省略の技法として正しい。

 そんな呆然としている状態に、シブがき隊の「スシ食いねェ!」を口ずさみながら、キックボードに乗って舞台に登場した中野扮する男が、早々にすっ転ぶ。コントが始まったぞ、と嬉しくなった。それをピークとせずに、会話で笑わせていくのだけれど、引っかかったり強引なくだりがなく全て自然なのでコントの流れがスムーズで、脚本のレベルが上がっている。

 たまごの概念コーデを気づかせないためにデカデカと、寿司の対極にある「KARIBU」を配置したのはお見事、というのは考えすぎ褒めすぎだろうか。

 好きなくだりは「慣れない交通手段とったから!」、「たまごの概念コーデ」、「一人で食べるには十分かと」からの「4人で食べるけど」、「あなたに何がわかるんですか」からの「知らないよ~、初対面なんだから」、「ぶつける相手は僕じゃない」

 

5・ジグザグジギー「市長会見」

 元お笑い芸人が、市長になり、記者会見を開くも、マニュフェストの出し方が大喜利っぽいという設定は、漫才の1くだりなどでもやられていてもおかしくなさそうな設定でありつつ、キングオブコントの舞台でやってこそ映える、飛び道具のような、でもしっかりとコントをしているネタ。

 ただ、めちゃくちゃ良い設定だし、初見でゲラゲラ笑うのだけれど、どこか「IPPONあるある」にとどまっていて批評性には欠けること、言っちゃいけないことまでは言っていないことで、親殺しまでには至らなかった印象を受ける。また、何度か見返すと、好きなくだりは無いな、とも思った。

 好きなくだりは設定。

 

6・ゼンモンキー「神社」

 や団の後だと、三人でいる意味やそれぞれの役割を比較してしまうので、減点方式で見てしまっていた。一番気になったのは、コントとしての余白の無さだ。一挙手一投足が計算されているように見えるがゆえに、ネタはよく出来ているんだけど、どこか、なぞっているだけ、繰っているだけのような印象を受け、ユニゾンが練習風景を見せてしまう。いつかのリンゴスターを思い出した。

 一番、引っかかったのが、男子高校生が「そんなに小銭持っていないだろう」というところと、小銭については「するお金がないので」「あっただろ」と矛盾することになるなど、そこは、コントにおけるリアリティのラインを個人的には逸脱していたように感じた。

 むらまつのツッコミが、東京03飯塚すぎることは、微笑ましい部分ではあるのだが。

 好きなくだりは、これでも喰らえとお賽銭を入れるところ、殴るぞからのおさめるぞ

 

7・隣人「小噺」

 上方落語の重鎮の師匠が、チンパンジーに、日本語ではなくチンパン語で小噺を教える。そしてコツを掴んできたところで、厳しさも出しつつ、伝授する。その中で、心が通じ合ったかと思いきや、檻が開いた隙にチンパンジーは脱走する。

 コミュニケーションの本質を描いたコントであり、今大会のネタで一番感動した。コミュニケーション論という意味では、やっていることは韓国映画「パラサイト」だ。

 他者に何かを伝えることは、タウマイゼンみたいな言葉を使うのではなく、少なくとも言語を下方で揃えなければ、伝わることはなく、教育や啓蒙ではなく、一方的な押し付けになってしまうのだけれど、とにかく、そのことを忘れがちだ。それが、伝える側がすべき努力である。そこまでして初めて、厳しくすることが出来る資格を得る。そして、このコントの素晴らしいところは、何より「心が通ったように思えたチンパンジーが、檻が開いて隙ができるや否や、脱走する」というオチ、最高。

 コミュニケーションとは、伝えることとは、相手の言語に寄せ、身振り手振りを使って、時には優しく、時には厳しく、そのトーンを変えるなどまでしなければいけない大変なものであるにも関わらず、そもそも不成立が原則であるという、その無慈悲な本質を描き切っている。

 こう思ったのは、「キングオブコント」が始まる前に「正反対な君と僕」を読んでいたのかもしれない。やっていることは「スキップとローファー」と一緒なんだけれど、こっちの方が可愛くて笑えて、どっちも良いな、というか最近は、恋愛が一番というよりは、恋愛関係もコミュニケーションのグラデーションの濃淡の結果に過ぎないということが根底にあるのがトレンドなのかな、だとしたら恋愛至上主義からの脱却が進んでいるということだな、素晴らしいことだと、恋愛弱者の視点から感心していた次第だ。

 コントの話に戻ると、を持っている。だからこそ、GReeeeNの「キセキ」を流すというくだりは、唾棄すべきですよ。あそこは本当にがっかりしてちょっと冷めてしまった。上方落語では鳴り物があるからと許してはいけない。チンパンが歌っているところはちょっと面白い。

 松本の「落語家がチンパンジーになったことがピーク」という審査コメントのとおりではあるものの、松本が点数を比較的高くしたのもなんとなく分かる。

 好きなくだりは、小噺の絶妙に面白くなさにも関わらず何度聞いても新鮮に面白くないと思えるという無駄な強度、落語家がチンパン語でした落語を聞いてチンパンジーが爆笑したところ、そばをバナナに変えたところ、猿が師匠を迎える時のお辞儀、逃げたーからの暗転の方が気持ちいはずなのに上手いこと言ったオチにしたところ

 しかし、橋本市民劇場は天才のルックをしすぎている。

 

8・ファイヤーサンダー「日本代表」

 楽屋で祈っているユニフォームを着た男と、スーツを着た男が舞台にいて、日本代表となった選手を呼んでいくナレーション。サッカー日本代表の発表かと思わせておいてからの、一人の選手を持ちネタにしているモノマネ芸人の悲哀を描いたものだったというとてもいいコント。「選手本人ではなく、実はモノマネ芸人だった」というバラシで大きな笑いがくるが、そこから先は、一本のネタに賭けているモノマネ芸人の悲哀へとシフトすることで、騙されたという満足感と、コントとしての満足感を得られる。しれっと、「ゼロから生み出せる」みたいな、お笑い芸人から見たモノマネ芸人への悪口もいい。

 既知のネタだったけれども、改めて見ても笑ってしまういいコントだ。ファイヤーサンダーは、ずっとコントの枠の中でコントをしているという印象があったのだけれど、このコントは、明らかに何かが違う感じがする。立体的であり、悲哀があるところだとかは、勝ちに不思議の勝ちあり、みたいな話になるが、一皮剥けたのは間違いない。

 好きなくだりは、日本代表と思いきやモノマネ芸人だったという設定、日本代表のモノマネ芸人をたくさん上げてからの「なんで日本代表より層熱いねん」、「俺らがゼロから何かを産み出せるわけないやろー」

 

9・サルゴリラ「手品」

 手品師のネタ見せ。マジックで使う道具に違和感があるという、そんなに設定が新しいわけではないが、小箱、中箱A、中箱B、カシューナッツやバターピーナッツ、夏の筑波山、夜の松本白など、絶妙なチョイスを出してくるので笑ってしまう。テーブルマジック、カードマジック、オリジナルのテーブルマジックと3つのターンで構成されているので飽きさせないままテンポ良く進むだけじゃなく、演技力や「午前中に区役所行って」という余白で持っていく、まさにコント力でもぎ取った高得点。

 個人的には、ターン3は発想として飛躍しすぎているなと思ったけど。

 好きなくだりは、「こっちも分りやすいけど」という我の強さ、考え事しますねからの「午前中に区役所行って」、靴下にんじんとペンチピーチをテレビ局に用意させるところ

 

10・ラブレターズ「結婚のご挨拶」

 結婚のご挨拶のために彼女の家に行くも、狭い部屋でシベリアンハスキーを飼っているだけでなく、そのことによるご近所トラブルを抱えている家だったことが判明する。

 エネルギッシュがあって、音が大きいコントだからか、良いコントではあるものの、トリには相応しくないようにも思える。審査員がネタがハイレベルといっていたように、疲れたところには合わないコントだったのかもしれない。

 やはり、サンバイザーで母親の狂気を表現しているところは素晴らしい。「人間のエゴで自由を奪えっていうの~」というセリフあたりから、おそらく、動物関連の法律への反対運動とかでデモに参加しているタイプの活動型であることも想定できる。

 コントとして、ここまでうるさくしているのに、そこまでうるさくなっていないのは良いのだけれども、ところどころワードが掻き消えてしまったり、犬へのベロチューがめちゃくちゃ滑ってたりと悔しい部分が多々あり、どうにも爆発ポイントが不発だったことは否定できない。ここでかけるということは、ウケてきたことは間違いないくだりではあるのだが。

 場が混沌のピークを迎えたところに「娘さんを僕にください!」ということで、今ままでボケだった母がツッコミに回るのも良い。「水曜日のダウンタウン」での、「プロポーズした彼女の実家がどんなにヤバくてももう引き返せない説」の検証VTRを想起させるが、むしろこの結論の方が人間のリアルなのかもしれない。

 ラブレターズについてはどうしても肩入れしてしまうが、点数が低いなあという感は否めない。もう少し伸びてもいい気はするのだが、どうにも評価されきらない。特に飯塚悟志は、ゴッドタンでラブレターズの単独ライブに行ったら、蓮見翔が書いたコントが一番面白かったという配慮に欠けるコメントをしていた償いとして、99点にすべきだった気がするが、止むを得ない。

 好きなくだりは「人間のエゴで自由を奪えっていうの~」

 

 ファイナルステージは駆け足で行きます。1組目・ニッポンの社長「手術」。ケツ扮する医者が、辻扮する患者の体にメスを入れていくどんどん臓物を出してくるという、こちらも不条理なコントなのだが、これでファイナルステージには上がれないだろうなというほどにはオフビートなコント。ファイナルステージ2組目・カゲヤマ「オフィス」。仕事が出来る部下が、実は自分のデスクにうんこを仕掛けた真犯人であったという設定。会話がメインなのにミステリー要素が絡むことで動きがあるように見えてくるので飽きさせない。最後の犯人は、後輩なのか、それとも全てを察して自らの責任としようとした彼女なのか。謎は深まるばかりだ。一本目と合わせて思ったのだけれど、カゲヤマは二人ともデカすぎる。このデカさは、ずっと違和感としてあった。コントをするにしては、舞台上に占める人間の圧が強すぎる。だからどうだってことはないのだけれど。あと、社会人としての電話対応とか、微妙な手にをはの間違いが気になった。

 ファイナルステージ3組目・サルゴリラ「高校球児」。甲子園を逃した球児を監督が労い、励ますも、全て魚で例える。 発想としては割とよくある1個のワードで押し進めていくタイプのものであり、そこまで目新しいものではないのだけれど、どうしたって、児玉に笑わされてしまうし、笑いどころも、右肩上がりになっていくので、全体を通して満足度が高くなる。何より、演技力でもぎ取った勝利だった。監督の声がバカすぎて元々、児玉の声がそうなのかと思っていたのだけれど、一本目と合わせて見返してみると、そうではなく、意図してそういう風に発声していることがわかる。

 

 優勝は、サルゴリラサルゴリラさん、おめでとうございます、タイタンライブでお待ちしております。

 さて、以上が、ネタの感想となる。ここから面白くない話をするので、興味のない人は帰ってもらって大丈夫です。

 総評として、極個人的なものとしては「社会性に欠ける」、大会全体としては「大味なネタばかりが目立ち、機微を重視したミニマルなコントが飲み込まれてしまっている」だ。連発されたハイレベルという言葉にあまりピンと来ていない。一回の大会で、腹抱えて笑った回数は明らかに過去の方が多いのに、と思ってしまう。

 明らかに一本目でインパクトを残して、逃げ切るという手法が勝ち筋として確定されているきらいがあるので、ファイナルステージでかけられる最後の3本のネタが弱く、番組の構成としても尻すぼみの印象を与える。

 大会を見終わって、快活CLUBの個室から出て、イートコーナーでソフトクリームを食べて糖分を補給し、レジに行きお金を払い、家に帰ってから眠るまで、コントってもっと豊潤で然るべきじゃないのかというしこりを感じていた。全員が同じ土俵で闘っているようで、元々の「R-1グランプリ」とは異なる「実質的な異種格闘技戦」感が薄れていっている。異種格闘技戦という借りてきた例えを使わないのであれば、M-1憲法で争っていて、キングオブコント民法行政法などといった法律で争っていると思っているが、その感じがなくなり、同じ尺度に収まりつつあるような気がして悲しくなる。

 これは、審査基準が明らかに硬直していることからくるものだと思うし、何より、まだ、客席に女性しか配置しないそのダサさがあまりにノイズすぎる。

 観客に若い女性しかいないということを批判することは、実は難しい。女性であれば、やっかみであるなどと言われかねないし、男性が言えば考えすぎだろと言われてしまう。

 チェックするAV監督はさもありと真咲南朋、昨年のベストは美園和花の7時間ファンと一緒にしたらのやつだったバキバキのヘテロ男性、いわゆるバキヘテだが、女性が若いというだけで陳列されているあの絵面には、おぞましさしか感じない。ただ、チンパンジーに「文七元結」を、上方のチンパンジーには「地獄百景亡者の戯」を教えるかの如く、感情ではなく、考えられうる実害を挙げて検証していきたいと思う。今年の感想は正直、ここからが本文です。申し訳ない。

 まず、男性が決勝を観覧することができない。もう、これだけで、あの構図を批判する理由になる。もちろん、男性差別ではない。なぜなら、男性が女性を差別している結果として、一部の男性が排除されているというものであるからだ。

 観客席にいる若い女性たちのうち、誰一人キングオブコントの予選に行っていないという仮定に立ち、話を進めていく。これが偏見で、一人でも予選を見てる人がいたらすいません。ただ、西村が緊張しすぎて関係ない台本読んでたっていう小峠のジャブで拍手笑いする人たちの笑い声なんて信用できるわけがない。

 彼女たちは、おそらくお笑いは好きだろう。飲み会の席で、もじもじしながら、趣味はお笑いを見ることでと言ったりすると、屈託のない笑顔で、私もお笑い好きですよ、と言ってきて、ドキドキしてしまうに違いない。ただ、彼女たちの「お笑い、好きですよ」は、こっちのそれとは全くの別物だ。そのくらい、「お笑いが好き」ということが人口に膾炙しているということなのだが、その分、好きの深度が幅広くなっている。きっと彼女たちのいう、「お笑いが好き」というのは、テレビやスマホでお笑いを見る程度なのだろう。 

 『M-1グランプリ』の審査で信頼できるところは、ネタを見た後に、審査員が「分からない笑い」であった旨のことをコメントするところだ。自分には笑えなかったが、観客が笑っているということは、新しい感覚の笑いなのだろうと、ある意味で負けを認める言葉ではあるものの、それでもなお、そう発さざるを得ないのは、芸人としては「ウケたもん勝ち」を認めざるを得ないという大前提に立脚しているからである。乱暴に言えば、自らの審査の軸に足りないところがあるということに気付かされるきっかけとなる。これは舞台に立ち続ける芸人にとって、プラスでしかない。

 また、観客には観客の矜持があり、それはなまなかのネタでは笑わない、もっと言えば、審査員に対して、ライブシーンこそが正解だよという態度に表れる。

 そういった演者の芸、審査員の基準、観客の基準が、バランスの良い三角形となり、それぞれが自らを修正し合う。この三すくみの状態が、伝統も、革新も、大衆も取りこぼさない健全な進化を生み出していると思われる。それらの摩擦が、膨大な熱量となる。

 この補完し合う関係性が、少なくとも、今のキングオブコントにはないと思う。 

 有名なプロデューサーが「女性の声がテレビの周波数に合う」という旨の発言をしいたというのを見かけたが、ではなぜ、演者では男性の方が笑っているのか。そんなものは、女性を、陳列としか言いようがない扱いに持っていくための言い訳でしかない。とかく人間も組織も変わりたくないものであり、変わらないためには理由をいくらでもあげられるものなので、そこら辺のもっともらしい言説は、一視聴者として全て一蹴していいと思っている。FUJIWARAの藤本が当て逃げをしたあとに、放送する努力はいくらでもするんだから。

 もう一つは、審査員に女性がいない件について、「女性のコント師がいない」「納得する女性芸人がいない」などの意見が多く見られたが、これも言い訳だろう。

 とにかく、お笑いファンは狭量なところや辺野古の地盤くらい軟弱なところがあり、今でこそ、かもめんたるを持て囃しているが、劇団かもめんたるへの注目度はずっと低く、それはただ劇団とつくからだと睨んでいるくらいには、お笑い以外に興味がないし、そこが、東京03飯塚審査員待望論に隠れているグロテスクな部分につながっていくことは過去に指摘してはいたけれど、女性コント師に適任がいなくても、他のカルチャーの人たちにお願いすれば良い。具体的には、大久明子、本谷有希子、根元宗子、太田光代社長などを挙げたい。児島希奈は意図的に除外してますよ。

 演劇、映画と芝居仕事に繋がりそうだし、お笑い芸人が映画やドラマに出て、はしゃぐなら、審査員としてお笑い芸人以外の女性審査員を受け入れるべきだ。

 いろいろな反論が出てくるかと思うが、まずは、それが、女性を登用しないための理由になっていないか、自己精査はしてほしい。

 審査の硬直の話に戻るが、もはや、お笑い村の外の女性審査員が、その人の分野で笑いで審査が乱数として場をかき乱さない限り、今の審査基準は、変わらないと思う。

 そもそも「コントの怪物になれ」というのは、映画『怪物』にかけているものだと思うが、あの映画は、といった作品に与えられるクィア・パルム賞を受賞しており、単一の凝り固まった価値観を揺さぶってくる作品であり、ただただワードだけを持ってくるのは、結婚式で、宇多田ヒカルの『花束を君へ』を流した同僚みたいな、浅薄の極みであり、滑稽さを感じずにはいられない。

 お笑いファンが三村、日村不要論をぐちぐちと唱えていたことは記録として残しておきたいが、完全に浜田不要論を明確に意思表示をしておきたい。

 最後に、浜田雅功のセクハラがきついし、審査員に厳しく当たるというずっとやっているやつを面白がっている人はいるのだろうか。シンプルに滑っていると思うのだけれど。

 そこらへんのノイズがある以上は面白くはあるけど、楽しくはないもので、だったら『キングオブコント』の視聴は、『M-1グランプリ』の時のホテルじゃなくて、まだまだ快活CLUBでいいや。

 いや、まだチキンライスでいいやみたいに言うな!

 どうも、ありがとうございましたー。

 ニュートン!りんごが落ちたところでお時間です!(松尾アトム前派出所)

 

 

 

 うーん、M-1グランプリ感想頑張ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ところで、怪物の結末についてですが

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

死んだとか言われてますけど、あれ、死ぬと同性愛否定になってしまうから生き残っているものとして、そうなると、あまりに晴れやかな世界になっているのは、中村獅童の息子が安藤サクラの息子に手コキとか手淫を教えたっていう精通イベントを経てますよね。

 

 

 

ミソジニーの本を読んだら、あばれる君のCMに引っかかっていたことに気づいたことについての省察

 呪術廻戦について書きたい文章があり、上野千鶴子の『女ぎらい ニッポンのミソジニー』を読み始めて数秒、あ、これ読んだことあるなと、そのメロンパン入れに入っている自らの脳みそのポンコツっぷりに呆れながらも、再読をすると、めちゃくちゃ面白かった。

 ホモソーシャルの特性についてはもちろん、特に膝を打ったのが、「東電OL殺人事件」についてだった。この事件について、多くが割かれているが、この全てが当時の日本におけるミソジニーの産物であるということに今さらながら理解できた。初めて読んだ時にこのようなことを学ぶことができたという記憶が全く無いので、本当に、今さらながらその理屈を把握できたということなのだろう。そもそも、「東電OL殺人事件」という俗称自体が、女性差別であるということに全く気がついていなかったということ自体が、自らにミソジニーがこびりついている事の証左である。この「俗称自体が、女性差別である」という言葉の意味が分からない人こそ読んでほしい。早く、タネ本であるイグセジウィックの著書も読まないと行けない。

 この程度の感想であれば、Threadsに流すかして終わっていたのだけれど、先日、ふと、あることに気がついて恐ろしくなった。

 それはとある映像についてだ。それは、あばれる君が出演していた、サントリープレモルこと、ザ・プレミアム・モルツのCMの「無言の父たち」篇だ。話題になったので、観たことある人もいるかもしれないが、タイトルのとおり、あばれる君が扮する父親が、子と公園で遊んだり、保育園への送迎、習い事をしている間の待ちだったり、「パパ」が「ママ」に押し付けてきたことを、疲労感を滲ませたり、習い事の間も仕事をしつつも、こなしている様子が映る。そこには、あたふたしていたりなどの、慣れてない感はなく、男性の生活に育児がきちんと組み込まれていることが分かる。ただ、問題は、パパは、周りのパパたちと、喋らないということだ。育児中の当事者として、そのタイトルを見た時、確かに、となってしまったくらいに、秀逸なあるあるだ。

 会釈はする。が喋らない。喋らないというか、おしゃべりをしないということか。

 映像的にもよく出来ているのが、子たちを送迎のバスに乗せた後のくだり。パパもママも半分の割合でそこには映っているが、パパたちは、いや、パパの個体それぞれは霧散するも、ママたちはママ友の集合体となり、即座におしゃべりを始めるシーン。これは見事で、「無言の父たち」というテーマを明確に、かつ端的に、武映画における、銃声の後に既に数人倒れているといった銃撃シーンや、かが屋のコントくらいの省略を持って、表現している。 

 全体を通して、あるあるというお笑いの観点からも、上手くまとまっているし、ほっこり笑ってしまうようにもなっているし、とても良いCMだと思う。実際、このタイプの映像をドロップして、炎上しなかったのって、かなり珍しいのではないだろうか。アップデーターだけじゃなく、クレーマーや陰謀論者も会議に参加してないとおかしいくらいの制球力だ。いつもここからも昨夏に入っているのかも知れない。

 自分もそうであるしとても分かる、あるあると思ってしまったこの映像を見て、しばらく引っかかっていたのはあるものの、どうしても文章化することが出来ずにいた。言語化っていうけど、文章化だろ、他人に感想を仮託しすぎるなよと、すぐに悪態をつく人間であるにも関わらず、粗を見つけ出すことが出来なかった。悔しいけれど、問題なし、きちんと出来ています、という判断とした。悔しいとか、よく分からない感情ではあるけれども。

 だが、この無言の父になるという理由が、先の著作を読んだことで、自分にそれがあるということを認めたく無いほどに醜い暴力性を孕んだ感情にあるのじゃ無いかと気づいて、ゲボが出そうになった。

 上野の本には、男性は原則として女性を値踏みするようになっているということが指摘される。詰まるところ、抜けるか抜けないかで女性を見て、その埒外にいる存在は、女性とはみなさない的なことだ。この、値踏みをするという視線は、同性愛嫌悪としても機能する。ホモソーシャルというのは、あくまで男だけの社会だが、そこに同性愛者が入ってくると、それが崩壊してしまう。だから同性愛は男ではないし、むしろ、我々の素晴らしい環境を滅ぶす因子であるので排除しなければならない、というのがホモソーシャルにおけるホモフォビア(同性愛嫌悪)になる。ホモソーシャルに「侵入」した男性の同性愛者を「見抜く」ためには、それなりに「警戒」しなければならない。この行動が、男性には染み付いているのではないか。自分は、ホモソーシャルにはいないし、ミソジニーもないし、ホモフォビアでもないと、否定したくなると思うが、多寡の話であり、男性である以上、避けられない指摘である。救いがあるのは、これは本能ではなく、文化によって植え付けられたであるとしなければならないこともあるので、批判、否定されている訳ではないということも追記しなければならないと思う。しかし、であるが故に、自らが孕む暴力性に向き合わなければならないし、そうすることで、少しでも抑えられるという話でもある。

 話を戻すと、父親が、パパ友を簡単に作らず、無言になってしまうというのは、無意識に値踏みをしているというグロテスクな部分があるのではないか、という気付きに、キッショとなってしまった。

 自分であれば、子を同じ学校に通わせている周りの父親たちに対し、趣味合わねえだろうなとか、話を振っても面白い答えって返ってこないんだろうなと思ってしまっている。これは、「こいつは、頭良さそうじゃないな」とか「収入低そうだな」とか、男性ってどっかでそういう目線で他者を見ているのではないか。女性に対して、おっぱいでけーな、化粧濃いな、ギリ抱けるよ、下ネタのってこなくてつまんねぇよなといったように、勝手な基準での値踏みするというのが思考のクセになっているのではないか。キッショ。

 何かにひっかかりつつも、文章化できなかったのは、CMに問題があったのではなく、自分に問題があったのだ。これじゃあ、乙骨先輩じゃないか。

 これについては、さらに考えないといけない話なので、考えさせられる、で締めておきます。

 こんなこと、マジで話す必要ないですからね。嫌われるだけなんだから。

 ただでさえ、こないだの職場の飲み会で、二次会があるのかないのか分からず、幹事が何も決めていないようだったので、飲み会の一次会の後の、二次会あるのかどうか不明というあの時間が死ぬほど嫌いなので、急いで回覧を回したら、誰一人参加の欄に丸をしなくて、嫌われてるのかってなってるんですから。とりあえず、これ以上、嫌われないために、この話題は、考えさせられるで締めさせてください。

 ところでサントリーの邪悪な顔をしている社長、政治的な思惑、思想というほどには価値がないものだと思うので、そういうが、自分達の仕事が、ビールを始めとした清涼飲料水など生きていくうえで無駄なもの、生活の余力がなければ切り捨てられるものを作るという、大衆や市井の人間に奉仕することであるということが、頭からすっぽり抜け落ちている気がするのは、御社の新商品の好烏龍くらい甘ったるい認識なんじゃないでしょうか。

エンタメ好き男性として、ジャニー喜多川問題に思うこと

 好きな芸人のラジオを聴いていたら、このご時世に、ジャニーズ事務所所属のタレントを誉めていて、無邪気すぎる!と、収まりの悪さを感じていたのだけれど、ふと、心のどこかで事務所が大変だからちょっとでも助けになればという気持ちからトークしているという100%の善意なんじゃないかと思ってしまった。報道が加熱していくなかで、テレビにジャニーズのタレントが出続けているのを見ていて、日本のメディアはジャニーズを、宿痾として受け入れることにしたんだろうと、誤用の意味での穿った見方をしていたのは間違いで、ただただ何も判断できていないだけじゃないのかという気になってきた。
 そもそもの話として、ジャニーズのタレントを出すなよと思ってしまっているということは、どこかで、彼らも共犯者として見ているところがあるのではないかということだ。そのことは、あの「黒の章」すぎる調査報告を少し読んだだけで、その考えが絶対に間違えであるという前提に立たなければならない。どう考えても、彼らは被害者であり、その後、売れた後に、喜多川のことを面白おかしく話していたことなどを、加害の一端を担っているということにするということは出来ない。もし仮に、ここがぶれてしまっていたのが僕だけなら、これから先を読み進めることなく、僕を糾弾してください。
 さて、ここから続けるのは、アイドルにハマる素養がなかった人間だけれども、エンタメが好き故に、絶対的に、ジャニーズを避けて通ることは出来なかったからこそ、得られた感動も、ムカつきも一定程度には記憶に残っている、セクシャリティ的には、いわゆるノーマルな人間が、今後もわだかまりなく楽しめるように、後から、あの時何も言わなかったじゃんと言われないようにするために、今後も彼らの活躍を楽しめるようにするために思考の整理の過程だという前提に立って欲しい。僕はもうアラフォーなのだけれど、ちょうど、ジャニーズがバラエティに進出していた時期であるので、本当にジャニーズのエンタメ進出の拡大の時期と、大きなずれはないように思える。透明人間とか観てましたし。
 例えば、盲目的なオタクがどーのこーの言っていたということを晒し上げる行為って分断を産む意味のない行為だと思っているので、そういうことはしたくない。性の対象とは異なる性別であるババアにクンニリングスされながら言えるなホンモノだよとは思いはするけれども、それは言わない。ここまで言えば、今の僕が仰向けになって腹を見せて、よだれを垂らしてながら、クーンクーン言っている犬だと思ってもらえるだろうか。普段は、あのに、ちゃん付けするなよ、そもそも僕っ子なんだから、百歩譲って、あのくんだろとか、ほんとずっとフワはズレたコメントしているな、お前がゲストの水ダウはVTR弱いぞとか、ラランドの英語表記がlalandeなの嫌だなー大阪修行とかどうなったんだよとか、普段はワシって言っているヒコロヒーがおしゃれ雑誌で書いているコラムでは「私」だったのなんか嫌だなーとか、配信スルーってなんだよ意味的には配給スルーだろとか、関ジャニのあいつは日本で一番つまんねーなーとか、他人に対して、ずーっと悪態ついているけれども、今回は割と真剣に考えています。
 話は最初に戻るけれども、多分、ジャニーズの人たちって、相当、会ったらいい人だと思うんですよね。そのまんま東が、子供がファンだからと言って、サインをねだったら、唾を吹きかけた諸星を除いては、少なくとも、表面上は、とても良い人に思える。多分、マジで全員。
 だから、メディア関係者は応援したくなるから、忖度とは違う力関係が働いて、なんかこう今の無批判にジャニーズの所属タレントを使い続け、それが視聴者にはその加害性に無自覚無批判な態度に見えてしまっているのではないか。多分、人気だけだったら、ジャニーズのタレントを使わなくても良いような時代ですし。これは流石に、メディア関係者がそこまで馬鹿じゃないという希望もありますけど。
 後一つ、男性の性被害が軽視されているということも浮き彫りになっていると思います。途轍もないことをしてきたのに、メディアが蓋をしきれている。ここは、本来であれば蓋をしないといけないほどの所業であり、報道が加熱するのは問題であるという問題も出てくると思うんですけど、仮に、今回が女性アイドルグループの総本山の社長等による性加害だとしたら、その所属タレントや系列のタレントが出ているテレビは軒並み、お蔵入りになるということは想像に難くないわけで、
 特に、モテなかった中学高校大学を経ている、後藤寿庵とかにったじゅんの漫画がストライクな身からすると、どこか、いわゆるラッキースケベというか、幼い頃から性的な戯れを受けることは被害ではないという嘘を許容してしまうという隙もあるので、そこにも男性が被る性被害を、軽視してしまう土壌が育ちやすくなる。
 性的な加害だけでなく、広く男性の性等について、世の中は、かなまら祭りのごとく、男根崇拝主義によって成り立っているかと思いきや、これ以外にも、割と軽視されているところは散見される。
 例えば、小便器の存在とか、あれ、全然、横の人のちんちんが見えますからね。
 あとずっと思っているのが、男性トイレにこそ、音姫が必要だということです。普通に、湿った屁が大便室から聞こえてくるのは、ずっと気持ちが悪い。その音を聞かされるたびに、男性トイレに音姫を設置して爆音でトニー谷とか、左とんぺいのコミックソングを流し続けるというワンイシューで出馬しそうになる。
 とっ散らかってきたので、個人的な意見を言うと、経営陣を刷新するのまではしないでもいいけれども、新しい人を入れて、ジャニーズ事務所は名前を変え、永劫、喜多川の面白トークを電波に乗せないで欲しいなと言うところです。
 あと、地獄先生ぬ〜べ〜の実写化は酷すぎるので、マスターテープを破壊してください。

「バービー」は、ツイフェミ映画に傾きかけない危うさを孕んでいる映画

 「バービー」観てきました。

 それまで赤ちゃんのお人形で遊ぶことで、お母さんごっこという皮に包まれた、育児を女性に押し付ける家父長制の再生産の構造に組み込まれていた子供たちが、バービー人形に出会うことで、そこからの脱却の一歩を踏み出すということを、「2001年宇宙の旅」のパロディでやり切るという冒頭は、おお、このノリなら最高だと、悪くないスタートだぞと思っていたのですが、中盤めちゃくちゃダレて、一応は後半盛り返したんですけど、グルーヴを産みきれなかったというのが本音のところです。単純に、コメディとしてレベルが低く、音楽の使い方も全然よくなかった。

 「死」を意識したバービーがハイヒールが履けなくなるなど、フェミニズムにおける記号などを上手く配置して、物語に組み込んでいたのだけれど、割とすぐに失速してしまった。

 それくらい、中盤の人間世界は退屈だった。この中盤の人間界を笑えなかったということを指摘すると、男性だから男性を馬鹿にしているパートが耐えられないのだと言われてしまう可能性があるが、シンプルにつまらない。これは冒頭がメタファーや記号を使い、女児たちが新たな思想に出会うという良いことを使って笑いにしているのに対し、中盤は、フリが雑であったり、誰でもいじっていいようなおじさんなどを馬鹿にするなど一方向の安易な笑いでしかないからであり、仕組みが分かってしまうと、もういいよ、となる。

 これが1時間続いて、正直しんどくなってきていたが、後半、舞台が人間界からまたバービーランドに戻るのだが、ここからは、前半と同様な笑いの取り方になっていって、やっとちょっと退屈さを抜け出すことができた。

 バービーランドは、ケンが人間界から輸入してきた「男が女性よりも優位にいる」という思想によって、バービーたちがケンに奉仕するようになる。ここで、バービーは、変てこバービーと、人間であるグロリアらと協力して、他のバービーたちの、男性に奉仕するのをやめさせるために、ケンにマンスプレイニングをさせてその隙に、バービーを連れてきてグロリアの女性としての生きづらさのスピーチを解呪のおまじないのように聞かせて、本来のバービーランドの価値観に連れ戻すというくだりがある。

 ここで笑いはしたが、ものすごく危ういなと思った。

 理屈ではなく、感情を持って、一つの性の優位性を取り戻すというのは、これは、男もつらいんだよといって男性優位を温存させるということにも転用可能だからだ。

 加えて、バービーたちはケンたちが起こそうとした改憲のための選挙に、ケンたちを参加させないという方法を取る。これは民主主義への冒涜じゃないのか。

 とある人が、今いる社会に違和感を覚えていたところに、新しい考えを見つけて書籍を読み漁り、他者にも共有して、社会を変革させようと民主主義を活用しようとするも、参政権を奪われて失敗に終わるということを肯定していることにならないだろうか。

 ガワだけ見たら、ケンが踏もうとした手順はめちゃくちゃ正しく、個人の問題意識から発展した社会の変革に取り組もうとしている。

 正直なことを言うと、だから、この映画はツイフェミ映画だと思う。

 ツイフェミというのは明らかに揶揄の言葉であり、厳格な定義というのはあってないようなもので、ツイッターフェミニズムの言説を述べている人というレベルだと思うが、ここでいうツイフェミは、ツイッター上でフェミニズム関連のトピックについてほぼ毎日、誰かを批判的に取り上げてツイートしているが、フェミニズムおよびジェンダーにまつわる用語や理論の概要を知識として習得しているもののそれはツイッターやインターネットから得たものが殆どであり、フェミニズムおよびジェンダー関連の書籍を10冊以上読んだことがない、25歳以上の人とします。書籍については、漫画は原則として加えずにカウントしてください。25歳というのは、一般的に大学を卒業する年齢であり、社会に出て女性差別が実際に行われている現実に直面して疲れているであろう3年間ということに加えて、経過措置としては十分だろうという考えのもとに設定してみました。何らかの理由により、書籍を読むことが出来ない人に対しては、この設定条件は除外します。

 個人的に、ツイフェミという言葉を使うことはないが、さすがに、30歳以上の物事の分別がついている一人の人が、ネットで聞き齧った言葉で人を殴り続けているのであれば、どんなに正しいことを言っていたとしても、話を聞いてもらえなくてもしょうがないと思います。何故なら、そこには、フェミニズムに限らず思想に重要な、理屈が不在だからです。理屈が不在ということは思索が無い。思索を研ぎ澄ますのは、本を読み、分からないことに出会い、考えを巡らせ、アウトプットをして、また本を読み、分からないことに出会い、考えを巡らせ、アウトプットする。原則として、これしかないからです。

 さて、なんで、わざわざしなくてもいい、当人たちが不快に思っている揶揄の言葉を分解した上で、自分なりの定義をしてみたかというと、本作には、フェミニズムの記号やワードが散りばめられているものの、それだけで物語は進んでいくという構図に対して、思想と理屈の欠如という危うさを見るからだ。

 他者を、ましてや社会を、何かを言うだけするだけでは絶対に、ドラスティックな変化を生じさせることは出来ない。他者はそれだけ自由なものであり、原則として、真摯に理屈を積み重ねて提示し続けることで、変わってくれる可能性が少しあり、そうなるのを待つしかない、人って変わんないよ、と個人的には思っているので、そういう観点からも、この映画は肌に合わなかった。

 田嶋陽子は万雷の拍手を送るかもしれないが、ボーヴォワールは唾棄するかもしれない。

 そういえば、余談だが、この映画において、一番、批評的に思えたのは、ケイト・マッキノンが変てこバービーを演じたことだろう。ケイト・マッキノンとは、リブート版「ゴーストバスターズ」で、ジリアン・ホルツマンを演じている。リブート版は、ゴーストバスターズのメンバーが全員女性となっている良作で、ちゃんと面白かったので、その続編を作ればいいものを、それを無かったことにして、また新しい続編を作って、普通に滑っているという最悪な結果になっているのだが、その中でも、ホルツマンはカッコイイキャラクターであった。

 そんな、彼女が、捨てられたバービーというのは、何とも味わい深い皮肉のようなキャスティングであった。

 

 

粗品のギミック主義作家としての才能を発揮させる場を作ってくれよという話

 今回の粗品の俎上に上げられた発言って、ジャニーズ事務所のグループに対してのものだということまでは把握していて、加えて、言ってることは、そんなに間違ってはいないけれども、少なくとも切り取られると面白くないものだったという認識なのですが、どうでしょうか。この粗品の毎度のやつが何故、間違ってなくても不快なのかは、大喜利の初手で思いついて消されるものだからっていうことで自分の中では答えが出てますが。
 そもそもジャニーズ事務所におけるトップの性加害が明るみに出た時に、日本のメディアはほぼダンマリを決め込むことで宿痾とすることに決めたんだな、だったら、令和5年度を持って、受容した視聴者も悪いみたいな空気は絶対に辞めてほしいなとも思いますし、そんなんだから粗品一人にいじられたくらいでお釣りくるだろとかまでは思っていないですけど、それはそれとして、2023年8月11日深夜放送の『霜降り明星オールナイトニッポン』を聴きました。
 風邪をひいていて、頭がぼんやりとする中で聞いたということを差し引いても、崎山蒼志の複雑な新曲を聞いたくらいの、ちょっと分かんねぇな、分かんねえなっていうか絶賛は出来ないなってのが感想です。「むげん・(with 諭吉佳作/men)」はなんか凄いことやってるんだけど、フルで聴けないみたいな。あのと粗品の番組に崎山蒼志が出てて、コードがエモいって言われても分かんないし、一緒に見ていた妻もそれに同意していて、知らんけどゴッホのひまわりを水墨画で描いているみたいなことかって言ったらそうかもしれないって言って、大体こういう構造をスライドさせて本質に近づけるんだよとか思ったものの、やっぱりよく分からなかった。
 笑わなかったとかではなくて、番組の仕掛け自体は凄いかもしれないけれども、さらにもう一個の枠組みを超えられなかったみたいなことだろうか。仕掛けが物語を組み込みきれなかった。
 霜降り明星って、天才同士のコンビであることは間違い無いんですけど、それは『まんが道』の満賀道雄才野茂っていうよりは、どちらかといえば、コンビを解消してだいぶ経ってからの藤子A不二雄と藤子F不二雄のような、『呪術廻戦』でいうところの、乙骨優太と秤金次の2年コンビのような天才同士って感じがしますよね。
 スタートから映画化される出自を持った底なしの呪力と模倣というカッコいい術式を持ったスター性半端ない乙骨先輩と、ザラついた呪力とアニメ化の時にいろんな人が困るんじゃねーのっていう一巻丸々使ってもようけ分からんかった術式を使う秤先輩。
 粗品って、R-1グランプリ優勝特番で、当時は、ぐらんぷりですか、それで見せたように、作家としては、ものすごいギミック主義としての側面を見せつけて話題になったわけですけど、今のテレビでそういった方面の能力を発揮できているのかは、ちょっと疑問に思わざるを得ない。他にも、ギミック主義であることを確定させるような何かがあったんですけど、忘れてしまいました。
 対して、せいやの才能は分かりやすくて華があって企画に落とし込みやすいから、「水曜日のダウンタウン」での、誰もしたことないモノマネグランプリで大金星を飾ったり、イエモネアで僕の腹を千切れさせたりしたみたいに、お笑いの能力を存分に試される場が与えられ、そこで成果を出すという、シンプル主人公ロードを邁進することになっている。あれを見ちゃうと、今の粗品の芸人としての活動は、心底楽しんでいるのかなって比べてしまう。
 そうなると、最悪なのは、五条悟と夏油傑ルートになって崎山蒼志の「燈」エンドじゃねえかってなるんですけど、「僕の善意が壊れてしまう前に」ってそういうことかってならないための1番の方法って、粗品を暇にさせないことだと思うんですよね。
 ギミック主義としての作家としての場をどんどん作ることで、粗品の可処分時間を奪いまくる。面倒臭いことをさせまくる。事務と調整をやらせまくる。その先にあるのは、第二のバカリズムであり、第二の「ブラッシュアップライフ」のような気がします。
 てんで検討外れかもしれないけれど、ほんと、テレビ局関係者、作家さん、粗品のそういう方面を見せてくれる機会のお膳立てを、ご検討のほどよろしくお願います。